第5話 異邦人の気持ち
――異邦人、宮代カナタには何度も思い出す記憶がある。
辛くて、悲しくて、苦しくて。でもたった一つだけ、暖かい。そんな、この世界での最初の数日の記憶だ。
◆
宮代カナタは、ごく普通の男子高校生だった。
普通の家庭に生まれ、普通に育ち、普通の成績を残していた。普通に友達がいたし、普通に恋愛していたし、普通に失恋もしていた。
特別ではなかった。どこにでもいる人間だと自負していた。唯一、友人から家族仲がとても良いと指摘されたこともあるが、それだって珍しいと言うほどじゃない。普通だ。少なくともカナタ本人はそう思っていた。
――あの日までは。
『……ここ、どこ? 体がおかしい……小さい? 声も変?』
当たり前だったものは全てなくなった。転落した。
知らない場所に居て、体は少女になっていた。現実味がなくて、なのに意識だけははっきりとしていた。
『スマホが繋がらない。ここどこ? 日本でしょ? なのに県名も聞いたことない。なんで?』
街を彷徨った。知っている場所を探して、しかし、どこにもなかった。
歩いているうちに喉が渇いて、スーパーに入った。でも、このお金は使えないと言われた。異邦人だと。ここは異世界だと。似ているけれど違うと。
――そして、もう帰れないと。家族にも会えないと。
『嘘、嘘、嘘だよ。ありえない。夢だ。そうに決まってる。異邦人? 異世界? なにそれ?漫画の話でしょ?』
信じられる話じゃなかった。信じたくなかった。でも周囲の人間はみんな可哀想なものを見る目でカナタを見ていた。冗談を言っている雰囲気は無かった。
警察に連絡している人がいた。膝を突いて目線を合わして、優しく話しかけてくれる人もいた。夢だと思うのに、その全てが現実的だった。カナタ一人だけがズレていた。……それが、怖くて。怖くて。
――だから、逃げ出した。
引き留める声を振り切って、異邦人だと叫ぶ声を無視して。カナタはまた街を彷徨った。ただただ、逃げて。歩き続けた。
『日が……』
そうしているうちに日が沈んだ。それでも立ち止まれなかった。歩くのを止めると、また異邦人だと言われそうな気がした。だから歩いた。
嘘だと思った、夢だと信じた。でも肌を刺す冷気は痛いほどに冷たかった。泣きそうで、悲しくて。寂しくて、苦しくて。
『……』
……そして、どれくらいの時間が経っただろうか。
真ん丸な月が空の一番上に上がるころ。カナタは一件の家の前にいた。
見覚えのある山。その麓。
気付いていた。何もかも知らない場所で、しかし、山の形だけが同じだった。だから、そこに向かって歩き続けていた。
『……違う』
目の前に違う家がある。カナタが知らない家。
なのに、この場所は。
『……』
敷地の中に入った。いけないことだと分かっているけれど、確認せずにはいられなかった。庭を横切って、扉を開けて、木々の前に立った。そして、奥にある山に一歩足を踏み入れて。
――そこには、なんだか見覚えのある景色があった。
カナタが子供のころ、よく遊んだ場所。違うけれど、違うのに、とても似ていて。
『……夢、夢だよ』
山を下りた。そして、すぐ傍の家に侵入した。もう何も考えたくない気分だった。
窓の鍵が開いていたので、そこから中に入った。家の人はいなくて、勝手に中にあるものを使った。
『……早く、覚めて』
膝を抱えて目が覚めるのを待つ間、カナタの脳裏に浮かんでいたのは、当たり前だった家の姿だった。カナタの家。カナタの家族。家に帰ったら母がいて、妹がいて、父が帰ってくる。普通で、当たり前で。でも、他の何よりも……。
『……会いたいよぉ……どこにいるの? お腹すいた。母さんのご飯が食べたい』
泣いて、泣いて、泣き疲れて、眠った。
でもあまり眠れなくて、深夜に目が覚めた。そこはカナタの家じゃなくて、また少し眠って、すぐに起きた。何度寝ても、目が覚めても現実は変わらなかった。
苦しくて、悲しくて。カナタは家を思い出した。
夕飯は唐揚げのはずだった。カナタが一番好きな料理。美味しくて、大好きで。母は少し呆れたような顔をして、カナタの皿に少し多めに盛ってくれる。それが普通だった。そのはずなのに。
――でも、もう。もしかしたら。
もう二度と、あの唐揚げを食べられないかもしれなくて。
『……助けて』
何度も泣いた。涙が枯れるくらいに泣いた。日が昇って、沈んで。でも目は覚めなかった。
もう全部が嫌になって、知らない家の台所を漁った。好きに食べて、ついには酒まで取り出して、飲んだ。許されないこと。両親にバレたらものすごく怒られる。でも、今だけは怒って欲しかった。声が聴きたくて……。
『……君は』
……結局、カナタは誰にも怒ってもらえなかった。
そして、本来の住民が家に帰って来たのは、ちょうどその頃のことだった。
◆
――そして、数か月が経って現在。
カナタは、支援施設の一部屋で暮らしていた。
失ったものは大きくて、急に泣きそうになることもあって。
でも、カナタはなんとか一人で頑張っている。
「……あぁぁぁ」
時期は二月の前半。
冬はまだまだ深くて、体の芯まで冷えそうな頃。
この数か月がどうだったかと問われれば、とても大変だったとカナタは答えるだろう。
慣れない家事に、放り込まれた新しい人間関係。微妙に違う常識はいつだって困惑するし、時には異邦人というだけで悪意をぶつけられることもあった。
しばらく入院することになったし、精密すぎる検査も受けた。
変化した体には疾患的な異常はなくて、心から安堵して、膝から力が抜けそうにもなって。……しかし戻れる見込みは無いと改めて言われて落胆したりもした。
性別の変化は大きくて、葛藤したし、混乱した。鏡を見ると映る金髪の少女の姿には今でも違和感があるし、あえて目を逸らしていることもある。……それでも、必要な時にはそれらしい行動をとるようにはなった。
カウンセリングも受けたし、問題ないと段階的な社会復帰も勧められた。
覚えることは山積みで、諦めるしかないこともあって。でもなんとか顔を上げてきて。
「……あぁぁあぁぁぁぁ」
――そうだ。カナタは頑張ってきた。
いろいろ辛いこともあって、それでもカナタは折れなかった。
「……ぁぁぁぁぁぁっぁあ」
努力家のカナタ。年齢の割に落ち着いていると言われるカナタ。最近では家事も上手くなってきたカナタ。施設内で優等生扱いされているカナタ。
そんなカナタは今――。
「あぁぁぁ……どうしよう。やっぱり書くべきじゃなかったかなぁ!?」
普段の落ち着きを完全に失って、自室のベッドの上をのたうち回っていた。
なんでかというと、原因は先日あの家の主人――更科透に送った手紙である。
卒業式の後に会いたいです、なんて書いて送ってしまったアレのせいだった。
「やっぱり迷惑かなぁ!? 迷惑だよねぇ!?」
送る前から、何度も何度も悩んでいた。
何度も書いて、何度も消した。書くべきじゃない気はしたし、迷惑だとも思った。それでなくてもあの日、カナタは透にとんでもない迷惑をかけた。なのに、これ以上迷惑をかけるのは間違っている。そうカナタは思う。
「やっぱり、止めておけばよかった……」
後悔していた。というか、カナタはそもそも後悔するだろうなと思って書いて、絶対後悔すると思いながら投函したんだから当然とも言える。
「ボクなんて、あの人にとっては赤の他人なのに」
友人でもなければ、まともな知り合いですらない。
それなのに会いたいなんて、迷惑をかけることになる。少なくともカナタの常識ではそうだった。
「……」
でも、それなのに。
カナタは、もう一度透に会いたかった。
何故かはカナタ自身分かっていない。
お礼をしたいからだろうか、それとも謝罪をしたからだろうかと自問して、しかし、なんだか違う気がしていた。もっとよく分からない気持ちがカナタの胸の辺りでグルグルと回っていた。だから。
「……もう一度、話をしたい」
カナタはそう思った。思うことを止められなかった。
間違っていると思うのに、どうしてか気持ちを押さえられなくて。
「……あー、どうしよう」
カナタはベッドの上でバタバタと足を動かす。
不安だった。葛藤していた。透が嫌がってるんじゃないかと思うと怖くて、迷惑そうな顔を想像すると泣きたくなった。
――いや、というか。そもそもの話。
普段送っている手紙だって迷惑なんじゃないか、なんて言葉も浮かんでくる。だから、カナタはさらに不安になってくる。
カナタは月に何度も送っている手紙。透は毎回返事を送ってくれているが、それだってもしかしたら迷惑だったのかもしれない、と。カナタにとって、あの手紙は辛い時に何度も読み返したものだけれど、でも。
「………………ああぁあぁぁぁぁ」
なんだか耐えられなくなってきて、カナタは呻き声を上げる。
もうどうしていいか分からなくて――。
「――ねえ、うるさいんだけど」
「……へっ!?!?」
――そんなとき。
すぐ近くから声がして、カナタは慌てて顔を上げた。
見ると、そこには同じ部屋で共同生活している異邦人の姿がある。
まだ若い――外見が十代前半のカナタよりも幼い姿をした少女。カナタと同じく元は男で、己の体を失って落ちてきた異邦人だ。
「す、すみません。帰ってきているとは思わず」
「……気をつけてよ」
「申し訳ないです……」
陰鬱な表情で少女は小さな声で呟く。
そして頭を下げるカナタにため息を吐いて、己のベッドの方へと歩いていった。
……ふらついた足取りで。
……酒とタバコの強い匂いを残しながら。
「……ぅ」
――どうしようもなく、諦めてしまった人だ。
鼻を軽く押さえながら、カナタは同居人のことを思う。
すべてを失って、心が折れてしまった人。家族も、努力の結果も。何もかも無くなって酒とタバコに溺れるしかなかった人だと。
余り生活態度はよくなくて、施設からも経過観察を言い渡されている。
カナタにとっても、時折困らされる同居人でもあった。
「……」
しかし、カナタはあまり苦情を言う気にはならなかった。
だって、その気持ちはカナタにとっても理解できるものだったから。
(……ボクだって、同じだ)
そう思う。カナタ自身、ああなっても不思議じゃなかったと。
諦めて部屋に引きこもってもおかしくなかった。
むしろ、どうして自分が前を向けたのか。そちらの方が不思議だとすら考えていて。
(……なんで、かな)
分からないままに、なんとなくカナタは机を見る。
そこにはカナタの私物が詰まっていて、中には大切にしている手紙もあった。
「……」
カナタには、わからない。
わからないままにベッドに横になって、また透のことを思い出す。
(……やっぱり、会いたいなんて言わないほうが良かったのかな)
今度は、声をださないように。
カナタは、透が今どんな顔をしているのかと、ずっと、ずっと考え続けた。