その人
松尾芭蕉の銅像に並ぶようにその人は立っていた。
頬を微かに緩め手を振ってくれる。
その手はうぬぼれでもなく待ち合わせしているのだから間違いなく俺に向けられたもの。
美人というのは不思議なもので手まで美しくできているのだ。
完成度が高すぎてこんな至高の芸術品を突っ立たせているのかと思うと余りの勿体なさに全力疾走したくなる。
そんな俺をあざ笑うかのようにパトロールAIの集団がパシュートの選手の様に俺と芭蕉像と美人の間を遮る様に駆け抜けていく。
美人はそんなパトロールAIの集団を幼稚園児の集団を見る様な慈愛に満ちた眼差しで見つめている。
パトロールAIの集団が完全に見えなくなると俺は一歩一歩確かめる様に足を動かす。
美人の視線が俺に向かってくる。
俺だけに向かってくる。
彼女の視界にはもう俺しかいない。
「こんばんは、お仕事お疲れ様です」
「いえ、疲れてないです。デスクワークなので」
「それでもしんどいですよ。すみません。無理言って」
「いえ、そんな、全然」
「あの、本当にご迷惑じゃないですか?」
「迷惑じゃないです。あの、俺も楽しみにしてました」
「本当ですか?」
「はい、本当です」
「良かった。私此処行ってみたくて」
美人は携帯の画面を俺に見せた。
土鍋でぐつぐつ煮込まれた美味しそうなカレーうどんが写っている。
「カレーうどんですか?」
「はい、あ、ひょっとして嫌いですか?カレーうどん」
「いえ、大好きです」
「本当ですか?」
「はい、本当に」
「じゃあ、行きましょう。駅から徒歩十分です」
「はい」
俺達は並んで歩き出した。
カレーうどんとは、考えもしなかった。
何というか洒落た店ばかり調べたけど、考えたら初めて会った日もでっかいロースかつ重完食してたんだから、がっつり食べれるものが好きに決まってたな。
まあ、昼に食べたのはきつねうどんだし、カレーうどんは好きだから別にいい。
「すみません。昨日調べてたらここのカレーうどんがすごく美味しそうで」
「そうですか」
「もう楽しみで、楽しみで」
「それは良かったです」
「お仕事はスーツなんですね」
「会社員なので」
「そうですか」
「さっきの赤い髪のAI可愛かったですね」
「あー、夏葉ですね」
「夏葉って言うんですか」
「はい、夏葉ですね」
夏葉の声優は川口由美。
パトロールAIはどんどん進化していて、どんどん美少女になっていく。
声優は基本的に新人声優がやり、青野のような売れている声優はやらなかったのだが、一昨年出てきた冬歌は青野と同期の桂木寧々が声を当てると言うので話題になっていた。
俺がAIを作りたかったのも不純な動機だが俺の作ったAIに青野が声を当ててくれないかと思ったからだ。
「可愛いですよね。近くで見ても人間と変わらないし」
「あー、そうですね」
「でも、ビーム出したりするんですよね」
「あー、そうですね。盗もうとする人間いたりしますからね」
「いますね。あれ、でも、凄い罪になるんですよね確か」
「殺人罪と同じ扱いらしいですね。まあ作るの大変ですから」
「そうですね。でも夜遅くなっても怖くないので有り難いです」
「お家駅から遠いんですか?」
「いえ、近いです。十分くらい。ここですね」
美人が心底嬉しそうに俺を見た。
まるでヘンゼルとグレーテルがお菓子の家を見つけたように、カレーうどんの看板を無邪気な瞳で見つめている。
「青柳さん、入りましょう」
「はい」
引き戸が彼女を夢の世界に誘うように音を立てる。
もし夢だとしても暫く覚めなくてもいいな。
此処に青野はいないから本当に暫く、ちょっとだけ。
微香が俺を擽り夢ではないことを告げる。
席に着き、向かい合った月に帰ってしまったといわれても驚かない美人が言う。
星さえも恥ずかしがり息をひそめるような笑顔で。
美味しそうですね、と。
俺は「はい」と一言だけ返しメニューを広げる。
食い物に集中しないと美という絶対的な圧に負けて何でもイエスと言ってしまいそうな強制力があり危ないと思った。
人に強制的に首を縦に振らす能力。
「私今日真っ黒な服着てきたんです。カレー飛んでもいいように」
確かに彼女は黒いフリルの半袖のブラウスを着ていた。
露わになった腕はその白さと細さに拍手を送りたいくらいだった。
でも俺は可笑しくて笑いそうだった。
こんな美人がカレーうどん食べたさにいそいそと三十分以上も電車に乗って、シミになっても目立たないように黒い服を着て。
「美味しいといいですね」
俺は心からそう思った。
彼女が美味しいと思うといいと思い、思わず祈る。
「美味しいに決まってますよ。カレーうどんですもん」
何だそれ。
彼女はどうやら全幅の信頼をカレーうどんに抱いているらしい。
何て可笑しな人だろう。
でもその瞳が揺らぐことがないといいと思う。
どうか、美味しいカレーうどんでありますように。
彼女が今日来て良かったと思えるくらい、彼女がもう一度食べたいと思えるくらいに。




