こっち
完全にホラーです。
苦手な方はご注意ください。
それがどんなに古くても手離せないのは、大事にしている以外に、理由があるのかもしれません。
僕は、おじいちゃんっ子でした。
祖父とは夏休みや年末年始といった長期休みの時に会うだけでしたが、僕が行くと畑仕事をしていた祖父はすぐに顔を上げて、毎回嬉しそうに手招きをしてくれていたのです。
「こっちこっち!」
そして必ず。
「よぉ来た! よぉ来たなぁ、ユウタ」
と、満面の笑みで言って、飴やジュース、時にお小遣いをくれました。
僕が一人っ子なのもあるし、母の兄、僕にとっての伯父さんは当時独身で、県外に勤めていたため、なかなか帰って来なかったから、祖父にとって僕は息子の代わりでもあったのかもしれません。
畑仕事をする祖父の横には、お気に入りの小さなラジオがいつも置いてありました。
祖父とよく海へ釣りに行きました。
この時も祖父はお気に入りのラジオを持っていきました。
当時からかなり古い物だったので、僕が。
「じいちゃんはどうしていつもそのラジオを持ってるの? 新しいの買わないの?」
と、尋ねれば、祖父は。
「これはじいちゃんのお守りみたいなもんじゃけぇのぉ」
と、笑って答えていました。
祖父に初めて叱られた時は、このラジオに触ろうとした時でした。
「人の大事なものに、簡単に触っちゃいかんよ」
大きな声で怒鳴られたわけではありませんでしたが、静かに言われたそれには、幼かった僕でもひどく反省したことを憶えています。
でも、それ以外に叱られたことはありません。
いつも元気で、ハキハキと快活な祖父でした。
ただ、もう一つ祖父からいけないと言われていたことがあります。
「ユウタ、夜は海に来ちゃいかんよ」
「どうして?」
「海はな、誘うけぇ」
「さそう?」
普段は僕が知らないことをいっぱい教えてくれる祖父でしたが、その時だけは何とも言えない顔で小さく頷くだけで、結局詳しいことは教えてくれませんでした。
幼い僕はこの言葉を聞く度に、祖父の後ろに広がる青々とした海が、別の世界のように恐ろしく感じたのです。
いや、それは大人になった今の方が強く感じています。
僕は、今では海に行けません。
その理由を今からお話しします。
そんな祖父は、僕が高校を卒業して数日後に亡くなりました。
病院には何度か足を運びましたが、その度に弱っていく祖父を見るのは辛かったです。
でも、僕が行けば、あの時の笑顔で精一杯迎えてくれました。
そして、いつものラジオが横に置いてありました。
葬儀には、県外に住んでいた伯父はもちろん、この時初めて会う祖母の親戚や知人もたくさんいました。
しかし、祖父の親類はいなかったのです。
そのことを僕は誰にも聞けませんでした。
棺の中の祖父は、元気だった頃の祖父よりもかなりやつれてはいましたが、穏やかでした。
「じいちゃん、ありがとうね」
元気な祖父の声が返ってこないことに、じわじわと寂しさが湧いてきました。
葬儀も無事に終わり、帰ろうとしていた時、祖母に呼び止められました。
「ユウちゃん、よかったらこれ、貰ってやってくれん?」
祖母が差し出してきた物を見て、僕は驚きました。
それは、祖父の大切なラジオでした。
幼い頃に祖父から叱られて以来、僕はそのラジオに触れたことはありません。
人の大事なものに簡単に触れてはいけない。
祖父は今でもそう思っているに違いない、と僕は思っていました。
なかなか受け取らない僕に、祖母は哀しそうに笑いました。
「あの人ねぇ、ユウちゃんを叱った時のこと、ずっと気にしててねぇ。物に執着なんてしても仕方ないのに……てね。でも、そのおかげで、あの人のだけは生き残れたと、アタシは思うんよ」
生き残れたとはどういうことだろう、と僕が思っていると、祖母はラジオを撫でたその手で僕の手を取り、ラジオを持たせました。
「ユウちゃん、貰ってやってくれん?」
普段は温厚で、体も細めの祖母からは想像できないほど強い力でした。
僕はとうとう頷きました。
「うん、分かった。ばあちゃん、ありがとう。大事にするよ」
僕がそう言えば、祖母はホッとした様子で、またいつもの様子に戻りました。
祖父がずっと大事にしてきた物です。
もちろん、形見として受け取れることは嬉しいとも思ったのですが、その時の祖母からは得体の知れない何かを感じていました。
それからしばらくして、僕は車の免許を取りました。
大学に入学する一週間前だったと思います。
祖父のラジオは、僕の部屋の本棚の上に飾っていました。
まだ使えるようでしたが、それで何かを聴こうという気分にはなれなかったのです。
でも、車の免許を取り、少し遠出もできるようになったので、幼い時の思い出巡りのようなことをしようと唐突に思い立ちました。
祖父のラジオを持ち、一人海へと向かったのです。
祖父の言いつけ通り、夜ではなく昼間に……
しかし、出発した時には晴れていた空が、だんだんと薄暗くなっていきました。
「おかしいな……雨予報じゃなかったはずだけど……」
海に近づくにつれ、空は分厚い雲に覆われていきます。
雷こそ鳴りませんでしたが、海に着いた頃にはポツポツと降ってきてしまったのです。
「残念。あの時の岩場から海を見たかったんだけどなぁ」
僕は駐車場で雨が止むのを少し待ちましたが、祖父の大事なラジオを濡らしたくなかったので、帰ることにしました。
その時、不意に声が聞こえてきたのです。
こっち……
気のせいかと思いましたが、また。
こっち
それは、車の外からのようでした。
ここで帰ればよかったのに、何かに引き寄せられるように僕はドアを開けてしまいました。
こっち……こっち……
それは、やはり外からでしたが、なんだか靄のかかったような感じだったと思います。
ざわざわとまるで雑音のようでもあった気がします。
さっきまで濡らしたくないと思っていた祖父のラジオを、無意識に手に取り、僕は車を降りたのです。
今思えば、雨は徐々にひどくなってきていたのに、気にも留めていませんでした。
ただ声のする方へと歩いていたという記憶しかありません。
こっち……
気付けば、幼い頃祖父と一緒に釣りをした岩場にいました。
普段はあまり波の高くない海なのですが、その時は白い飛沫が上がっていました。
こっち、こっち、こっち……
声が重なるように聞こえて、初めて恐怖を感じました。
帰らないと!
頭ではそう思っているのに、雨音なのか声なのか、耳奥で何かが鳴っていて、それに引っ張られているような感覚でした。
その時、祖父の言葉を思い出したのです。
『海はな、誘うけぇ』
一歩一歩岩の端に向かってしまう足に、僕はどう抗っていいか分かりませんでした。
「うっ……うっ」
僕の口からも嗚咽のような声が漏れて、目の前が雨と涙で見えなくなっていました。
もう駄目だ……!
そう思った時でした。
ラジオから声がしたのです。
こっちこっち!
幼い僕を呼ぶ元気だった頃の祖父の声でした。
僕はそれで我に返り、踵を返しました。
海の何かにまた引っ張られるかもしれないという恐怖に振り返ることもできませんでした。
それからはもうどうやって家まで帰ったのか憶えておらず、家に入るまでの記憶もあまりありません。
母から聞いた話によると、車が戻ってきたのに僕がなかなか降りてこないから見に行くと、ハンドルを握ったまま真っ青な顔をして、ガタガタと震えていたそうです。
何を訊いても返事をせず、その場から動かなかったため、父が帰ってくるまでは母は車と家を往復して僕を介抱してくれました。
父に肩を貸してもらいながら家の中に入り、僕は海から離れられたとようやく安堵した気がします。
「じいちゃんが助けてくれた」
いろいろとまた訊かれましたが、やっとそれだけ両親に伝えた僕は、祖父のラジオを車の中に置きっぱなしにしていたことを思い出しました。
濡れたままでは壊れてしまうかもしれないと思い、急いで車に取りに行き、タオルで丁寧に拭きました。
「じいちゃん、ありがとう」
もしかすると、祖父のあの声は、ラジオを強く抱いた時に電源が入ってしまって、たまたまそんな風に聞こえたのかもしれない――
少しずつ冷静になり、錆びてしまわないよう電池も出しておこうと裏側の蓋を開けた時、僕はまたギョッとしたのです。
「……電池が、入ってない……」
では、ラジオからのあの声は、やはり亡くなった祖父だったのでしょうか。
あれから僕は、海に行けなくなりました。
ラジオは変わらず部屋に飾っていて、時々母が僕の部屋を掃除してくれるのですが、ラジオだけにだけは触らないように念を押しています。
「大事なものだから、触らないで」
そう言う僕に、母は少しだけ険しい目をしているような気がします。
でも、僕は信じています。
祖父がラジオを通じて、僕を助けてくれたのだと。
そして、祖父もこのラジオをお守りだと言って手離さなかった理由は僕と同じだったのではないか、と――
祖母も亡くなり、母も知らないそうなので、真実は分かりませんが、僕はそう思っています。
~了~