その19
だが、王妃は、その無礼を非難することも無く微笑みを向けた。
「今夜はなんとか無事に乗り切りましたね」それが彼女の言葉だった。
目先の危機が通り過ぎると、その先のことなど考えもしない刹那的な、享楽的な女、それがこの王妃マリーアントワネットだった。
フェルゼンはそんな王妃にまじめに迫った。
「今日の昼間にあの踊り子を手元に留め置かれるように、と進言申し上げましたことの意、王妃様もご納得いただけておられると私は解釈してございます」
ああ、あのことね、と王妃は思い出していた。
「今のような危機の時にこそ、生きてくる人材です。この後、ご決断が必要な時が来ると、お心に止めておいてください」あくまで大真面目にフェルゼンは進言してきた。
決断、決断……。それこそ、アントワネットがこの世で一番苦手とすることだ。余計なことを考えると頭が痛くなる性質の彼女は、フェルゼンの口に手を当て、言った。
「今日は疲れたわ。そんな話は明日にしましょう」
フェルゼンは王妃からいざというときの作戦の確約を取れないまま、いったん御前を辞するしかなかった。
一方宮殿の外にいる民衆は折からの雨に打たれ、およそ6時間に及ぶ長い距離を行進し、空腹で、凍え、疲れ果てていた。
そして、その多くが食べていくこと、生きることに必死で、ろくに教育を受けてない者ばかりだった。
一例として、当時の識字率をあげると、年代は多少ずれるが、1850年の江戸時代の日本75%に比べ、フランス(1793年)1.4%という驚くべき低い数字である。
当時のフランスでは、ほんのわずかの貴族階級以外、教育の機会などなかった、と言ってよいだろう。
教育を受けていないということは自分の頭で考える習慣がなく、扇動されやすいということが言えよう。
もともとこの行進は、女たちが集団ヒステリー状態で始めたものではなく、その年の凶作でパンの高騰に苦しむパリの主婦たちをジャコバン派のマラーが煽り立てたのがきっかけであり、行進している中には女装した男たちも紛れ込み、行進が中断されることがないように女たちを扇動していたのだ。
呼び起こせ風、よこせ食物と煽り立て…………。