誰が為の悪役令嬢
最初から最後までご都合主義たっぷりだよ!
自分が転生した事に気付いたのは、平民ヒロインが王子と共に滅多に人も通らない学園の片隅でそっと寄り添っているのを目撃した時だった。
ロゼッタ・シュライクライン。
それが転生した今の自分の名であると同時に、この世界での自分の立場は悪役令嬢である、と把握する。
えっ?
え~っ?
マジで? ホントに転生?
と思わず内心で何度も確認してみたけれど、もうこれ転生で確定ですよね。前世の自分は少なくともこんな縦ロールしてなかったし。いや、髪型だけで確信するなよって話だけど。
移動教室から戻る途中、後はもう帰るだけというその時にふと窓の外から見えた光景。
あっ、ここから学園の中庭の端っこの方見えるのね、なんて思ってたらそこでヒーローとヒロインの恐らく何らかの恋愛イベントですよ。
ちなみに王子はロゼッタの婚約者である。浮気か? 浮気だな。
……とはいうものの。
このあっ、ここ○○の世界、って把握したまではいいんだけど、こういうのって割と近年流行った作品とかではないのだろうか、と思うわけで。前世で多分死ぬ前に読んだ本とか遊んだゲームとか。
私の記憶が確かならこの作品、ぶっちゃけ同人誌だぞ。
同人誌、って言われるとつまりは原作ありきの二次創作を真っ先に思い浮かべるけど、オリジナルである。
……私が生きてた前世だとオリジナルも投稿サイトとかが充実してきたからそれなりに色々な作品を見る事ができるようになった、というか敷居が低くなったと思うけど、この作品、私が生まれる前の話だぞ。
もっと言うならこの同人誌、母の部屋で見たやつだ。
母曰く、学生時代の友人が書いた本との事。文芸部だったそうだ。
私が生まれる前の、母がまだ学生だった時に母の友人が書いた同人誌。
それだけで何十年前の話だよ、と思うわけで。
なんだったらその頃ってインターネットも一般的に普及してなかった頃だぞ。パソコン通信とか言われてた頃って言ったら果たして何人が理解してくれる事やら。
まぁその頃から腐ったお嬢さんたちはいたようだし、そっちはそれなりに盛り上がってる界隈らしかったけどオリジナルってかなりマイナーだったっぽいのよな。ましてや大手の作品投稿サイトなんぞなかった時代。自分で個人サイトを作ってそこで作品をあげていっても、まず見る人がほぼいない世界。
二次創作だとまだかろうじてその原作が好きなファンが辿り着く事もあるけれど、オリジナルは当時マイナーもマイナー。二次創作とセットでやってる人とかだと、二次創作の作品が好きでついでにオリジナルも見てみようか、って人もいたようだけど、オリジナル一色だと同好のお仲間は中々……
まぁ前世の私が生まれる前の同人事情はさておくとして。私もそこまで詳しくないし。母から聞いた以上の情報は知らんし。
その、私自身はお会いした事もない母の友人とやらが書いた本。
それが、私が転生したここである。
戸惑う気持ちがとても大きい。
本の合間合間にその友人のお友達で絵の上手な人に挿絵描いてもらったらしいけど、まぁ、大分昔なので当時の流行的な絵柄だったわけです。近年の萌えとかそういうのとはまたちょっと違うテイスト。どっちかってーとベル〇イユの薔薇とかそっち系統の絵柄。
お話の内容はとてもわかりやすい。
平民のヒロインが王子様と出会って色々な困難を乗り越えた先でハッピーエンド。
一行で言うとこれだ。
その色々の部分にはヒロインを虐める悪役令嬢の存在もある。私だ。
ただ、なんていうか虐めっていうか、単純に嫌味を言うだとか暴力っていっても精々平手打ちだとか、まだ可愛い方なんだよね。やられた方は確かにさらっと流せるものかと言われるとどうかと思うけど、昨今の流行だったざまぁ系の話と比べるととてもソフト。
だって自分の婚約者に馴れ馴れしくも平民が近づいてるとかさ、悪役令嬢としては政略結婚だろうといい気分はしないわけで。そりゃあ貴族の常識を教えて差し上げると共に嫌味の一つ織り交ぜたってそれくらいならまだ常識の範囲内だと思われる。
一応、何か人を使ってあの女を事故に見せかけて殺してやろうか、とか思う場面があったような気もするんだけど、そういう命の危機とかは基本的に直前で危険を察知したヒーローが駆けつけて助けるのでヒロインが本気で死にかけて半死半生だとか、九死に一生を得るだとか、そこまでの展開はない。
なんだったらならず者にヒロインを性的な意味で襲わせた後無残に殺すとかそこまでの犯罪もない。
雰囲気としては昭和のスポ根アニメの雰囲気、とでも言えばいいだろうか。
私負けない! みたいな感じでへこたれないヒロインに、最終的に悪役は負けたわ……みたいになる感じの。
ざまぁ作品だと悪役令嬢に限った話じゃないけど悪役は大抵ざまぁされて哀れに野垂れ死にするとか、処刑されるとか、こう、割と悲惨な末路を辿るけどこの作品の悪役令嬢に限ってはそこまではされない。
まぁ、確かにヒロインと揉めたけど殺される程の事をしたか、と聞かれるとしてないって言えるのよね……
大体殺されてもおかしくないの平民のヒロインの方では。でも五体満足で生きてるからヒロインを虐めたからって貴族令嬢が殺されるとかそんなん身分制度の崩壊ですわ。
むしろ殺さず虐めるだけに留めた悪役令嬢は優しいと思われてもおかしくない。
一部の貴族は平民などそこらの石ころ、みたいに思ってるからね。何があっても平民は殺されないとかそんな安全条約はないのである。
もう少しこの作品について掘り下げるとするならば。
ヒロインでもあるエリンは平民でありながら、ある日聖女としての力に目覚める。
聖女は国に益をもたらす存在とされており、それ故に特待生として貴族たちが通う学園に入学する事を許可される。
聖女として貴族や王族と関わる事が増えるから、接点を増やしたりついでにお勉強もしてマナーとかも学ぼうね、っていう恒例のやつ。
一応学園には特例で入る事を許された平民の生徒が他にもいて、そういった生徒たちは学生寮で暮らしている。まぁ貴族なら馬車で、とかできるけど平民が毎日それやれってなったら、無理だものね。
そこでエリンは王子アランと出会う。
最初はお互い惹かれていたわけではないけれど、エリンにとっては王子様という存在がやけに輝いて見えていたし、王子も聖女になった平民が珍しくて、といった感じだった。
けれども何度も会って会話を重ねていくうちに、二人の中で少しずつお互いに惹かれるようになっていった。
ただ、それが面白くないのがアランの婚約者である。つまり私だ。
婚約者がいる異性にそうみだりに近づくものではない、というのを嫌味を織り交ぜ言い放ち、それでも二人が会っているのを見てキィィッ! となるのである。
そこからはエリンに対してねちねちと貴族の常識を交えて嫌味を言い放ったりしていくのだけれど、エリンの危機――という程でもない――に颯爽とアランが現れてロゼッタにキツイ言葉を浴びせるのである。
政略結婚とはいえ話の中のロゼッタは王子の事を好きだった。
だからまぁ、好きな男に別の女を目の前で庇われて面白いはずがない。
余計にエリン憎しとなってどんどんアタリがきつくなって、それを見てまたアランが――という見事なまでの悪循環。
まぁぶっちゃけるとアランがエリンに近づかなきゃロゼッタもエリンに物申しに行ったりしないし、エリンもロゼッタにねちねち言われなくて済むわけだ。
エリンを守ろうとするならまずお前が消えろよ、とそういや私前世でこの話読んだ時に突っ込んだ記憶があるわぁ……ふふ。
負のループによってロゼッタはエリンに関われば関わった分だけアランに嫌われるし、そうして最後はエリンを虐めていただとかで婚約破棄を突きつけられて、そこでロゼッタの恋は終わる。
はらはらと涙を零し立ち去るロゼッタの事などすっかり眼中にないまま、アランはエリンを守り切った事で最後は二人で幸せなキスをしてハッピーエンド。
……まぁ、突っ込みどころは沢山あった。
あったけど、ある意味王道な展開よね。あと素人の書いた同人誌って時点で完成度とか期待しすぎちゃいけない。勢いがあって最後まで読み切れはした。まぁ突っ込みどころは沢山あるけど。
うーん、と窓から視線を逸らして考える。
もうアランとエリンはそこはかとなく惹かれあってるみたいだし、ここで私が関わると恋のスパイスとして二人が更に燃え上がってしまうのは言うまでもない。
エリンは将来的に聖女として王族や貴族と関わる事が増えるから、今のうちに貴族たちとの関わり方を学んでおこう、って事で学園に入ったようなものだけど、まぁ平民なので。貴族の常識は平民の非常識。その逆も然り。
つまりは、馴染みのない文化に触れているようなもので。
しかも今までロクに読み書きもできなかったくらいだ。普通の勉強ですら悪戦苦闘しているのに、あれもこれもと貴族社会の常識だとか暗黙の了解だとかを教えたところで覚えきれるはずもない。
一応勉強しようっていうやる気はあるんだけど、結果がまだ追い付いていないっぽいのよね。
前世の記憶を思い出す前の私の行動を思い返してみれば、一応ある程度エリンには警告をしていた。忠告、と言ってもいい。
エリンもアランには私という婚約者がいる、というのを理解はしている。
ただ、それでもどうしても恋焦がれてしまっているわけで。
多分エリンは私から王子を奪ってでも将来のお妃になってやろうとか、そういった野望は持っていない。
ただ好きになった人が王子様で、どうしようもない思いを抱えていたけれど一途に想い続けていたら最終的に結ばれました、というのがヒロイン目線での大体の展開だ。
なんだったらこの恋は学園にいる間だけ……みたいに思ってる節もあった。
お話の中のロゼッタはそれでも許せなかったみたいだけど。
でも私、少し前のロゼッタみたいに王子様に近付く女は何がなんでも排除してやる、みたいには思っていないのよね。
というか、王妃って立場、面倒では?
私の前世の記憶を思い返してみると、一応働いてはいた。そんでもって会社では所謂中間管理職だった。上からも下からもせっつかれる立場のアレよ。
会社のトップにでも立てればまた違うのかもしれないけれど、会社を背負って立つとか重圧が酷い。そうでなくとも不景気だとか人手不足だとかでヒィヒィ言ってたのに、そこにさらに会社を潰さないように、なんて考えただけで胃がキリキリする。
うーん、ともうちょっとあれこれ考える。
どうせ最終的にあの二人がくっつくなら、悪役令嬢の私が退場する事は確定だろうし。
それなら、もうちょっと好きに行動しても良いのではないかしら。
そう思った次第である。
突っ込みどころが多かった作品だったけど、そこが今私のいる世界であるわけで。
とりあえず突っ込みどころのあれこれ、気になる部分をいくつか確認してみようと思い立った。
まずこの国王子は一人だけで将来王になるのがアランだとされている。
他の王位継承権持ってる奴おらんのかい、と突っ込んではならない。作品の中ではいたような感じじゃなかった。
王子が死んだら色々と大変な事になるのでは。何か必死に王子を殺そうとする派閥とかありそうなんだが? と思ったけれど今のところそういった存在はいない。
国内が平和だからかもしれない。でも周辺諸国とかからそういう国を乱してその隙に国盗りしちゃえ、みたいなのがいてもおかしくない気がするんだけどな。
まぁ小さな国だし資源とか豊富か? って言われると平均よりちょっと上くらいだろうし。何が何でも目の色変えてこの国を手中に収めたい、とかいう程ではないのかもしれない。聖女の存在も国に益をもたらすって言われても明確に何がどれくらい利益が出ますよ、みたいな情報があるわけでもなし。
最終的にエリンはアランと結ばれてハッピーエンド、だけれども。
これさ、まぁ昔からある童話もそうだけど、そうして二人は結婚して幸せに暮らしました。めでたしめでたし。で終わった作品もさ、その後の生活本当に幸せかな? って思うの一杯あるじゃない。
お飾りの王妃様とかならともかく、そうじゃないなら王妃としてやっていけるだけの能力は必要なわけだし。国を動かすって大変なのよね。失敗すれば最悪国が滅ぶし、国民という犠牲もたくさん出る。なんだったら最後は王族が処刑されるなんて可能性もあり得るわけで。
大体前世でだって、生活様式がそう変わらん男女であってもいざ一緒に暮らし始めたら細かな部分で小さないざこざが発生するなんて当たり前にあるのに、身分が違って今までの生活様式が思い切り違う二人が何事もなく暮らしていけるか? という話である。
エリンがアランと結婚してお妃さまになるのであれば、勿論それに見合う能力を身につけなければならない。知識やマナーだってそう。アランと結婚してアランとしか話をしない環境に監禁でもされてるとかなら別に知識もマナーも必要ないかもしれないけれど、王妃として活動するなら諸外国との外交だってある。
他国の王侯貴族と関わる時に下手な事をすれば国の存続にも関わってくるのだから、エリンに待っているのは膨大な量の教育である。
学園のお勉強はやる気になってるけどそれでもひんひん言ってるエリンだ。更に高度な教育に、果たしてどこまでついていけるかもわからない。
最悪エリンだけが舞台から退場する形になればまだしも、アランもセットでとなれば他に王位を継ぐ者がいなければ国が詰む。
……作品内ではいないようだったけど、流石にここではいるわよね? いるって言って。
まぁ、そこら辺はあとで調べるとして。
次にヒロイン、聖女となったエリンの周辺。
平民なのは作中でも言われてきた。けれども、彼女の家族だとか友達だとかの話題が何一つとして出てこなかったのが気にかかる。
いや、あの、一応健気で努力家なヒロインで、情に厚い、みたいな感じで言われてたヒロインだよ?
学生寮に入ってるといっても、休日に外に出る事まで禁止されてるわけじゃない。
実家が学園から遠いならともかく、ヒロインは王都の下町で暮らしていた。
つまりは、休日に一度くらい家族に会いに顔を出しに行く、という展開があってもおかしくないはずだった。
でも、影も形も出てこなかったのよね。
えっ、あの、ご家族生きてらっしゃいます?
私悪役令嬢だけど、でもヒロインの家族に手出しした覚えはないんですが。
作中に一応同じ平民の特待生と友達になって話をするシーンとかもあったのよ。アラン王子に対する相談事っていうか恋愛話とか。
……自分だったら返答にとても困りそうな話題よね。特待生として学院に通う事を許されてるだけの平民なのに、聖女って称号があるとはいえ同じ平民が王子と恋仲って、何も考えなかったらロマンチック、素敵! 私もそんな恋がしてみたいわぁ、とかお花畑な展開になってる可能性もあるけど、そうじゃなかったら返答に困る話題すぎない?
そういえば、何か幼馴染はいたとか聞いた気がするけれど……その幼馴染も今生きてらっしゃいます? と聞きたい。
なんだろう、普通に生きてるはずなのに、深淵を覗き込む気持ちになってくる。
これも後で調べるべき案件ね。
――突っ込みどころは沢山あるけれど。
気になるべき点は大きくこの二つ。他の細かい部分は……うん、まぁ、一度に何でもかんでもできるわけじゃないし、まずこの二点を調べてからにしましょうか。
そんな風に考えて、私は自宅に帰ったのである。
自分一人だけであれこれ調べるとなると大変なので、私は遠慮なく両親を頼った。
王家に関しては下手な部分突っ込むと危険な気がしたけれど、アラン王子以外の王位継承権を持つ人が他にいないのか、という点だけなら何とかなった。
結論としては、いた。
けれどもアラン王子が王になるのであれば、その時点で臣籍降下するという話になっているらしい。
現時点ではまだ臣籍降下していないのは、アラン王子に万一の事があった場合を想定してなのだろうか……
はたまた、エリンと結ばれた後のアラン王子が王としての資質不足である、と判断された場合というのも考えられる。
聖女として貴族たちと関わる事が増えるとはいえ、別に聖女だから王族と婚姻を結ばなければならないという話はなかったはずだ。
そもそも聖女として貴族や王族と関わる事になる、というのもなんとなくおかしな話だなと思わないでもない。こういうの、大抵は神殿とかそっちでは? そこ経由して王族と知り合う事はあるかもしれないけれど、いきなりそこ? となってしまう。
でも、あくまでも作品は素人の書いたもの。
良く言えば余分な描写を省いた、悪く言えば言葉が足りない。
行間を読め、という事なのかもしれなかった。
まぁ昔の作品て、勢いだけはあるやつだとか、大真面目にシリアスしてる時の方がギャグですらある、みたいなのとか大分カオス極まってるのも多かったから……しかも素人の書いた話だ。一応ラストまでできてる時点でも褒めるべきかもしれない。
同人誌とか、それこそ下手したら続き物で出されても作者の気分で続きが一生出ないとかもありがちだし。
タイトルに上、ってついててあぁ上下巻か上中下巻で出す予定なのね、とか思って手に取ったはいいけれど、その続きが何十年経っても出ないとかね。
ともあれ、現時点王位継承権を持つ人物はアラン王子以外にもいる。それだけは確かだった。
次に、私は父に頼んで聖女に関する事を調べてもらった。
自分で調べるにしても私そういうノウハウがないのでどう調べていいかわからなかったのよね。自分付きのメイドに頼むにしたって、それはメイドの仕事ではないわけだし。
結果として判明したのは、エリンの両親は王都の下町で定食屋を営んでいるという事だった。
その他に得た情報に、思わず眉を顰める。
「これって……」
突っ込みどころの多い話ではあったけれど。
それでも最後はヒーローヒロインにとってはハッピーエンドだったはずだ。
けれどもやっぱりそれはお話の中だけで、現実になった途端にそうもいかなくなった、という事なのだろうか。
私としてはヒロインの事は嫌いではない。ちょっと思考回路が夢見がちな部分もあるなと思わないでもないけれど、それだって今までと違う世界に足を踏み入れれば夢を見たっておかしくはないだろう。しかもそこで出会った王子様が、自分に想いを寄せているのだ。夢を見ない方が難しいとも思う。
ただ、このままだとヒロイン最終的に不幸にならんか? という気がしたのは確かだ。
うーん、と考える。
最初の時点でヒロインに忠告はしたけれど、その後は前世の記憶を思い出したのでそこまでアラン王子に近づかないでキィィ、という感じで接触したりはしていない。というか、そもそも関わる機会がない。
だってクラスも違うし。
王子だってクラスは違うけれど、彼はせっせと足繁く通っているのだ。けれど私がそうする必要はどこにもない。
だがしかし、いくら聖女であろうとも平民のくせに立場を弁えず王子といちゃいちゃするとはけしからん、という感じでエリンを気に食わない者は一定数いる。そしてそんな連中に密かに嫌がらせをされているのを私は知っていた。
ただ、その、なんていうか。
嫌がらせの内容がしょぼすぎて。
コンプライアンスとか以前に昭和の頃に書かれただろう話、それも素人作。
当時の虐めってこんな感じだったのかしら……と思ったりもしたけれど、まぁ話の中とはいえそこをリアルに書く気はなかったのかもしれない。仮に命の危機とか大怪我するかもしれない案件の時は颯爽とアラン王子が駆けつけて助けてたっぽいし、その手の嫌がらせイベントも大したことではないな、と思ってしまったのは確かだ。
いやだって、机の中に画びょう入れるとか……そこ椅子じゃないんだ、って思うじゃない。
机の中から教科書を取り出そうとした時に運が悪かったら刺さるかもしれないけど、そもそも机の中に勢いよく手を入れる事ってそんななくない?
軽くかすめるとかそのくらいじゃない?
てっきり画びょうに何か仕掛け――そう、例えば動物の糞尿に浸しただとか――があるのかと思ったけれど、新品の画びょうである。
そういや何かバレエ作品とかでヒロインが気に食わないライバルだったかに、嫌がらせでトゥシューズに画びょう入れられるとかって話、あったっけ……とぼんやりと思い出す。あれでも本当にバレエだったか? ふわっとしか知らないので詳細は不明のままだ。
他にも教科書に暴言とか書かれたりしていたけれど、それだって表紙とか裏表紙とか、あとは表紙捲った最初の一ページ目、つまりは授業内容に関係していない部分だ。裏表紙捲った最初のページ部分とかもそうだけど、授業に関わるページ部分には手をつけられていない。
そこはインクで浸して読めなくするとか、ずたずたに切り裂いたりだとかではないのね、と思う。
確かに悪口が書かれた教科書を見るたびに嫌な気持ちになるかもしれないけれど、授業の時に教科書を開けばそこを見る事もない。
ナイフだとかでエリンの机に死ねとか消えろとか彫られる事も想像したけれど、学園の備品だからかそんな事はなかった。
正直前世の知識で思い返すと、前世の治安がクソなのでは。私は訝しんだ。
まぁ前世とかね、気軽に虐めとも思ってない遊びで死に追いやるようなのとかありましたからね。ロクでもねぇですわ……
そういう意味では気に食わなかろうとも自殺に追い込むまでやってないあたり、皆分別がついているというか育ちがいいというか……政敵とかとは容赦なく足の引っ張り合いとかしてるっぽいのに……
嫌がらせを受けている事をエリンはどうやらアラン王子に相談したらしい。
その際、嫌がらせを受けていると言っただけで別に私の名前を出したわけじゃない。
けれどもアラン王子は私が主犯だと思ったらしい。なんでよ。
いえ、まぁ、婚約者というのがそう思わせる決め手なのかもしれない。一応私、アラン王子の事を慕っている感じだったようだし。
嫉妬に狂ってやらかした、と思われてもまぁ、仕方がないと言えばそう。
けれどもエリンは、私がやったと明確に決め付ける事はなかった。
アラン王子の株が下がり、聖女エリンの株が上がった瞬間である。単純って言うな。
大体私の発想でエリンを虐めようとしたら、マジで前世の陰湿陰惨な代物になりかねない。私自身虐められたことも虐めたことも無いとは思うけど……どうだろう? 無意識に誰かを無神経な発言で傷つけたとかも虐めにカウントされたらわからんな……ただ自分からこいつ気に食わないから痛めつけてやろうとかそういう事はなかったけど。
本当にロゼッタがやったかはわからない。けれども嫌がらせは受けている。犯人を調べてほしい、とかそんな感じで助けを求めていたエリンだけど、アランの中では私が真犯人で決め打っている。
うーん、本当にこいつ国王にして平気? 視野が狭いし考え方も偏ってるし。エリンに聞きたい。その男のどこがいいのか。顔か? しかし作風がとても昭和なので、今の私からすると王子そこまでイケメンか? と思うのよね。金髪巻き毛の碧眼の王子様。まぁ、うん。当時はそういうの主流だったっぽいけども、平成とか令和の感覚で見ると古くさいというか野暮ったいというか……
まぁ恋愛経験がなかったりすると、ロクでもないのに引っかかる事ってあるよね。
ちなみにそれらの情報は、父が指示を出してあれこれ探らせた人物からもたらされたものだ。教師だけならともかく用務員さんとかも動かせるのね……知らなかったわ。アランもエリンも二人の世界に浸っている間は周囲で仕事をしている教師も用務員さんも単なる背景だとしか思っていないのかもしれない。
まぁ、こっちは相手の内情楽に知れていいんだけど。
エリンは確かに夢見がちだけど、それでも嫌がらせを私がやったに違いないと断言しない程度には冷静だったし、私からすればそこまで嫌う要素がない。
前世の記憶を思い出す前ならアランに近づいただけで万死に値するとか思ったかもしれないけれど、今はそんな事はこれっぽっちも思っていなかった。
だからこそ。
なんていうか。
あの子が不幸になる目に遭うのは忍びないなぁ、と思わなくもないので。
私は私なりの悪役令嬢をする事にしたのである。
――さて、そんな決意をしてからあっという間に日々が過ぎ、気付けば恐らくストーリーが佳境に入ったようだった。
アラン王子は相変わらずエリンへの嫌がらせは私がやっていると思い込んでいたようだし、結果として大勢の前で私を糾弾し、尚且つ婚約破棄だと宣言してしまったのである。なんだったらアラン王子はお前のような者は王妃として相応しくないとか言うし、この国から出ていけとも言っていた。
本来ならばここはロゼッタの恋が終わる場面で、ロゼッタははらはらと涙を流して立ち去るわけだけど。
「婚約破棄、承りました。それではわたくしはこれで失礼いたしますね。
あぁ、そうそう。
エリンさんに嫌がらせとやらはわたくし何一つとして行っていませんわ。大体侯爵家でもあるわたくしが本当にエリンさんを邪魔で排除しようとするなら五体満足でいられるはずもないし、ましてやそのようにわたくしの前に姿を見せるなどできるはずがありませんもの」
そう、あんなしょぼい嫌がらせで終わるはずがない。
なんだったら嫌がらせをされていた時の私のアリバイはそれなりにある。全部の嫌がらせの時のアリバイがあったかというと微妙だけれど、全体の八割くらいはアリバイがあった。
しょぼい嫌がらせでしたわね、と鼻で嗤うようにして私は立ち去ったのである。
悪役令嬢らしくオーッホッホッホ、と高笑いでもしておくべきだったかしら?
――アラン王子以外に王位継承権を持つ者がいないのか、というのを調べた時に、何気にこの国ヤバくない? というのも知った。
今は平和だ。資源も枯渇していないし、国民が生活に困っている様子もない。
けれども、あくまでもそれは今だけの話であって、それ故に何か革新的な変化が必要とされていた。
そしてその改革、というか政策はアラン王子もいくつか案を出していたのである。
その中の一つに、王都を発展させより洗練したものにしようというのがあった。
うん、これだけ見たら抽象的すぎて何言ってんだお前、となる。こんなん計画書として出されても突っぱねられるぞ。なんだったら上司から叱責されるし部下からも鼻で嗤われるわ。
都市開発計画、と言えばもうちょいマシに聞こえるが、王子の案は貴族からすればいいかもしれないが、そこに暮らす民からすると大変な事だったのだ。
新しい施設を作るにしてもそのためには場所が必要になる。
王都の中でそれをやるためには、王都に空きを作らなければならない。
そこで選ばれたのは下町だった。
アラン王子は下町など足を運ぶ事もないから、使っていない土地だとでも思ったのかもしれない。平民がきっと道端に落ちてる石ころにしか見えなかったのかもしれない。
けれども思い出してほしかった。
下町には、聖女の実家があるという事を。
しかもよりにもよって、聖女の実家である定食屋が土地開発の区画にあったのだ。
王子が直接命令したわけじゃないけれど、王子の指示を聞いた部下が雇った地上げ屋みたいなのが立ち退きを要求。本来なら充分な立退料を払うべきだろうはずなのに、その金額はスズメの涙程。
追い出されたらそこで生活していた人が確実に路頭に迷う。住む場所はなくなるし金もないしとなればホームレスまっしぐら。
開発するどころかスラムが形成されたっておかしくはない。
まぁ、結果としてその計画は早々に頓挫した。
たまたま私がその場に居合わせて、たまたまその時お父様も一緒にいて。
侯爵家の権力をもってすれば、王子の部下が雇ったごろつきとか直接王子の権力を盾にできるわけもない。
そいつらを追い払った後で、お父様が侯爵家の権力を使って方々に抗議した結果、案外穴だらけだった開発計画は一度見直そうという事になったのだ。
王子の出した計画書を部下がマトモに見てなかったくせに承認されたとかいうのもとてもクソだと思う。
まぁ土地さえ空けば後はどうにでもなるとか思ったのかもしれない。
悩んでる暇があるなら行動に移ってみれば案外どうにかなるよ、とかいうやつが最悪な方向性に舵を切った結果だった。
とはいえ、じっくり計画を立て直した後またこの辺りを開発しようとかされたらここで暮らす人たちからすればたまったものではない。
お父様がごろつきを追い払った後、私とお父様はたまには平民の暮らしを体験してみるのも有りですわとかのたまって、エリンの両親が経営する定食屋で食事をする事にしたのである。
早い! 安い! 美味い! というとても庶民向けの定食屋でした。
お父様はあまり慣れていないようでしたけれど、私からするとどこか懐かしさすら感じた。
というかだ。
うちの私設騎士団の訓練所とかそっちの食堂で働いてくれないかしら。
彼らはどちらかといえば洒落た食事よりも量を欲している。そしてここのお料理はきっと彼ら向けでもある。
とりあえず勧誘してみたら、二人は少し悩んだ末に頷いてくれた。そうね、住み込みの生活で、お給料もかなりいい感じだったものね。
今回はお父様がごろつきを追い払ったけど、もしまたいつ彼らがやってこないとも限らないもの。
この時に、二人は店を畳んで別の所で仕事をする、と学園の学生寮宛でエリンに手紙を出したのである。
そう、出していたのに。
もしかして、読んでなかったのかしら……?
その他にも近隣で引き抜けそうな人材引っこ抜いてきたのよね。そうじゃない人たちも、ここで暮らすにはこの先ちょっと……と不安に思う人たちに相談にのって、別の場所を紹介したり。
その時に、エリンの幼馴染の話も出てきた。
何か前に一回だけ聞いた気がする、くらいのやつだったせいでもしかして気のせいで実在していないんじゃないかと思ってたけど、どうやら実在はしていたようだ。
幼馴染の名前はエリック。
彼はエリンが聖女になったと聞いて、彼女の助けになりたいと思った結果どうやら騎士を目指す事にしたらしい。
貴族や王族と関わるとはいえ、護衛が必要な事も確かにあるかもしれない。
その時に、彼女の事を守れるように強くなるのだ、と決意して彼はどうやら町の騎士養成所に通う事にしたようなのだけれど……
そこは、養成所とは名ばかりの劣悪な場所だった。
そんな訓練で強くなれるはずがないでしょう、と言うようなインチキ修行。授業料が平民でもそれなりに払える額だったから引っかかったと言えばそれまでかもしれないけれど、このままでは貴重な時間ばかりが消耗されてエリックが騎士になる事はない。
こんな詐欺みたいな施設潰してしまえとお父様、お願いしますと遠慮なく家の権力を使った。使えるものは親でも使えって前世でも言ってた気がするから何も躊躇う事はなかったわ。
そうしてエリックを回収して、ついでに他にも騎士を目指す将来を夢見た少年たちも回収して、うちの私設騎士団に突っ込んだ。
この時確か、エリックもエリン宛に手紙を出したはずなんだけど。
……ねぇエリン、その、手紙は、届いていたのかしら?
もしかして誰かの嫌がらせでその手紙、届いてなかったりするの……?
と、まぁ。
あれこれやったけど、それが直接何か物語に影響したか、と言われれば微妙なところだろう。
エリンがもしあの手紙を読んでいないのであれば、王子が茶番を始めた時もっと自己主張していたはずだ。
私があまりにもあっさりと婚約破棄を受け入れたから口を挟む機会がなかったのかもしれないけど。
でも、王子に国を出ていけとか言われた時は悩んだのよこれでも。
だって、私一人で出ていくわけにもいかないもの。
あの後もあれこれ調べていった結果、割とこの国未来が薄暗いんじゃないかと思い始めていて。
お父様もだけどお母様も国を出た方がいいかもしれないわね、なんて言い出していたのだ。
ちなみにお母様は隣国から嫁いできた人だ。
お母様の実家という伝手もあるので、隣国へ亡命する事になった。
亡命って言う程のものでもないかもしれないけれど、それでも隣国に行くとなれば、そしてこの国に戻ってくる気がないとなれば。
ついてくるつもりの者たちはさておき、そうじゃない者からすれば一大事。
といっても、大半は一緒についていきますってなったので、新しく紹介状を用意する必要もなかったのだけれど。
そう、エリンの両親も、エリックも。
エリンの両親、とエリックもだけれど、私の婚約者が王子で、しかもその王子には他の相手がいた事で婚約破棄をされてしまった事は知っていた。けれどもそのお相手がエリンであるという事は知らなかった。
いや、流石に、言いにくいかなって。
それにエリンが学園を卒業して聖女として働きだしたら、結局のところ城とかに入り浸る形になるかもしれないし、家に帰る余裕なんて当分はないだろう。ましてやアラン王子が私との婚約を破棄してエリンを望んだのだ。
婚約破棄された事は別にどうでもいいけれど、この事でエリンの両親やエリックが気に病むのは望んでいない。知られたら知られたでその時かなと思っている。
どのみち隣国へ行けばこの国の話なんてそこまでたくさん聞くこともないだろう。
エリンは聖女だから、というのもあるけどアラン王子と結婚するなら今までみたいに平民女が気に入らないとかであからさまに嫌がらせをしてくる相手も減るだろうし、地獄のレッスンを乗り切る事さえできれば幸せな生活を続ける事もできるだろう。
王子が余程のヘマさえしなきゃ。
そこはエリンが上手く舵取りしてくれればどうにか……なる、かしら……?
不安はあったけれど、しかし私にできる事はそう多くはない。
私の家と、その周辺、関係していた者たちがごっそり隣国へ行く事になったけれど、別に一団を率いてとかではなくある程度の人数に分かれての事だったので、突然大量に人がいなくなった、というような事件にはならなかった。
隣国での生活は最初慣れない部分も勿論あったけれど、それでも数年も経過すれば生まれた時からこの国で暮らしていましたけれど? とでも言えるくらいには馴染んだ。
王子に婚約破棄された私はこの世界の基準で言うならそろそろ行き遅れと言われる年頃だったけど、お母様の親戚からの伝手で知り合った殿方と結婚することが決まる。
王子よりイケメンか、と聞かれるとなんというかこの世界の人間全体的に自分の価値観とちょっとこう……ぶっちゃけると絵柄が古すぎて自分の顔も美人とかあんま思ってなくてですね。
いやだって、鏡の前でちょっと白目向く感じにしたら、
「マ〇……恐ろしい子……」
みたいな某少女漫画そっくりだったから。
もう私の中では美人とかイケメンとかそういう概念が消失しているのよ。
なので顔とかどうでもいいのでそこすっ飛ばして内面にだけ焦点を当てた結果、お相手は自分にとってかなり好ましい人物だった。良し!
内面もそうだけど、もう一つ決め手があるとするならば。
この縦ロールやめて髪型もうちょっと楽な感じにしてもいいかと聞いた時、あっさりと了承された事かしらね。
私が前世で死ぬ前にあった悪役令嬢物だと、悪役令嬢の見た目もある程度バリエーションがあったんだけど、この作品が出た時代の悪役令嬢ってほぼ縦ロールだったのよね。
というか貴族のご令嬢の髪型が割とそういう感じで、下手すると頭に戦艦のっけてらっしゃる? とか言いたくなるような人もいた。
正直に言おう。
頭が重たい。頭痛とお友達になってる。首から肩にかけても凝るし、毎日毎日こんな髪型整えなきゃならないとなるとやたら時間かかるし、縦ロールなんてあくまで漫画の中で見てるだけで充分で自分でやるべき髪型ではないと常々思っていた。
もっと早くにバッサリ切りたかったんだけど、そうすると周囲と一人だけ違う事で異分子とか異端者みたいな目を向けられるから……別に周囲の反応とかどうでもいいかなって思ってはいたけど、それでも王子がいた時はそれやると余計に攻撃対象というか、難癖付けられる一因になりかねなかったし……そうまでして俺の気を引きたいのか、とか言われたらうっかり王子の顔面に拳を叩きこむかもしれなかったわけで。流石にその場で不敬でしょっぴかれかねない。
一応貴族の間でも流行は馬鹿にできないし完全に無視できるものでもないし、男性には男性の流行りが、女性には女性の流行りがあって、色々と面倒なのである。
けれどもその面倒極まりない中の一つ、このお嬢様は縦ロール、というのをやめてもいいよって言ってくれるだけでもありがたい。
自分の妻が周囲とは違って浮いた装いをする事を良しとしない夫も割といると聞くので、そこを了承されたのは大きかった。
そうして私は、その男性と結婚しそれなりの生活を日々送っていたのである。
数年後、聖女エリンが私の所に駆け込んでくるとはこの時点ではちっとも思っていなかった。
涙と鼻水で顔面ぐしゃぐしゃにした聖女が隣国にやって来たのは、ロゼッタが国を出てきっかり五年後の事だった。
五年は頑張ったのだ。
けれども、もう無理だった。
聖女になって、わけがわからないなりに頑張ってきたけれど、そしてそこで出会ったアランと素敵な恋をして彼と結ばれたけれど。
待ち受けていたのは、学園に居た時以上に苦しい日々だった。
ロゼッタが予想したように、地獄のレッスンが待ち構えていたのである。
ただでさえ平民として暮らしてきたエリンには、貴族のマナーというのは意味がわからないものも多かった。それでも、聖女としてこれからは彼らと関わる事も増えるのだから、と学園でも必死にマナーを学んだけれど。
アランと結婚するのであれば、と更に色々と覚えなければならない事が増えたのである。
いずれ彼の妻となり王妃となるというのであれば、これくらいはできなくてはなりませんよ、と言いつけられる数々のエリンにとっての試練。基本的なものから伝統的なものまで。他国と関わる際に必要になってくるマナーあれこれ。国を支えるために必要な知識。ダンスも学園にいた時に習ったけれど、さらに洗練されたものにするべく足が痛くなるまで踊った。
あまりにも目まぐるしい日々だった。
エリンはそれなりに優秀ではあったけれど、それはあくまでも平民としては、という言葉がつく程度だ。
既にそれくらいの常識はわかっている貴族から見れば、エリンは覚えの悪い娘という感覚だった。
この程度もできないのか、という目に晒され、心が折れそうになる日もあった。
それでも、愛するアランのために頑張ろうと努力してきたのだ。
ところがその努力しようという心がぽっきり折れたのは、友人からの手紙だった。
学園にいた時に何度か相談にものってくれた平民の友人。彼女は商人の娘で、学園を卒業したら跡取りを迎えるのだと言っていた。
学園を卒業した後は会う機会もほとんどなくなってしまったけれど、一年に一度手紙を届けてくれた。
彼女の方は婿を迎えて今では新しく作った店も軌道にのってきたらしい。その名前はエリンでも聞いた事のある話題の店だった。
こちらは元気でやっているか、という問いと、彼女の近況報告。そんな他愛のない話題は、レッスンばかりの毎日に僅かな潤いをもたらしてくれた。
ずっと城の中にいて、勉強ばかりの日々。時々聖女としての務めだからか、よくわからないパーティーに参加させられて祈ったり。それで本当に効果があるかはエリンにもわからなかった。けれど、それでもやめずにやらされているというのであれば、恐らく何らかの効果はあるのだろう。
アランも王となるため色々学ぶ事が多くなったと言っていたし、お城の中で暮らしているのに二人は会う時間も学園に居た時より減ってしまった程だ。
だからこそ、たまに会えた時はより一層想いが高まるのであったけれど。
エリンがこの国を出ようと決めたのは、そんな友人からの手紙であったのである。
今までのように近況報告もあったのだけれど、そこには他の手紙も同封されていた。
それは、エリンにとって衝撃的な内容だったのだ。
いくら聖女がいるとしても、もしかしたらこの国に未来はないかもしれない。
そんな言葉から手紙は始まっていた。
決定的な何かがあったわけではないが、それでも景気が悪いな、と友人は感じ取るようになっていた。
原因があってそうならまだしも、特にこれといった明確な理由もなくそうなった、というのはどうにも気持ち悪い。単純に自分の店が客の需要と異なっているから、というのであればまだいい。客の需要に見合う店にすればいいのだから。けれども自分の店だけではなく、それは他の店もそうであるらしかった。
下町もだいぶ寂れてきた、という文面にエリンは言いようのない不安を感じた。
下町には、自分の実家がある。
聖女としての務めを果たす事と、アランと結ばれた事もあってずっとお城で暮らしてきたが、それでもエリンの実家は紛れもなく下町であるのだ。
アランは聖女の家族には手厚い待遇をしている、と言っていたが果たして本当に? と疑問に思う。
アラン本人がそうしているわけではなく、恐らくはお城の誰かがそう命じられて、とかなのだろうとは思ったけれど、そう言えば今の今まで両親に関する話なんて一度も出てこなかった。
自分からアランに聞けばいいだけの話だが、アランと会う事ができる日はそう多くない。
会えても、話をじっくりできる程の時間がとれない。
今更すぎるが、エリンは無性に両親の顔が見たくなったのである。
それに、幼馴染のエリックにも会いたくなった。
お前が聖女に? へえ。それじゃ俺はお前を守る騎士にでもなってやるよ。貴族ばっかの中だと息が詰まるかもしれないからな。
なんて言ってくれた幼馴染。騎士となるべくどこかでそういった鍛錬をしているのかもしれない、とは思ったけれど、騎士と関わる事がまずエリンにはあまりなかった。一応護衛がつくこともあったけれど、勿論そこでエリックを見たなんて事はない。
アランと結ばれた、とはいえ結婚式だとかを大々的に挙げてはいなかった。
それは、アランが王となった時に合わせてやろうという話になっていたからというのもある。
その時は、聖女の両親も式に呼ばれるだろうと思っていたけれど、けれども王族の結婚式だ。
本当に、呼んでくれるだろうか、と不安が広がる。
下町の改装計画が持ち上がった事で一部の地域からは人が出ていく事になったし、改装計画とやらが成功しても本当に栄えるのかもわからない、という友の手紙の文面に、なんだかどんどん不安が募る。
しかも手紙にはその改装計画を発案したのがアランだと書かれてあるのだ。
つらつらと綴られた手紙の最後には、同封してあるのは学生時代に届けられていたエリン宛の手紙であると記されていた。どうやら当時エリンの事を気に食わなかった誰かしらが、彼女宛ての手紙を嫌がらせで抜き取っていたようなのだが、色々あって友の手に渡りそうして友の手紙とともにエリンの元へと戻って来た次第であった。
学園での嫌がらせに関してエリンはロゼッタが犯人ではないと思っていた。
彼女が最後に去った時、自分だったらもっと確実に邪魔者を排除していると言っていたその目は本気だったし、もし本当にその言葉のままであったならエリンは身体か心に一生消えない傷を負っていたかもしれない。
エリンがロゼッタと関わったのは、アランと知り合って彼と仲良くなりかけた頃。
婚約者がいる異性に対してむやみやたらと近づくものではない、という今にして思えば真っ当な忠告であった。まぁ、その婚約者がいる異性がまさにロゼッタのお相手なのだから、言葉の棘も鋭くなろうというものなのは、エリンだって遅ればせながら理解している。
ロゼッタの言葉は確かにきつくて、何もそこまでそんな風に言わなくても……と思う事もあったけれど。
それでも、間違ってはいなかった。
彼女の忠告を無視してその上でアランと一緒にいたのだから、それくらい厳しく言わないと伝わらないと思われても仕方がないし、ましてやその言葉を無視する形でアランといたのだ。
ロゼッタが呆れて自分を見限ったとしてもおかしくはなかった。
実際最初のうちだけだったのだから。彼女がそんな風に厳しい言葉を投げかけたのは。
学園での嫌がらせは確かに嫌な気持ちになったけれど、でもまだ耐えられる範囲だった。
けれども、まさか自分宛てに届けられていた手紙まで盗まれていたとは知るはずがなかった。知っていたら何としてでも取り返そうとしただろうけれど、まず存在を知らなければ手の打ちようがない。
手紙を盗んだ相手も中身を勝手に見てやろうとまでは思わなかったのか封筒は二つとも未開封のまま。捨ててしまわれてもおかしくはなかったが、それでももし中身が重要なものだったら、とでも思ったのか意外と綺麗に保管されていたようで、最近出された手紙だと言われたらエリンはきっと信じただろう。それでも少しばかり封筒の角が色あせているので、多少の年月を放置されていたのが窺える。
友の手紙には、手紙を盗んだ相手も反省していたと書かれていたので、もしかしたら何かあって友が手紙を取り返す形になったのかもしれない。
学園にいた頃に本来なら読むはずだった手紙。
一体どんな内容なのだろうか……と思いながらもエリンは封筒をそっと開け中の手紙を取り出した。
そして知ったのだ。
アラン発案の都市開発計画で両親が暮らしていた一画が性質の悪い地上げ屋に脅されていた事を。
間一髪でその場に居合わせた貴族様が助けてくれて、その計画をどうにか取りやめてもらうようにしてくれたけれど、あくまでそれは一時しのぎ。もしまた次があったなら危険だから、それならいっそと助けてくれた貴族様が自分たちを雇ってくれた事。
住み込みになるので店はたたむ事にした。
近所の人たちもその貴族様に引き抜かれたり、別の場所を紹介されたりして穏便に脱出する事にしたのだという事。
両親だけではなく近所の人たちもエリンにとっては馴染みのある人たちばかりである。
皆親切で気のいい人ばかりだ。
だから、エリンはそんないい人たちが酷い目に遭う事なく済んでよかった……と本心から安堵の息を漏らしたのだ。
下町が寂れたというのは、そりゃあ一画とはいえ人がいなくなればそうなるだろう。
けれども、暴力で無理矢理追い出されたりした人はいないようだし、それに関しては本当に安心したのである。
だがしかし。
都市開発計画。
最近になってまた実行されているらしきそれは、エリンがまだ学生だった時にも王子の案で実行されかけていた、というのは今初めて知った事実。
王子が誰であるかなど、言うまでもない。
アランだ。
彼は、エリンが知らぬ間に両親の住処を奪おうとしていたのである。
それはエリンにとって裏切りにも等しいものだった。
聖女の家族だから、手厚く待遇するとは何だったのか。
勿論アラン本人にそんな気がなかったとしても、その指示を出された誰かが悪事を働いて、だとかも考えられた。けれど、それでも。
仮にも愛しているとまで言った女の家族だ。
少しくらい、頭の片隅にその存在を留めてあっても良いのではないかしら……? とエリンは思ったのである。
結婚は家同士の結びつきとはいえ、アランは王子で自分は平民だ。
王家と一介の平民が結びつくと考えると意味などないように思える。
だから、アランがその一介の平民の事をうっかり忘れたとしても仕方がないのかもしれないけれど。
仕方がない、で自分の家族が知らぬ間にとんでもない事になりかけていたエリンからすれば全然仕方ないなんて事はなくて。
本当はもっと沢山両親に会いたかった。
エリンは本来甘えたな気質があると自分でも理解していたのだ。
だから、学園で授業がお休みの日に家に帰る事も何度だって考えた。
けれど、帰ったら。
そのままずっとそこにいたくなるだろうから、だからずっと我慢していたのだ。
聖女になった、なんていうのを両親はとても驚いていたけれど、でもどこか誇らしそうにこの国のためになるなら、頑張ってこいと送り出してくれた。
体調を気遣って、頑張るのはいい事だけど、頑張りすぎて自分を追い詰めてはいけないよと言ってくれた母の言葉を思い出すたびに泣きたくなる。
一度帰ったら、学園に戻りたくなくなるのがわかっていたから。
だから、戻らなかった。
学園を卒業した後はお城で暮らす事になっていたし、その時に一度くらいは両親に挨拶に行けるだろうかと思っていたけれど、覚えなくてはいけない事が多すぎてそんな時間すらとれないままだった。
けれどももし、その時に無理にでも時間をとって両親に会いに行こうとしたならば。
その時に両親がとっくに店を畳んでそこにいない事を知っただろう。
そしたら、もっと早くにアランにどういう事かと聞けたはずだ。
ふら、と気付けば足から力が抜けて危うくエリンは倒れそうになるところだった。
手紙を読むにあたって座っていたから実際倒れる事はなかったけれど、自分が座っている椅子ごと奈落の底にでも落ちていくように感じたのは決して気のせいではないのだろう。
自分を愛してると言う男が、しかし自分の両親を路頭に迷わせる原因だったという事実。
アランが全てを知っていたのか知らなかったのか、もうそんなのはどうでも良かった。
だってもう、既に起きてしまった事なのだから。
今更そんなつもりはなかったんだ、なんて言われてもそれを信じられるはずもない。
知らず呼吸が乱れて、手が覚束なくなったけれど。
もう一通の手紙も開封する。
こちらは幼馴染のエリックからだった。
どうやら彼はかつてエリンに宣言した通り騎士になるための訓練を受ける事にしたらしい。
日々努力していたけれど、しかし何と彼が通っていた騎士養成所は名ばかりの金だけ搾取するだけのインチキ施設だったらしいのだ。
平民でも支払える程度の無理のない授業料だからこそ、騎士を目指すエリックのような平民たちが多く通っていたが、仮にその養成所を卒業したとしても騎士になど決してなれないような場所。
そこから助けてくれたのは、何とエリンの両親を助けてくれた貴族らしい。
そうして何とエリックやそこに通っていて本気で騎士を目指したい人たちは、その貴族様が抱えている私設騎士団で本格的な指導を受ける事が許されたのだとか。
貴族の騎士であり、王家に忠誠を誓う騎士とはまた違うようだが、しかし騎士になれば、チャンスは決してゼロではない。いつか、強くなって会いにいくから気長に待ってろ、なんてお世辞にも綺麗とは言えない文字で書かれたエリックの言葉にエリンは知らず涙を零していた。
エリンの知る頃のエリックは文字なんて書けなかった。だってその時エリンも文字なんてロクに読み書きできなかったのだ。けれどもエリックは、きっとその貴族様のところで騎士として武だけではなく知識も蓄えるようになったのだろう。この手紙を本来だったらエリンは学生時代に読むはずだった。
あれから数年、今、エリックはどんなふうに成長したのだろうか。
助けてくれた貴族はシュライクライン家。
侯爵家だと書かれていた。
そこに行けば、両親にも、エリックにも会える……? と思ってエリンは聞き覚えのあるその貴族について調べ始める。
そして。
「うそ、でしょ……」
気付いたのだ。
気付いてしまった。
シュライクライン侯爵家が、既にこの国に存在しない事に。
シュライクラインは、あのロゼッタの家であったという事に。
瞬間、エリンの頭の中で色々なものがプツンと途切れた音がした。
確かに最初の頃、ロゼッタは自分に厳しい態度をとっていた。
アランはエリンへの嫌がらせの全てがロゼッタの仕業だろうと思っていたけれど、婚約者に近付く女性を牽制するのはある意味で当然の事だ。
それでもエリンはアランといる事を選んだために、ロゼッタも言うだけ無駄だと悟ったのかそれ以降は近づいてもこなかったけれど。
でも、そんな、アランから見てにっくき悪役令嬢のように見られていたロゼッタが。
エリンの家族を救って、幼馴染も助けてくれていたなんて。
けれどもアランが婚約破棄を言い出して、挙句国から出ていけなんて言った事で。
本当にシュライクライン家は国を捨てて出て行ってしまったのだ。
その時はちょっとだけお城の中も騒ぎになっていた。
アランとしては自分の言ったとおりになって満足そうだったけれど。
でも、その時点でエリンは何も知らなかったから。
だから普通にその騒ぎを見ていられたのだ。
そうじゃなかったら、きっとその時に慌ててシュライクライン家を追いかけたに違いない。
だってもう、両親はきっとあの家と一緒に国を出た。
会おうと思えば会えると思っていたけれど、それでも会ったら甘えてしまうから。
だから、会わないままでいた。
でもそれは、会おうと思えばいつでも会えるという思いが根底にあっての事だ。
会いたくても会えないとなれば、そうなれば会える機会があるなら会うべきだとエリンはきっとそう思ったに違いないのだ。
噂ではシュライクラインは隣国へ行ったと言う。
隣の国なら行こうと思って行けなくはないけれど、それでも気軽に行ける距離ではない。
学園から自宅に行くのとはわけが違う。
今までずっと我慢して会わないようにしていたけれど。
どうしようもなく、皆に会いたかった。
アランの事は好き『だった』けれど、冷静に考えてみればエリンにとってロクな事をしてくれていない。
大体、エリンに嫌がらせをしている相手はロゼッタではなかったのに、それをきちんと調べる事すらしてくれなかった。嫌がらせをされるたびに「おのれロゼッタ」とばかりに怒りを燃やしていたけれど、今にして思えば何もかも冤罪である。王子が何もかも解決してくれなくても、せめて嫌がらせをしている人をきちんと調べてくれたなら。そしたら自分で話し合おうとか、できたかもしれない。当時の自分も今の自分も、こっそり嫌がらせをしている人を探し当てるなんて一人でできるわけもない。困ったから相談したのに、結局何の解決にもならなかった。
王子の考えた都市計画のせいで両親は危うく追い出されるところだったし、ロゼッタに婚約破棄を突きつけるだけならまだしも国から出ていけなんて言わなければエリンと両親はまだ同じ国内にいたのだ。エリックだってそう。
けれど、もしこの話をアランにしたところで、今度はきっとロゼッタがエリンの家族や幼馴染を誘拐したとかそういう風に曲解して捉えるのではないか、と思ってしまった。
有り得ない、と否定はできなかった。否定しようにも今までの行いから否定できる要素がないのだ。
エリンは愛するアランのために、お妃さまとして相応しくなれるように頑張っていたけれど。
ではそのアランはエリンに何をしてくれたか、となると。
エリンの中で恋心がどんどん急速冷凍されていくのを感じていた。
私、男を見る目なかったのかしら……とまで思う始末。
学園の中で出会った王子さまは確かに素敵な人だった。
何の変哲もない、ある日突然聖女になっただけの自分。そんな自分に好意をくれた。恋を教えてくれた。愛を感じた事もあった。
けれどもそのキラキラとした思い出が、なんだか一瞬で色あせるのを感じたのだ。
まるで、大切にしまっておいた宝物を泥まみれにされたような気分だ。
汚された事に悲しいだとか、台無しにされた思いはあるけれど、でもその汚れを綺麗に取り除いてまた大切にしようとは到底思えなくなってしまった。汚されてしまった事でなんだかどうでもよくなってしまったのだ。汚れさえしなければ、きっといつまでもキラキラした綺麗な思い出としてエリンの中にずっとあったはずなのに。
この瞬間からエリンはもうアランのために頑張ろうと思えなくなってしまった。
だって頑張っても、アランは自分の家族を追いやろうとしたわけだし、ましてや家族や幼馴染に気軽に会える機会を奪った本人なのだ。
勿論本人にそのつもりがなかったとしても、この先もエリンがアランのために頑張ったとして、今度は一体何を奪われてしまうのだろうかと考えてしまう。
思い立ったが吉日とばかりにエリンは行動に移った。
元々城の連中は、聖女としての能力は必要としていてもエリン本人は軽んじていると思っていた。妃として表に出すにはまだ難しいというのもあったからだろう。聖女の力だけあればそれでいい、と露骨に表に出したりはしていなかったけれど、それでも多くは内心でそう思っているのではないかとエリンは思っていた。
被害妄想であればよかったが、うっすらと雰囲気がそう物語っている事は何度だってあった。それは例えばレッスンが上手くできなかった時だとか。貴族なら知っていて当たり前の常識を間違えてしまった時だとか。
けれども、両親も幼馴染もいない挙句、友達だって最悪この国出ようかと思っている、なんて手紙に書いてくる始末だ。
エリンがこの国にいる意味は、果たしてあるか? と思うのも無理はなかった。
アランの事が大好きで、彼と一緒に居られればどんな困難だって乗り越えられると思っていた少し前ならこんな考えにはならなかった。けれども今は、アラン一人と、それ以外とで天秤にかけた場合。傾くのは家族や友人といった側だ。
何もかも全てを捨ててまでアランを選ぼう、とはもう思えなかった。
エリンが最初から貴族の令嬢であったなら、こんな大胆な結論にすぐに至らなかっただろう。家の事。貴族の役目。そういったものを考えて、悩んで悩んで悩んだ末にようやく……となっただろう。
けれどもエリンは生まれた時から平民だったので。
やろうと思えば即実行の精神に基づいていたのである。
聖女としてのエリンを貴族たちは必要としていたけれど、それはつまり裏を返せば聖女に見えないようにしてしまえば彼らの視界に入る価値もないという事である。
エリンはしれっと部屋を出て何食わぬ顔でメイド服を失敬し、着替えて使用人の振りをしてまるで何かの用事を言いつけられたかのような態度でもって城を出た。
見張りの兵士は何をしている、と言われそうだが、エリンがとても困った顔をして突然お使いを言い渡されてしまったのだけれど、今から間に合うかしら……なんて言えばあぁ、王子の我儘か何かなんだな、とあまりにもあっさりと納得されて、暗くなる前に帰って来いよ、なんて言われる始末。
逃げ出した事は恐らくすぐにバレるだろう。
夕食の時間になったら、部屋にいなければ城の中を探すだろう。
そうして、暗くなっても戻ってこないメイドの話が出たならば、恐らく点と点を結び付けてすぐに逃げ出した事なんてバレるだろうな、とはエリンだってわかっていた。
だからこそ大急ぎでエリンはまだ友人がこの国に残ってくれている事を願いながら彼女の家に向かったのだ。
学園にいた時に、何度か家にお邪魔した事がある。だから場所は覚えていた。
天はまだエリンを見放していなかったのか、友はまだこの国に残っていた。けれども本当に近々出ていくつもりだったのだろう。家の中も随分すっきりと片付いている。
先触れも何もなくやって来た友に、彼女は何事かと驚いていたけれど。
一年に一度しか手紙なんてやりとりしていない。
だから、顔を見るのは久々だった。すっかり大人っぽく――実際大人なのだが――なってしまった友を見て、エリンは顔をくしゃくしゃにして思わず泣いてしまったのである。
実のところこの友人は、エリンの学生時代に王子とのあれこれを語られていた。
そして彼女はお花畑な想像に浸るようなタイプではなく、だからこそやんわりと王子と結ばれる事があったとしても、やめといた方がいいんじゃない……? と伝えていたのだ。
大体婚約者がいるのに他の女とイチャイチャしてる時点で不誠実。聖女だけどエリンは平民だから、最悪不要になったら捨てられる可能性もある。単純に会わなくなればまだいいが、聖女であるが故に失意の底に落ちて世を儚まれても困るだろう。誰かしら、王子の言う事に逆らわない相手に押し付けて、なんて可能性も充分あった。
ただ、エリンがあまりにも幸せそうだから。
あんまりしつこくやめておけと言うのも逆に意固地になるかもしれないと思って、強くやめろと言えなかっただけだ。友達の事を思った言葉でも、そんな風に言うなんて私の事嫌いなの? と言われるのを恐れたとも言う。
まさかお城から聖女が逃げ出してくるとは思っていなかったけれど、折角友に頼られたのだ。
エリンがやって来たのは本当にギリギリで、彼女は明日にでも出発しようと思っていた。けれども明日の朝になってからの出発では手遅れになると判断し、急遽エリンを荷物に紛れさせて荷馬車に乗せて出発したのである。急すぎる事で周囲にも迷惑をかけたけれど、流石に聖女の境遇を聞かされれば同情もしよう。
逃げ出した以上、城に連れ戻されたらもう自由に動ける事はなくなるかもしれないし、そうなればまた脱走しようにもできなくなる可能性はとても高い。
エリンが今まで従順に真面目に学んでいたのと、積極的に外に出ようとしなかったから城内でのある程度の自由が許されていただけで、こうなったら次はないだろう。
まさに最初で最後のチャンスであった。
夜逃げに近い形で友を巻き込んで出発したエリンは、友から教えられた情報でロゼッタが暮らしているお屋敷へと突撃した。
シュライクライン侯爵家。とはいえそれは、この国で通じる身分ではなかった。
しかしロゼッタの母方の親戚の働きかけや、それなりに色々な功績を出したからか早々にシュライクライン伯爵家となり、更にロゼッタは結婚した事でオルディス侯爵夫人となっていた。
仮に首尾よく一人で国を脱走して隣国にきたとして、エリンだけではロゼッタに会うまでにかなり時間がかかっただろう。まずロゼッタがどこにいるかもわかっていなかったので。
そうして久々にロゼッタの顔を見て。
「ロゼ、ロゼッタ様、ごめんなさいぃぃいいいい!!」
エリンは顔中ぐしゃぐしゃにして謝罪したのである。
変わった客がやってきた、と言われて誰かしらと思えばまさかの聖女。
しかも人の顔見るなり泣き出す始末。
鼻をぐすぐすさせながらも今までの事を語るエリンに、あぁ、手紙を読まなかったわけではなかったのねとロゼッタは納得した。
てっきり王子との恋愛に現を抜かして両親や幼馴染の手紙を放置していたとかではなかったらしい。もしそうだったら、不幸に転がり落ちても自業自得だったけれど、まさか嫌がらせで手紙そのものが届けられていなかったとは。
遅ればせながら知った両親や幼馴染の事。
手厚い待遇をされているはずの両親はとっくに国にいないという事実。
「も、もうやだ聖女なんてやりたくない、あの国でもう頑張れませんんんんん~」
えぐえぐ泣いてるエリンに、ロゼッタも流石に同情する。
家族や友達がいて、聖女の力は最終的にそういった人たちが幸せになる助けになるかもしれないと思ったから頑張っていたはずなのに。
好いた男のためでもあっただろうけれど、しかしその男はよりにもよってエリンを背後から撃つような真似をしていたのだ。それも無自覚に。
事情を聞いて逃げようと思い立って即実行したから上手くいったようだけど、そうじゃなかったら連れ戻されて幽閉生活だったんだろうなと思うと不憫でしかない。
エリンが来た、というのが判明した時点でロゼッタは使用人にエリックやエリンの両親を連れてくるように頼んでいたので、ある程度エリンの話が終わったころには三人とも再会できた。
懐かしい両親の顔。記憶にあるよりも年を取った気がするけれど、それも当然だろう。学園に通っていた時にはもう会わないようにしようとしていたし、さらにそこから五年の月日が経過している。十年まではいっていないが、それでもそれに近い時間は会っていなかったのだからそりゃあ年を取ったと感じるのは当然だった。
エリックも記憶にあった姿からすっかり見違えて、精悍な青年へと成長していた。
泣き虫なのは変わんねぇなぁ、なんて言うエリックに、泣き虫じゃないもんと返すも顔中くしゃくしゃにして泣いているので説得力がない。
だってあの手紙を読んだ時、もう二度と会えないんじゃないかと思ったのだ。
だからこそ、会えた事が嬉しくてエリンは中々泣き止めなかった。
エリン本人がもうあの国に戻ろうと思っていないようなので、とりあえずどうしたものかと関係者を集めて相談する。
結果として逃げ出そうとした途中で獣に襲われて死んだと思わせる方向性でいこうとなった。背格好が似た死体があれば、それをずたずたにして偽装すれば案外どうにでもなる。
まぁ、その死体に関してはそういう事をするのは申し訳ないなと思うけれど。
けれども背格好が似た相手を生きたまま用意して死んでくれというよりはマシだろう。
探せばこれまたタイミングがいいというべきか、丁度病気で亡くなってしまったお嬢さんがエリンと背格好と髪の色が似ていたので、お嬢さんの家族に事情を説明する。流石に無断で死体を持ってくわけにもいかない。
死んだ娘に似た女がもうあの国に戻りたくないんですぅ、お父さんとお母さんと一緒にいたいよぅ、とめそめそしているのを見せられた挙句、彼女向こうの国で聖女やってたので、死んだと思わせないと連れ戻そうとする可能性が高いんですと説明すれば、お嬢さんのご両親は長い葛藤の末に死体を差し出してくれた。
本当だったら、きちんと弔ってあげたかっただろうに……とエリンは自分のせいでという思いと、自分のためにという思いとが綯交ぜになって思わず祈った。
困ったことに聖女の力は国を跨ごうとも健在だったので、多分近々この国はその恩恵を受ける事になる。
死体提供者のご両親もまた貴族であったが故に、損得勘定もあったのかもしれない。
こちらの国の王族にも連絡はいったけれど、向こうの国のように聖女を城に閉じ込めるような事をしても聖女の力が半減するかもしれないから、と聖女は家族と暮らす事になった。
向こうの国では伝わっていなかったが、どうやらこの国では聖女に関してもう少しだけ詳しい伝承があったらしい。曰く、聖女のやる気次第で聖女の奇跡もいろいろ変わるとの事。
確かにそれなら無理強いして城に閉じ込めるより、家族と一緒に暮らした方がいいだろう。
幼馴染でもあるエリックがあからさまに武装していればエリンに何かあると周囲も悟るけれど、そうでなければ気付かれる事もそうないはずだという事でエリックはあからさまな鎧だとかの防具をつけず、服の下に身に着けるタイプの防具を着用した上でエリンの護衛をする事になった。
エリンが聖女になった時の、エリックの言葉がここで果たされたのである。
――かくして、多少の犠牲は出たけれど概ね事態は終わりを迎えた。
ずしりとした縦ロールをやめたロゼッタは髪をバッサリ……まではいかずともある程度短くしてから色んなヘアアレンジをするようになった。前世で流行していた髪型をあれこれやっていくうちに、周囲のご令嬢も興味を持ったらしく縦ロールは徐々に廃れていく事となる。
学園を卒業して城にいた間、髪を切る事もなかったエリンの髪はかなり伸びていたけれど、これを機にバッサリと切った。肩につくかつかないか……くらいの長さにして随分すっきりした顔をしていた。
平民であれば短い髪型であってもそうおかしなものではない。
淑女として教育されていた時は、あまり感情を出さずに微笑む程度にしておきなさいと言われていたが、そんなものはもう関係なかった。
元から平民だったけれど、ようやくエリンは心の底から笑う事ができるようになったのである。
アラン王子とその国に関しては、ゆるやかに衰退していった事が確認されている。
エリンの両親に手厚い待遇を、と言われていたにも関わらずその任を与えられた部下は相手が平民である事で蔑んで、聖女の両親だろうと何だろうと平民なのだから……と本来両親へ渡されるはずだった手当を着服していた事が発覚したが、何もかもが今更であった。
アランはまさか部下がそんな事をしているとは思っていなかったのだ。
王子であるが故に、また周囲がそれなりに優秀であったが故に、自分が言った事は彼らが良いように計らうだろうと信じて疑っていなかった。
一度くらい、せめてどこかで自分で調べていたならば、自分の案でエリンの両親を追いやる事になっていた事も、エリンの両親に何もしていなかったことももっと早くに発覚して、そうなっていたならエリンだって逃げ出さなかったはずだ。
エリンが城からいなくなったことに気付いたのは、エリンも予想していたように夕食の時間であった。呼びにきたメイドがエリンが部屋にいない事を知り、そこから捜索が開始され……城内にいない事で外に捜索範囲が広げられたが、聖女の生家は既になく。
聖女の両親がどこへ行ったかすら把握していなかったのだ。それ故に、隣国に向かった可能性が高い、という考えが出るころにはロゼッタたちの偽装工作はすっかり準備完了状態だった。
隣国との境目に近い村の近くにその死体を用意して、旅をしている風を装ったロゼッタの従者の一人が村でその死体についてこの村の者ではないか? と確認させ、村の者ではないとなった後、それではこちらは別の場所で弔おう、と死体を回収してきた。
本来なら回収できなかった可能性もあったが、回収できるならそれに越した事はない。
死体を人目に晒す、という事はしてしまったが、お嬢さんの死体は最終的に実家の所有する墓に収められる事となる。
故に、アラン王子がエリンが隣国へ向かっただろうルートを探し、そして村でそれっぽい死体が出た、という話を聞いた時は、愛する者が死んだと思いへたり込んだのであるが。
エリンは隣国で元気にやっている。
まぁそれはアラン王子が知らなくていい話だ。
この一連の出来事で得をしたのは、何か知らんうちに優秀な人材がやってきた挙句聖女まで来た事で国に益がもたらされる事になったこの国であろうか。
とはいえ、国としてはその件に関してこれといって特には。
何かをしようとは思っていなかった。
それが一番いい方法だとわかっていたので。
知らず色んな重責を背負っていたエリンが、ようやく今までのようにのびのび生活できるようになる頃、エリックがエリンにプロポーズしたという話が出たものの。
それはまた別の話である。
ヒロインにとっては悪役令嬢どころかお助けキャラだったけど、王子から見たら悪役令嬢ですよねきっと。