第2話 現実
※この話には未成年が飲酒する描写が含まれています。
苦手な方はご注意ください。
――ああ、そうだったと思い出す。
日頃から流れている異邦人のニュース。その中でも視聴者に注意を呼び掛けるものがあったことを。
それは、異邦人が起こしてしまったトラブルのことだ。転落し、パニックになったり現実逃避することで引き起こされる騒動。その件数の増加とそれに伴う注意喚起が時折ニュースで流れていた。
夢だと勘違いしてタガが外れた人々による暴行事件や性犯罪。窃盗事件や迷惑行為。時には、いつまでも目が覚めないからと自殺紛いのことまで起こすこともあるらしいと聞く。
だからこそ、異邦人が現れたときには刺激せず専門の窓口に通報するように、などと呼びかけられていて――。
◆
――そして、今。
「……い、異邦人?」
きっと、目の前にいる少女もそのうちの一人なのだろうと。
僕の言葉に目を見開く少女に、そう思った。
「……あ、ああ、そういえばスーパーの人も言ってたっけ。ズレた異世界とか、転落してきた、とか。……飲み物買おうとしたら、このお金は使えないとか言うし」
「……」
「変なこと言うよね。さすが夢だよ。日本円だよ。違う訳ないじゃん。僕が生まれたときからずっと、このお金だったんだよ?」
異世界転移? 全てを失って落ちてくる? ある訳ないよ。
なんて、少女が呟く。呆れた口ぶりと、大きなため息。あのおばさん、もしかして中二病なのかなぁ? とも。
「あーあ、早く目が覚めないかな。こんな変な夢にはもううんざりだよ。数学の先生、いつもは寝てるとすぐ怒るのに、なんで今日だけなかなか起こしてくれないのかな?」
大きく息を吐き、困った困ったと口元に缶を運ぶ少女。
その言葉は、現状を夢だと信じ込んでいるようにしか思えなくて。
「ほんとに、ありえないよ。ありえない、はずで……」
……しかし、そんな言葉と裏腹に、唇は震えていた。
「……あ、はは。ばか、みたい」
瞳に光を湛えた少女の様子に、なんとなく察する。
この娘は、もう現実に目を向けようとしている。でもその現実に耐えられなくて、だから。
(……ああ)
だから、察したから。思った。
それは少しだけ、己の過去を思い出したからだ。
(……わかるよ)
彼女の気持ちが、僅かだけれど僕にも分かる。
僕は異邦人ではないけれど。しかし――。
「……あぁ、それに、これも変だよ」
「――?」
「だっていくら飲んでも眠れない。父さんは飲んだらすぐ寝ちゃうのに。しっかり眠ったら夢も終わるって思ったのに」
少女が手に持っていた缶をテーブルに置く。
釣られて視線を向けると、それは見たことがあるような…。
「……それ、ビールじゃないか」
「そうだよ?」
僕が普段飲んでいるビールだ。少しお高めで味が濃いヤツ。
それが彼女の手にしっかりと握られている。
少女は、夢のくせに、苦くて美味しくないよねー、なんて呟いている。
そしてそんなことを言いつつもまた缶に手を……。
……って、ちょっと待ってほしい。
この娘、普通に酒飲んでるけれど、見るからに未成年では? 見た目だと小学生くらいに見える。
「……君、止めなさい」
「えー?」
手を伸ばすのを止めようと、慌てて庭から家の中へ上がりこむ。
そして彼女の手元からビールの缶を奪い取った。
「あー、返してよー」
「子供が飲むものじゃない」
周囲を確認する。飲みかけの缶と、空き缶もあった。
それと未開封のものがいくつか。
「子供じゃないよ? 高校三年だし」
「……学生じゃないか」
見た目よりは年上だったらしい。外見の幼さは体が変わったからか。
……まあ、どちらにせよ飲酒が可能な年齢ではない。
なので、これ以上飲ませないようにと中身が残っている缶を腕に抱えていく。
(……空き缶は一つだけ、飲みかけの缶は開けたばかりか)
どうやら、それほど多くは飲んでいないようだ。少し安心する。
「……水を取ってくる」
「えー?」
缶を台所へと運び、その足で水のペットボトルを持ってくる。
ぼんやりと天井を見る少女の傍に膝を突き、蓋を開けて手渡した。
「飲めるか?ゆっくりでいいから、咽ないように」
「………………うん」
少女がペットボトルを傾ける。
水が口へ流れ込んで、くぴりくぴりと喉が動いた。
……手元と意識はしっかりしているか。
「……」
「……」
――そして、そのまま。
部屋に水を飲む音だけが響く静かな時間があって。
「……目が、覚めないんだ」
しばらくして、少女がポツリと呟く。
「丸一日以上経ってるのに、全然覚めなくて」
「……そうか」
「頬を抓っても駄目で、目を閉じても駄目で。お酒を飲んでも……」
……べこり、という音が響く。
俯く少女の顔は見えない。しかし、手元ではペットボトルが握りこまれて形を歪めていた。
「こんなの、おかしいよ」
「……」
「異邦人って何? 新しい映画? 作り話でしょ? 違う世界って何? 違う歴史? 違う体? なにそれ?」
馬鹿にするように、鼻で笑うように。虚勢を張るように、彼女は言う。
「嘘だよ。ありえないよ」
「……」
「絶対、絶対嘘。嘘に決まってる。ありえない。あっていいはずがない。だって、だって。そうじゃないと――」
僕は何も言えない。言ってやれない。
そんな僕に、少女がゆっくりと顔を上げる。
「――ボク、もう帰れないことになるよ?」
――その瞳は涙で濡れていた。
「父さんにも、母さんにも。もう会えない。妹にも会えないことになるよ?」
「……」
「一人ぼっちになる。誰にも会えない。もう顔を見ることも出来ない」
ぺたり、と腕に熱い感触。
彼女の手が僕の腕を掴んでいる。
「朝、家を出るとき夕飯は鶏のから揚げだって母さんが言ってたんだ」
「……そうか」
「ボクの好物なんだ。一番好きで、店で食べるのよりも好きで……でもそれなのに早く帰らないと食べられなくなるかもしれなくて」
少女の瞳から雫が溢れ出す。
溢れて頬を伝って、ぽたりぽたりと落ちていく。
「そうだ、そろそろ妹の誕生日でさ。いつもうるさい妹だけど、やっぱり兄としては誕生日プレゼントの一つくらいは用意してあげないとって」
「……ああ」
「受験も、あって。もうすぐで。父さんの母校なんだ。話を聞いて、それでいい学校だって思って。だから行きたいって。頑張って勉強もしてて」
腕に鈍い痛み。少女の手だ。
真っ白になるくらい力が籠っていて、必死に耐えるようで、縋りつくようでもあって。
「だから――ね、嘘だって言って?」
「……」
「嘘だって言ってよ。言ってください。お願いします」
――ああ。言ってやりたかった。
彼女が望む言葉を言ってやりたかった。心からそうしてやりたかった。
だって僕は彼女の絶望が、痛いくらいには、理解できる。
だからこそ、嘘だと。間違いだと彼女に言ってやりたくて――。
「ね? ね? お願い、お願いだから――――言えよ! なんで言わないんだよ!」
「……」
――でも、しかし。これが現実だった。
「――なんでなんでなんで! なんでなんだよ!! おかしいだろ! なんでボクがこんな目に遭うんだよ!! ボク何も悪いことしてない! してないのに! 帰してよ! 家に帰して!! こんなの! こんなの――――!」
「――こんなの、おかしいよ!!!!」
どうにもならない。取り返しなんてつかない。
そんなものこそが、現実だった。
「ああああ、ああ、あぁぁあぁぁぁあ――――!!」
……だから、僕は。
縋りつく彼女に、何の言葉もかけてやることが出来なかったんだ。