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終章「祈り」

 電話がなっている。まつりが取ると調査総務課の女性がやや早口で答えた。

『東京税関第三部検察の新浜(にいはま)さんから、熊ケ谷課長にお電話です』

「……はい。――熊ケ谷さん、税関の新浜さんから外線です」

 マトリは本来相手の名前は決して言わない。

 隣接している取調室や保護室にいる被疑者に聞かれないためだ。万が一、エスの名前を知られてスパイだとわかった場合、エスにも自分たちにも火の粉が降りかかる。

 エスからの電話や情報提供の電話でもそうだ。万が一、スパイに感づかれてかけさせられているときや、怪しんでかけてくるときもある。そのため、電話の第一声までは用心していることが多く、自分からも名乗ることはない。

 だからだろう。熊ケ谷も税関からだとわかり、安心した様子だった。

「ええ。グラム数は? そうですか。……厳しいでしょうね」

 しばらく相手と会話をした後、熊ケ谷は受話器を置いた。

CDシーディーですか?」

 久住の問いに熊ケ谷は「いいや」と否定した。

「バックに何かついているとは思えない。税関で押さえてもらう」

 CD――コントロール・デリバリー捜査のことだ。税関は逮捕権を持たないため、こういうときは警察かマトリの手を借りることになる。

 その際、何らかの大きな取引が絡むと推測する場合にのみ、わざと税関を通過させ「泳がせる」のだ。そして現場を取り押さえる。だが今回は違うらしい。

「何グラムっすか?」

「二十五グラムだ」

「確かに、ギリ暴力団絡みではなさそうですね」

 売るとしたら少ない。ただ、個人が密輸するには少し多い微妙な量だ。

「五月八日に成田に着くから、その時に会議にいくよ。氷田。電話ありがとう。ところで――時間は大丈夫か?」

 まつりは左手首に光る時計を見てぎょっとした。

「すみません、熊ケ谷さん。新人さん迎えに行ってきます」

「お、やば。俺も行かなくちゃだな」

 久住は書類を丁寧にファイルに挟むと立ちあがる。

「ああ。早く気がつかなくてすまない。頼んだよ」

 いつも通りの優しい声に頷いて、まつりは椅子にかけていたローズグレーのジャケットを手にして、立ち上がる。

 急いで事務所を出ると、大きな影と衝突した。思ったより厚い胸板に弾かれそうになるが、優しく抱き留められた。

「相変わらず忙しそうですね」

 くすりと笑われて顔を上げる。白衣を着た玲央に、まつりは笑顔を咲かせた。

「五条さん、お久しぶりです!」

「鑑識課に来てくだされば、いつでもお会いできるのに。マツリが私を避けているのかと思いましたよ。いつも明と、かちょ……熊ケ谷課長だけですから」

 昔のクセで課長と呼びかけたのを、玲央は律儀にも言い直した。

 罪を償い辞職すると言っていたが、数々の捜査協力が評価されて上が引き留めた。麻耶が辞め、人手が足りなくなった鑑識課に移動したのが三カ月前だ。

 というのは建前で、実際はリルの件が漏れぬようにこれからも監視をしたいということだろう。捜査一課よりも女性が多い場で、幸せに働いているようだ。だが、彼に癒えぬ傷があるのは知っている。それでも最近は雰囲気が明るくなった気がした。

 いま、一課にいるのは熊ケ谷、久住、まつりと――今から迎えに行く人手不足のために採用した新人。その指導係にはまつりと、補佐に久住がつくことになった。

「急げお嬢、遅刻だぞ!」

「わかってますー!」

 滑り込むようにエレベーターに乗った。下りて警備員に挨拶をしていると、受付前で直立している女性がいる。緊張した面持ちの彼女に話しかけた。

「えっと……加苅(かがり)さん?」

「は、はい!」

 おそるおそる返事をして、彼女がこちらを見る。同世代の若い女性とイケメンという組み合わせに驚いたらしく少し呆けて固まっている。

「あなたの指導係を務めます、氷田まつりと……」

「補佐の久住」

 持ち前の人見知りを発揮し、ぶっきらぼうに言う久住に苦い笑いを向ける。

(……ほんとは一番おしゃべりなのになあ)

 早く慣れてくれることを願うだけだ。

 女性は怯えたような目で久住と、そしてまつりを見る。

加苅由紀(かがりゆき)です。よろしくお願い申し上げます」

 硬い表情のまま彼女が丁寧に頭を下げる。

「まずは庁舎から案内するね。私たちは第三合同庁舎。受付挟んで向こう側は千代田区役所の本庁舎。これを首に下げてね。でないと、エレベーター前で警備員に止められるから」

「忘れたら十階の食堂とでも言っとけ。食堂と図書館は一般開放もしてるからそれで上がれる」

「うちはその上の十七階なの」

 ついてきて、というと彼女は緊張で固い四肢を必死に動かして歩く。

 エレベーターの中で階数の図を見ながら説明をしていると、あっという間に一七階に到着する。

「降りたら左手の扉に入ると近いの。目の前が捜査企画情報課。そのまま通路を右に進むと、私たちの事務所があるんだけど」

 扉を開けると、すうっと彼女が大きく息を吸い込むのが分かった。

「……緊張してる?」

 加苅は委縮したまま何度も頷いた。

「あの、熊ケ谷課長にもお伝えしたんですが。自分がマトリに受かったなんて信じられなくて」

「熊ケ谷さんはなんて?」

 えっと、と彼女は自身がなさそうな顔で言った。

「君は大丈夫だ。マトリにとって一番大切なものを持っている、っておっしゃってました。あの、一番大切なものってなんですか?」

 熊ケ谷らしい答えだ。きっと久住もそう思っているだろう。まつりはある人物の顔が頭に浮かび、自然に笑みがこぼれた。

「大切な人を守ろうとする意志があるか、かな?」

 意外そうに加苅は目を大きくした。

「この仕事は人の闇と向き合う。けど、それに引きずり込まれちゃだめ。その人を守るという強い意志で、あなたが信じる正義を選ぶ。それが私たちの仕事。辛い仕事だけれど、この仕事を選んだ加苅さんの、いまの気持ちを忘れないで」

「……わかりました」

 まだ少し不安そうだが、声にはしっかりと芯がある。まつりは笑って、「案内するね」と事務所まで連れて行った。

「熊ケ谷さん戻りました」

「ああ、ご苦労だった」

 まつりが席に案内しようとすると、彼女は事務所の前で立ち止まり、そしてなぜか敬礼をする。そして、事務所全体に響き渡るように声を張った。

「失礼します! 今日から職務に勤めさせていただきます! 加苅由紀です! よろしくお願いします!」

 熊ケ谷は彼女の緊張を感じ取ると、ふっといつも通り笑った。

「敬礼はしなくていい。よろしく、加苅」

「きょ、恐縮です!」

 笑みを向けられて、さらに緊張したらしい。

 あまりの初々しさにまつりも少し笑ってしまった。

(私、こんな感じじゃなかったな。わりと冷静だった気がする)

 指導係だった妃早よりも、久住にこきを使われていて毎日死ぬ気で働いていたせいだろうか。最初の頃の記憶はほぼ忘れている。思い出したくない記憶として封印しているのだろう。

「久住、氷田は大丈夫だったか」

 熊ケ谷は久住に声をかけた。杞憂を吹き飛ばすように、久住は力強く頷く。

「一人前になるもんですね。説明も上手いし、仕事が丁寧だから麻薬撲滅のキャンペーンなんかはもうメインで任せてもよさそうです」

 安心したように息を吐く熊ケ谷に、久住は少しだけ意地悪に突っ込んだ。

「熊ケ谷さんも嬉しいでしょう。氷田に関してはだいぶ上に掛け合ったらしいし、過保護にしてますから」

 痛いところを突かれたというように、熊ケ谷が眉尻を下げる。

「彼女は佐久真にかなり詳しい。手元に置いておいたほうがいいと判断した。実親に関しても法律上そうでないのなら、氷田に落ち度はないからな」

「本当にそれだけですか?」

「大事には思っているよ。一人前になるのは嬉しいが、少し寂しいかもな」

 それは部下としてなのか、どうなのか。

 気にはなるが、隙のない受け答えに、これ以上は問い詰めるのは難しい。久住はあっさり退いた。

「そうっすか」

 それだけ言うと、自分の椅子に腰を下ろした。

 まつりは新人に、以前、自分が座っていた席につかせると、隣の――妃早が座っていた席に腰を下ろした。必然的に正面に久住が座ることになる。

 久住はにやにやしながらまつりに小声で告げた。

「相手は手ごわいぞ。恋愛経験値が低いお前にはどうかなー」

 どうやら気持ちが筒抜けだったらしい。からかうようなニュアンスを含んだにやつきに、まつりも笑って返す。

「頑張りますよ。未来なんてわからないですし、乗り越えてみせますとも」

 久住がまた小言を言う。うるさいな、と思っているとふとポケットに入れていた携帯が震えた。

(妃早さんだ)

 近畿での引っ越し作業のため一日有休を貰ったのだそうだ。

 兵庫の川沿いの遅咲きの綺麗な桜の写真と「あなたと見たかったわ」という素直な言葉が添えられている。

「なんだよ、にやついて気持ち悪ぃな」

 自然に頬が緩んでしまった。心底ぞっとしたような久住の視線に、まつりは「秘密です」と答え、もう一度妃早からのメールを見る。

 いつかは、このメールが途絶えるときもくるのだろうか。妃早に、まつりより大事な人ができてしまうこともあるのだろうか。

「もう桜も終わりだな」

 床に落ちている桜の花びらを見て熊ケ谷が呟いた。

 加苅がどこからか連れてきたらしい。

 綺麗好きの久住は少し嫌そうな顔をして、それを取りに言った。

「そうっすね」

 花びらを掴み掌にのせると、久住は熊ケ谷の後ろに回り、窓を開けた。

 花粉症のせいで、くしゅんっと可愛いくしゃみをして、鼻をすすった。

 毎年恒例だが、似合わないくしゃみだ。熊ケ谷とまつりだけではなく、加苅も笑みを堪えていた。

「変わらないな、お前のくしゃみ」

「人は急に変われません。って熊ケ谷さん、くしゃみにまでいちゃもんつけないでくださいよ」

 以前、熊ケ谷と行ったバーで言われたセリフを思い出す。

『でも、たしかに言えることは五年前の自分では無理だったことができるようになった。俺は――それでいいと思う』

 失くしてしまったものは、戻らない。

 しおりや両親とも二度と会うことはないだろう。けれど、次にそういうことがあったときには、少しでも強くなっていられるように踏ん張るしかない。

 不意に襲う心の痛みに耐えながら、窓に佇む久住に目を向ける。

 久住が手のひらからこぼした桜の花びらは、強風に攫われてひらりひらりとどこかへ飛んでいく。それを見届けて、久住は窓を閉めた。

 まつりは窓から差し込む温かな光に目を細めた。

(落ち着いたら会いに行こうかな)

 大切なものを失くさないように、大事なこのときを守れるように。

 いま何ができるだろうか。

「今度、会いに行くから。桜、一緒に見ましょう」と返信してみようか。

 祈りながら時計を一度見た。

 そんなはずがないのに――妃早が微笑んでくれているような気がして、まつりも笑った。  

とあるシリーズ、サイコパス……普通に見えて、何かを無効化する能力を持つ主人公が好きでした。

私がやりたいことを模索している時、マトリの話をテレビでやっていて。

現代で、マトリで――とするする話の構想が出来上がりました。

お仕事ものでも、百合ものとしても、そして何よりヒューマンドラマとして、たくさんの人の活力になるようなお話を作りたいなあと思ってこの作品を書きました。

たくさんの方に届く作品になりますように。

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