青野椿
俺は実家暮らしだ。
職場へは電車で三駅。
駅から自宅までは二十分ほど。
家に帰ると祖母と母がいて毎月食費を入れるだけで毎日朝晩の食事は母親が用意してくれるし、洗濯もしてくれる。
部屋の掃除は自分でするし、祖母は八十五だがまだまだ元気で介護の心配もない。
母親もパートだがまだ働いているので父が亡くなっていても俺が一家の大黒柱として家計を支えると言うこともない。
よって俺の給料のほとんどは俺の自由だ。
休みの日いつまで寝てるんだとか、どっか連れてけという面倒なことを言いだす存在は俺の生活圏に存在しない。
俺は今恐らく人生で一番楽しい時期なんじゃないかと思う。
お金の心配はしなくていい。
家事もしなくていい。
俺の部屋に面長で美人とは言えない微妙に若いわけでもないスタイルがいいわけでもない女性の等身大ポスターが貼ってあっても俺の家族は何も言わない。
職場でもそうだ。
佐々木が例外なだけで基本的に俺のいる部署は全員が俺と一緒だ。
構われたくない。
時間が来たら帰りたい。
おかげで煩わしい人間関係がない。
そうだ、俺は今の生活に満足している。
決して彼女が欲しいなんて高望みをしたことなどない。
なのに、何でだ?
佐々木の話では彼女の方から俺を紹介してくれと言ったらしい。
新手の結婚詐欺だろうか。
まあ、引っかからない自信はある。
俺は誰にも興味なんかない。
青野椿以外。
青野椿とは日本の女性声優、ナレーター。
2030年九月三十日生まれ。
青山プロダクション所属。
京都府出身。
身長百六十三センチ。
血液型AB型。
高校時代から青山プロダクションの声優養成所に通う。
2047年十月放送の「新しい正解」の月川花音役でアニメデビュー。
2048年一月放送の「放課後アサシン」でアニメ初主演。
2048年四月放送の「いつも貴方のために歌っていた」の劇中にて結成されたユニット「アルストロメリア」のキャラソンが高く評価される。
幼女から成人女性、活発な主人公キャラからミステリアスな物語の鍵となるような少女、憧れのお姉さんキャラと演技の幅には定評がある。
あだ名はバッキー。
2054年一般男性と結婚したことが所属事務所より発表。
特に訂正するところはないが、歌唱力の高さには定評があるも付け足してほしいし、何事も一生懸命で後輩思いな性格で慕われているも付け足してほしい。
事務所の後輩の羽田千佳がゲームのイベントの罰ゲームでモノマネをやらなきゃならなくなった時泣き出してしまい微妙な空気になったとき当時流行っていたピンポン助六のモノマネをして場を和ませたエピソードとか、これも又ラジオの公開録音で大先輩である男性声優が仲のいい声優の織田香織に下品な下ネタを振ったとき当時流行っていた女性芸人のモノマネで後輩を救ったエピソードとか。
列挙したらきりがない。
いつだって青野は自分を犠牲にして誰かを救うのだ。
そう言うところが好きなんだ。
俺にお金を払わせてくれと叫ばせるのだ。
青野椿の存在に感謝を捧げるために。
あと今現存する日本の女性声優で一番演技が上手いも。
あと事務所の大先輩であり憧れの声優水原佐知とデュエットが決まったときには余りの嬉しさに腰を抜かし号泣したエピソードも追加で。
このページにいつか産休による休業が所属事務所により発表と書き込まれるかと思うとぞっとする。
俺の目下の悩みはそんなもんで、生まれてから今まで彼女がいないとか、人を好きになったことがないとかそんなことは気にしたことはなかった。
自力結婚できなくても国が何とかしてくれる。
俺の七歳上の姉がそうだ。
姉は俺同様地味な容姿だが、俺と違って愛想はいいし、友達もいたからまあ普通に自力結婚するだろうと思っていた。
だが高校、大学、就職と時間だけは無情に過ぎていき、姉はとうとう二十五歳になり結婚相談所に登録されてしまった。
両親と祖母は心配したが広島に嫁いだ姉は一年も経てば双子の男の子を生み、広島カープファンの旦那さんとそこそこ上手くやっている。
この間のお盆で帰って来た時も今年のドラフトの話を夫婦でしていた。
今年の高校生は不作だから社会人の即戦力のピッチャーの指名と恐らく数年後には手薄になるであろう内野手を取ることを相談していた。
家は死んだ父を入れてもスポーツというものが好きな人間はなく、姉は野球中継など見たこともなかったはずだったが、俺は今年姉は本当に嫁いだのだと、野球中継を見ながら選手の応援歌を歌い、コロッケに齧り付く双子を見ながら実感した。
双子は旦那さんよりどちらかというと姉に似ていたからだ。
双子は俺に八月現在個人タイトルが狙えそうな選手の名前を教えてくれた。
田中と鈴木と中村。
何処にでもいる名前だ。
恐らく全球団いるだろう。
でもまあ年末まで覚えておく。
義兄は今年カープは指名しないけど、近江高のピッチャーはドラフトどっかは指名するよと俺に言った。
どうしろと?
双子はホームランが出ると俺に「これね、一本で点が入るんだよ」といくら俺でも知ってるわと言いたくなるようなことを言う。
アニメやゲームの話ならいくらでもしてやれるのに。
まあ別にしたいわけじゃない。
俺は誰かと感動を共有したいと言う欲求もない。
青野椿に関してもそうだ。
俺は他者の青野椿像というものを知りたくない。
だから青野椿のファン仲間というものもいない。
イベントはいつもぼっち参戦。
でもこれがいい。
学校じゃないんだからいつだって一人がいい。
だから彼女なんていらない。
俺が青野椿に没頭できる理想的な環境が整っている。
この生活をずっと続けたい。
俺は十二月生まれだから後少し猶予がある。
それまでは産休に入らないでくれ、青野椿。