先祖返り
次に竜也が目を覚ました時には見慣れぬ白い天井と眩しい蛍光灯の明かりが真っ先に視界へと飛び込む場所だった。
先程までいたはずの工場とは似ても似つかないその景色に竜也はゆっくりと目を慣らしていき、上体を起こして周囲を確認する。
よく見るような窓はなく、代わりに一枚のガラス板と柱で構成された大きな窓がほぼ壁一面にまっすぐ並んでおり、そこから覗く光景も同じように白い通路と部屋で構成されたとても無機質な空間が続いていた。
漸くはっきりとした意識で竜也はまず自分の右腕を確認すると、そこにはいつも見慣れた普通の人間の腕がしっかりと伸びていた。
来ている服は自分の学生服ではなく、よく手術を受ける人が来ているような若草色の無地の服に変えられており、腕には点滴用の細い注射針が刺さっており、そこから延びる細い管の先にはこれまたよく見るような点滴用の液体が入った小さな透明のバッグが金具に吊り下げられている。
部屋の中には竜也以外の姿はなく、それどころかベッド以外の物体は一切設置されてもいなかったが、特に拘束されているような様子もなく、点滴もただ気を失っている間に栄養失調を起こさないようにするためのものであろうことが分かる。
ベッドの傍にはスリッパ等はなかったため、裸足で地面に足を付けるが、思っているよりも冷たい床の感触に思わず足を置くことを躊躇してしまう。
床の冷たさを足の裏全体で感じ取りながら眠りっぱなしで凝り固まっていた身体をしっかりと伸ばしてからすっと立ち上がった。
『おや? どうやら目が覚めたみたいだね天下原君。念のためメディカルチェックだけするから、そのままそこで少し待っててくれないかい?』
竜也が起き上がると何処からかそんな放送が竜也へ向けて送られた。
(放送……ということは何処からか監視されてるのか……)
「何方かは存じ上げませんが、貴方が私を看病してくれた。ということでしょうか? もしそうだとしたらとりあえずありがとうございます」
『ハハハッ。律儀にどうもありがとう。ここに連れてきたのはアバルキンだよ。僕はただ君の健康状態を管理してただけさ。とはいえ、まずは状況の呑み込みが早いみたいで助かるよ。結構パニックになって暴れる人が多かったからね。それじゃそっちに向かうからまた直接話そうか』
竜也はその放送から聞こえる声の主を警戒し、念のため友好的に声を掛けてみると、その声の主はあまり声のトーンを変えずに寧ろ更に軽く友人と話すような声の明るさでそう答えると放送を切った。
自身の身体に起きた変化の事を考えると、ここは何かしらの研究施設であっても病院でないことは明白だったため、軽い探りを入れるためにわざと話しかけたが、わざわざ『パニックになって暴れる人がいる』と伝えたということは、現状は軟禁ではなく保護の形であるだろうという可能性が幾分かは高くなった。
放送が切れてから待つこと数分、何もない廊下からカツカツとスリッパの踵が地面を擦りながら叩く音がだんだんと近づいてきた。
「ごめんごめん。待たせたね。初めまして。私はこの研究施設の研究主任を務めさせてもらっている明知孔介という者だ。多分、今後長い付き合いになると思うからよろしくね」
「……天下原竜也です。とりあえず助けていただいてありがとうございます」
「う~ん……どう見てもかなり警戒されているね。まあそれもそうか。とりあえず君が感じてる疑問について先に答えていこうか」
白衣に薄いベージュのズボンと短く纏まった髪型、そしてありふれた端正な顔立ちに眼鏡といういかにも科学者という恰好の男性は明知と名乗り、柔らかな表情で笑って見せた。
相手の素性が分からない以上竜也は相手がどう出るのか警戒していたが、思ったよりも早くその警戒は解けることとなる。
なんでもこの施設はとある"病"に関する研究を行っている専門機関であり、現状まだ不明瞭な部分が多すぎるため公表もされていない謂わばトップシークレットに当たる場所である、と明知は語った。
その病というものが非常に厄介であり、説明が難しく、そして恐ろしいことに世界規模で頻発している問題であるとも重ねて語り、そこまで語った辺りで竜也の腕に付けたままだった点滴を外し、『場所を移動しながら説明しよう』と促した。
「天下原君は"先祖返り"という言葉を知っているかな?」
「はい。何度かバラエティー番組か何かで見たことがあります。祖先の遺伝子が何らかの形でまた機能してしまった人達でしたっけ?」
「そうそう。それ以外にも自分の両親が持ってなかった特徴……例えばお酒の強さだとか、指や耳の長さが違うとか形が違うみたいな簡単な構造の差だとか、そういう小さな特徴が自身の直結の家計の数世代前の血縁者にあって自分の両親にはない……そういうのも先祖返りと呼ぶんだ」
「そうなんですね。……それがどうかしたんですか?」
「もう一つ。"ミッシングリンク"と"ダーウィンの進化論"は知ってるかい?」
「ダーウィンの進化論なら……。確か絶えず変わり続ける環境に適応して進化し続ける生物だけが生き残って、今の生物となったという考え方でしたっけ?」
「概ね正解。そしてミッシングリンクとはそのダーウィンの進化論の考え方で、必ず今生きている生物には昔の生態から今の生態へ進化を行っていった過程のご先祖様に当たる生物が鎖のように繋がっているはずだから、過去に中間の生物が存在したことになるわけなんだ。その鎖の輪っかの一つ一つが進化の過程で誕生した途中の姿として考えた際、現状その間の鎖の輪っかに当たる生き物の化石であったり、痕跡であったり、名残であったり……そういった繋がりが見つかっていない生物も少なからずある。その"見つかっていない鎖の輪っか"が失われた環と呼ばれているんだ」
「成程……。しかしなんでいきなりそんな話を?」
「最後にもう一つ。"進化の樹"は多分知っているよね?」
「まあ……。全ての生き物は微生物から進化して分岐してそれぞれの進化を遂げていったっていう考え方ですね」
「その通り! そこで本題に戻ろう。今私達が研究しているのは正にその人類の進化の歴史そのものであり、"人類"の起源を辿っていった際に訪れるミッシングリンクについてだ」
「人類に? 人類の祖先は類人猿で、そこから進化したアウストラロピテクスですよね?」
「今はそういうことにしている。というよりもそうしなければ辻褄が合わなくなるんだ」
「そんな適当な……。科学者が発表したことじゃないですか!」
「科学は時代の進歩と共に変わりゆくものだよ。事実既にティラノサウルスは何度もその見た目を研究者によって変えられているからね。科学というのはあくまで普遍的な決まり事を作るのが目的でもあるんだ。決まり事が分かれば全員が同じことを行えるようになる。だからこそ科学者は"分からない"という事を嫌うんだ……それこそ今回のような事態をね」
「今回の事態というのは? まさかその人類の起源とか言わないですよね?」
「言わない言わない。もっと深刻な問題だよ。今言った通り、人類の進化の過去は猿から進化したことにしている。だけどここ最近、原因不明の"先祖返り"現象が世界中で発生し始めたんだ。それこそが君の身体に起きた事であり、人類は猿から進化したというこれまでの定説を全てひっくり返すこととなった現象なんだ」
「俺の……身体に起きた事!? やっぱりあの時の右腕は見間違いなんかじゃなかったのか……」
「残念ながらね。君のように何らかの原因で人間が人間以外の生物に変化する事例がここ数ヶ月で十件以上上がっている。しかもその変化する生物というのが過去絶滅したはずの生物や神話や御伽噺に出てくるような幻獣怪獣の類であることも分かっている」
「御伽噺の怪物って……。いやいやいやいや創作の生物なんでしょ!?」
「私達も幻想であってほしかったよ……。だが事実、世界中で本当に起きてしまっている以上、もうそれは幻想ではない。書物は過去の人類が残した事実でしかなかったということであり、何故それらの生物へ"先祖返り"しているのか。それを私達は突き止めなければならない。故に私達はこの前代未聞の難題を"先祖返り症候群"と名付けた」
「"先祖返り症候群"……。てことは……俺も……」
「そう、君も"先祖返り症候群"の患者だ。ただ、君のように自我を保っている者は保持者と呼んでいて、私達は君達保持者を集めて原因の究明を行うと同時に、自我を失い完全な獣へと変化してしまった者達、それを私達は発症者と呼んでいるんだけど、その発症者達の無効化と捕獲が君達の一番大きな仕事だ」
明知は竜也に対して今竜也の置かれている状況と、彼が抱えていたであろう疑問のほぼ全てに対しての答えを静かに述べた。
だがそれは同時に竜也にとっての普通の日常が二度と訪れないことも意味する。
その驚愕の事実を受けて竜也はまた歩くこともままならなくなり、暫くの間様々な事が頭の中を駆け巡って混乱し、視界さえもぐわんぐわんと揺れているように感じた。
「混乱してるところ悪いけど、説明は僕からだけじゃないんだ。考えててもいいけどもう少しだけ歩いてくれ」
混乱しその場でふらふらとし始めた竜也を見て、明知は竜也の顔の前で手を振って彼の意識を自分に向けさせてからそう説明した。
何とか竜也は歩き出しはしたものの、その足取りはとても重たくその落ち込み様は傍から見ても分かるほどだ。
無機質な通路をそのまま長い時間を掛けて通り抜けると、一際広い部屋へと辿り着いた。
「遅い。明知、私はお前ほど暇を持て余しているわけではない。呼び出したのならさっさと来い」
「私だって暇ではないよアバルキン。だがこれでも天下原君は大分素直についてきてくれた方なんだから大目に見てくれよ」
広い部屋には外が見える大きな展望窓があってその前に長い机と椅子があり、その椅子に座っているであろう人物は展望窓から外の景色を眺めているのか背もたれが竜也達の方を向いている。
それよりも手前の壁に寄りかかったアバルキンと呼ばれた女性が仏頂面で入ってきた明知と竜也を見るなりぶっきらぼうに言い放った。
明知は反論はしたものの、時間が掛かったこと自体はあまり否定はせずにそのまま竜也を連れて中へ入り、部屋の真ん中辺りに立たせた。
そこで竜也は漸く顔を上げて周囲を確認すると、その壁際に寄りかかっていたアバルキンこそが竜也が気を失う前に見た"猛獣"へと姿を変えた女性であることに気付き、思わず声に出しそうになった。
「ご苦労だったな明知。それと初めまして天下原竜也君。私はこの研究施設の所長であり、"先祖返り症候群"の対策を一任されている大戸正道という者だ。以後よろしく頼む」
「……すみません。よろしく頼むと言われても、正直もう何が何だか頭が一杯で……」
「明智君の説明では理解しきれなかったか?」
「いえ。教えていただいたことは分かりました。ただ、なんでこんなことになったのが俺で、これから俺は一体何をどうすればいいのか……」
「その不安や混乱は至極当然のものだ。というのも私は君達保持者のような存在ではなく、ただ厚生労働省に居たからこちらの新設部署に送り込まれただけという所なのだがね……。だからこそ君達の直接的な支援はできないが、国からの保証は私が必ず何とかすると約束しよう。まあ私からはこんな所だ。君達が不自由無く行動するためのバックアップはできるが、詳しい詳細は殆ど明智君に一任してしまっているのでね。残念なことに私は実質のところお飾りだ」
「大戸、話は終わったのだろう? 残りは私と明知の仕事だ。私はヴォルケンツィナ・アバルキン。ロシアからわざわざまだ兵士も設備も整っていない日本くんだりまできてやったお前の大先輩で、一週間はお前の指導者となる。きっかり一週間後にお前が全く使い物にならなかったとしてもそれ以上私はお前の面倒など見らん。死に物狂いで戦闘の基礎を覚えろ。以上だ」
大戸と名乗ったその中年の男性は厳しくもにこやかな笑顔で竜也を迎え入れる言葉を投げたが、それを遮るようにヴォルケンツィナは大戸の話を終わらせ、本当に簡単な自己紹介だけを行ってさっさと部屋を移動しようとする。
その場でもヴォルケンツィナは会った時と変わらない軍服と思われる深緑色の服に身を包み、腰までかかりそうなほどの長く美しい銀髪とその髪に負けず劣らずの美しい白い肌とサファイアのような青い瞳が特徴的だった。
脚は細く長く、スタイルを見るだけで日本人ではないのが一目で分かり、そして軍服の上からでも分かるほどの膨らみを持つ胸元は男性ならば思わず目が向くだろう。
しかしそんな見た目とは裏腹に視線と声は氷のように冷たく鋭く、女性にしては低くぶっきらぼうな口調がナイフのような言葉と共に放たれるため、より一層きつい印象を与えた。
その後は結局説明もそこそこ、挨拶もそこそこに所長室を後にし、戦闘訓練を行っているというトレーニング室へ半ば強制的に連行された。
「すみません明智さん。そもそも戦闘訓練って何ですか?」
「まあそうなるよね……。本当は所長室で詳細を説明する予定だったんだけどね。少し前にも言った通り、君達保持者の仕事は二つ。一つは生体サンプルとして身体情報を提供してもらう事、そしてもう一つが発症者となってしまった人達の無力化と捕縛、及びまだ発症していないけれど発症するかもしれない人達、|潜在者(キャリア―)の監視と発症した際、発症者となってしまわないようにアフターケアをするのが主な仕事になる」
「……それってもしかして俺もやらないと駄目ですか?」
「駄目ではないけどその場合、情報の混乱を防ぐためにどちらにしろ拘束させてもらうことになるよ。協力してくれるのであれば決して口外しないことを条件にほとんど元の生活に戻ることもできる」
「喋らない保証は?」
「無いね。だからもし喋ってしまったら情報を知った人達全員を拘束する羽目になるし、君自身も拘束する必要が出てくるから是非とも止めてほしいところだね」
そんな会話をしながらつかつかと先を歩くヴォルケンツィナの後をついてゆき、それ以外にも本来説明する予定だった内容を竜也は教えてこらった。
そもそも先祖返り症候群とは暫定的にそう呼ばれているだけの、人間が突如として絶滅したはずの古代の生物や幻想、伝説の絵巻等に登場する生物へと変化してしまう現象の総称のことであり、現状分かっていることはDNAに刻まれている遠い昔の記憶、現在は使われていないと思われていた領域が何らかの要因で機能を取り戻し、その生物へと変化しているということだけである。
その変化はとてもではないが進化や退化などと呼べる代物ではなく、ただ"過去に存在したと思われる生物に姿を変える"という一点だけからこのような名前になったと明智は付け加えて説明した。
またその変化した先の生物が所謂幻想生物であったり、英雄譚や神話に登場するような伝説上の怪物等であった場合、到底現代の科学では説明できないような能力も有していることが現在のところ判明している。
例を挙げるならば幻想生物であるユニコーンは神話にも登場する白く美しい毛並みと額に生えた角があり、清く正しい者を見極め、邪を払う力があるとされる有名な空想上の生き物だ。
もしもユニコーンの保持者となった場合、その保持者も同様に他者の嘘を見極めたり、悪霊や呪いのような悪しき力を打ち払う力が使えるようになる。
とはいえ他人の嘘など図れるわけもなく、悪霊や呪いは科学的に言えばデタラメであるため、それらの能力を真実足らしめるにはあまりにも現実味がないというのが現状である。
それだけならまだしも精霊のような存在ならば魔法のような力が使えるようになるのだから科学の分野からでは既に常軌を逸している存在だ。
そのため目には目を、歯には歯を、超常には超常をぶつけなければならないほど、未だ先祖返り症候群という物には不明瞭な部分が多すぎる。
またこれら先祖返り症候群によって現れた生物達はその理解度と潜在的な能力から絶滅種、御伽噺、幻想、伝説と位を分けており、|潜在者(キャリア―)や発症者の位に合わせて同等の保持者を送り込み、保護や無力化を行うよう基準にしている。
そしてそこまで説明を受けた時点で竜也は一つの疑問が頭に浮かんだ。
「そういえば俺は結局何の保持者なんですか? 確か右腕が変色したことは何となく覚えてますけど……」
「正確には分からないけれど、恐らく天下原君が発症したのは爬虫類系、それも恐らくドラゴンである可能性が高いとは思うよ」
「ド……ドラゴン!? あの伝説の!?」
「まあやっぱり嬉しいよね。あのドラゴンだもん。ただ、僕達からすると伝説級は不安要素の塊でしかないからできることなら発症してほしくないってのが本音かな?」
明知のぼやきが聞こえていたのかどうかは分からないが、少々興奮気味の竜也は思わず自分の右腕を見つめてさすさすと触ったが、それと同時に一つの事を思い出した。
「……そういえばあの時、襲い掛かってきたあの化け物も、元は人間だった……って事なんですよね」
「君の言う通り、君を襲ったのも発症者、元は人間だ。だとしてももう発症者には自我はない。無力化や捕縛が難しいようであればそれ以上の被害を出さないようにするために殺傷も許可されているよ」
竜也が保護される原因となった事件でもある灰色の獣の事を思い出し、そして同時にその最後を思い出す。
明らかに落ち込む竜也を見て、明知は「だがそれまでに八人もの死者を出している。あれはもう獣だった」と声を掛けて慰めた。
「いつまで無駄話を続けるつもりだ? お前が時間を無駄にしようがしまいが、私はきっかり一週間しか貴様のコーチにはならん。後で貴様が野垂れ死のうが貴様の責任だ」
「これ以上彼女のご機嫌を損ねると僕まで鉄拳を喰らわされそうだから後は頑張ってね。はっきり言って彼女、恐ろしいなんてもんじゃないから」
ヴォルケンツィナの苛立ちを含んだ言葉を聞いて、明知は最後に竜也に耳打ちしてから小さく手を上げてからその場を離れた。
あんな念押しをされれば竜也にとっても不安しかなくなるが、それ以上に竜也には彼女にどうしても聞きたい事があったため、意を決してトレーニング室へと足を踏み入れる。
部屋内はよく見るスポーツジムよりもかなり広く、端の方にはよく見るトレーニング器具らしき機械の数々や見たこともない大きさのダンベルが転がっている。
それだけではなく、正面にはウォールクライミング用とは思われるが明らかにそれよりも凹凸が険しく高い壁があり、天井にはロープのようなものが何本かピンと張ってある。
その中でヴォルケンツィナは入り口から入ってすぐ右の室内であるにも拘らず何故か砂がしっかりと敷き詰められた足場の上に立って待っていた。
「あの……ヴォルケンツィナさん」
「気安くファーストネームで呼ぶな。私の事は教官アバルキンと呼べ。いいな?」
「わ、分かりました。教官アバルキン」
「どうせ訓練に関係の無い質問をしてくるだろうがそんな時間はない。お前ら日本人は平和ボケしすぎて"戦う"という意味を忘れているせいで教えるのが面倒だが、多少でも使い物にならんとそのせいで評価が下がるのは私だからな。さっさと準備しろ」
竜也が話しかけようとしたが、間髪入れずにヴォルケンツィナはその言葉を止めてさっさと竜也に準備するように指示した。
改めて話した感想はやはりぶっきらぼうで優しさのない、威圧的で感じが悪いといったところ。
だが彼女の言う通りこれから先、得体の知れない化物との戦いに身を投じなければならない竜也にとって、その非日常に慣れていないのも事実であり、戦う準備などできていないのも事実だ。
破れたままの制服の右袖を見てからあの時の出来事を振り返り、一度遮られた質問を竜也はやはり聞くべきだと考え質問することにした。
「教官アバルキン。訓練の前にどうしても一つだけ確認させてください」
「ノーだ。疑問なら訓練が終わった後、お前が死ぬまでの間に好きなだけ答えてやる」
「いえ。これだけは今聞かせてもらいます。あの時、俺を助けた時に貴女が殺した怪物は……本当に殺す必要があったんですか?」
「ほう? 大抵は下らん質問だが、お前はなかなか面白い事を聞くな。上官命令に背いたことは目を瞑ってやろう。答えはイエスだ。人ならざるモノに成り果てた存在をわざわざお前は命懸けで助けるつもりか? そいつを取り逃がせばまた何処かで人が死に、捕縛に失敗すればお前自身が重傷を負うリスクもある。明知の考えはナンセンスだ」
「だとしても元は人間なんですよ。何故そんなに簡単に人が殺せるんですか?」
「ハッ! 愚問だ。貴様にはアレがまだ人間に見えていたのか? もっと言えば、今貴様の前にいる奴が人間にでも見えているのか?」
竜也の質問に対してヴォルケンツィナは、これが答えだとでも言わんばかりに目の前であの時の白い獣へと姿を変えてみせた。
その姿は人とは程遠く、身長が高いとはいえ人間の範疇だったヴォルケンツィナから更に盛り上がるように大きく膨らみ、二メートルを優に超える獣となる。
二本の足でしっかりと自立はしているものの、イヌ科特有の細く長い足の先だけが地面に接し、そこから伸びる長い踵が地面を離れて大きく後ろに出ており、特徴的な逆間接的な見た目となっている。
それ以外の体躯もおおよそ人間のものではなく、腕も脚も女性であったとは思えないほど太く、力強い筋肉の隆起とそれを覆い隠す長く白い体毛が覆いつくしている。
長く伸びていた髪はその名残だけを有しており、体毛よりも長く伸びているのが分かる程度でその髪の付け根にあったはずの人の顔は無く、原生的な狼の特徴を色濃く反映させた長く伸びた耳と口が見え、その口は牙を剥く狼そのものだ。
「少なくとも……俺にとってはまだ貴女は人間ですよ」
「フッ……アッハッハッハッハッ!! 平和ボケもここまでくるとただの阿呆だな。そう思うのなら勝手にしろ。そして死ね。まあ先に今からの訓練で一度地獄を見てもらうがな」
竜也は思ったままに伝えたつもりだったが、どうやらそれはヴォルケンツィナには冗談に聞こえてきたようだ。
ひとしきり笑った後ヴォルケンツィナはその獣の姿のまま空手の型のように構えた。
竜也も覚悟を決めて大きく深呼吸をしてから彼女の前へと歩み出る。
だが残念なことに最初の手合わせは数分と持たずに終わった。
というのもそもそもヴォルケンツィナにとってその戦いの目的は手合わせではなく、如何にして二人の実力の差があるのかということと、実際に戦うことになった際に怖じ気づかないようにすることが目的だったのだろう。
格闘経験どころか体育の授業以外でまともな運動の経験もない竜也にとってその数分は文字通り地獄だった。
普通の人間が対応できる速度を超えたその動きは、例えアスリートでも捉えることは叶わないだろう。
そこから縦横無尽に繰り出される、というよりはその動きでちょっかいを出すような攻撃を受け、立ち上がっては何かに弾かれるようにして薙ぎ倒され、また立ち上がっては倒されるの繰り返しだった。
「どうした? この程度でへばっていたら敵と戦う前に死ぬことになるぞ?」
「すみません……まともに運動したこともないんで簡単なトレーニングからさせてください……」
「ノーだ。私が教えるのは戦闘訓練だけだ。死にたくなければ私の戦闘訓練以外で勝手に肉体改造でもしていろ」
大の字で倒れたままの竜也は大きく息を乱しながらそう言ったが、ヴォルケンツィナの言葉は手厳しい物だった。
とはいえ完全に適当な訓練をするような様子はなく、前説明が一切無いせいでかなり手厳しく感じはするが、訓練そのものにはしっかりと付き合ってくれる優しさはまだ垣間見える。
その後は少し休憩すると加減をしてはいるものの、生身で獣化したヴォルケンツィナの攻撃を受けさせられたり、ヴォルケンツィナにしっかりと捕まえられた状態で彼女の速度を体験させられたりとやっている内容は無茶苦茶だ。
結局彼女の速度を体験したタイミングで身体が限界を超えたのか吐き気を催してトイレに駆け込んだため、その日の訓練はそれで終わることとなる。
「明日までには明知に聞いて自由に獣化できるようになっておけ。明日からは実際の発症者との戦闘を想定した攻撃と防御を教えてやる。今はまだ『まった』が許されるが、実際の戦闘なら死ぬだけだということも自覚しておくんだな」
吐き気と疲労と痛みとでまた別の意味で視界が揺れていたが、竜也としてもあまりにも次元の違う世界を見せつけられたせいか逆に腹は括れたようだ。
とりあえず竜也は気分が優れるまでは一旦休み、体調が回復したらすぐにヴォルケンツィナに言われた通り明知の元へと向かい、その獣化する方法を教えてもらうことにした。
「もうかい!? ちょっと前にも言ったけど、君は恐らくドラゴンの保持者だし、まだ不安要素が多過ぎるから一旦詳細な体構造とかが分かるまでは遠慮してほしかったんだけどなぁ……」
「そうは言っても一週間しかありませんし、俺も頑張るんでお願いします!」
「……あんまり言いたくないけど本当は訓練期間は数ヶ月は準備するんだ。でもアバルキンは絶対に一週間しか教えないし、そのあとは勝手に自分の任務に連れて回るからその点は本当に困ってるんだ」
「そうなんですか? でもまた何でそんなことを……?」
「実地訓練に勝る経験はない……ってさ。要するに彼女の場合、実際の戦闘に連れ回すのが訓練のつもりなんだよ……。お陰でこっちは胃に穴が開きそうだよ……」
明知の元へ獣化の方法を教わりに行くと、明知は深いため息をついた。
理由は明確で、基本的にヴォルケンツィナは優秀で、他の保持者と比べてもかなり実績を上げているが、同時に独断専行もかなり目立つ所謂トラブルメーカーだからだ。
故に折角見つけた保持者がその実地訓練中に発症者に襲われて死んだり、彼女の横暴についていけず協力に関してかなり否定的になったりしているのも事実なため、良いとも悪いとも言えないのが実情だとも語った。
しかし明知は愚痴は言いつつもあちこち動き回りながら何かを集めてゆき、それらを機械の中へとセットしてゆき、操作パネルの一つの前に竜也を立たせた。
「そのパネルに手を乗せて。現時点での君の体組織構成とDNAから天下原君用の戦闘服と獣化促進剤を作るよ」
「え? 獣化促進剤って大丈夫なんですか?」
「あれ? それすら彼女は説明してないのか……。多分アバルキンと出会った時、錠剤を渡されなかったかい?」
「……もしかしてあの錠剤のこと?」
「説明してから渡すように言ったのに……。獣化促進剤は名前の通り君達|潜在者(キャリア―)が保持者として安定するようにするための薬だ。|潜在者(キャリア―)に服用させれば不安定になっている遺伝子情報を低リスクで安定させる……つまり保持者になりやすくする作用がある。保持者が服用すれば一時的にまた不安定化した遺伝子情報を強制的に安定化させることができる。まあ、自分で自由に獣化が可能になるまでの補助的な機能として使えるよ。感覚は僕には分からないけれど、こう……全身の組織をグッとする感じって他の保持者の人に聞いたよ」
「それはまあ何とも抽象的な……。そういえば一つ気になったんですが、獣化した状態が安定した状態なんですか?」
「……気付いちゃったか。まあそういうことになる。つまり君達は既に人間ではない。人間ではない状態が正しい状態であり、君達はいつその精神までも本能に塗り潰されるか分からない非常に不安定な状態なんだ。要するに『毒を以て毒を制す』、生物学的に言うならば異常な状態である保持者ならば、人としての理性と意識が残っているから交渉が可能だから協力してもらい、発症者として安定してしまった者達は獣と同様に交渉ができないから捕縛し、これ以降の増加を抑制するためのサンプルとするしかない。残念ながらこれが僕達の知りうる現状だ」
竜也がパネルに手を乗せるとコピー機のように光の線が上からと右からスッと流れてゆき、それと同時に小さなロボットアームが竜也の腕にチクチクと何かを施してゆく。
その間に明知と話したその内容を聞いて、竜也は先程のヴォルケンツィナが何故竜也の返答を聞いて笑ったのかの意味を理解した。
人智を超越した圧倒的な身体能力、それは確かに人が一時的に獣化したから出せるというレベルの代物ではない。
不安定な人間の状態ではなく、"本来の姿に戻ったから"使えるようになった身体能力であると考えれば何となく腑に落ちる。
故に人ではない。
だが、かと言って竜也にはヴォルケンツィナのように振る舞うことは出来ない。
昨日までは確かに人間で、家族や友人達の記憶も残っているのならば、姿形が変わろうと天下原竜也という存在は変わらないというのが彼の結論だからだ。
「少なくとも、俺はまだ人間ですよ」
「……いい返事だ。君のような返事ができる人間の事を芯が強いって言うんだろうね。僕がもし君の立場だったらと考えると……とても受け入れられないと思うよ」
「どうでしょう? ただあまり自覚がないだけかもしれませんよ?」
「軽口が叩けるなら上出来だよ。自暴自棄になられた方が困るけど、まあ会ってからほんの数十分あるかないかの付き合いだけど君なら折れないと思ったから伝えたまでさ。それじゃ本題に戻ろう」
今一度自分の右腕を見つめながら竜也はそう呟くと、明知は少しだけ驚いた表情を見せてからにっこりと微笑んだ。
本題に戻ると言うと同時に明知は、操作盤のあちこちのボタンを押したりタッチパネルを操作したりと色々と複雑そうな機械をいとも簡単に操作してゆく。
今行っているのは先程説明した通り竜也の為の装備を作るための基盤を準備する作業だという。
竜也がパネルに触っていた間に出てきたロボットアームが竜也の細胞や体毛を回収しており、その情報を基に様々なアイテムを製造するための分析や培養を行うのだそうだ。
何故ならば、同じDNA情報を持つ衣服であれば、獣化する際に取り込まれ、元に戻った時にも破けたりしないからだ。
「獣化する度に服を買ってたら君の財布が先に死んじゃうでしょ? おしゃれの幅は狭まってしまうかもしれないけど、これで破けない服は作れるから」
と軽く冗談も混ぜつつ明知は説明を続けてゆく。
装備は何も服だけではなく、必要に応じて武器なども作ることができるとのことだ。
あくまで獣化して戦うことが基本だが、狭い場所だったり強襲を受けたりした場合の護身用としても機能し、獣化する際に一度装備を外しておけば獣化後も使用することができる武器になるため様々な戦闘方法を可能にするための装備となる。
獣化促進剤に関しても、予めヴォルケンツィナに渡しておいたのは爬虫類ベースの獣化促進剤であったためか、竜也の獣化はまだ安定しておらず獣化の感覚も掴めていない。
そのため今度は竜也の体組織からきちんと専用の獣化促進剤を精製し、以降はそれを利用して獣化を安定化させることが目的である。
一通りの必要な情報が集まったとの説明を受け、明日までにはとりあえず必要になるであろう竜也の学校の制服のコピー品と獣化促進剤を作るとのことだったため、その日はそのまま市内の病院へと移し、明日また迎えに来るとのことで一時的に元の生活へと戻ることとなった。
「分かっているとは思うけれどここの事や"猛獣"については決して口外しない事。病院は政府関係の工作用の病院だからその辺りの口裏は合わせてくれるように既に頼んである。じゃ、また明日」
そう言われて施設から病院へと搬送されたことになったが、何とも実感が沸かない。
これから先起こるであろう化物との闘いの日々にではなく、自分が非日常へと連れ去られ、今確かに日常に戻ってきたはずなのに、もうそこにあるのは日常ではないという感覚が湧かなかった。
まるで先程までのあり得ない経験が日常だったかのようにすら錯覚する感覚に陥り、泣きながら病院へ訪れた家族を見ても不思議と何故か迷うことなく嘘を吐くことができた。
「デカい獣に追いかけられて、無我夢中で逃げてたら、いつの間にか病院に居た」
そう自然と、家族に告げることができた。
それからは念のため精密検査を行うという体で一週間の空白を作ってもらい、竜也はそのまま施設へと戻ることとなった。
理由は勿論ヴォルケンツィナの訓練を受けるためだ。
服を新しい自分の産毛から作られた心なしか肌触りの良い物へと変え、獣化促進剤の錠剤が入ったケースを受け取り、今一度ヴォルケンツィナの待っている訓練室へと向かう。
「遅い。ちゃんと獣化できるようになってきたんだろうな?」
「ちゃんとオーダー通りに作ってもらいました。教官アバルキン」
「ならさっさと獣化しろ。私は実戦以外の特訓をするつもりはない」
厳しく全く優しさの無い言葉でヴォルケンツィナは竜也を出迎えたが、既に戦う覚悟ができていた竜也にとってはその言葉は愚問だった。
あっという間に竜也の目の前にいたヴォルケンツィナは人の姿から銀色の人狼の姿へと変わり、戦闘態勢をとる。
それに応えるように竜也は錠剤を一つ取り出して奥歯の上に乗せ、しっかりと噛み砕いた。
ガリガリッと音を立てて錠剤が砕けると、竜也の身体の奥の方から何かが全身に広がってゆくような感覚が広がり、そして右腕が熱を持ちながら膨らんでゆく。
色が肌色から暗い青褐色に変わり、元の二倍か三倍はありそうな程の大きさまで膨れ上がり、元の腕とは見違えるほどの筋肉質な腕と黒く艶やかで三日月のような形の爪へと変貌する。
「ん? どうした。右腕以外は何故獣化しない?」
「え? あれ? 本当だ。右腕しかドラゴンになってない」
変化を待っていたがヴォルケンツィナに指摘された通り、待てど暮らせど最初の発現時同様右腕以外は人間のままで、鏡になっている壁に映る自分は何とも不格好な姿のまま固定されている。
明知から聞いた話では強制的に獣化するとのことだったが、どう見てもそれ以上の変化は期待できそうにない。
すると獣化したままだったヴォルケンツィナが腹を抱えて大笑いし始めた。
「どうなっているんだお前は? 初めて見たぞ? そんななりそこない」
「い、いや……俺にもどうなってるのかさっぱりで……」
一頻り笑った後、笑い過ぎて溢れた涙を拭いながらヴォルケンツィナが話し掛けてきた。
その言葉に戸惑いながら竜也が言葉を返したが、話している最中にヴォルケンツィナの姿が一瞬で消え、次の瞬間には竜也の目の前に現れて左腕を振り下ろそうとしていた。
竜也は咄嗟に右腕を構えてその振り下ろされた腕を防いだが、その恐ろしい威力に竜也の身体は一メートルほど後方へと吹き飛ばされた。
「な……何するんですか!?」
「どうやら"なりそこない"ではなさそうだな。今の本気の一撃を受けてもお前のその腕は傷一つ付いていない。それどころかお前はあの速度に対応してみせた。つまりはそれが今のお前のドラゴンの安定した姿だ。今日は一先ず合格点だ。そのまま訓練を続けるぞ」
「い、言われてみれば確かに……。でもなんで」
「『何で右腕だけか?』だろう? 私はフェンリルの保持者。お前と同じく伝説級だが、初めから体毛が白かったわけでもないし、今程の速度もなかった。つまり、伝説級にはなにかしらの段階があるのだろう。お前の場合は右腕だけが先に発現したということだろう」
吹き飛ばされた竜也はすぐさま起き上がり、驚いた表情のままヴォルケンツィナに喰って掛かったが、言われた通り吹き飛んだだけで右腕どころか体の何処も怪我していない。
直撃した右腕をまじまじと見たが確かに傷一つ無く、昨日は目で追いかける事すらできなかった一撃を直前で防御できていることにも気付き、右腕以外にもきちんと変化が表れていることが分かって竜也は思わず嬉しくなった。
その上、珍しくヴォルケンツィナは竜也の疑問に答えてくれたこともあり、恐らく自分の中に眠るドラゴンの力は右腕だけが先にはっきりと発言しただけなのだろうと解釈し、より他の部位が発現すればそれだけドラゴンの力を使いこなせているということなのだろうと理解できた。
「見た限りだと恐らく右腕以外は然程耐久力は上がっていない筈だ。防ぐにも攻めるにも右腕以外はあまり頼らんようにな」
「はい! ありがとうございます! 教官アバルキン!」
「礼を言う余裕があるのか? お前がきちんと獣化できているということは私はもう加減をしないということだからな?」
嬉しくなって答えた竜也に対して、ヴォルケンツィナは不敵な笑みを浮かべる。
その笑顔の意味を知るのは、それから数時間ぶっ通しで実践訓練をさせられた竜也自身が身をもって知らされることとなった。