「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うと「お前を殺してやろうか」と、唐突な脅迫をされるのはなぜか?
人を殺してはいけないのは当たり前のことである。しかしながら、「なぜ人を殺してはいけないのか」を問うのは無意味なことではない。それを理解しない人はこの疑問を無意味あるいは有害であると決めつける。
タイトルはとあるSNS上での実際のやり取りだ。この御仁、想像するに殺人は絶対悪で、あってはならないと考えているのだろう。その考えは正しい。私も支持する。しかし、だからといって、そこに疑問をはさむ人間を排除しようとする、というのは賛同できない。
死刑制度についても同様である。
殺人は絶対悪と考える人ほど、殺人者は死をもって償うべきと思っている。死刑は殺人ではない、ということだろう。確かに法律上はそうだが、人が人を殺すという点において殺人であると言えるのではないか。死刑囚を裁くのは個人でなく国家だとの反論もありそうだが、国家を形成しているのは人だし、実際に執行するのも人だ。誤解して欲しくないのだが私は死刑廃止論者ではない。死刑執行は慎重になされるべきとは思うが、やはり死刑でなければ裁けない罪人もいないとは限らないからだ。
殺人者に人権はないとの文言があるが、野蛮な考えだと思う。被害者遺族が報復感情を抱くのは分かる。だが、第三者がそれに同調し、殺人者を徹底的にいたぶるのには賛同できない。
第三者がすべきは同調ではなく同情だろう。被害者遺族の苦しみを少しでも減らすにはどうすればいいかを考え出来ることなら実行する。しかし殺人者を殺せと声をあげるべきではない。それを言ってもよいのは遺族や故人を大切に思っていた人だけだ。第三者は彼らを説得しなくてはならない。「そうだよね、憎いよね。でもさ、犯人が死んでもOOさんは帰ってこないよね。死刑が執行されればその瞬間はすっとするかもしれないけどそのあともあなたの人生は続いていくんだよ。許せない気持ちはわかるし私自身も許せないと思う。許す必要もないと思う。だけど、犯人にも彼を大切に思っている人がいると思うんだ。そんな人たちがあなたと同じ思いをするのをあなたは見過ごせる?もっと言うと彼らは国家にもしかしたらあなたにも、恨みを持つかもしれない。それが将来大きな犯罪につながるかもしれない。でも死刑を免れたらそれを阻止出来るかもしれない。あなたに我慢を強いるのは本意ではない。だからあなたの心を癒すためにはできるだけのことをしたいと思ってるだから、死刑だけは何とか勘弁してもらえないだろうか」と。ただし必ずそうしなければならないわけではない。あらゆる事件の被害者や遺族のことについて考えるのは不可能なことだから。私たちにできることは事件報道にふれたとき、安易に犯人を呪うような言葉を使わないということだ。
堪え難きを堪え、許し難きを許す。罪を憎んで人を憎まず。殺人者含む犯罪者を擁護するつもりはないし、相応の罰は受けるべきとも思うが、それは司法に任せるべきことで、私たちが彼らをいじめてもよいという免罪符になってはならないと思う。