5 襲来
10年前。屋敷の庭園の隅っこで。
私は静かに涙を流していた。恐らく、私がいなくなってしまったということで、屋敷の中は大騒ぎとなっているだろう。皆に迷惑をかけていることは分かっているのだが、出て行きたくない。
私はひたすら、静かに泣いていた。
すると、ガサガサと草をかき分ける音が聞こえてきた。ビクビクしながら、そちらを見ていると、1人の男の子が出てきた。
「ミシェルちゃん、また泣いてるの?」
「アンドリュー‥‥?」
「うん」
私が慌てて涙を拭っていると、彼は私の横に座った。そして、当たり前のように聞いてくれるのだ。
「何があったの?」
私はしばらく沈黙を貫いていたが、次第に耐えられなくなり、口を開いた。
「私。私ね、全然ダメなんだって」
「何が?」
「このままじゃ、王子妃にならないから、捨てられるしかないんだって」
そう言われた時のことを思い出して、再び涙が溢れてきた。
王子妃教育を王宮で受けてきた後、私はたまたま王子と出会していた。その時に、私は全然ダメだという噂が立っており、このままでは役に立たない私を家は、捨てるしかないのだという。
「もう、ダメだよ‥‥」
私が顔を伏せると、私の手をアンドリューはそっと握ってくれた。
「大丈夫だよ。ミシェルちゃんが捨てられたとしても、俺が絶対守るから」
「‥‥‥‥‥本当に?」
「約束」
そう言って、私たちは指切りげんまんをした。
その約束を違えず、アンドリューは、ずっと私のことを守ってくれている。
⭐︎⭐︎⭐︎
「やあ、久しいな。ミシェル」
「お久しぶりです。王子殿下」
アンドリューと一緒に帰ってきた後、我が屋敷にロスコー王子殿下がいらしていることが分かった。
急いで、他所行きのドレスに着替えて、身だしなみを整える。元婚約者とはいえ、今では王子殿下と一介の令嬢。
粗相のないように努めなければならない。
「前のように、ロスコーと呼んでくれてもいいんだよ?」
「ご冗談を」
彼は、寝ぼけてるのかな‥‥?
「君と別れてからずっと寂しかった」
「私は楽しかったです」
「え?」
おっと口が滑った。これじゃあ、淑女レッスンの効果が出ているとは言えないな。アンドリューは、さっきから不機嫌そうに私の後ろに立っている。腕を組んで威圧的な為、不敬に問われないか、少しヒヤヒヤする。
「ミシェル。御託はいいんだ。そろそろ、俺の婚約者に戻らないか?」
「婚約破棄したのは、殿下では‥‥?」
「あんなのは、一時の気の迷いだった。信じてくれ!」
そんなことを言われても。色々と言いたいことがあるが、ありすぎて、上手くまとまらない。
「殿下、申し訳ございませんが、お引き取り願いますか?」
「君の本当の気持ちを聞かない限り、帰るわけにはいかないぞ」
「私は‥‥‥‥」
そろそろ、帰って欲しいです。本音としては、そう言いたいところだが、不敬に捉えられてしまうとまずい。我が家の評判が下がることはもちろん、一歩間違えれば不敬罪だ。
私はアンドリューをチラリと見上げる。
「私は、ずっと、殿下を慕っておりました。なので、そのために、私は沢山の努力をしてきたんです」
本当に、あの日々は苦しかった。苦しくて、苦しくて、その気持ちをよくアンドリューに吐き出していたっけ。彼には、本当に申し訳ないことをした。いつも、けれど、いつだって優しく受け止めてくれていた。
「でも、あの日。それが全て覆されて。正直、とても悲しかったです。けれど‥‥‥今は、それでよかったんだと思えます」
私には、アンドリューがいたから。彼が淑女レッスンをしてくれて、婚約破棄なんてマイナスなことを考える余裕なんてなかった。
今、「楽しい」と思えるのは、彼のお陰だ。だから。
「だから、殿下とは‥‥‥‥」
「そうか!俺と別れて悲しかったと!しかし、離れたことで愛が増大したと言いたいのだな!」
「は?」
「そうかそうか」
思わず凄んでしまったが、彼はそれに気づく様子が見られない。
本当に、この方は寝ぼけてらっしゃるのか‥‥‥‥‥
「それならば、婚約破棄は撤回しよう!今度、王宮でパーティを開くから、絶対に来るように」
「え?!ちょ、殿下!」
彼は言いたいことだけ言うと、そのまま部屋から出て行き、帰って行ってしまった。
彼を引き止めようとして、伸ばした手だけが空虚にも、その場に残った。
アンドリューを見ると、彼もポカーンとして固まっているし。
空気読めないところあるなあ‥‥なんて感じていたけれど、ここまでとは思わなかった。
というか、彼の「愛しのナンシー」はどうしたというのか。婚約破棄の手続きも、この間済ませたばかりだ。彼は簡単に「別れた」と言うが、婚約破棄にはそれなりの人員とお金がかかる。王家側が国民の税金で我が家に賠償金も支払っているのだ。
婚約破棄が成立した後に、「やっぱり辞めました」は、多くの怒りを買うことを想像出来ないのだろうか。
‥‥‥それでも、王家の権力でその怒りは押し込められて、その尻拭いは私に回ってくるのだろうか。
「色々と考えているみたいだけど」
「?」
「どうするの?」
どうするの、か。私は思わず、笑ってしまいそうになった。
ここで「どうしたい」と聞かないところが、彼らしい。私の希望を考えても、虚しくなるだけで、身分が上の者には従うしかあり得ないからだ。
「行くしかないよね。王子からの命令なのだから」
「‥‥‥‥」
「行かないという選択肢がないな」
婚約について同意するつもりはないけれど、王宮のパーティは致し方ない。それに、婚約の件もどうなるか分からない。王子を可愛がっている王は、金と権力を使って、また私を婚約者に据え置くかもしれない。
「‥‥‥そう」
「それじゃあ、そろそろ戻るから。今日はありがとう」
私は、最後まで彼の顔を見ずに、その部屋を出て行った。
自室に戻り、みっともないと分かっていながらも、ベットにそのまま潜り込む。
ここに、アンドリューがいたら、「はしたない!」と怒っているところだろう。
‥‥‥‥‥‥我儘を言えるのなら。
彼に、私は止めて欲しかった。
「どうするの?」じゃなくて、「どうしたいの?」と聞いて欲しかった。
彼は、何も間違ったことはしていないのだから、ただの私の我儘だ。
それでも‥‥‥‥‥‥‥
私は、再び、王子と婚約しなければならないのだろうか?