その26
「七海、お願いがあるの」
ある日七海は王妃に呼ばれた。
「はい、あ……」ちょうど王妃に頼まれて庭の薔薇をつんでいた七海はその、鋭いとげで指を傷つけてしまった。
「大丈夫?」
王妃は優しく問いかけた。
はい、と七海が答えると、王妃は優しい笑みを浮かべ、
「お願いというのはね、今夜私のベッドで休んでほしいの」と言った。
「え?」七海には意味が分からなかった。
「王子とね、ちょっと、お遊びをしているのよ。私を見つけられるかって。それで、髪をナイトキャップで覆ってベッドに入っていてほしいの。もし朝まで、王子が来なくても、そのままでいてほしいのよ」
七海はなぜ、王妃の瞳が泣いているようにうるんでいるのかわからなかった。
ぐぅあ。
「わかりました!」元気よく請け負ってしまった。
その数時間前。フェルゼンは国王夫妻を説得していた。
「最初にプチ・トリアノンであの娘を見たときから思っておりました。あの娘、王妃様によく似ております。体つきだけでなく、しぐさなども。私は最初から王妃様に申し上げました。手元に置かれませ、いざというときに身代りに使えます、と」
「だが、異国の者だろう。髪の色もちがうし」ルイ16世は聞かされた計画に驚きを隠せず言った。
「髪は隠せばよろしいでしょう。夜は暗く、肌の色の違いも判りません」
七海の身長はこの時、クイズ番組で当時のフランス女性の平均身長を知った時より2センチ伸びて154センチとなっていた。アントワネットと同じである。
「何より王妃ご自身が、ご自分の侍女の中に裏切者がいるとおっしゃっていたではないですか。その者の目をごまかすためにも、これは必要な策です」
「でも……でも……、あの子を危険な目に合わせるのは…………」
「連れて行ったとて、危険はつきものですよ。私は、以前、王妃様に別の策を進言いたしました。あの者を王妃様として先陣の馬車に一人乗せておき、おとりとして使いたいと申し上げたことを覚えていらっしゃいますでしょう。万が一、暴徒に襲われても、時間稼ぎになり、ご一家が逃げ延びることができますように、と。あの時、王妃様はいったん、『ウィ』とおっしゃったにも関わらず、『やはりできない。そんなこは』と拒絶なさいました。…………王妃様、御身のことをお考えくださいませ。国民が憎しみを向けているのは国王陛下ではございません。王妃様、あなたなのです。お命の危険があるのは、あなた様なのですよ。 王妃様、もう一度、王女マリー・テレーズ様と、楽しく語らい、一緒に楽しい時間をお過ごしになられたいと願われているのではありませんか」
そこでアントワネットの夫のルイ16世が、たまらず口をはさんだ。
「王女の事は言わないでやってくれ。あの子は私たちの希望をつなぐ者なのだから」
「国王陛下……」王妃は、優しい夫の言葉に胸を打たれて、涙を一筋流した。
その涙はフェルゼンの心に迷いを生じさせた。彼の中の騎士道精神は愛する貴婦人を苦しめるようなことは決してしたくなかった。だが、その甘さが、この計画の詰めを鈍らせ、計画の実行をここまで遅らせ(すでにテュイルリー宮殿に移り最初に計画を立ててから、一年半近くの時が過ぎていた)、やがて破たんへと導いていくのだ。
フェルゼンは国王に支えられて自分の目の前に立つ王妃に感情を揺さぶられながらも、何とか押しとどめ、
「とにかく、この件だけはこの作戦を成功させるためには外せません。王妃様の御決断とご協力が必要です」
フェルゼンは、ついにそう言い放ち、国王夫妻に迫った。
自分たちで決断することができずにずるずると何か月もこの計画を引き延ばしてきたこの夫婦は、とうとう、臣下の命により、その行動を決定されたのである。