これから
さて朝早くから勢いよく彦根に来たのはいいものの、考えてみたら彼女の住所も知らないのだ。
駅の近くだと言ってはいたが、近くっていっても結構広い。
ここからどうやって彼女にたどり着くのか。
それにしても寒い。
彦根寒い。
黒いダウンにグレーのマフラーと防寒は完璧だったがそれでも風が強く冬の寒さが身に染みる。
ここから彼女を探し出さねばならないが、さてどうしよう。
というよりこれはストーカーに当たるのだろうか。
取りあえず歩こう。
歩いたら何か思いつくかもしれない。
俺は駅の周辺を手当たり次第に歩くが彼女の面影すら見つけられなかった。
俺は朝着いたときに駅前の定食屋で見た近江牛丼を食おうと一旦駅に引き返す。
真っ直ぐに歩き信号を待つ。
信号を渡りながら平行する信号を渡ってくる彼女が見える。
「佐藤さん」
俺は走る。
走って走って、彼女の名を呼ぶ。
声には出てないけど身体は先に呼んでいる。
大きな声で何度も何度も。
美しい青。
彼女が振り返る。
聞こえたのだろうか。
九月の終わりに見た蜃気楼のように揺れる黒い瞳が俺を見出す。
「青柳さん」
何て力のない声だろう。
そんな声じゃ簡単に喧騒に埋もれてしまう。
「すみません。今、いいですか?」
「はい。あの、大丈夫ですか?走ってましたけど」
「はい。あっちから佐藤さん見えたので」
「私?あの、どうかされたんですか?」
「あの、佐藤さん」
「はい」
「貴方が好きです」
俺は彼女の揺らめく瞳をしっかりと見た。
絶対に目を逸らすまい。
瞳ぐいらいしっかり見れなくてどうする。
この世に存在する彼女の過去現在未来全てを欲しいと言おうとしているのに。
「佐藤さんが好きです。俺自分に自信なくて佐藤さんは俺のこと真剣に考えててくれてたのに俺逃げました。本気で結婚してもらえるなんて思っちゃいけないって。あの時佐藤さんのこと顔が好きなだけだと思ってたし、そんな人間が佐藤さんを幸せにできるはずないし。佐藤さんは真面目で、ちょっと可笑しいくらい真面目ですよね。アニメあんなに一話ごとに何か見つけて感想くれたのオタクの友達でもあんまりいないですよ。最終回の上坂君のしおんを呼ぶシーンの声の柔らかさにも気づいてくれて、青野の声から主人公とどれだけ会いたかったか伝わってきたって言ってくれましたよね。青野のラジオも聞いてくれて、一生懸命レを理解しようとしてくれていたのに、俺、俺」
「青柳さん、あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。言いたいことまだあります」
「あの、そうじゃなくて、青野さん、あの、引退されるって」
「はい。そうですね」
「あの、いいんですか?」
「いいも悪いも、俺に青野の人生に決定権なんかありません。与えてもらってただけです。何もできません」
「でも、あんなに一生懸命・・・」
「全然ショックじゃなかったんです。自分でも驚くくらい冷静で。もう多分あの日からずっと俺の中に青野はいなかったんです。いましたけどいなかったんです」
「あの、私・・・」
「すみません勝手なことばかり言って、でも俺は青野のいない世界はもう耐えられます。でも佐藤さんのいない世界、佐藤さんが傍にいない世界はもう耐えられないんです」
彼女の瞳から透明な雫が零れだす。
その温度まで伝わってきそうだ。
絶えず音楽が流れる。
喧しいけどこの音が欲しい。
静寂な世界とはもうお別れだ。
痛くても苦しくてもそれでもここにいたい。
「私、あの日、ショックだったんです。偽装結婚って言われて。だって私は普通に青柳さんと付き合えるんじゃないかって思っていたんです。青野さんのこと抜きにしたら一番私が青柳さんに近いかなって。私人を好きになったことなくて。ずっと怖くて。アイドルとか漫画のキャラクターを好きになったことすらなくて、いいと思ったことすらなくて、自分は思っている以上に冷酷で思いやりのない人間じゃないのかなって。一生誰のことも好きになれないままずっと一人なのかなって。自分のことだけが好きなのかなって、空っぽな人間だなって。青柳さんをいいなと思ったのは淡々と食べてたからなんです。淡々と何でもないかのように表情には決して出さずに。私は大げさだからそういうのいいなって思ったんです。本当にいつでも何にも感じてないような顔してるのがいいなって。痛みすら感じてないかのように」
「そんなとこ、ですか?」
「そんなとこです。それに今会いに来てくれた」
「今?」
「もう会えないだろうなって思ってたんです。私から誘わなかったら一度も会えなかったし。もうしょうがないなって思ってたのに、会いに来てくれた。今私も貴方が好きだとわかりました。貴方が好きです。青柳さん」
彼女がそうっと俺の黒いダウンの左袖を掴む。
同じような黒い彼女のダウンコートと触れ合いもうどちらのものかわからない。
「俺佐藤さんに聞いて欲しい話いっぱいあるんです」
「私もです」
「聞きたいこともあります。何で最初家で揚げ物揚げるかって聞いたのかとか」
彼女が笑った。
もう何の境界線もない。
躊躇いもない。
清々しいまでの新しい世界。
「覚えてたんですか。あれは家のお母さんお料理は好きなんですけど揚げ物だけは後片付けが面倒だって言ってお家で揚げないんですね。コロッケも天ぷらもエビフライもから揚げもいつも買ってくるんです。だからお婆ちゃんの家に行った時しかお家の揚げ物食べれなかったんです。買ってきたのとお家の味って違うじゃないですか。友達のお家が羨ましくて、中学に入るとどうしても食べたくて自分で揚げるようになったんですけど」
「そういうことですか」
「はい。つまらない話ですけど」
「そういうことなら家は大丈夫です。母も祖母も揚げ物好きでしょっちゅうやるので」
「それって、その、いいんですか?」
「はい。良かったら今度家で揚げ物食べまくりましょう」
彼女はコロコロとどんぐり飴を口の中で転がすように笑う。
もう何も隔てるものなどない。
俺達に本当は最初から距離なんかなかった。
「年が明けたら、ですね」
「そうですね。もう今年終わりますね」
「明日お誕生日でしたね。明日も会えます?」
「今日佐藤さん見つからなかったら一泊する予定だったので」
「じゃあ、今日ずっと一緒にいられます?」
「そうですね。大丈夫です」
「ずっとですよ。あの、明日の朝、まで」
「はい」
「お家に今日帰らないってメールしますね」
「はい。あのご挨拶とかいいですか?」
「お正月明けがいいです。今日は二人きりで、その浸りたいです。恋人同士になったのを。今嬉しすぎてどうにかなっちゃいそうなので顔見せられないです。恥ずかしくて」
「俺もです」
二人で笑った。
後何日かしたら俺達は互いの家族に紹介しあうのだろう。
何という展開の速さ。
好きになるのは一瞬だ。
好きと言ってしまえば身体から出て行くのかと思いきやそうではない。
溢れて溢れてまだ止めどなく溢れていく。
終わりなんかない。
ずっとあっていいんだ。
彼女が携帯を鞄にしまい俺の左手取る。
「お昼まだですよね。何か食べましょう?」
「はい。何食べます?」
「何でもいいです。寧ろ何も食べなくてもいいかも」
「何ですか、それ」
「お腹いっぱいです。しばらく何も食べなくていいくらい」
「食べましょうよ。俺はお腹ペコペコです」
信号が青に変わり俺達は歩き出す。
「最初穂乃果に言われたんですよ。私が会いたいって言った人青柳さんて言って結婚したら青柳美青で青と青に挟まれちゃうよって」
「俺も佐々木に言われましたよ。オセロならひっくり返せるって」
「オセロですか、そう言われたらそうですね」
「そういえばずっと気になっていたんですけど、どうして俺と会ってみようと思ったんですか?写真見てって佐々木は言ってたんですけど」
「あー、ええと」
彼女が携帯の写真を見せる。
そんなに時間はたっていないはずなのに随分古ぼけて見える自分の写真。
彼女が写真を拡大する。
テーブルにはチキン南蛮。
互いの吐息が冬の白い空に溶ける。
笑顔と共に。
「じゃあ、揚げ物でも食べますか?」
喜ぶと思ったが彼女は頬を膨らませそうな顔をして見せた。
「食べるのはいいです。食べだしたらそっちに意識いっちゃうから。もっと喋りたいです」
「時間はいくらでもありますよ」
「それでも話し足りないです。ずっと会えなかったんですよ。私大分声優さんに詳しくなったんです。上坂さんと白川さんのラジオに青野さんが出てから毎週聞くようになったし。ゲームも始めたんですよ。アニメもいっぱい見たんです。だから話すこといっぱいあります」
「本当に真面目ですね」
「嫌ですか?」
「まさか。そんなの嬉しいに決まっています。でも取りあえず何か食べましょう。いくらでも話せますから。これからはもうずっと」
赤信号で立ち止まると彼女は俺の左手を両手で包み込んだ。
これほど他人の体温が心地いいとは知らなかった。
食事の時離さなきゃならないとは何て勿体ない。
「はい」
俺達は歩き出す。
一歩一歩、二人並んで。
この先死が二人を隔てたとしても俺の全ては彼女の、佐藤美青のものなんだ。
ここがゴールなんかじゃない。
これからすべてが始まるんだ。
でも一人じゃない。
音楽は止まない。
望んだ世界はまだ始まったばかり。
これから二人で色付けしていく。
まずは空の青から世界の果てまで。
どんな世界になったとしても二人一緒なら乗り越えられる。
毎日お喋りして同じものを食べて同じ時を刻む。
これからはずっと。
いつまでもいつまでも。




