第五章「虹」
ぽつり。
冷たいものが頬に落ちてきて、空を見上げる。曇天は今にも泣きだしそうなほど膨らんでいて、この地域の空一体をくすんだ色に染め上げている。
まつりたちが到着する前に、すでに組対が着いていたようだった。険しい表情で死体を見下ろしていた四ツ原が、熊ケ谷を呼び止める。
「クマか……何でここに来た」
「ガイシャはちょうど、別件で追わせていた売人です。そもそも、第一発見者はうちの久住です」
雨は本降りになり、雨粒が勢いよく降り注ぐ。
四ツ原は一瞬気にしたように上を向いて、それから熊ケ谷に視線を戻した。
「お前たちの領分じゃねぇだろ。殺人だぞ。こっちも一課と合同で捜査するつもりだ」
やや強引に入ろうとした熊ケ谷を、四ツ原が肩を掴んで止める。
濡れるのも気にせずに、熊ケ谷が目を尖らせて四ツ原を睨み返す。
見えない火花が散っているようだった。
息が詰まるような空気に、はらはらしていたまつりに、聞きなれたため息が届く。
それと同時に、傘が差し出された。
「落ち着け。お嬢が焦ってもなんにもなんねえよ」
湿気を吸った髪の毛が鬱陶しくて、まつりは手で髪を整えながら傘の持ち主を見た。
「久住さん! 容疑は晴れたんですか?」
「そもそも疑われてねぇよ! 熊ケ谷さんの指示で動いていたら死体発見したってだけなんだ!」
とはいえ、状況などの聴取はされただろう。
苛立っているのかいつもよりも声が大きい。手で耳栓をして、まつりは熊ケ谷と四ツ原を見る。
「お嬢、傘、全員分買ってある。渡してこい」
久住に傘を手渡され、まつりが熊ケ谷と四ツ原に傘を持っていく。
二人の様子をよく見れば、四ツ原は怒ってはいない。むしろ嬉しそうな顔をしていた。
「クマ。その目、変わってねぇな。また殴られるかと思った」
「殴りませんよ」
どうだか、と笑いながら熊ケ谷に話す四ツ原の口調は柔らかい。
「あの、前から思ってたんですけど。お二人ってもともと知り合いなんですか?」
受け取った傘を開いていた熊ケ谷が、慌てたようにこちらを見る。
「氷田――余計な私語は」
「お知り合いだ。クマと俺は新潟から、な」
にこにこと笑う四ツ原に、熊ケ谷はばつが悪そうに目を逸らす。
「こいつが代々大臣・官僚やらを輩出してる政治家の息子だって知ってるか? こいつそれが嫌で昔は大暴れ。新潟の暴れ熊なんて呼ばれててさ」
「やめてくれ」
赤面した熊ケ谷が四ツ原との距離を詰める。
穏やかで優しいイメージだったが、どうやら昔は違ったらしい。
「だからこいつもキャリア官僚になる予定で、そのために勉強もしてたんだぜ。法務省の親父さんに反対してなぜかマトリに……天下の熊ケ谷一族が泣くよ」
頭を押さえた熊ケ谷が、まつりの様子をのぞき見た。
真っ赤なその顔が珍しくて、まつりもつい口元を緩める。
「ところでクマ、その売人だが何の線で追わせていた?」
「……はっぱだよ」
「なるほど、確かにこの男は黒詐欺で一儲けしたみたいだな。大麻の売買という名目で」
ギロリと四ツ原の視線が確認するように熊ケ谷と、そしてまつりに注がれる。緊張を感づかれぬよう、まつりは努めて普通の様子でふるまった。
シュガーはあくまで特別捜査枠。
もう未解決事件として扱われているこれを、いまさら一課が追っていたとなれば怪しまれるのは目に見えている。
シュガーがリルであったことを警察は知らない。知られれば、警察にとってよく捕り物がかぶる我々を追及するかっこうの材料になってしまう。これを知られるわけにはいかないのだ。
「嘘、ではなさそうだな。お前の嘘をつく時の癖がない」
「癖? なんだ、それは」
とぼけた熊ケ谷を、四ツ原は「言わねぇよ」と一言で切り捨てた。
熊ケ谷がこちらをちらりと見る。その目に、まつりも目で返した。四ツ原が続ける。
「ここからは俺たちの領分だ。手出しするな。特にお前んとこの狂犬坊や、よく注意しとけよ」
「四ツ原のおっちゃん。俺、目の前にいるんだから普通に注意してくれよ」
苦笑する久住に、四ツ原はため息で返す。
「梧原の件でお前の信用は地に落ちた。佐藤に感謝しろ。お前の代わりに俺に叱られたんだから」
久住は小さく息を呑んだ。思わぬ衝撃を受け、立ち尽くすのを見て、まつりは不安になった。
大丈夫ですか、と少し俯いた顔を心配して覗きこむ。
するとおでこに痛みが走った。デコピンをされたのだと、久住の指で気付いた。
「言えばいいじゃないですか。偶然撮れたんだって」
「そうしたら和美がマークされる。あいつは有益だ。ここで俺が怒られたほうが課のためになる」
なるほど、とまつりは感心した。
夜の世界の情報は信用ができないことも多いが、信用できる精通者を一人持てば有利だ。
「それにそこの、氷田だったか?」
「はい!」
突如四ツ原に名を呼ばれ、まつりの背筋が自然に伸びる。
「実家のことはあれだったが、こっちは笠洋会の寝床を一つ減らせた。実家にも関わらず、自分で摘発したのはさすがだ。辛いこともあるだろう。佐藤のときもそうだった」
ぬっと大きな手が伸びて、まつりは肩を竦める。
しかし、その手は頭をぽんぽんっと優しく叩いただけだった。
熊ケ谷の優しい手や、久住の不器用な手とも違う、仲間を労い、敬うような真摯さがある。
「佐藤のとき、俺は若造で何もできなかった。あいつがマトリ行きを決めたとき、クマに親父さんに頼んでもらうくらいしか……」
四ツ原の目が哀切に歪む。まつりは四ツ原のその苦しげな表情の理由に気付いた。彼は懺悔しているのだ。部下であった妃早の恋人がシュガーの中毒者とわかり、亡くなったとき。彼女は非難にさらされたことだろう。そのとき、できなかった罪滅ぼしを、まつりにするつもりだろうか。
「――ありがとう、ございます」
気付いたときには、その言葉が素直に出ていた。
向けられた柔らかな瞳には、まつりではなく傷ついた妃早が映っているのかもしれない。
「何かあったら遠慮なく頼れ」
「おい四ツ原のおっさん、なんか俺と態度違くないか?」
「まあそういうな久住、俺もお前と氷田だったら氷田に軍配が上がる」
「熊ケ谷さん、それは酷くないですか! 俺、課のエースなんですけど!」
「……普段の自分の行動・言動を見直してくれ」
渋い表情をした熊ケ谷に、久住はがっくりと肩を落とす。
「あー、なんか気がそげた。四ツ原のおっちゃん、俺もう帰ってもよい?」
「おう。大人しく家に帰っとけよ」
軽く手を挙げて立ち去ろうとした久住の後を、まつりは追いかける。
「久住さん、どこに行くんですか。熱くなってのめり込むタイプなのに。あっさり引き下がるのは、なんというか。らしくないです」
「……ほんと、お嬢のこういう勘は怖ぇな」
繕うような嘘は、彼はもう言わなかった。
「リルの情報を漏らした先がわかりそうなんだ。すべて熊ケ谷さんと玲央が話してくれた。きさだけだな、知らないのは」
妃早がシュガーについて冷静でいられないのは、この間佐久真に拉致されたときにわかっている。
厚労省に緘口令を布いた機密事項。なんだかんだ言っても、熊ケ谷は久住のことを信用している。
「俺も熊ケ谷さんも今回の柚木の逮捕には疑問が残ってる。マウスの購入歴、処分歴ともにない。なにより研究のデータが少なすぎる。わざと研究をしたことを示すようになってはいるけど――。今回の事件は、あんないい加減なデータじゃ辻褄が合わない」
久住は傘を器用に肩で支え、煙草を取り出して火をつけた。白い煙を吐き出して、何かを考えるようにぼんやりと遠くを見つめている。
「玲央のいた製薬会社の入社名簿をある経路で確認した。柚木の大学時代の先輩が八年前に入社し、彼女はシュガーがまかれる一年前まで、カスタムという東陽会が運営する闇金に借金をしていた」
まつりは目を見開いた。大きくなった瞳を、久住へ向ける。
つい最近聞いたばかりの事件であるはずだ。それなのに、もうそこまでたどり着いたのか。
捜査一課のエースは枕で情報を得ている。その噂の真偽はわからない。でも、そんな噂を否定したくなるほどの情熱と信念が彼にはある。
「東陽会は、笠洋会の四次団体。それを当時仕切っていたのは、現在は笠洋会の直系団体の若頭でもあり、三次団体在原組の組長でもある佐久真だ」
「連れて行ってください」
予測していた言葉だったのか、すかさず「駄目だ」という答えが返ってきた。不満げな顔をしたまつりを責めず、努めて優しい表情で彼は告げた。
「お前を佐久真に関わらせるわけには」
「佐久真さんを止めるのは、私の役目です。危険なんて、この仕事についた時点でいまさらです」
しっかりと目を見据える。気迫が伝わったのか、久住はどこか迷っているようだった。
あと一押しだ。まつりはそれに、と続ける。
「女性の部屋に一人で押し掛けるんですか? また変な噂流れますよ」
原則として女性の部屋に男性だけで伺うのは禁止だ。
まつりの言葉に、久住は不本意そうに頷いた。
「邪魔だけはするなよ」
「……はい!」
「あとこけるな、泥をはねるな。これ以上汚れたら、俺は……」
「……本当に綺麗好きなんですね」
呆れたような声に、久住は笑った。
空を見上げればまだ降ってはいるが、きっと今日中には晴れるだろう。雨の匂いを吸い込んで、まつりは歩き出した。
*
「帰ってください」
冷たい声で言われ、予想通りの反応でいまいちリアクションをとれなかった。
それもそうだろう。マトリだとは伏せたほうがよいという久住の判断で、詐欺事件の被害者の会という名目で接触した。カスタムから情報漏れが起きており、そこから探り当てたという体だ。
(怪しいうえに、結婚もしてるなら、いまさら掘り起こされたくないよね)
閑静な一軒家。落ち着いた、けれど冷たくはない温かさを感じる家だ。平穏な生活を送っているのが、最初にインターフォン越しで聞いた声でわかった。
「――この写真を見てください。この中に取り立てに来た人はいませんか?」
久住はどこからか入手した写真を見せた。門まで出てきた女性の顔から血の気が引く。
「知りません」
「……嘘をつかないでください」
「なんなんですか? あまりにしつこいと主人と警察に相談しますよ!」
くるりと踵を返して彼女が家の中へ逃げ込もうとする。それを見て、まつりの心がざわついた。
(幸せ、なの?)
玲央の悲しげな顔がふと、頭の中で蘇る。目の前の女性は自分の幸せを守ろうとしている。それは間違いではない。でも――手に入れた方法が間違っている以上、彼女には責任があるはずだ。
「すみません、待ってください!」
まつりは傘を捨て、彼女が閉めようとした門の内側に無理やり体を滑りこませる。
そして家へ入ろうとした彼女の手を掴んだ。
大人しそうなまつりがそうしたことに驚いて、女性も傘を落とした。
冷たい雨が打ち付けるなか、不安に怯える彼女の目がまつりに向けられる。
「あなたたち、なんなんですか。被害者の会じゃないですよね? 警察?」
訝しむような言葉に、まつりは何も言わずに掴んでいる手首に力をこめる。
「私の先輩は、あなたが情報を流した、リルを作っていました。いま、それが悪用されて、すごく苦しんでいます。一生をかけて償うって言ってるんです」
その言葉に彼女は一瞬呼吸を止めた。
そして――まつりに顔を向ける。深い後悔とショックが、震えた唇から見てとれた。
「それがどうしたの? 私にはもう……」
「あなたや家族は命を懸けて守ります。お願いです。どうか私の先輩を見捨てないでください! リルは誰かを喜ばせるための薬でした。こんなことに使われなかったはずなんです」
雨と涙でぐしゃぐしゃな頭と顔を、ゆっくりと下げた。背中を冷たい雨が容赦なくたたく。
雨音だけが、まつりに聞こえた。どれほどそうしていただろう。
まつりの背中から、ふと雨の殴打が消え去った。
顔を上げれば、久住が傘を差してくれている。そしてまつりの顔を見て真剣な表情で頷いた。無言で彼が傘を寄越す。手に取ると、彼はゆっくりと彼女の前で膝をついた。
あれほど汚れるのを嫌がっていたのに。
驚いて目が大きくなる。女性も同じように目を丸くして立っていた。
「俺からもお願いします。あなたも、あいつも、過ちを消すことはできない。でも、未来を奪わないでください。あなたが歩みはじめたように、あいつにも未来を歩んでほしい。その権利はもうあるのに、そのときから動けないんです。俺たちでは動かせない。あなたの力を貸してください!」
まつりがそうしたように、久住もゆっくりと頭を下げた。
彼が誰かに謝るところを、二年間同じ職場にいて初めて見た。ましてや土下座をするなんて――。
「……その人、なんて名前なんですか? リルを作った人。何人かいたから」
彼女の瞳にも涙が浮かんでいる。
まるで自分を責めているような、傷ついた瞳から堪えきれずに溢れだした。
「五条、と言います」
「五条さんか。そっか……私より、年下だったな。人懐っこくって、毎日残って、でも疲れた顔なんてしなくて――リルが市販されたとき、笑顔だったのに」
どこか納得したように、彼女は呟いた。
「結婚は?」
「え?」
「五条さん、あの時婚約してたと思って」
「……未婚です」
初耳だ。久住もびっくりしているようだった。
そっか、と一言漏らして。
女性はまつりと久住を見た。びしょ濡れの全身を見て、すみませんと悲し気に微笑む。
「お茶。飲みます? 中に入ってください。風邪をひいちゃう」
お話します、と一言添えて彼女は家の中へと招いた。その誘いにまつりと久住は顔を見合わせた。
中に入るため立ちあがった久住は、嫌そうにズボンの泥を気にしている。
そんな久住を見て、まつりは小さく笑んだ。
*
用意してくれた温かいお茶を口にして、まつりはほっと息をつく。
ありがたいことに風呂と着替えをと言われたが、それは固辞し、座ったときに汚れないようにと大きめのバスタオルを貸してもらった。久住は風呂を借りたそうだったが、我慢を決めたようだ。
久住が向けた視線の先には、沈んだ顔の女性がいる。
彼女はまだ口をつけていない久住のお茶を、どこか思いつめた顔で見ていた。
「すべて、お話します」
暗い表情でそう答えると、何かを思い起こすように「あの時」と呟いた。
「私は大学の研究職をしていました。でもお金があまり貰えなくて、奨学金を滞納してしまったんです。その後リルの会社の情報管理部に移りました。でも、初任給では滞納していたぶんの返済は難しくて――カスタムにお金を借りたんです」
いけないこととはわかっていた。でも手を出してしまう。追い詰められた人間は正常な判断ができなくなる。
「当たり前ですけど利息が高くて、払えなくて。その時、あの男が取引を持ち掛けたんです」
「あの男?」
「さっきの写真の、坊主で入れ墨があった人です」
まつりと久住はほぼ同時にお互いの顔を見た。入れ墨の男。先ほど死体として発見された男だ。
「私の会社の情報が漏れていて。すべてばらされてクビになったらどうしようって思ったら、怖くて警察にもいけませんでした。そして、リルの情報を売って欲しいって持ち掛けられました」
彼女は机の下でぐっと自分の拳を握っていた。
「迷いました。いまではなんてバカなことをって思います。でも、私の情報をリストから削除する。失敗作のデータをとっているだけだから。そう言われて、そんなことないってわかってたのに――私はその言葉を信じたふりをして、売りました」
本当にすみませんと女性は泣きそうな顔で頭を下げた。
「……顔を上げてください」
その言葉を発したのは久住だ。
許しを乞うように顔を上げた女性に、久住は静かな声で告げる。
「謝られても僕達は許す権利がない。でもあなたが、自分がしたことが許されないことだと思うのなら。裁判になったとき、いまのことを証言してくれませんか?」
「え……」
「不正競争防止法違反は親告罪です。あなたに被害が及ばぬようにはします。だから、もし五条が困っていたら助けてはくれませんか?」
「それで、いいんですか? 逮捕されたりとか訴えられたりとか……」
「あなたには大事な家族がいる。それを壊してまであなたを訴えても、国に何のメリットもない。それより、あなたのお子さんが立派に育ってくれたほうが有意義です」
八年前の漏洩をいまさら掘り起こして責め立てるより、大事なのは佐久真がシュガーに関わったという証拠を掴むこと。そして、あの入れ墨男がもし、佐久真に最近までついていたというのなら、この証言はいずれ重大な事実になる。
下を向いた彼女の目から落ちる大粒の涙が、スカートを濡らす。
「ごめんなさい。本当に、なんていえばいいか」
まつりと久住は何も言えずにいた。
やがて子どもたちが家に帰ってきて、彼女の涙が止まるのを見終えてから、そっと家を出た。
*
帰り道にまつりが四ツ原に電話をかけると、彼はすぐに出た。
何度もかけた久住が驚きの声をあげる。彼からの着信は無視していたようだ。
「あの、質問なんですけど」
「ああ。嬢ちゃんどうした?」
「――殺された入れ墨男って、佐久真の部下ですか?」
ピンポイントな質問に、答えるのを躊躇う間があった。
「そうだが。どうした?」
「いえ。それだけわかれば」
通話を切ろうとしたまつりを「待て」と四ツ原のほうが引き留める。
「嬢ちゃんの手に余る案件だ。退け」
「……嫌です」
「どうしてそこまで意固地になる? クマもだ。あいつも、この事件ではだいぶくらいついてくる。あいつは諦めや引き際ってもんを普段はよくわかっている。あんたらマトリがあの売人にそこまで躍起になる。この裏に何がある?」
どう答えればよいのだろう。迷うまつりを試すように、四ツ原はこちらから話すのを待っている。
「何があるのか、わかりません。でも、何かあるんです。そして、佐久真を捕まえるのは私でありたいと思っています」
「それは……どうしてだ?」
「佐久真は試しています。私はもう一人の自分のようなものだから、私がどうこの事件にケリをつけるのかを、試しているんです」
隣にいる久住がその意図に気付いて驚いた。
「シュガーはいたずらに改竄されているわけではありません。ゼロを改良して同時に与えてデータを盗っていただけです」
まつりの体から作られたゼロ――薬に酵素を入れ、一時的に中毒者の症状を緩和し、検査をクリアにする魔の薬。
それがもし、シュガーにも効いたのならばどうだろう。それを利用し、シュガーの中毒症状を緩和させていく。やがてシュガーの中毒症状が完璧になくなり、本来のダイエット薬とし完成させたのならば、どうだろうか。薬物の機能しかないシュガーを、国は裁くことはできない。
厚労省はシュガーの存在を認めるわけにはいかない。
だが向こうはリルのデータも所有している。おそらく自分が刑に処されたらそれが公表されるように、手を打っているだろう。
佐久真は試しているのだ。自分たちの過ちを認め、リルが失敗薬だと公表してでも国民をとり、自分を逮捕するのか。それとも、隠した上でシュガーをダイエット補助剤だと認めるのか――。
「私は、彼が次に何をするのかも見当がついています」
四ツ原が驚いたように「何?」と聞いた
「佐久真は、シュガーが完成次第、大きな実験をするでしょう。肥満の度合いが高い田舎町の水道水に、シュガーを混ぜる。そして長期間かけて、シュガーに問題性がないことを証明するんです」
まつりの予想に、久住も四ツ原も言葉を失くした。
「急がないと、大変なことになります。今回亡くなった人はおそらく長年シュガーを飲んできて、いま中毒症状が出たはずなんです。だから……もう完成は近い」
彼に攫われたときの様子を思い出す。あのときは、わからなかった。なぜ彼が川一つであんなに嬉しそうだったのか。そして、いまならわかる。彼は実験をしたくてたまらなかったのだ。
切羽詰まった声に、四ツ原が「わかった」とだけ告げた。
「クマにも伝えてくれ。今回も協力するぞ、くそったれってな」
まつりは静かに小さな顎を引く。頷いて電話を切ったまつりは次の算段を考える。
そんなまつりの肩を久住は掴んで振り向かせた。
「お嬢、気をつけろよ。お前が佐久真と同じとは思わない。近いところにいるのは知っているけど……もし、そっち側にいきそうになったら俺が止める。お前は背負い込まなくていい。忘れるな」
はっきりと言ってくれた久住に、まつりは静かに首肯した。
「はい、私も気を付けます」
微妙に視線を逸らしたまつりを、久住はどう捉えただろう。
まつりは迷っている。今も昔も。
自分は、ここに居て良いのか。あの手帳の、清らかなる光を手にして良いのか。佐久真の考えを一番理解し、そしてだからこそ彼をここまで歪ませてしまった。
(ああそうか)
何のために、こんなに佐久真に固執しているのか、まつりもわかってきた。
これは正義ではなく、贖罪だ。
まつりはネックレスを思い出した。姉はわかっていたのかもしれない。たくさんの人を救うことなどできないのだと。あくまでこれはまつりの罪滅ぼしなのだと。
生まれたことに罪があるというのは、確かキリスト教の考えだ。罪は、まつりの命にしがみつき、絡まっている。その罪が決して剝がれないかのように。まつりの罪は一生を懸けても取れない。
その罪はこんなにも強く絡んで、剥がれない。どれだけの人の命を救おうと、けっして――。
泣きたい衝動を堪え、喉を詰まらせたまつりを久住は優しい声で諭した。
「お嬢がもし自分のことを悩んでいるなら、ばかだぜ。玲央、感謝してた。まだ玲央の手は人を救えるのに、自分を責めても何の贖罪にもならないって。その言葉でだいぶ救われたって」
久住の言葉で、そう言ったことを思い出す。まつりの目に熱いものがこみ上げてくる。
「お前が自分自身でやらないでどうする。お前の手は、まだたくさんの人を救えるだろう?」
にやりと久住が笑った。元気づけるように、まつりの口にポケットから取り出したチョコレート菓子を突っ込む。もぐもぐと食べているのを見て、久住はぷっと笑い出した。
「間抜け面」
「もー、久住さん。優しいんだか、酷いんだか分かんないです!」
そんな憎まれ口を叩いて、完食したまつりの手を久住は取った。
「お嬢のこの手も、心もまだたくさんの人を救える。それを忘れるな。俺も、きさも、熊ケ谷さんも、玲央も、皆そう信じてる。だから、お前が負けるな」
厳しい言葉なのかもしれない。それでもその負けるなという一言は、珍しい彼の屈託のない笑顔とともにまつりの心の奥にぐっと入り込んだ。
まつりの手をそっと離すと、久住は空を見上げる。
「雨、やんだな」
傘を閉じて、久住を見る。彼はなにかを探すように目を凝らして空を見ていた。
「いつかは変わる。空も人も。だから、お前は自分の正義だけを信じろ」
「私の、正義?」
「ああ。もしそれが間違っていたのなら、俺や皆が必ず止める。だから、お前は何も心配するな。まだ空に何も見えなくても、光をめざして歩けばいい」
そう言って久住は歩き出した。
彼の後ろを追って足を踏み出した。泥にとられそうになる足を、必死に動かす。
大丈夫だ、と久住の後ろ姿を見て自身に言い聞かせた。
呪われた命なら解いてみせる。どれだけの思いをしても、きっと。
解けない呪いなんてないはずだ。不思議とそう思えた。道に惑って森に迷い込みそうになったときは、皆を目印に光まで辿り着ける。辿り着いてみせる。
光をめざして駆けていく。どんなに遠くても。
空には、うっすらとだが日が差し込んでいた。
*
ところが、事務所の扉を開けると「ふざけるな」という熊ケ谷の怒号が聞えてきた。
彼がここまで怒るのは珍しい。むしろ入社してから初めて聞いた。久住も同じくだろう。驚いた顔で立ち止まっている。
「本気で言ってるのか?」
「はい……課長に何と言われても、私は」
妃早の声だった。どこか思いつめたような声に、耳を澄ませる。
「本当にそういうなら武器を置いてここから去れ。できないなら、俺の言うことを聞いてもらう」
辞める、ということだろうか。
突然のことに呆然としていたまつりを置いて、久住が事務所に入る。
「熊ケ谷さん、どういうことですか?」
まつりも続いて中に入った。
そこには少し疲れた顔の熊ケ谷と、彼と対峙して課長席の前で気まずそうに佇む妃早、その二人を自分の席で見守る玲央がいる。
「久住。氷田。ご苦労だった。おかげで正式にシュガーの件はうちが主導で扱うことになった」
「それなら、妃早さん、どうして? マトリを辞めないほうが……」
「私のエスが、佐久真の研究施設を発見したの。佐久真にシュガーの話をされたとき、ここに何か絡んでると思ったから調べさせてた。川の近くにある研究施設で、その川が麓にある村の水道水と繋がってる。間違いないと思うわ」
まさかこんな早く見つかるとは、と思いつつも妙に納得した。
彼女ならあり得るだろう、と。
執念だ。シュガーの犯人逮捕は、妃早の悲願だった。
「なのに、課長は、私を行かせないと。それなら辞めてでも行くと」
「どうしてですか!?」
「――佐久真を殺す危険が、佐藤にはあるからだ」
図星だったのだろう。妃早が激しく動揺しているのはひと目でわかった。
「今回は手柄を組対に譲っても良い。上に何と言われても責任は俺がとる。その代わりに佐久真は必ず捕まえる。だから、お前は今回は待っていろ」
「でも、それじゃ」
どこか悔しそうに俯いた妃早を、熊ケ谷は見逃さない。
静かな声で、はっきりと告げた。
「俺たちは悪人を裁くことが仕事じゃない。あくまで不正薬物から、国民を守る。そのために売人を捕まえるのが仕事だ。履き違えるな。それができないのなら、お前はただの復讐鬼だ」
鋭い声で制され、妃早は何も言えずに俯いた。
絶望を呑み込み、苦しんでいる彼女をまつりはただ見ていることしかできない。
口を噤んで下を向いた妃早を、心配そうな目で熊ケ谷が見下ろす。
「戻れ佐藤。この話をこれ以上するつもりはない」
悔しそうにきつく唇を噛んで、妃早は動かない。まつりはそっと近づいて妃早の手を掬い取った。
「戻りましょう、妃早さん」
まつりに気付いた妃早が、弾かれたように顔を上げる。虚ろな瞳がまつりの姿を捉える。
「まつり……ありがとう」
ゆっくりと、まつりは妃早の手を取った。
悲しみの陰を隠すように、妃早は一瞬瞳を伏せた。次に目を開けたとき、彼女の瞳はいつも通りの輝きを取り戻していた。
しかしどうしてだろう。彼女の微笑には、悲しみの影がくっきりと存在していた。
見ていると胸が苦しくなる。どこか胸がざわついて、まつりは彼女から目が離せないでいた。
不吉な予感が、胸を締め付ける。
そして翌朝。外れてほしかった予感は、的中した。
*
「――だ、氷田! 起きろ!」
熊ケ谷の声にまつりは飛び跳ねる。ぼんやりとしか開かない視界に、熊ケ谷の安堵した顔がある。
「始業に二人して来ない。佐藤の机の上に、ここの鍵があった」
まつりの頭が徐々にはっきりしてきた。そうだ、昨日は妃早に、お酒に付き合ってほしいと言われたのだ。妃早と笑いながら飲んでいたら、いつの間にかソファで寝てしまった。
「す、すみません。わた……あ!」
彼に抱き起されていると気付いて立ち上がろうとしたが、眩暈がしてソファに座り込んでしまう。
「まさか薬まで盛るとは。耐性がない薬だったんだな。辛いだろう」
まつりは痛む頭を押さえた。
「いえ……この感じ。ハルシオンですね。粉末にして混ぜたんでしょう。耐性は、多少あります。お酒と一緒に飲んでたら、普通は健忘が起きますから」
一瞬だけ熊ケ谷の目じりが持ち上がる。幼い頃、父親に実験をされたということに対して怒っているのがわかった。心配させるわけにもいかない。起きようと体を起こす。
強いふらつきに、まつりは必死で立とうとするが、ソファに再び腰を下ろした。
「大丈夫、です」
「……お前が大丈夫でも、俺が心配なんだ。察してくれ」
訳もなく焦り、真っ赤な顔を隠すように立ちあがった。
少しだけぐらりと傾いた体を支えようとした熊ケ谷が、ふと缶が散らばっている机に置いてある紙に気付き、目に止める。重しとしてのせてあるのは――マトリの徽章が刻まれた手帳だ。
「佐藤のだ」
まつりは紙に飛びつくと、おそるおそる読み進めた。何度も見たことのある美しい文字に、紡ぎだす言葉に、突き刺された。涙ぐみそうになりぐっと顔に力を込める。
『ごめんなさい。どうしても佐久真を。復讐鬼と言われても構わない。
唯一の心残りは、あなたが尊敬する私でいられないこと。ケンカした時、あなたはあなたと私の関係を訊ねたけれど。私のきもちは変わりません。
あなたが望む私でありたかった。
でも、無理。あなたの手を振り払うくらい、復讐に囚われてる。
間違っていても、私は私の道を行きます。
まつり、あなたもあなたの道を。役目を。
あなたの未来が輝いていますように』
「どうして――妃早さん」
手紙を握り、胸の奥底からこみ上げた衝動を、泣きそうな胸の熱さを、必死に堪える。
久住の言葉が頭の中で繰り返される。
『自分の中の正義を貫け。間違ったら止める』
妃早が道に迷ったとき、手を引くのはまつりの役目だったはずだ。それを、妃早の強さを信じきっていた。驚くほどに、自分は取締官としての妃早しか見ていなかった。
『少なくとも俺の知るきさはそんな完璧人間じゃないからな』
そうだ。だからこそ、止めるべきだった。その事実が深い後悔となって、襲ってくる。
いまにも泣きだしそうなまつりに気付いて、熊ケ谷が厳しい声で言った。
「氷田、君は間違っていない」
「違います、私が、私が妃早さんを」
叱ってほしいと思った。いっそのこと、叱って、傷つけて欲しかった。
なのに、熊ケ谷の目はどこまでも優しい。縋るように袖を掴んだまつりに、熊ケ谷は冷静に言う。
「君は正しい。間違ったのは彼女だ。それを見誤るな。そして、俺達にはまだ彼女を止めることができる。幸い、不測の事態にも備えてあるからな」
熊ケ谷はそういうと、まつりを支えながらゆっくりと立ち上がった。
「俺は、佐藤を犯罪者にはしたくない。行くぞ。ここで休んだら、本当に取り戻しがつかない」
厳しい言葉に、頬を叩かれたような気分だった。
濡れた目を手で拭い、まつりは前を向く。そんなまつりを熊ケ谷は柔らかい眼差しで待っていた。
「もう歩いて平気か? 俺は外で待っているから、支度ができたら来てくれ」
「はい!」
まつりの勢いのよい返事を聞いて、熊ケ谷はそっと部屋を出た。
もう一度手にしている手紙を見返す。迷いのない力強い筆跡に、心が痛む。とても傷ついた。
(それでも)
まつりは手紙をそっとしまった。そして自分の部屋に行き、動きやすそうな服を探した。
その中でまつりはふと、ある服装に目を留める。それは妃早が以前クリーニングに出して放置していたジャケットだった。受け取ったまま、渡すのを忘れていた。
(そういえば妃早さん、少し小さいから、いるならあげるって言ってたな)
クリーニングのタグを外し、羽織って見るとちょうどいい。普段自分では着ないローズグレーのジャケットは、鏡で見てみると少し大人びて見えた。
まつりはそれに合わせて黒のワイシャツとパンツを選んでみた。
妃早には程遠いが、少しは近づけたか。妃早のような洗練された女性に見えるだろうか。
まつりは急いで着替え、軽く髪を纏めて、バッグの中を確認して外へ出た。
急いで飛び出したまつりに、熊ケ谷はきょとんとした顔をした。そして服装を見て、微笑む。
「出会った頃の佐藤みたいだな」
「はい、このジャケット、もらうことになっていたんで」
「服のことじゃない。勿論頼りない部分はあるが、俺は君を信頼している。気付かないうちに随分、マトリらしい顔つきになった」
それが、いまのまつりに対する最大限の賛辞だということは承知だ。
それでも嬉しくて、まつりの口角が自然に引きあがる。
「佐藤も新人の頃は危なっかしいことは多かったよ。彼女は警察での経験はあるが、おとり捜査も初めてだった。失敗もした。相当、しんどかったはずだ。それでも、ここまでやってこれたのは――復讐だけではないはずなんだ」
単純に復讐をするのであれば組織に属さず、やる方法があったはずだ。
それでも、しなくてもいいしんどい思いをしてまでマトリという場所を選んだのは――彼女なりの信念があったはず。熊ケ谷はそう言いたいのだろう。
「真実は後から知ることができる。とりあえずは行くぞ」
「場所は?」
「佐藤にはあらかじめ内偵をつけてある。把握しているよ」
どこまで抜かりがないんだろう。エレベーターに乗りながら、熊ケ谷の顔をさり気なく見た。
彼はいつもどおりにこりと笑っているが、いつもよりピリッとした空気が感ぜられる。
地下について、早足で駐車場に向かう。いつもの車を見つけて助手席の扉を躊躇わずに開けた。
そんなまつりの頬に、ひやりと何かが触れる。
「ひゃっ!」
声をあげて運転席を見れば、久住がいた。くすりという笑い声に振り返れば玲央も乗っている。熊ケ谷は玲央の隣に座った。
久住はまつりの反応に揶揄を含んだ目で見ている。
「変な声だすなって。お嬢、眠気覚ましのコーヒー」
コーヒーを受け取って無言で頷いた。
「キサキは本当に一人で佐久真のところに行ったんですか?」
玲央が熊ケ谷に疑問を投げかける。
「佐久真というよりは、最初に研究施設へ行くだろうな」
久住はエンジンをかけながら、熊ケ谷の言葉を聞いている。
まつりはシートベルトを締めるとバックミラー越しに熊ケ谷を見た。
「佐久真は今回の会議で正式に笠洋会との分裂を示唆する」
「情報元はどこですか?」
「都郷連合だ。大阪の売人がいてな、俺のエスで佐藤のエスでもある。そいつに接触させている」
「関東で捌くなら、都郷連合と組んだほうが間違いないからですね」
納得したようにそう言うと、久住はハンドルを握った。
バイク派だというわりには上手い。そして久住の性格からは考えられないほど、丁寧な運転に安心して身を任せる。
「その定例会議に、佐久真は幹部を連れて行く。佐藤の目的は佐久真を殺すこともそうだが、何よりこの実験を未然に防ぎ、これ以上被害者を出さないことだろう。施設の警備が手薄なのは絶好の機会だ。まず実験施設、そして騒ぎを知って戻ってきた佐久真を――という狙いだろう」
なるほど。しかし、単独で行うには危険が付きまとう。
不安げに後ろを気にするまつりに気付いたのか、熊ケ谷はその不安を拭うように笑ってみせた。
「氷田、心配するな。佐藤も、佐久真も無事に捕まえる。俺はそのつもりだ」
「そういう算段が、おありなんですか?」
「算段というほどでもないが。俺も随分危ない道を渡ってきた。以前、判断は経験により身につくといったことを覚えているか?」
小さく頷いたまつりに、熊ケ谷はそうかと短く言った。
「佐藤より良い判断ができると思っているだけだ。そして何より、うちには優秀な人材が揃っているからね。それをうまく使えば、勝てないこともない」
上官として正しい判断。そして信頼する部下。
それらが武器になるというのなら、まつりは彼や仲間を信じて動くだけだ。
「だがな。俺は最悪の事態も考えてはいる」
「わかっています。そのときは」
言葉を止めたまつりを、熊ケ谷はけっして窘めなかった。
「そう気負うな。俺たちが首を突っ込んでいるのは人の闇の部分だ。ゆえに危険と隣り合わせで、それと対抗できる力も持っている。けれどその力を、自身の感情で振り回すようならそれはあいつらと、佐久真たちと変わらない。その前に止める、止められなければそれなりの対処をする」
それだけだと言い切る熊ケ谷の表情も、辛そうではある。
きっと何度もこういう思いをしてきたに違いない。それでも前を見て、最良であろうとする彼はやはり入庁時にまつりが憧れたその人だった。
まつりは彼の顔をバックミラー越しに見つめる。
目が合うとにこっと笑われる。跳ねる心臓を叱りつけて窓の外に目をやった。
空は快晴。昨日大雨だったとは思えない天気だ。
(大丈夫、変わらない天気はない)
久住も運転しながら空を見ていた。もしかしたら同じことを思っていたのかもしれない。
「煙草、吸っても良いですか?」
久住の問いに熊ケ谷は「今日だけは」と短く答えた。
久住が座席の窓を開ける、取り出した煙草を口に含み、ゆっくりとした動作でいつもの甘い煙を吐き出す。その白い煙が青空へと昇っていくのを、まつりは静かに見送っていた。