美人との適切な距離
彦根城の頂上から見えたスーパーの一階にあるコーヒーショップに入りアイスカフェ・ラテを飲みながら最高にテンションが上がる青野の歌を繰り返し六時十五分前に外に出た。
信号を渡ってすぐ銅像前で女性が二人立っているのが見えた。
背の高い方の眼鏡をかけたショートカットの女性が俺に気づき近づいてくる。
背の小さい方の女性の顔はまだ見えない。
「すみません。青柳さんですか?」
「はい」
「良かった。道わかりました?」
「はい。大丈夫です」
「すみません。川島穂乃果です。美青」
川島さんは背後にいる女性に声を掛ける。
「佐藤美青です。初めまして」
「青柳恭です。初めまして」
どう言ったらいいのだろう。
佐々木の言う通り彼女はとんでもない美人だった。
顔のつくりが何とも言えず丁寧で全てのパーツが職人のこだわりの手作業に感じられた。
睫毛など一本一本乗せていったようで、まず形を作り、一筆一筆色付けがされた様に、彼女だけがこの世界で長い時間をかけて作られたようだった。
これほどの美人を俺は見たことがない。
彼女を拝むだけでも彦根に来た価値はあると思った。
髪の毛一本一本指先まで美が浸透し、改めて俺は美は細部まで宿ると言うことを実感した。
彼女の着ている白いワンピースまで彼女と同じ工房で作られた一点もののように美しく見える。
そしてこの距離が間違っていると気づく。
美人との距離じゃない。
こんな近くで見ていいのだろうか。
美人との適切な距離は簡単に言うと仏像と人間の距離だ。
あれが正しい。
ガラス越しとまではいかないが、祖母と見に行った泉涌寺の楊貴妃観音の距離は酷く的を得ていると思う。
あれくらいが丁度いい。
こんな近くで見ていいとは思えない。
罰が当たるんじゃないか。
怖い。
俺はまだ生きていた。
青野椿が生きている限り。
嫌青野が死んでしまったとしても青野の痕跡がある限り生きていたい。
青野はそれくらい残してくれた。
「すみません。取りあえず立ち話もなんですし。何か食べましょう」
川島さんが添乗員のような朗らかさで歩き出す。
佐々木の言う通り川島さんに任せよう。
俺達は川島さんを挟んで並んで歩いた。
川島さんは背が高く百八十の俺とそう変わらなさそうだから百七十五はあるだろう。
美人さんは小柄って程でもないから百六十はありそうに見える。
多分青野と同じくらい。
「ここのとんかつ食べようって言ってたんですけど、青柳さんとんかつ大丈夫ですか?」
少し歩いたところにある「とんかつ」とシンプルな看板を掲げた店の前で川島さんが立ち止まり言う。
俺は何を食べてもいいし、腹もすいていたのではいと言った。
美人は何も言わなかった。
ただ背中に美しい気配だけがあった。
それは思ってたよりもずっと穏やかで夕凪の様だった。