第80話 待ち伏せ
ガスジャイアントとは、主に水素とヘリウムから成る巨大惑星である。固い地面は持たず、その大半はガスであるために密度は薄い。中心に近付くにつれ、惑星を構成する水素が液状化し、中心部付近ではその圧力から液体金属化している場合もある。太陽から遠いがゆえに凍てついたメタンや一酸化炭素を起源に持つこの天体の自転は早い。その低密度と相まって、常に強い嵐が吹き荒れていた。赤道と極で自転速度すら異なるのだ。遠心力で膨らみすらする。
今。この褐色の星は、宇宙最後の戦いの舞台になろうとしていた。
◇
慣性系同調航法は唐突である。極微の時間で進行するこの超光速航法を観測する者がいたならば、突然の消失。あるいは出現を目にすることになった。
ガスジャイアントを要する星系に出現した母艦も、そのように見て取れた。
全長三キロメートル。小さな、細長い艦である。貨物室さえないフレームでできたこの金属生命は、三十五メートル級指揮個体を搭載。運搬するためのものだ。最大積載数四十八、通常時でも三十二体を運ぶこの艦は、ガラガラだった。
――――遅れをとった。
艦の指揮官である泣き女は思考する。
母星系は混乱の極みだ。通信回線がパンクするほどの情報量が吹き荒れたせいで、元凶たる敵。あの仮装戦艦の追撃どころの騒ぎではなかった。辛うじてかき集めた戦力は僅かである。この母艦。襲撃型指揮個体1。仮装戦艦2。突撃型指揮個体6。そして、私自身。
奴はもう、手の届かぬところまで逃げ去ったであろう。それでも。
殺さねば、ならなかった。奴を。あの裏切り者を、滅ぼさなければ。
銀の泣き女は、配下へと命令を下した。
◇
――――来たか。
敵の襲来を遥は、隠れ場所より眺めていた。心はどこまでも穏やかで、さざ波ひとつない。二千年、隠れ潜んできたのだ。今さらそれが少しばかり延びても大したことではない。いつ滅ぼされるとも知れぬ日々。狂いそうだった。狂うことの出来る心だったら、きっとそうしていただろう。されどそれもあとわずか。金属生命体群に特異点砲を叩き込んだ時は、正直スカッとした。マイクロブラックホールが主砲身から飛び出していくところなど、あまりの官能と愉悦で漏らしそうなほどだった。漏らすものがこの体にはないが。癖になったらどうしようか。おそらく人型になったことで、人間だったときの感覚を思い出したのであろう。いわゆる幻肢という奴だ。それにしたところで、この体にない感覚器による快楽を、人体に存在しない器官で感じるとは。
まぁ問題ない。
砲を使う機会も、後二回だけ。過去に戻って金属生命体群を滅ぼす時とそして、この戦い。
大丈夫。相手は、泣き女級。鶫としての記憶がないだけで、鶫である。鶫のことならば己は宇宙で一番よく知っている。その強みも。弱みも。だから、勝てる。
さあ。せっかくここまで来たのだ。ふたりで、いて座A*を潜り抜けようじゃあ、ないかね。
遥は、微笑んだ。
◇
銀の泣き女は、見覚えのある光景に困惑していた。巨大なガス惑星と、その周囲を巡る氷の環。
そして、ボコボコに歪んだ衛星。
ほんの二千年ほど前、敵に再教育されて種族を裏切った姉妹を殺した場所である。奴の死体は持ち帰られ、徹底的な調査が行われたが何もわからなかった。自己破壊によって、完膚なきまでにその構造は破壊されていたから。
――――まさか、奴と関わりがあるのか?
あの裏切り者が何を思ってここに立ち寄ったのかはわからないが、何らかの相関があるのやもしれぬ。
部下たちに命じて、衛星の調査を始める。仮装戦艦たちが観測帆を展開し、そして突撃型指揮個体二体が降下を開始した。
銀の彼女は、遥に関する情報を何一つ持ってはいなかった。情報が共有されることなく、金属生命体群が破壊されてしまったからである。
敵は仮装戦艦。その航続力は事実上無限である。ここまで追いかけるのにかかった時間を鑑みれば、とっくにここを立ち去っているはずだった。これ以上先にはもう、追いかけることはできまい。
とはいえ論理的に考えれば、眼下の衛星を調査することには意味があろう。ひとまずそれで溜飲を下げるより他なかった。
銀の泣き女は、待った。
◇
その頃。
星系内の各所には、小惑星や微惑星が多数存在していた。何の変哲もないそれらは、その質量により空間をかすかに歪曲させ、複雑な時空を織りなしている。いわゆる重力である。
その均衡が、ほんの少しだけ崩れた。各所に設置されていた爆発物の炸裂、という乱暴極まりない手段によって、重力の元である多数の小天体が砕け散ったからである。
もはや、外部より慣性系同調航法でこの星系へと侵入することは不可能となった。過去の天文情報は役に立たぬ。
星系は孤立したのだ。
その事実にまだ、誰も気が付いてはいなかった。爆破の実行者を除いては。




