第五十九話 さようなら、また会える
「さて――と」
銀次郎とシオンは、もうひとりの大切な家族の姿を言葉少なに見つめていた。
「そ――そんなに畏まらないでよ。なんだか……こっちまで……」
「う、うううううー! おねえちゃーん!」
少ないながらも旅立ちの装いと決意を終えた香織子に、ぼろぼろと大粒の涙を流したシオンが縋るように抱きついた。うっ――とそのボリュームに息を詰まらせながらも、香織子は微笑みを浮かべ、今や真の家族以上の愛情を抱くようになったシオン――八十海紫苑の髪を撫でる。
「……もう。二度と来ない、なんて言ってないでしょ? また、必ず戻って来るから――」
「で、でもぉ! だってぇ!!」
「もう、決めたの」
香織子は名残惜しそうにシオンの髪を、身体を撫でる手を休めずに、だがきっぱりと言った。
「ちゃんとパパと話すんだ、って。パパがどうしたいか、あたしがどう考えたか、それをちゃんと話すことにしたの。だって、話さなければ何も分からない、って。そうでしょ、銀じい?」
「だな。違ぇねえ」
満足げに笑い返した銀次郎の腕組みがわずかに綻びかけたが――頷き、しっかりと組み直す。それから顎をしゃくるようにして、香織子の気持ちと決意を、ぐい、と押してやった。
「ちゃんと話して、喧嘩して、そんで仲直りしてこい。それで丸っとうまくいくさ、大丈夫だ」
「うん。だね」
「きっとだよ? シオンをひとりにしないでよ? シオンだけだと、お皿凄い割っちゃうよ?」
「あら! それは困るわね! ……約束。あたしたちふたり、姉妹でしょ?」
「うん! 約束、約束!」
飛び跳ねるように喜ぶシオンだったが、急に香織子手作りの編み帽子を脱ぎ、怖い顔をする。
「もーし戻ってこなかったらぁー……怒って、この世界、ぜーんぶ滅ぼしちゃうからねー!」
「……シャレにならないこと言わないで。怖くて眠れないから」
「この角も、もっと、もっと伸びちゃうんだから! この帽子被れなくなっちゃうくらいに!」
「……その時は、また新しいのを編んであげるわ」
「それで、それで! それでぇ……!! ううう……!」
「………………もう。困らせないでよ。……ね?」
香織子はもう一度、全身の力を込めて、シオンの身体を、ぎゅうっ、と抱きしめてから身を離した。それから、そのまま銀次郎を見つめて、少し寂しそうに呟いた。
「結局、ママがこのお店に隠したって言ってた、『ホントの気持ち』、見つけられなかったね」
「……なくなるワケじゃねえ。いつか見つけりゃあいいんだ。俺ぁたちでな」
「うん。そうだね」
そう言葉にしながらも、香織子はどこか後ろ髪引かれるような思いで、年季の入った喫茶店の中をゆっくりと時間をかけて見回す。
朝のぱっきりと覚めるような日差しを受けて艶々と光輝く、香織子自身の手でしっかりと磨き抜かれたワックスのきいた渋色の木床。その中においてもなお輝く、シオンが一所懸命に磨き上げたカウンターとテーブル。そして、しゅーっ、と湯気を噴く背の高いケトルと、精巧なガラス細工のようなコーヒーサイフォン。
少しばかり懐古趣味なきらいはあれど、これほどまでに落ち着ける空間は、そう他にはない。
だからこそ、亡き母がここを酷く嫌っていた、という話が香織子には少し腑に落ちなかった。
「――あ」
だからこそ、気づいたのだ。
とかく何でも新しい物好きの母――芳美が、唯一大事に大事に愛用していた洒落たアンティーク・カップと瓜二つの物が、カウンターの奥の棚の、一番上の右隅に置かれていることを。
「あ……あのカップ……!」
「ん? どいつだ?」
どうして今まで気づかなかったのだろう。
だが、それもそのはず、カップを洗い再び棚に収めるのは、この店で銀次郎だけにしかできない仕事だった。すべてのカップは置き場所が決まっていて、それをすべて頭の中で記憶しているのは銀次郎だけだったからだ。置く場所、置く位置、置く角度――すべてが決まっていた。
「あ一番上の、右隅にある、あのアンティーク・カップ! あれと同じのがウチにもあるの!」
「? ……こいつか?」
「そう! これ!」
銀次郎にカップを手渡された香織子は、少し震える手でゆっくりと手の中でカップを回す――間違いない、どこからどこまでもウチにあったママのカップと同じだ。裏返して底にある刻印を見て、なお確信する。
「よ、芳美の奴ぁ、珈琲なんて大っ嫌ぇで、飲みもしない、って言ってたが……」
「そんなことない。ママはたまに飲んでたよ。辛い時、悲しい時、泣きたい時には必ず」
しばし考え込むようなそぶりをみせて、それから銀次郎は香織子からカップを取り上げ、隅々まで老眼鏡をかけて覗き込んだ。対になった受け皿も同じように観察する。
しかし。
「………………何もねえ」
「ううん。絶対にママが銀じい宛のメッセージを隠したのは、このカップだよ!」
「って言ってもだな――」
と、ふと記憶を探る。
「……おかしいな。何で俺ぁは、このカップを客に出した覚えがねえんだ? 只の、一度も」
「きっと、決めてたんだよ。ママのためのカップだ、って」
「そ、そんなこと、あるワケねえだろ! ふン、馬鹿々々しい……!」
突如自分の中に沸き起こった覚えのない『ある感情』に戸惑ったかのように、銀次郎は対になったアンティーク・カップと受け皿を棚へと戻そうとする。
が、香織子がそれを止めた。
「そういえばさ? あたしまだ、銀じいの珈琲飲んでない。最後に一杯、お願いしてもいい?」
「お――おう、いいとも。カップは――」
「ちょうどいいじゃん。それで良いよ。ママじゃないけど、あたしならいいでしょ?」
不機嫌そうな顔つきで頷き、早速、銀次郎は香織子のために一杯用意し始めた。
こぽ。
こぽぽ。
目の前のコーヒーメーカーの中で起きている不思議な光景に、香織子はうっとりと見とれ、心奪われているようだ。店内には芳ばしい香りが漂い、それが亡き母の面影を思い出させた。
やがて、
「……ほれ。熱いぞ、火傷するなよ?」
「ありがとう、銀じい!」
ふーっ、ふーっ。
んく。
んく。
入念に息を吹きかけ、香織子ははじめて味わう手の中の至極の一杯に夢中になっていた。しばらくその様子を、カウンター越しに頬杖をつき、口元を緩めて嬉しそうに眺める銀次郎。
しかし――。
「あ――っ! こ、これって――!?l」
最後のひと口を飲み干した香織子が、突然驚きの声を上げる。差し出されるままカップを受け取った銀次郎がカップの底を覗き込むと、そこには。
「……ばぁか。遅すぎんだよ、あんにゃろうめ……!」
文字が浮かび上がっていた。
『父ちゃん、大、大、大嫌いで、大好きだよ』
蝋で書いたのだろう。その文字だけが残った珈琲の雫を弾き、文字となって浮かび上がっていたのだった。そのひとつひとつを、銀次郎は愛おしげになぞると、大事そうに抱えて、香織子を見る。そうしてどちらともなく笑顔を浮かべて嬉しそうに頷き合ったのだった。
「よかった! やっぱり……そうだよね、ママ。ママだって――」
たった二ヶ月程度の短い時間ではあったが、色々な経験をした。
家族が増え、祖父――銀次郎との絆を取り戻し、たくさんの人たちと触れ合って成長した。
だからこそ、ちゃんと自分自身の生き方と向き合い、もう一度歩もうと思えたのだ。
あたしは、まだ、高校生――。
今はまだ、何者でもないかもしれないけれど、何者にだってなれる。どんなこともできる。
でも、そのためには誰かの手じゃなく足じゃなく、自分の手と足で、言葉と心で決めないと。
そう思ったのだった。
「……うん。じゃあ、行くね、マスター!」
「おう。しっかりな。待ってるぜ、バイト」
そうして香織子は。
ちっぽけな荷物を大事そうに抱えて、元の世界へと続く穴を這い進んで行く。
決して振り返ることなく。
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