第三十五話 笑顔で嘘を吐く男
「もう……べちょべちょなんだけど……。あー、はいはい。こっち行けばいいのね?」
すっかり騙された格好の香織子だったが、意外なことにシオンが涎まみれの手で触ろうが唾を飛ばそうが、あまり気にしていない様子だった。渋々といった表情は見せているものの、背中に張りついたちっちゃな暴君の言いなりになって身体を揺らしながらうろうろと歩いている。
こりゃあいい――。
とかく年頃の若者たちは、赤ん坊の世話を不必要に嫌がったり、不潔がったりするものと思い込んでいた銀次郎だったが、なにごとにも例外はあるらしい。ますます口元が緩んでしまう。
「……」
と、その顔が不意に厳めしく顰められた。
「おい、香織子。おめえ、ちょいとシオン連れて、この前のベトナムの兄ちゃんの店行ってな」
「……は、はい?」
思いがけずに名を呼ばれて、驚きと嬉しさ半分でこたえてしまってから香織子は口を尖らせた。
「っていうか、シオンって誰――ああ、はいはい。あなたのことね。でも、どうして――?」
「……いいから行ってな。俺ぁ後から行く」
「で、でも……」
「大丈夫だ。あの兄ちゃんはおっかなくねえよ。買い忘れたモンがあってな。それに、だ――」
むっつりと細い目を正面に向けている銀次郎の視線の先を香織子は追ったが――誰もいない。
だが、そのあまりに厳しい表情に折れたのは、ただでさえ心細げな香織子だった。
「……分かったわよ。でも、あまり遅くならないでね」
「おう」
そうしてシオンをあやしながら香織子が通りの先の曲がり角を曲がった頃、ようやっと銀次郎はそれに向けて口を開いてこう告げた。
「……いつまでこそこそ隠れてやがる。何か用だってんなら、出てきて面ぁ見せな」
――ごとり。
すっかり崩れ果てた銀次郎の家だった場所に折り重なる瓦礫の奥から何かが転げ落ちる音がして、ほっそりとした人影が姿をあらわした。きゅっ――と笑顔を見せる。
「いやあ、まさかお気づきだとは。人が悪いですよ、もう」
ベージュ色の作業着の下は、糊のきいた皺ひとつないワイシャツにきっちりとえんじ色のネクタイを締め、さらに目線を下げれば折り目のぴっちりとした濃紺のスラックス。足元は用意がいいのか厚底の重たそうな黒の安全靴を履いている。どこからどう見ても普通の公務員だ。
だが、しかし。
銀次郎は今目にしているそれらすべてを信じてはいなかった。
「……おめぇさん、何者だ?」
「嫌ですねぇ。役所から来た者ですよ。ほら、そこの立て札もわたくしが立てたものでして」
そう言って笑う。
きゅっ――細身ですっきりとした顔の中で、吊り気味の細い目が糸のように細められた。
それを見て、聞いて、銀次郎は再びこう尋ねる。
「おめえさんが役人だと? はっ、笑わせるねぇ。こう見えても俺はこのへんの役人とは見知りなんだ。けどよ? おめえさんなんざ、今まで一度っきりともお目にかかったことがねぇ」
「ははは。なるほどなるほど。なにぶん新入りなもので失礼を。わたくし、こういう者です」
男は浮かべた笑顔を絶やすことなく、作業着の内ポケットから名刺入れを取り出し一枚抜き取る。そして、銀次郎の目の前までするりと近寄ると、理想的な角度で会釈して差し出した。
『墨田区役所 地域活動推進課 狐塚来人』
「それで、こづか・らいと、と読みます。これからもどうぞご贔屓に、八十海銀次郎さん」
「……」
ひったくるように名刺を受け取った銀次郎は、表に裏に、はたまた斜めにとさんざ検分したあと、その名刺をスラックスのポケットに無雑作に突っ込んでしまう。狐塚は苦笑した。
「うーん……どうもまだ信用していただけていないようですねぇ。これは参った参った」
そうぼやきながら、銀次郎の敷地の前に立てられた立入禁止の看板を、ぐい、と念を入れるように押し込む。それから、ぱん、ぱん、と手の埃を払い、再び銀次郎に向き直った。
「いやあ、大変でしたねぇ、八十海銀次郎さん」
きゅっ――と目が糸のようになる。
「しかしですよ? 八十海さんのお宅だけで済んで良かった、と思ってらっしゃいますよね?」
「……もっぺん聞く。おめぇさんはどこのどちら様だ――いいや、違ぇな、一体何なんだ?」
「嫌ですねぇ。もう自己紹介させていただいたじゃないですか。わたくしは役所から来た――」
「おっと、聞き方が悪かったか? ……おう、おめぇさんはどこのどいつの使いだってんだよ」
「……っ」
途端、狐塚と名乗った若い男のつるりとした顔に緊張の震えが走った。
それでも、浮かべている笑み――のようなもの――は崩さない。
「このへんにゃ、稲荷と言っても寿司屋はあるが、オヤシロはなかったはずなんだがなぁ――」
沈黙――。
しばらく不自然な間が空いて、ため息を吐くように狐塚と名乗った若い男はこう告げた。
「油断のならない爺様ですねぇ、あなたって人は。素直に騙されたフリをしておけばいいのに」
「それを言うんなら『化かされる』だろ?」
「ははは。こいつは一本とられましたね。お見事です」
「……まだ余裕ぶってやがんな、狐野郎」
「わたくしが狐であるとおっしゃるのであれば、さしずめあなたは狸爺ではありませんか」
「……けっ」
銀次郎は狐塚と名乗った男の臆面もない科白にむっつりと顔を顰めた。と、ズボンのポケットの中にねじ込んだ名刺が、かさり、と乾いた音を立てたので、手を突っ込んでみる。
――はらり。
握りしめた手を開くと、かさついて粉々になった枯れ葉がほろほろと指のすきまから零れ落ちた。名刺なぞ影も形もなかった。しかし銀次郎は少しも慌てず、ぎろり、と視線を戻した。
「で……一体何の用だ、狐の兄ちゃん」
「いえいえ――」
狐塚の細い糸目が、きゅうっ、とすぼめられた。
「大したことではありませんよ。そもそもわたくしは只の使いですから。急ぎご挨拶に、と」
「なら、もう用事は済んだろ? 失せな」
「ははは。そういう訳にもいかなくてですね。ひとつ、大事なお話をしておかないと」
「?」
訝しがる銀次郎の目の前で、狐塚は再び折り目正しくスマートに会釈をしてみせた。
「あの鬼の子どもを拾われたそうで……いかがでしょう? あれをわたくしどもにお譲りいただければ、御礼はなんなりと差し上げます。お望みのものをお望みなだけ。いかがでしょう?」
鬼の子ども――それが誰のことか分からぬ銀次郎ではなかった。
落胆と安堵を込めて、ため息をつく。
「はぁ……だろうたぁ思ったよ」
「では、話が早い。早速、貴方の望みをお聞かせ下さい。どのようなものでもなんなりと――」
そこで銀次郎は目を閉じ、しばし考えを巡らせてからこうこたえる。
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