第21話 登山
――そして、一週間が過ぎる。
日曜日の朝、カナタと二人家を出ると、真っ青な空が見えた。外を歩くにはちょうどいい天気。春の行楽日和と言えるだろう。
今回登るのは隣町にある四百メートルほどの山で、登山道もしっかり整備されているところだ。日帰りも簡単にできるところを選んだ。
少し低めの山になる。カナタはもっと高い山でも大丈夫と言っていたけれど……まだ初回だ。カナタの体力がわからない。なので、最初は安全の方をとって――。
◆
「――ちょ、ちょっと、待って、ください。すぐに、息を、整えます、から」
「大丈夫、急ぐ必要はないから。ゆっくり息を整えよう」
――うん、まあ、安全策で正解だったかなと思う。
最初の三十分くらいは元気だったけれど。段々と息が上がってきていた。まだまだ先は長いので、いったん立ち止まることにして。
「少しここで休憩を取ろうか。はいこれ、水も飲んで」
「ありがとう、ございます。……体が小さく、なってるのが、こんなに響くとは。前は、もっと、頑張れたん、ですが」
はあはあと息を吐きながら、しょんぼりとした顔でカナタが呟く。
荷物もほとんど持ってもらっているのに、と。
「足を引っ張ってしまってごめんなさい……」
「いやいや、こういうのはゆっくりでいいんだよ。急ぐために登っているわけじゃないんだから」
頭を下げるカナタを慌てて止める。
そうだ。急いでいるわけじゃない。帰れなくなるのは困るけれど、そうじゃなければいくら時間をかけてもいいんだから。
「こうして山の中でゆっくりしているだけでも気持ちがいいしね」
――だって、登山というのはそういうものだ。
別に急いで頂上に上がるためだけに登るわけじゃない。
もちろん急いでもいいけど、山の中の花をゆっくり楽しみながら上がってもいいし、鳥や虫を探して歩いてもいい。人それぞれの楽しみ方がある。
例えば、僕は木の匂いが好きだ。
森の匂い。少し湿った匂いに清々しさを感じたりする。今も久しぶりの匂いを嗅いで、懐かしさを感じたりもしていて――。
「……ふぅ」
――でも、本当に懐かしい。そう思った。
年月が経って、人が変わっても山は変わらない。そう思う。
「……」
……そして、懐かしかったからだろうか。
ふと、過去がよみがえってくる。かつての記憶、大学生のころに意識が飛ぶ。まだ皆がいた頃に。
――想像する。もしも、あの子と両親と一緒に山に登っていたらと。
夏休み、家族皆での遠出。何かが少し違えば、あったかもしれない過去。
登山服を着たあの子。夏の山。
あの子はどんな顔をして山を登っているだろうか。そう想像して――。
(……あれ?)
……しかし、想像した結果、なんとなく。
不思議なことに、むくれているあの子の顔が脳内に浮かんできた。
頬を膨らませて僕を見ている姿が浮かぶ。
感傷的になっていた気持ちが飛んでいくような、そんな顔で僕を見ている
なぜかと思って――しかし冷静に考えるとあの服、今みたいな春ならともかく、夏に着るには暑いよなと思う。アウターだったし。結構しっかりしてるヤツだった。
まあ脱げばいいだけの話だけど、あの子結構意地を張るところがあったし。
せっかく買ったんだからと着続けて、すぐ汗まみれになって、バテてしまって。もう歩けない! なんて言ってるんじゃないかと。そんな姿が簡単に想像できて――。
「――懐かしいな」
――本当に、心から、懐かしいと思った。
笑って、拗ねて、頬を膨らませている姿を想像できた。かつての姿。病院で見た姿でも、遺影でも、壷に入った姿でもない。
……そうだ。あの子は、そんな子だったんだ。
「……………………」
「……よし! 息が整いました! まだまだいけますよ!」
と、そんなとき。下を向き、膝に手をついていたカナタが顔を上げる。
そして、ぐっとこぶしを握って、じゃあ行きましょう! と言う。
……笑っている少女。真っ白な肌。
金色の髪が木漏れ日を反射して、輝いていて。
あの子と似た身長。同じ年頃の外見。
――しかし、違う服を着ている。
言うことも、当然だけど全く違って。
「………………」
「透さん?」
「……いや、なんでもない。じゃあ行こうか」
歩き出す。二人で、縦に並んで山道を登る。
少し多めに休憩を挟みながら、でも確実に一歩一歩前へ進む。
他の登山客とすれ違いながら、木々の合間から見える景色に声を上げる。
汗をかき、水を飲む。いつもより美味しく感じますねとカナタが言って、僕も同意して。
……そして、そんなことをしているうちに。
「――カナタ、頂上に着いたよ」
「へ?……つ、着いたんですか?……はあ、はあ…………わぁ!」
視界が開ける。目的地に到着する。
少しふらついているカナタを支えながら、山頂に置かれたベンチまで歩く。
――そこからは、町が一望できる。
山の麓の町と、その隣まで。僕たちの町も見えた。
「――私たちの家って、あの小さい山のあたりですかね?」
「多分、そうだろうね。あれが裏山だと思うよ」
ちょうど、お昼時。
持ってきた弁当を食べながら、のんびりと会話をする。山頂で食べるラーメンが美味しいんだよね、という話をして、ぜひ食べたいとカナタが言う。
それだったら次に登るときはラーメンを持ってこよう。
そう、僕たちは次回の約束をした。
最後に並んで写真を撮って、二人で覗き込む。
記録を残して、またいつでも思い出せるようにして――。
◆
――そして、帰り道。
金色の髪を揺らして歩くカナタの後ろをついていく。
下りの道。行きとは違ってカナタの足は軽い。
ずいぶんと機嫌がいいようで、小さく鼻歌が聞こえてきていた。
ふと、空を見る。日が傾き始めていた。
一日はあっという間に終わりが近づいてきて、残すところはあと少しで。
「……」
思う。今日一日のことを。
久しぶりの登山。清々しい空気。――思い出せた、あの子のこと。
……来てよかったと、心から思えるような一日だった。
胸のつかえがとれたような気がした。
そして、そんな登山に来ることになったのは。
「……カナタ」
「なんですか?」
「今日はありがとう」
感謝する。今日一日があったのはカナタが始まりだった。
カナタがあの服を見つけて、あの子にもう一度向き合わせてくれた。そして、僕を登山に誘おうとしてくれたから今がある。
……まあ、まさか趣味がないことを心配されているとは思わなかったけれど。
「本当に楽しかった。カナタのおかげだよ」
「……そ、そうですか?」
「ああ、これは何かお礼をしないといけないな」
本当に嬉しかったから、お礼をしたくなる。少しでも返したくなる。
……何がいいだろうかと考えて。
「……お礼、ですか?」
「ああ」
「…………いえ、そう言ってもらえるのは嬉しいですけど、お礼は要りません」
……ん? と思う。
見ると、カナタは少し困った顔をしている。
「だって、ボクの方が沢山もらっていますから」
「……なに?」
「今まで貰ったものだけでも大変なことになっているのに、これ以上なんてもらえません」
穏やかな口調で、でもはっきりとカナタは言う。
ボクは本当に沢山のモノをもらってきましたからと。
そりゃあこの前、透さんは僕のおかげで家が明るくなった――なんて言ってましたけど。そんなのじゃ全然足りませんと。
そして指を折って数えていく。
手紙に、家に、食事。大学に挑戦する機会。これだけでも大きすぎるのに、それ以外にも、なんて言う。
「今回の件で、それを少しでも返せたのならうれしいです。でもそれにまたお返しをもらっていたら、一生返せなくなっちゃいます」
「……いや、それは」
いろいろ手助けしているのは事実だけど、しかし。
カナタが言ったこと。その全てが、僕が好きでしていることだ。彼女がいることで家が変わったし。
だから、僕は別にこれ以上返してもらおうなんて思っては――。
「――だめです。返します。今はまだ貰ってばかりですけど。できないことも多いですけど。でも、いつか必ず」
「……」
「だって、ボクは――」
カナタがじっと僕を見る。真剣な顔。
そして次に少し恥ずかしそうな顔になって、でも目は逸らさなかった。
「――ボク、こんな体ですけど成人してますからね? 大人なんです。僕と透さんは、大人同士。だから、返すんです」
子供じゃなくて、大人なのだと。カナタはそう笑う。
だから、待っていてほしいと。
いつか同じだけ――いや、倍にして返します! とカナタは胸を張って言った。
「――」
……それに、僕は。
今更ながらに。
今までの自分がカナタを子供扱いしていたことを自覚する。
子供だから、当然のように僕が与えるのだと思っていた。
子供だから、居てくれるだけでいいと思っていた。
子供だから、可哀そうだから、手助けをしようと思った。
そうだ、カナタが――。
「……」
――カナタが、妹に、子供に似ていたから。
僕はカナタに妹を重ねていた。その意識はあった。似たような身長だった。同じような年頃の外見だったから。
「……そうか、そうだね」
……でも、そうだ。当然のことを思い出す。
カナタは、あの子ではない。
というか、ここ一週間で思い出した限りだと似ても似つかない。あの子はもっとわがままで、拗ねやすくて、怒りっぽくて、意地っ張りで、深夜に電話かけてきて愚痴を言うような子で――。
「……」
――でも、誰よりも可愛い僕の妹だった。
心から、愛していた。幸せになって欲しいと願っていた。
……もういないけれど。
決して他の誰かで変えられるモノではなくて。
だから――。
「……すまない、僕が間違っていたようだ」
「あ、いえ、謝ってほしいわけでは」
――だから、カナタとあの子は違う。
わたわたと手を振るカナタを見る。
妹とは違う少女。成人した、一人の人間。
……それを僕は、やっと理解できたんだ。




