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第三章「覚悟」

 カーテンで区切られた車の後部座席で佐久真が用意した純白のワンピースに着替えた。

 程よいフリルとレースが女性らしいデザインだ。思い返せばこういう服を、しおりはよく着ていた。

 もしかしたら、佐久真の趣味だったのかもしれない。

「まつりちゃん、終わった?」

 声をかけられて、まつりは慌てて返事をした。

「はい。よくわかりましたね。下着も含めた私のサイズ」

「ははっ、しおりと比べて小さいなー。くらいの選び方だけどね」

 おいでよ、と佐久真の声がする。

 カーテンの隙間から顔を覗かせる。佐久真は嬉しそうな顔で、自分の隣に座るように言った。

 仕方なく、まつりは彼の言う通りに隣へ腰を落ち着かせる。

「人を攫っておいて、よく笑えますね」

「悪いことをしたなんて、僕は思ってないよ」

 少し困ったように眉尻を下げて、彼は言う。

「拉致も、薬も、悪いことですよ」

「君に用意するから、身体に万が一のことがあったら嫌だから優しめにしたんだよ」

「そういう問題じゃないです! 普通に話してください。こんな、犯罪みたいなことをして」

「普通に話したら、君は来ないだろう?」

 少し寂しそうに、佐久真は笑う。事実を突かれて、まつりは口を噤んだ。

「どうして、金の泉のヒントが私だと?」

「なんとなく、かな。そのピアスだけは外さなかったし。オヤジの周りは全部洗った。でも何も出てこなかった。そして、気付いた。組や愛人も全く関係ない、意外な人物じゃないか、と」

「そこで、うちに目をつけたんですね」

「最初はしおりだと。君たち姉妹をかわいがっていたと聞いたから。年齢的にはしおりかな、と」

 まさか、とまつりは佐久真を見る。

「お姉ちゃんに近づいたのは――」

「それ目当てだね。でも、もっと面白いものがあったから。思ったよりずるずる一緒にいたな」

 嬉しそうな彼の目には自分が映っている。

 ぞっとした。幼い頃、初めて会った時と同じような瞳で、彼はまつりを見つめている。

 その意味がわからぬほど、あの頃のように幼くはない。

「君だよ、まつりちゃん。しおりを探っているうちに、僕は君を見つけた」

「――やめてください!」

 声を荒げたまつりの手首を、佐久真は掴んだ。

 逃さないようにきつく閉じ込められた手首を、まつりは睨んだ。

「どうして、私なんですか? 佐久真さんならもっと綺麗な人をいっぱい手に入れられますよね」

「もちろん、見た目だけなら美しい人物はたくさんいる。でも、中身が魅力的な人間は少ない」

「私が? 冗談でしょう?」

 からかうように振り解こうとしたが、それを佐久真は許さない。手首がぎゅっと強く握られる。

 佐久真の視線が絡みつく。その視線は、まるで手錠のように、重く、冷たく、まつりを縛る。

「冗談ではないことは、君自身がよく知っているはずだ」

 逃れるようにまつりは少しだけ顔を伏せた。

「知りたくないです。こんな」

「愛とはドロドロしたものだ。そうだろう? ああ、君はまだ知らないか?」

 試すように、まつりの手を解くと、赤くなった手首に口づける。

 そしてまつりの目をまっすぐに見て告げた。

「この痕のように、なかなか消えないものだ。痛くても、苦しくても」

 まるで知っているかのような口ぶりだった。

 情熱的な瞳は、まつりの奥に燻っている幼い心に火をつけようとしている。

「そういうのは、お姉ちゃんに言ってあげてください」

「つれないね。第一、しおりは死んでいる。言いようがないだろう?」

 死体が偽物で、私がしおりの存命の可能性に気付いていることも、彼は薄々知っているはずだ。

「あなたのそういう、人を量るようなところが、嫌いです」

「はは、君には嫌われ過ぎているな。あと、僕で嫌なところは?」

「傲慢なところ」

「意外だ。紳士だと言われるのに」

「紳士かどうかは、私が判断することで。少なくとも、自分からそう名乗る人ではないはずです」

 揚げ足取りのような言葉だと、まつりは言い終わってから気付いた。

「なるほど、一理あるかもね」

 佐久真は怒った様子もなく、さらりとそう言った。

 そして何かを求めるように、やや上目遣いでこちらを見た。

「それと?」

「ヤクザなんて、嫌いです……」

「なるほど。それは僕たちが悪だから? でも知っているかい? 正義が必ず誰かを救えるなんて、それこそ傲慢だ」

 確信めいた口調で、佐久真は口元だけ微笑んだ。

 闇を映した深い色の瞳が、まつりを射抜く。まつりはその闇に呑まれぬよう、全身に力を込める。

 そんなまつりに笑みをこぼして、彼はそっとカーテンを指で開けた。

 外を確認すると、黒目が何かを探るように辺りを見回す。

「うるさい犬は消えたみたいだな。ついておいで。金の泉が、正にそれを証明してくれるだろう」

 柔らかな声が耳をくすぐる。

(車が、止まった?)

 話をしている間にどうやらついたらしい。

 佐久真の付き人が車のドアを開ける。降り立った先に広がる景色に、まつりは目を奪われた。

「これ……育苗? 稲ですよね」

 どこまでも続くかと思う広い青空。その下で、若々しい緑が太陽の光を一身に受けていた。それを、まだ少し冷たい風が揺らしている。ここは農家なのか。

 あたりを見渡すが、人やコンビニなども見当たらない。奥には、ビニールハウスも見えた。

「察しの通り、ここは農家。ビニールハウスは苺が有名みたいだね。少し前まで。そして、金の泉はおそらくあそこだ。僕は彼らにお礼をしなければならない」

「お礼?」

「ああ。オヤジが残した、後始末だよ」

 にやりと、彼は笑った。オヤジとは、彼を拾って育てた、笠洋会の会長のことだ。

 彼は学力が高く、そして貧しかった彼の家の面倒を見る代わりに、佐久真を引き取った。そして、最高の環境を与えたのだという。佐久真は国立大学の医学部を首席で卒業し、医療系の仕事についた。そして表向きでは医療用品の輸入や開発に携わり――きっちりヤクザの仕事をこなしている。

(どういうこと? 金の泉って)

 彼がそこまで固執するのは、なぜだろう。まつりは用心しつつ、彼の後ろについていく。

 すると、ビニールハウスに入る一人の老人を見つけた。

 佐久真はふっと小さく笑う。

「すみません」

 いつも通りの人当たりのいい笑顔を作り、話しかけた。

 老人は振り返る。痩せた肌は栄養不足なのか少し荒れていて浅黒い。よれたシャツと使い古した作業用のズボン。そして長靴を履いている。

(お金があるようには、見えない)

 まつりは探るように目を走らせる。ふと、空いたビニールハウスの隙間から、緑色の草花が見えた。見覚えのあるそれに、妙な違和感を覚えた。その正体に気付き、まつりは驚きで声を失う。

「すみません、大居岳英を知っていますね?」

 笠洋会会長の名前だ。老人は一瞬だけ目を大きくして、固まった。

「あんたは……?」

「約束を、果たしに来ました。中を拝見しても?」

 佐久真の言葉に老人の目はさらに見開かれる。その目から大粒の涙がこぼれだした。

「ああ……ああよかった! 神様……!」

 まつりは生唾を飲む。からからに乾いていて、うまく吸えない息が喉の奥でひゅうひゅうと音を立てていた。ビニールハウスから香る甘い匂いが、ますます疑心を煽っている。

 佐久真は中に入ると、確認して大きく頷いた。

「立派に、育ててくれました」

 満足そうに頷き、佐久真は老人を振り返ると、その手にそっと懐から出した札束を握らせた。

「これはほんの気持ちです。また後で付きの者に持ってこさせます」

「ありがとう……ありがとう……! これで孫を大学に行かせられる!」

 老人は札束を握りしめるとその場で崩れ落ちた。

 まつりはそれをぼうっと眺めていることしかできなかった。改めて、中を見渡して愕然とする。

(どうして、こんな)

 栽培禁止のケシの花。

 それをこんなに状態よく、育てているなんて。まつりは自分の目を疑った。

 神様だと佐久真を称え、嬉し泣きをする老人をじっと見ていた。


   *


 佐久真が用意した旅館に泊まることになったときも、まつりは抵抗しなかった。むしろ好都合だと思った。これで心置きなく、さっき見たことを追及できる。

 旅館の庭に併設された鹿威しの音が遠くで聞こえた。

 佐久真が選ぶ旅館はセンスが良い。

 玄関を入ったときの花や、廊下の空間、仲居さんの距離の取り方。すべてがよく計算されてできている。一泊の値段がまつりの初任給と変わらないであろうこの旅館に、彼は躊躇なく泊まる。

 彼は知っているのだ。その空間が心地よく、そして自分にはそういうものが相応しいことを。

「どうしたの? まつりちゃん」

 用意された茶菓子とお茶を飲みながら、佐久真が問う。

「さっきの、ケシ、ですよね」

「そうだね。確かに、゛金の泉゛だ」

 いつもと変わらぬ声でそう言うと、彼は茶を口に含んだ。それが何か、と。

「恥ずかしくないんですか? あんな、何も知らない人を騙すような……」

「失礼だな。僕たちは良いことをしたんだよ? 両親を亡くして、親戚に引き取られた孫がDVを受けていると知り、貧乏にも関わらず引き取った。過労で妻は亡くなり、老いた身に鞭を打って働いている。だが義務教育の学費も精一杯。それを高校に行けるように、うちのオヤジが考えた」

 まつりは畳を拳で叩いた。

「ふざけないで」 

 少し驚いたように佐久真はまつりを見る。

「……ふざけているつもりはないけれど。実際にうちのオヤジはその準備金で五百万円、彼に渡している。僕も今日で五十万」

「お金の話をしてるわけじゃないんです!」

「お金の話をしようよ」

 まつりは頭を振った。視界が歪む。悔しさで溢れ出そうな涙を、まつりは必死に抑え込んだ。

「じゃあ国がお金を用意するの? まさか奨学金が出るように頑張れとか無責任なことを言うのかい。DVもされて学校もろくに通えなかった子に、なんの苦労もしてないお嬢様の君が?」

 まつりは手を振り上げた。

 その手を、佐久真は掴み、寄せる。抱きかかえられる恰好のまま、低く甘い声が耳朶を撫ぜた。

「君は知らない。お金で世界は変わる。少なくとも彼は感謝してた。危ない橋だとは思っただろうが、それしかないと乗った。少なくとも、彼は国が定めた法律よりも僕たちを選んだ」

 目に涙を浮かべたまつりを見て、佐久真は満足そうに口元を緩めた。

「真実を受け入れるんだ。正義だけじゃ誰も救えない」

「違う!」

「君はなんのためにマトリになった? 本当に違うと、間違っているというのなら、あのご老人を告発するといい」

 彼の言葉は傷ついたまつりの心を貫くには十分な刃だった。

(私は、薬に悩む人を少しでも救いたくて)

 でもそれは、悪ではない一人を犠牲にしなければならない。

 堪えていた涙がこぼれ落ちる。熱い涙は頬を伝い、まつりの唇の上を滑る。

 それはまるで見えない糸のように、まつりの口をきつく結びつけた。

「確実に彼の孫は進学を諦めなければいけない。それどころか、この田舎で育ての親がそんなことをしたと知れたら、働き口も危うい。まあ、八神百愛のときみたいに自殺者が出ないことを祈るよ」

 それだけ言うと、佐久真はにっこりと笑ってまつりの額に口づけた。

 優しい口づけも、傷ついた心には何一つ響かない。

「今日はあとゆっくりして休もう。明日もう一度あの老人に挨拶したら、東京に戻るつもりだ」

「帰して、くれるんですか?」

「どこに? 君の帰るべきところは僕のところだけだ」

 返事をしないまつりに苛立った様子もなく、佐久真はにこにこしながら茶を啜った。

 まつりは先ほどの老人を思い出していた。人の好さそうな笑顔。佐久真が渡した札束に縋り泣くあの必死の顔。思い出すだけで怖かった。

 あの人の、人ひとりの幸せを壊す、そう思うと――告発することが怖い。

 まつりは目の前に置かれているお茶を見た。

 一口もつけず、冷えてしまった茶の表面にまつりが映っている。涙が落ち、揺れる波紋にかき消された顔は、いまにも崩れ落ちそうな表情をしていた。


  *


 夜が明けて、まだ少し暗い道を佐久真と一緒に歩く。

 昨日は気にしなかったが、川の音がどこからか聞こえる。佐久真は「良い音だね」と鼻歌を歌っている。

 ここまでご機嫌なのは珍しい。

 いつも愛想はいいが本当の意味で笑っていない気がしていた。

「後で、少し川に寄ってもいい?」

 彼は無駄を嫌う性質だ。その彼が、意味もなく川へ行くとは思えない。

「この田舎の川に、何が、あるんですか?」

「さあ?」

 とぼけたように佐久真は言い、やはりご機嫌な表情で振り向いた。

「何かするなら、せっかくなら人の役に立つこと。こういう田舎町がいいなって思っていたんだ」

 役に立つ、そんなことあるわけない。言いかけた言葉は、少し先でふらふらとビニールハウスに向かう老人を見かけて、止まる。まつりはあることに気付き、声をかけようとした。

が、遅かった。ぬかるんだ地面に足をとられ老人が倒れる。細い身体は容赦なく地面に打たれた。

 佐久真はすぐにうずくまっている老人に駆け寄り、手を貸した。昔から彼はこういうことを迷わずできる人だ。そしてそういうところだけは、まつりも尊敬している。

「大丈夫ですか?」

「すみません、ありがとう」

「いいんですよ。回収がすんだら残りのお金もすぐに渡します。ここで待ってますね」

 お金のひと言に期待を込めたまっすぐな目で佐久真を見る老人。その表情は悪人のものではない。

 まだ痛い身体に鞭を打ち、よろめきながらも立ち上がり、ビニールハウスへ向かう。そんな彼の背中を、まつりは見つめることしかできなかった。

「答えは出た? 出ないなら、それが答えじゃない? 決めなよ、僕と行くって」

 いつになく強い口調にたじろいでしまう。

 動揺するまつりを佐久真が振り返った。

「僕の手を取って。君と僕なら、マトリなんかよりたくさん意義のあることができる」

 彼がゆっくりと手を差し出す。

 まつりは無意識に伸ばしかけた手を、押しとどめた。行き場のなくした手で、胸のネックレスを服の上から掴む。

(私は……)

 まつりはその手をどうするべきか悩んだ。目の前の佐久真に預ければ、どれだけ楽なのだろう。

そんな考えに流されそうになる。――そのときだった。

「なんなんだ、あんたたちは!」

 突如聞こえた怒声に、佐久真の眉尻がぴくりと跳ねる。

 目を向けた先にいた人物に、まつりは息をするのも少しの間忘れた。

 玲央と妃早が険しい顔で立っていた。

 佐久真は鬱陶しそうに目を細め、敵意を込めた目で二人を見ていた。

 玲央は躊躇なくビニールハウスに入って証拠の写真を撮り、「やめろ」と喚く老人に向き直る。

「これはケシの実。アヘンやモルヒネの材料です。こんなに大きくするのは大変だったでしょう?」

 ケシは小さいものではとてもじゃないけど麻薬にはならない。

 栽培には専門知識が必要だ。人づてではなく自分で調べて何度も試さねば、こんなには育たない。

 玲央はけん制しているのだ。

 あなたはケシだとわかったうえで育てているんでしょう。そして、もし暴れて仕事の邪魔をするようなら、自分たちにはそれを抑え込む権利があるのだ、と。

「ご老人、自分から申し出てください。そうすれば、悪いようにはしません」

「悪いようにしない、だと。散々俺たちをバカにしておいた国が、何を……」

「何をおっしゃっても、これは法律の下に許されないことなんです」

 強い口調で玲央が返した。

 少し怯んだ老人が言葉を詰まらせると、妃早が寄り添うように優しく語りかけた。

「調べさせていただきました。お一人で、育ち盛りのお孫さんを育てるのはご苦労されたでしょう」

 じんわりと心に染み入るような、哀憫を含んだ声に胸を揺さぶられる。

「でもそれは、このケシの実を育てて良いという理由にはならないんです。私たちはあなたがしたことは見逃せません」

「何もしてくれなかったくせに、俺たちが苦しいときは見ないふりだったじゃないか!」

 興奮して妃早に詰め寄る老人を見て、玲央が庇うように間に入った。

「何かをしてもらえるように、あなたは国に何をしたんです?」

 老人が絶句した。

「生活が苦しいから、犯罪に手を染めて良いなんて特例は出ません。このケシが世に出れば、大勢の人が犠牲になる。あなたは家族を守るためですが、国としてそれを許すことはできません」

「お前たち役人にとっては、俺たちなんてどうでもいいんだろう?」

「いえ……。ですが、あなたがやっていることは間違いだと、それを自覚させて取り締まる義務が僕たちにはあります」

 そう言って、玲央が麻薬取締官を示す身分証を呈示した。

『NACORTICS AGENT』という字の下にある徽章が金色に輝いている。

 その輝きに、一気に目が覚めた。弾かれたように前を向く。

(そうだ。どれだけ可哀想でも……)

 入庁してすぐ、熊ケ谷に身分証のエンブレムについて話をしてもらったことがある。

 研修を受け、挨拶もそぞろに初のおとり捜査をすることになった。緊張するまつりに詳しい説明や持ち物の確認をした熊ケ谷は、机の上に広げた持ち物たちのなかで金色に輝く徽章に目を留めた。

『氷田、ちゃんと話していなかったが。このエンブレムについて君は知っているか?』

 いえ、という返事に彼は仕方ないというような笑顔で応えた。

『これは俺たちの理想なんだ』

 まじまじとその徽章を見つめてみる。だが、ぴんとはこなかった。そんなまつりの心を読んでか、少しだけ微笑んで熊ケ谷はそれを手渡してくれた。

『日章、というんだ。警察や他の国家機関も微妙に違えど、ベースはこれで統一している。東天にのぼる、かげりのない、清らかな光を意味する』

 不思議ですね、あんなにいがみ合ってる警察と一緒なんて。

 そうつぶやいたまつりに、困ったような笑みを浮かべて熊ケ谷は告げた。

『本来の目的は同じはずだよ。日本が本来望んでいる姿に一緒にしていく。今回の捜査はそのうちの一つの試練だ。おとり捜査と泳がせ捜査で、君はかなりグレーな世界に足を踏み込む。だが、この目的を見失わずに。一人でも多くの売人を捕まえてほしい』

 あの時の熊ケ谷の顔を忘れはしない。

 穏やかな笑みなのに、その顔は確かな彼の信念を感じさせた。かっこいいと思った。

 生まれて初めて、誰かに強く焦がれた。

(――ばかだ)

 迷っていた自分を叱咤した。

(私は一般人じゃない。国があるべき姿になるようにしなくてはいけない。同情して、犯罪を見逃すなんて、あってはいけないのに)

 あのとき手渡された徽章の輝きを、重さを、忘れてはいけなかった。

 まつりは決意を新たに顔を上げる。

 玲央の強い口調に観念したのか、老人が倒れるように地面に膝をついた。絶叫に似た泣き声が響き渡るのを見て、何も感じぬわけではない。胸はまだ痛むが、心は決まっている。

「行くよ。まつりちゃん」

 少し苛立ったような声で佐久真が言った。

 まつりは小さく頭を振る。

「行けません」

 驚いたように言葉を失う佐久真に、まつりは険しい表情でもう一度告げた。

「私は、佐久真さんとは行けません」

 はっきりと目を見て言った。見つめ合う彼の目に、憤怒の色が漲っている。まつりは怯むまいと気丈に睨み返す。

「来るんだ、早く」

「嫌です、私は……絶対に行きません!」

「――まつり!?」

 妃早の驚いた声がした。まつりの声に気付いたのだ。

 まつりは妃早の元へ駆けだそうとしたが、佐久真に腕を掴まれる。

「行かせない」

「離して!」

 やりとりに割って入るように、妃早の声が響く。

「佐久真、まつりから離れなさい!」

 慌てたような声。

 見ればこちらに銃を向けていた。後ろで老人を確保している玲央も目を瞠って固まっている。

「佐藤妃早さんだね。君は僕を撃てないよ」

「……なんで、私の名前を?」

「外したらまつりちゃんが痛いから。あと、君が知りたい秘密を僕は知っているしね」

「秘密?」

「五年前の恋人の事故(、、)は残念だったね」

 妃早の過去を知っているかのような言葉に、耳を疑った。

「どうして、あなたがそれを――」

「〝シュガー゛の秘密を、知りたくない?」

 シュガー。以前にも聞いた名だ。

 妃早の銃口が震えてぶれている。彼女の目は血走っていた。いまにも佐久真にとびかかりそうな、激しい憎悪が彼女に憑りついているようだった。

「どうして、その名を」

 質問には答えず、佐久真は返事代わりに笑んだ。

「答えなさい!」

 興奮した妃早を、佐久真は一笑した。

「どうする? まつりちゃんをくれるなら、僕は君に教えてあげてもいい」

 妃早は悔しそうに、奥歯を軋ませた。

「ふざけないで」

「こそこそ嗅ぎまわっているけど。俺なら教えられるよ? そのほうが、効率的だと思わない?」

「――あんたを捕まえて、全部吐かせるわ」

 いつも冷静な妃早らしかぬ、感情をむき出しにした声。

 いけない。こういう場面では追い詰められたほうが負ける。

 遠目から見ても震えている彼女の指が、引き金にかかった。このままだと確実に外す。

 そしてその隙に、控えている彼の組員に捕らわれる。

「駄目です、妃早さん!」

 祈るように叫んだ。

 佐久真の薄ら笑いが目に焼き付いて――耳の奥を貫く銃声が派手に響いた。

 空気を揺らす音にまつりは唖然とした。

 気付いたときには、佐久真の周りをずらりと人が囲んでいる。

「佐久真将。略取の容疑で逮捕する」

「四ツ原さん……、どうして?」

 そこには威嚇のための空砲を撃ち終えた四ツ原と、佐久真に銃を向ける彼の部下たちがいた。

 険しい顔でこちらを威嚇する彼に、まつりは状況を理解する。

 佐久真はうんざりした顔で、四ツ原を見た。

「組対、か。上手くまいたと思ったのにな」

 諦めたように佐久真は肩を落とす。

 掴まれていた腕を解放されて、まつりはすぐに妃早のもとへ走った。

 彼女の細い首に抱きつく。優しく背中をさすってくれる細い指は、まつりがずっとずっと求めていたものだった。

「野放しにするわけないでしょう? 少し泳がしてたら、県に入ったところでまかれたけど」

 佐久真に見せつけるように、妃早はぎゅっとまつりを抱いて告げた。

 意味ありげに微笑み、佐久真は大人しく四ツ原に両手を差し出す。その手首に手錠がかけられた。

「僕が思うより、マトリや警察には優秀なやつもいるらしい。どうやってここを突き止めた?」

 その問いは驚いて出たものではなく、むしろ受け入れたうえでの関心が含まれているようだった。

「新潟とあんたについて洗っていたら笠洋会の会長がここに何回か足を運んでいたって。最初は、どこかに隠れ家とかあるかなと思って、まつりの件で警察に引っ張ってもらおうと思っていたの」

 妃早の言葉に、どうして四ツ原がこの場にいるのかようやくわかった。

 マトリは麻薬以外のことに関しての逮捕や捜査はできない。だが、警察は別だ。特に組対なら引っ張ることができる。四ツ原には、法律の逃げ道の一つとして相談していたのだろう。

「ケシの栽培が見えたから、さっきは、それをきっかけに吐かせようと思ったの……鉢合わせたのにはびっくりしたけどね」

 まったく。と、どこかほっとしたような顔で妃早はまつりを見つめた。

 そしてコツンッとおでこを合わせた。まるでお互いの存在を確めるように。

 大人しく四ツ原に引っ張られていく佐久真の後ろ姿を、まつりは深く見つめた。連れていかれる直前、彼はまつりを一度だけ振り返った。

「じゃあ、また。この場は、仕方ないね。いつでも、付き合ってあげるよ」

 これから取り調べられるとは思えない、爽やかで人懐っこい笑顔を見せて佐久真は歩き出した。

 彼がパトカーに乗り込むのを見て、まつりはようやくほっと息をついた。

(終わった? ほんとに?)

 まだ銃声が空気を揺すっている気がする。いまさらになって震えが出てきた。

「まつり怖かった? 大丈夫?」

 不安げに顔を覗き込む妃早に、まつりは違うと首を左右に振って示す。

「安心したんです。妃早さんが抱きしめてくれて」

 微笑んで寄りかかってみると、妃早が笑ったのを吐息で感じた。

 妃早の匂いがした。こんなにあったかくて優しい匂いを、まつりはほかに知らない。彼女の肩に顔を預けると、優しく手が頭を撫ぜた。

「おかえり、まつり」

 まつりは彼女の腕の中で何度もうなずいた。

「はい……ただいまです」


   *


 艶めく、いくらがたっぷりとのった白米を、思い切り頬張った。ぷちんと幸せの粒が、口の中で弾ける。磯の香りがいっぱいに広がった。

 よっぽど幸せそうに見えたのか、妃早は嬉しそうに問う。

「まつり、美味しい?」

「はい! この駅弁ほんっとうに食べたかったんです」

 無事を知らせるために熊ケ谷に電話をすると、彼は「良かった」とほっとした声を漏らした。ようやく胸のつかえがとれたと明るい調子で言い、地元のおすすめの駅弁を教えてくれた。

 佐久真は最寄りの留置所に移送するため、妃早と玲央とまつりは新幹線で帰ることになったのだ。

「でも本当に良かったわ。あなたが無事で」

 行く先々でまつりを気遣って話しかける妃早の目には、どこか心配の影が付き纏っている。

 ちらりと隣の玲央を確認する。また何かあってはいけないからと用心し、玲央が窓際に、妃早が通路側に、まつりを挟んで座ることになった。

 よほど疲れたのか、玲央は隣で爆睡している。

「あの、妃早さんも良かったら……」

「絶対寝ないわ。まつりに何かあったら、もう……私……」

 そういって、妃早に抱き着かれた。

 青ざめた彼女の唇から浅い息づかいが聞こえた。体が小刻みに震えていた。

 何かに怯えているようだ――それに気づいたまつりの心に、不安の波紋が広がっていく。

「妃早さん、どうしたんですか?」

「どうもしないわ。でも私、今度あなたを失ったら。きっとおかしくなる」

 縋るような妃早の言葉に瞬きも忘れた。

 初めて四ツ原と出会った後『何も聞かないのね』と言った。

 あのとき、いまは聞かないと言った。でも、いまは違う。なんとなくだが、妃早はそれを待っているように思えた。それに、まつり自身もそれを望んでいる。

 ごまかして、仲の良い先輩後輩を続けるのではない。妃早のことが知りたい。苦しんでいるのならば支えになりたい。

「……誰を失ったんです?」

 彼女の瞳の奥が微かに揺れた。少しだけ躊躇して目を泳がせたあと、決意を秘めてまつりを見た。

「昔の、恋人よ」

 久住より前かと聞くと、妃早は黙って頷いた。

「四年前まで同棲してた。私は警察で、彼女はハプニングバーでバーテンとして働いていたわ」

「彼女……って、え?」

 妃早もはっとして口を手で押さえた。

 窺うようにまつりの顔を見て、観念したように告げた。

「私、女の子と付き合ってたのよ」

 困ったように笑い、こちらを不安げに見つめる妃早に、まつりは思わず胸が締め付けられた。

「気にしません。続けてください」

 ありがとう、と何も悪いことをしていないのに、申し訳なさそうな顔で妃早が微笑む。

「私は組対で忙しく薬物に関する業務をしていたわ。そして、あの事件が起こった。彼女の寂しさに気付かなかった。そのうち、彼女は新種の薬物の副作用で喉を掻きむしって死んだ」

 佐久真が言ったシュガーという言葉に妃早が動揺していたのを思い出した。十中八九それだろう。

「さっき佐久真が言った、通称・シュガーと言われる薬よ。それ自体は無味なんだけど、中毒者は普段から強い甘味を感じるようになる。副作用で喉が腫れ、少しずつ渇きも酷くなるの。そして、首を掻きむしって、シュガーを求めて甘いものを口にしながら死に至る――悪魔のような薬」

 彼女の声はどこか怯えたような響きだった。

「あれは一年間の間だけしか広がってないの。その中で被害者は三人だけ」

「三人……妃早さんの恋人も含めて?」

 妃早は黙ったまま、頷いて肯定を示す。彼女の顔には怯えとともに確かな怒りが見えた。

「そう。おそらく、誰か一人がばらまいただけよ」

「それにしても、少ないです」

「ええ。だから思った。これはサンプルに過ぎない。もっとやばいものになって戻ってくるって」

 記憶の線を辿っているのか、遠くを見る彼女の表情にくっきりとした悲しみの色が差している。

「そのときよ。マトリにいくことを決意したのは。私は絶対に捕まえるわ。シュガーを作った犯人も、ばらまいた奴も」

「……後悔してませんか? 警察からマトリになったこと」

「国家公務員で良かった。くらいかしら。試験いらなかったから」

 妃早はそれだけいうと、少しだけ笑顔を見せた。

「女性の恋人で、しかも半分違法のハプニングバーで働いているのを見過ごしてたわけだから、周りは私を変な目で見るし。ちょうど良かったの」

 嘘ではないとは思う。でも、本音でもないのだろう。

 昔を語る彼女の顔はどこか不安げだ。きっとあのときの選択が正しかったのか、自信がないのだ。

 警察からマトリに移るなんて異例のことだから何かあるのだろうとは思っていた。そしてやはり、その異例を認めさせるだけの、過去があったのだ。

(これ以上踏み込むのは良くないよね)

 まつりはあえて話題を振ってみた。

「彼女さん、どんな方だったんですか?」

「気が強い。口論になったとき勝てなかったわ。それはそう、あんなとこで働いてるんだから」

 いまでも彼女にとって大事な人なのだと思う。

 妃早の表情はどこまでも優しかった。

 羨ましい。ここまで妃早に愛してもらえた彼女が、羨ましくてたまらない。

「あ、でも少しまつりと似てるかも」

「え?」

「笑うとくしゃってするとことか、声とか」

 嫌だったらごめんなさいね、と聞かれてまつりは必死に頭を振る。

「光栄です!」

 勢いよく返事をしたまつりに、妃早は笑った。そして、後ろの席が空白であることを確認すると、ゆっくりシートを倒す。

「寝るんですか?」

「ううん、まつりが心配で眠れなさそうだから少し我慢。でも、横になるだけでも落ち着くわよ。まつりも倒してみたら?」

 シートを倒すとすぐ横に妃早の笑顔がある。

「疲れたでしょう? まつりは寝ていいわよ」

「いえ、そんな」

「そう? 目がとろんとしてるわよ」

 くすくすと笑いながら、妃早は優しく髪を撫でてくれた。ああ、と理解した。人見知りな彼女が、こんな風にボディタッチが多いのはきっとまつりが恋人に似ているからだ。

 そう思うと少しばかりの悲しみが胸を締め付ける。

「酷いです、妃早さん」

「え?」

「私は恋人さんじゃないんですよ」

 拗ねるように言って彼女の手を取った。

「どこにも行きませんから、安心してくださいね」

「ええ、ありがとう」

 嬉しそうに笑って、妃早は子供をあやすようにまつりを穏やかな表情で見ていた。必死に睡魔と戦っていたが、やがて負けて深い眠りに落ちてしまった。


   *


 事務所に戻って無事を報告すると、熊ケ谷は安堵したように表情を緩めた。

「そうか、とにかく無事で良かった」

「はい。ご迷惑をおかけしました」

「いやこちらも済まなかった。佐久真が動きやすそうに少し警戒を緩めたふりをしていたんだが、かといってここまで性急にことを進めるとは」

 信じがたいと言いたいのだろう。事実、佐久真はこういうことには非常に慎重になるタイプだ。警察が張り付いてないとは思ってはいなかっただろう。

『マトリや警察にも優秀な奴がいる』

 あれは奪われた後に取り返した執念と知性を褒めたたえたのであって、けっして追いかけられていたことに対しての言葉ではない。四ツ原に囲まれたときもたいして動揺はないようだった。

「君と佐久真の関係は思ったより深そうだ」

 報告書を手に熊ケ谷が唸る。

 その様子を見かねたのか、近くにいた久住が声をあげた。

「確認するけど、肉体関係はないよな」

「な……な……!」

「明、質問してるのは課長よ」

「大事なことではあるが。プライベートを公然で話すのは君も嫌だろう?」

 まつりを気遣う熊ケ谷にはっきりと告げる。

「嫌です。でも必要があるならお話しします」

「いや、いい。何かあるなら後で聞こう。それより、君にどうして彼が執着するのか。個人的なツテで調べてもらった」

 熊ケ谷は鍵つきの引き出しから取り出した紙の束を机上に置く。氷田まつりに関する調査書、と書かれていた。

「前回の一件で病院にあった君のカルテにも目を通したが、本当に当たり障りがなかった」

「……何をおっしゃりたいんですか?」

「入念な聞き込みの結果。病院の人は君のことを〝お嬢様はとても良い子です〟と言っていた。だが、不自然だ。君を知るはずもない人間まで知っていた。脳神経外科や諸々だ。君の父は厳しい人だと聞いている。君と話すのを見たことはめったにない、と」

 書類をめくりながら、熊ケ谷の黒い目がちらりとこちらを観察する。

 その目はすべて見透かしているかのような鋭い光を宿し、まつりを射抜く。

「君はなんのために病院に行っていた?」

 まつりは必死に頭を巡らせる。

 病院と家の距離は離れている。とてもじゃないけれど、近所で、親がいない間ナース達に面倒を見てもらいましたという言い訳は通用しない。

「入院を、していました」

「だろうな。詰めたらナースたちもそう言っていたよ」

 分かったうえで、誘導したということだ。

「答えてくれて良かった。もしここで嘘をつくようなら、スパイの可能性も疑っていた」

 当然だろう。実家は佐久真と組み、大きな事件を起こした。

 その実家は、まつりが幼い頃に特別養子縁組まで組んで法律上の血縁関係をなくしていた。

 まるで今回の事件があることを予測していたかのように。

「君は何を隠している?」

 静かに、だがはっきりとした声で熊ケ谷は追い立てる。

 その真剣な目に追い詰められて、まつりは観念したようにため息を吐く。

「ゼロ、という薬をご存知ですか?」

 その一言に熊ケ谷の目が見開かれる。

「どうして、その名前を?」

「ゼロは覚せい剤のフェタミン系。そしてMDMAの薬物反応を消すということで一時期広まりました。そして、お話ししていない事実を言います。私は覚せい剤とMDMA、他にも一部の薬を無効化してしまう酵素を持っています」

 状況を察して、熊ケ谷は息を詰めた。

「それは……ありえない」

「ありえるんです。麻薬を含め、薬は使っていくと身体が慣れてきて馴化(じゅんか)します。けれどそうじゃない。初めからさまざまな薬に対する酵素を持っている。そういう体質です」

 予想を超えた返答だったろう。驚いたまま口を閉ざした熊ケ谷に、まつりは続けて語りかけた。

「ゼロは父親と佐久真が共同で私の体質をもとに作った新薬です。副作用が酷く亡くなってしまう人もいるため、試しただけ。いまは出回っていません」

「それで入院を?」

「はい。薬が効かないことも多いので、症状が悪化してしまって。入退院を繰り返していました。どの薬が効くか効かないのか、精密検査を検討していた父に、佐久真が自分がそういう研究をしていたと名乗り出ました。そして、その事実が判明したんです」

 ゼロを作り上げるまでは約五年かかったのだという。

「あくまで参考になっただけで、私自身は開発に携わっていません。でも、高校生になってその薬が出回っていたことを知って――正直恐ろしくなりました。自分のせいで亡くなった方がいる」

 あのときのことを思い出しただけでも、震えが止まらなくなる。

 ニュースで薬物検査をされていたはずの人物たちが薬物検査をクリアしたうえで、突然死をしたというニュースが流れたことがある。

 覚せい剤とMDMAを使用していた可能性があった、その二つを聞いてすぐにピンときた。佐久真を問い詰めると、彼は隠すことなく告げた。

『まつりちゃんのおかげで、救われた人がいる。ゼロは素晴らしい薬なんだよ?』

 目の前がくらくらした。佐久真が遊んでくれる理由も、父親が冷たくする理由も、わかった。

 父親はこのニュースが流れる度怯えていたのだ。いつか自分が捕まるのではないか、と。

 そしてそれに気づいたとき、父親に愛される日はこないのだという事実を突きつけられた。

「だから私はマトリになったんです。麻薬はやはり間違っています。ゼロなんて薬はあってはいけない。でも、おそらく佐久真はまだ開発を続けています。ゼロを根絶やしにして、少しでも多くの中毒者を止めたい」

 今度はもっと素晴らしいものにするよ。良いサンプルが取れた。

 そう言って笑う佐久真の目の奥は何の感情も読み取れなかった。ぞっとした。こんなに――人の死を何も思わない人もいるのだ、と。

「なるほど……」

 何かを考えているのか、熊ケ谷は肘をついて手を組んだ。

 そして報告書を鞄にしまうと立ち上がる。まつりを含めた全員の視線が、熊ケ谷に注がれた。

「この件は一度預けてくれ。上に知られると、氷田にもこちらにも障害が出てくる。久住、佐藤、五条。この件は絶対に口外するな」

 熊ケ谷の険しい表情に全員が「はい!」と答えた。

 言ってしまった、と後悔した。できれば言いたくはなかった。

 マトリが新薬に関わっていたなんて許せない者もいるだろう。

「まつり」

 呼ばれて振り返ると、妃早、明、玲央が険しい表情をしていた。

 何を言われるだろう。身構えていたまつりに、久住が一歩前に出る。

「バカやろう。もっと早く言えよ」

 うんざりしたような顔でそう言った。

「へ?」

「そういう大事なことは先に言え。捜査で薬の一本打たれてこいとか言えたのに」

 からかうような笑顔に、ぽかんとしてしまった。

「明はまたそんなこと言って……。でも、ほんとに。辛かったのね、まつり。実のお父様にそんなことをされて一人で誰にも言えずにいたのね」

 妃早の優しい言葉にまつりは唇を噛む。

 ありがとう、と言おうとしたまつりの言葉は玲央の声で途絶えた。

「――僕は反対です」

 棘のある声にまつりはびくりと肩を強張らせる。

「悪意がないとはいえ、その薬を作った原因です。そんな人が、マトリでいいはずがありません」

 玲央を見れば、彼はどこか思いつめたような複雑な顔をしている。

(どうしてそんな顔をしているんだろう)

 玲央はきわめて和やかだ。

 麻薬に対しても普段は久住のほうがかっとなり、それをいつも宥めているイメージがある。

 だから彼がこういう風に誰かを責め立てる言葉を口にしたのは意外だった。

(正義感? でも……どこか傷ついたような、複雑な顔)

 玲央はぷいっとそっぽを向くと自分の机に戻り、黙々と作業を始める。どこか気まずさをごまかすように妃早が笑う。

「突然のことで驚いているのよ。私たちも仕事をしましょう?」

 ね、と同意を求められ、まつりは首を縦に振る。

 久住は玲央の様子に不思議そうに首を捻り、同じく席について仕事を始めた。


   *


 玲央と話をしなければ――そう思って昼休みに入ったタイミングで声をかけようと思ったが、彼は事務所を出るところだった。急いで追いかけると、彼が向かう先が食堂ではないことに気付く。

(鑑識課、かな?)

 彼の足は、一課とは対極に位置する鑑識課へ向かっているようだった。

(なにかの結果を受け取りに?)

 鑑識課に顔を出し、声をかける彼を見て、まつりは足を止めた。

「あら、玲央くん早いわねぇ」

 少し掠れた、のんびりした声。

 現れたのはメリハリボディを強調するような、セクシーなスーツに白衣を羽織った女性だった。

(ゆのき柚木まや麻耶さん?)

 彼女の顔には見覚えがある。鑑識課の中でもトップクラスの迅速で正式な鑑定結果と、愛らしい顔に似合わず男性社員の目を引き寄せている魅惑の胸は有名だ。

「マヤ、また遅れますよ」

「ふふ。一緒に怒られてくれる?」

 呆れたような玲央のため息にも、彼女はにこにこと笑うだけだ。

 ちょっと待ってて、というと彼女は一度奥へ引っ込み、白衣を羽織らず外に出た。

 白衣がないと、よりその肉感的な身体が強調される。嬉しそうに玲央に腕を絡める彼女は無邪気に笑っていた。玲央と同い年くらいか。もう三十は超えただろうに少女のような笑みをこぼす。

 まつりは固まってしまった。そういう関係なのかと。

 挨拶のようにスマートに女性を口説く玲央が、彼女にその技を発揮するのは見たことがなかった。

「そういえばどうなの? 例の子」

「マツリですか?」

 突如出た自分の名に、どきりとした。

「そう、その子。佐久真くんに攫われたんでしょう?」

「強いものですよ。彼女は」

「大丈夫ならいいけど。それにしても随分かわいがられてるねぇ。クマくん、明くん、きさちゃん。全員大慌てだったって聞いたわよ」

 まつりの顔に一気に熱が昇る。何気ない彼女の言葉は、まつりを喜ばすには十分だった。

「私も焦りましたよ。まつりは良い子ですから」

 耳を疑った。てっきり嫌われたと思っていたからだ。

 感動するまつりを笑い飛ばすような、吐息が聞こえた。

「良い子。ね? 駄目よ、浮気をしちゃ」

 クスクスと揶揄するような笑みを浮かべて、麻耶が忠告する。玲央は少しだけ怒ったように眉をひそめ、彼女の腕を振り払った。

「マヤ。冗談も大概にしてください」

「私じゃ、あなたの心に火を点けられない? それとも一課に肩入れする気? あなたと私は甘い一刻を共有する仲間でしょう?」

 スーツのボタンを外していく麻耶にびっくりした。

「しまってください。ここじゃ人目につく」

 ぐいっと彼女の襟元を、玲央の手が手繰り寄せる。

「あん、酷い。でもそういう激しいプレイがお好み?」

 そう言うと麻耶は喉を自分の両手で絞めるような仕草をした。

 玲央は呆れたような視線をくれると、丁寧に麻耶のジャケットのボタンを閉じていく。不満そうに唇を尖らせてみせる麻耶を一度だけ冷たい目で見て、玲央は外に出た。

 エレベーターに乗る二人を物陰から見送り、まつりは先ほどの密やかな囁きを思い出していた。

(目的って、あんな脅しみたいな)

 いや、あれは明らかな脅しだ。

 恋人同士と呼ぶにはわざとらしい近しさだった。あのスーツの下に隠されたものはなんだったのか。考えてもわからない。

 押し寄せる不安は断ち切ろう。そう思い、彼らに気付かれぬように注意をはらいながら歩く。

 外に出ると二人はすぐにタクシーを拾う。二人の後を追い、まつりもタクシーを止めて乗り込んだ。ついていく途中、まつりはすでに彼らの行先に気付いていた。

 降りた先にあるビルを見て、まつりは確信する。

(中央合同庁舎……ってことは本局ってことだよね?)

 地方厚生局を纏め、管理をする本局がこのビルにはある。聳え立つビルを見上げ、まつりはあることに気付いた。はっとして腕時計を見る。

「――やばっ!」

 昼休みはすでに半分過ぎている。急いでタクシーを捕まえて引き返した。

 後ろ髪を引かれるように、タクシーの窓からビルを振り返る。気にならないと言ったら嘘になるが、アポイントもなしに本局に乗り込んだら問題だ。

 それに、はったりでもいい。ここに来たということが、玲央が何かを隠しているという事実だ。後は問い詰めればいい。

 少しおっとりとした笑い方をする玲央を思い返す。

 まだ入ったばかりで緊張していたまつりに、気軽に話しかけてくれた人懐っこい笑顔。

『マツリ! 会いたかったです。五条玲央と申します。あなたのような素敵な方に出会うことができて、日本に帰ってきて良かったと改めて実感しています』

 手を取り、きらきらとした目を向けてくる玲央に驚いて、そして笑った。

『良かった。マツリはずっと怖い顔をしています。笑うとあなたはとても美しいです』

 そんな口説き文句も、彼にとっては挨拶のようなものらしい。

 まつりは戸惑いつつも、初めて心から笑ったのを覚えている。

 無邪気な彼が初めて見せたあの拒絶――あれはまつりに向けられたものではないのではないか。そんな疑問と、少しの確信に胸がざわついていた。

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