第二十二話 シオン
魔族は成長が早い――あらかじめゴードンたちからそう聞かされ話半分に受け取っていた銀次郎だったが、翌朝にはその話が真実だと思い知ることになる。
「おいおいおい……たった一晩でぐんと大きくなりやがったな?」
「……?」
不思議そうに見つめ返す魔族の子供は、ゆうに一回り大きくなっていた。危なっかしい手つきと足取りで温もりの残る布団の上で四つん這いの姿勢を取り、自らの力とバランスで立とうとしている。そのぷっくりとした唇からは、よほど集中しているのか意味不明な、ぷぷ、やら、ぶぶ、やらの声にならない声が断続的に漏れ出ていた。
「ぷっ!」
「おうい! 危ねえなあ、ひっくり返るぞ?」
勢いをつけて両手を振り回して立ち上がったものだから、見事にひっくり返りそうになったので慌てて手を添えてやった。そんなことは露とも知らず、子供はきゃっきゃと笑い立てる。
「ったく、おめえさんは。ああそうだ、毎度おめえさんやらこいつやら呼ぶのも具合が悪ぃ」
「ぶー! ぶぶぶー!」
「こらこら。唾飛ばすな。ちと待ってろよ……ううむ」
しばし眉根を寄せ、厳めしい顔付きで銀次郎は考え込み――考えに考えた。
だが、どうにも良い物が浮かばない。
思えば、一人娘の芳美の時も名付けたのは妻の善子だった。孫娘が生まれた時は、その頃もうすでに父娘の関係が半ば勘当状態だったこともあって話すら来なかった。『産まれました』とだけ印刷された、御愛想程度の出来合いの葉書が届いただけだ。
(銀さんが付けると、どこぞの芸妓さんみたくなっちゃうからねぇ)
すかした旦那じゃあるまいに、こちとら生まれてこの方芸者遊びなんざしたこたねえよ――と顔を真っ赤にしてむくれる銀次郎を見て、妻は、かか、と笑ったものだ。だがしかし、かつては花街として賑わっていた生粋の下町育ちの銀次郎の捻り出す名前は、どれもこれも色艶のあるものだったのだから返す言葉もない。
「ううむ。おう、そうだ。さっき、ゴードンの奴が言ってたっけな。確か――」
そうひとり言ち、つい昨晩耳にしたばかりのかつての魔王の名を思い出そうとするも、なにぶんカタカナだらけですんなりと出てこない。
「ルー……なんつったかな。ルース……ルファス……ええい、畜生め」
「ぶー!」
「あ? ああ、嫌だってのか? こらこら、涎まみれじゃねえか」
ぶんぶんと首を振りそこいらじゅうに涎を撒き散らす腕の中の子どもを見つめ、厳めし気な顔をさらに険しく顰め、銀次郎は傍らに落ちているタオルで些か乱暴にちっちゃな顔をわしゃわしゃと拭いてやる。それでいながらも、その口元に微かに笑みが浮かんでいることに自分ではまるで気付いていないのだった。
それよりも、だ。
「ま、そりゃそうだわな。親でも何でもねえ、おっかねえ魔王様だか何かの名前を付けられてもお気に召さねえよな? とすると、だ」
随分と大きくなった身体をひょいと両手で持ち上げるようにして、銀次郎はまだ名の無い子供をしげしげと見つめた。
――薄紫色の真っ直ぐな髪。その髪と揃えたかのような色をした驚くほど長くカールした睫毛。そして、いまさらながらにその黒目がちの大きな茜色の瞳の中には、星屑を散りばめたような幾つもの輝きがあることに気付く。鼻は生意気につんと上向いて、ぷっくりとした唇からは白兎に似た愛嬌が感じられる。肌はもちもちすべすべとして、実に触り心地が良い。
そう。考えてもみれば銀次郎は、新たな家族として迎えることを決めたこの子に対して、こうしてじっくりと向き合うことすらしていなかったのだ。
「よぅし、決めたぞ」
だからこそ、浮かんだのである。
「今日からお前の名前は、シオン――八十海紫苑だ。どうだ、ん?」
それを耳にした途端、満面の笑みを浮かべたシオンが銀次郎の手をすり抜け、力一杯抱きついてきた――涎を振り撒きながら。
「ばぁー! ぶっ!」
「よせよせ、拭いてやったばっかだってのに! ま、気に入ったみてえだから良しとするか」
シオンを抱きあげた銀次郎は、その背中をリズミカルに、ぽんぽん、と叩きながら、よっこらせ、と立ち上がった。口で言うほど年老いた身体には響かず、元の世界にいた頃より元気だくらいのいい気分である。
「しっかし……ちと弱ったな……」
早々に解決しなければならない問題があった。
居間から店へと続く三和土を降りると、すぐ脇に長年愛用している冷蔵庫がある。銀次郎は低く唸るその扉を開けて覗き込み、ううむ、と顔をしかめた。冷えた中身はあまりに乏しい。
そして、
「なあ、シオン? おめえさんだって、腹は空くよな? とはいったものの……ミルクか」
元々ブラックのみの素材の味一本で勝負している銀次郎の店では、牛乳を使う機会がない。銀次郎自身も、年のせいか冷えた牛乳を飲むと腹を下しがちで、温めてやる必要があったりといろいろ面倒なもので買い備えておく習慣がなかったのだ。
「銭がないわけじゃあないが――これじゃあなんともならんだろうな」
ならば、この『ぐれいるふぉーく』という土地見物ついでに買い出しに出かけようと思い立つも、支払う金がない。
いや、正確に言えば、裕福ではないものの銀次郎にだってそれなりの蓄えがあるにはある。しかしそれは、元の世界で通用していた『日本円』だ。ゴードンが教えてくれた『ぐれいる貨』でなければ、ここではまともに売り買いはできないだろう。そっちに関しては――。
「一杯目は店の奢りだったからなあ。手元にあるのは珈琲三杯分の、鉄貨十五枚っきりだぜ」
これで多いのか少ないのかも分からない銀次郎にとっては、たとえ奢りの分の二〇枚が追加されたところで同じ思いだっただろう。他人様から言葉で聞かされたところで、価値観がすぐ身につくわけではない。
そこで銀次郎はシオンを見つめ、大真面目な顔でこんなことを言い出す。
「うむ、こりゃ試しに行ってみるしかねえな。足りなきゃ足りねえでなんとかすりゃあいい」
この思いきりの良さも、ある意味銀次郎の持ち味であり、魅力のひとつであった。
「おう。シオンよ、これから爺様と散歩に出かけるぞ。……おっと、こいつを被っときな」
「ぷう!」
シオンの薄紫色の頭の上に帽子をちょこりとのせると、出発の合図のごとくシオンが元気にこたえた。銀次郎もまた、三和土の横の壁に掛けてあった黒杢色のハンチング帽をひったくり、きゅっ、と白髪頭に据える。外出時には欠かせない、銀次郎なりの正装のつもりなのだ。
「さてさて。どうなることやら……。へへ、わくわくするじゃねえかよ。ええ?」
からん。
スイングドアにぶら下げたカウベルが鳴る。
お読みいただき、ありがとうございました♪
少しでもおもしろい! 続きが読みたい! と思っていただけたら、
『ブックマーク』と広告下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしていただけると幸いです。
評価ボタンは、モチベーションに繋がりますので、どうか応援のほどよろしくお願いします!




