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第二章「居場所」

 幼い頃は実家が嫌いだった。

 嘘みたいな純白で彩られた室内に、外界を遮るカーテン、鼻につく薬品の匂い。父に怒られるのを承知で病院をよく抜け出していた。

 九歳の時。十五の誕生日を迎えたしおりを祝いたくて、彼女が通っている女学校をめざして、慣れない電車を乗り継いでいったこともある。

 ようやくたどり着いた頃には夜になっていて、ぐずりながら姉の女学校の正門に向かう。そこには、都内でも有名なお嬢様学校のセーラー服に身を包む姉の後ろ姿と、見知らぬ男性が立っていた。

 彼は不思議な、例えるなら、病院とは正反対の――夜の匂いをまとっていた。

「まつりちゃんだよね?」

 彼はまつりに気付くと、にっこりと振り返った。隣りのしおりも、こちらを向く。

「良かった。院長から連絡があって待ってたんだ」

 薄っぺらい上品な笑みを顔に浮かべ、彼はぐずるまつりの頭を撫でた。触れた瞬間、怯えて肩を竦めたまつりを、佐久真はじっくりと眺めた。そう、まるで何かを観察するような――そんな目で。

佐久真将(さくまたすく)です。君のお姉さんとお付き合いしているんだ。よろしくね」

 彼の横で幸せそうに、しおりは笑った。

 昔から優しい目がしおりとそっくりと色んな人に言われたが、逆を言えば褒めるところがそれくらいしかなかったのだと思う。美人度ではしおりの方がはるかに上だ。

 おっとりとしている、いかにも大病院のお嬢様というような育ちの良さを感じる上品な口元や、透けるような肌の白さ、大きくて少し垂れたガラス玉のような瞳。それらが、すべて程よいバランスで組み合わさっている。そんな綺麗な顔に浮かぶ笑みは、とろけるような甘さを含んでいる。

 しおりの幸せそうな笑顔が眩しくて、まつりは少しだけ目を逸らした。

 感情に素直に生きる。それはまつりにはできないことだった。そんな姉の生き方にずっと嫉妬していた。でもやっぱり大好きだった。実の姉。

 あれから十七年。あの日は想像もしなかった。

 今日という日が。姉の変わり果てた姿を見る日が、くることになるなんて。

「お姉ちゃん」

 目の前のしおりは顔に打ち覆い白い布をかけられていた。

 首筋の特徴的な黒子は姉に似ている。

 でも、本当は違うんじゃないか。

 そんな期待で顔を確かめようとすると、父親に手を叩かれた。びっくりしてひっこめたまつりに、慌てたように父親が声を荒げた。

「止めなさい。お前が見て気持ちいいものじゃない」

 その一言に、いろんな思いが廻った。

 どうして、見てはいけないの。

 そんなに酷かったの。

 どうして、お姉ちゃんがそうなったの。

 佐久真さんのせいではないの。

 けれどどれも言葉にならなかった。

 そしてそれが涙や嗚咽に変わることもなかった。吐き出さずに呑み込んだ思いで胸が詰まる。

 まつりは静かに父親を見た。一緒に暮らしていても、あまり顔を合わせたことがない父は、心労のためか一気に老けて見えた。

 仕事はいいのか、と聞かれたので、一週間休みをとったことだけを告げた。

 父親が、さらに尋ねた。

「外に、男がいるだろう。恋人か?」

 珍しい、とまつりは父親を見た。父親はしおりを溺愛していた。まつりには興味など示さなかった。会話だって必要最低限のことしか話さなかった。

 病院を継がず、役人になろうと思うといったときも、なぜ聞くのかと、勝手にしろと言ったのに。

 あの時の顔は忘れない。いつもと同じ、なんでもない顔をして、娘の将来を放棄した父親の顔。

 それなのにどうしてだろう。

「まつり、答えなさい」

 厳しく問い詰められて、はっとした。外の男とは、久住のことだろう。

「職場の先輩です」

「マトリか」

 予想外の問いかけに息をするのも忘れた。

 この業務に就いていることは秘匿事項だ。まつりから漏らしたことは一度もない。まつりも法務省勤務という嘘をついていたはずだ。まつりは答えた。

「いいえ」

「……挨拶をしたほうがいいか?」

「いえ、大丈夫だと思います」

「そうか」

 沈黙が訪れる。重い空気には、これ以上耐えられない。

 来て早々だが、切り上げることにした。

「もう。行きます」

「ああ」

 短い返事に、頭を軽く下げる。

 立ち去ろうとしたまつりの足を父親の声が引き留める。

「待ちなさい」

 足を止め、振り返ると、父親はばつの悪そうな顔をしていた。

 首筋を見ればじっとりとした汗が浮かんでいる。

(緊張、してる?)

 表情を盗み見る。取り調べをしているようだ、と思った。

「……帰ってくるときは一言よこしなさい」

 期待していなかったセリフに、まつりの心が浮き立つ。満面の笑みで、まつりは応えた。

「はい」

 部屋を出ると、近くのソファに座っていた久住がナースたちに囲まれている。

 談笑しながらも全員の表情を窺いながら喋っているのがわかった。

「久住さん!」

 まつりが声をかけると、久住は笑顔で立ち上がった。

 あれ、と思った。心なしかいつもより表情も柔らかい。

 しかも、久住は、いきなり「ぷっ」と噴き出して笑った。

 そこにはいつものような陰のある雰囲気はなく、驚くほどに爽やかだ。

(え? 何、この笑顔)

 驚いた上に、なぜ笑われたのかわからず、まつりは若干後ずさった。

 そんなまつりを逃がさぬように、久住が肩を抱く。思わぬ距離の近さに、全身に力が入りそうになるが、耳元で、久住が吐息を吹きかけずに囁いた。

「美人のナースさんが多くて困ったなぁ。まつりさん、遅いよ」

(ま、まつりさん? お嬢とかお前ではなくて?)

 久住の真意を確かめようと「お待たせた?」と横目で見る。

「病院なんて来ないから緊張したよ。しかも、まつりさんの実家だって。親切なナースさんたちに話を聞いてもらってたんだ」

 仕事柄、病院に行くことも多い。話を聞いていたのも久住だろう。何か考えがあるに違いない。

「久しぶりだったから。ごめんね。あ、明さん? ちょっと外に出る?」

 甘えるような声で言うと、久住は小さく笑った。

「そうする。これ着けて。外、少し冷えてきた」

 そう言って久住は自分のマフラーを、ふわりとまつりの首にかけた。

「あ、ありがとう?」

 赤面しつつ、話の主導権を久住に渡すころには、ナースたちが集まっていた。

「お仕事中、ありがとうございました。彼女が来たので失礼します」

 礼儀正しく一礼した久住に、ナースたちが目の保養だとか、また来てねと無責任に盛り上がる。

 外に出て車に乗るまで「親しくしているかけがえのない友人」という建前の恋人同士を完璧に。車の中で、たばこに火を付けた瞬間に魔法は解けた。

「悪かったな。もういいぞ」

「院内は喫煙所以外禁煙です! ここも病院の敷地内です」

「お嬢真面目だなあ。彼氏できねーぞ」

 たばこを消し、ハンドルにもたれかかって、久住が言う。梧原が来ていたと。

「組のケンカでアバラがバラバラに折れたと。変だよな。こんな遠くまで」

 久住は射るような目をこちらに向けた。

 ドキリとした。跳ねる心臓を抑えて、最も適切な答えは何かを考える。

「そこで考えた時点で、知ってたって言ってるようなもんだ」

 逃げ道を塞ぐ、鋭い一言。

 これが泣く子も黙るエースの取り調べか。

 まつりは小さくため息を吐いて、「降参です」と久住を見た。

「……うちはお金を貰えれば何でもやります。それこそ、銃で撃たれた手当てであっても」

「笠洋会御用達みたいだな」

 そこまでばれているのか。まつりは黙ったまま、シートベルトをしめた。

「どんな怪我も診る代わりに、うちに優先して最新薬を譲っていただく手伝いをお願いしてます」

「お前の姉は佐久真と恋人同士って聞いたぞ」

「佐久真さんは医療器具を病院におろしているんですが、その途中に姉に一目ぼれをしたらしいという話を聞いています」

 最初に声をかけたのは佐久真のほうだった。姉も普段は大病院の娘であるという自覚はあるし、危険な組がバックについているのを知っているから警戒心が強い。

 それを一年かけて口説き続け、なんとかものにしたのだからすごい。それだけを聞くとしおりが仕方なく付き合ったように思えるが、実際は逆で。しおりが佐久真にはまっていったように見えた。佐久真は、非の打ちどころのない恋人を――演じているように思えた。

「佐久真とお前の姉が付き合っているって聞いた時にぴんっときた。病院や不動産関係はそういうところと関わりがあることが多いからな」

「それで?」

「ああ。お前と恋人同士だが、父親に反対されそうで怖い。だけど、絶対に結婚したいから、父親を説得する材料がほしいし、たいがいのことはもう聞いて知っているってはったりを言った」

 なるほど、それでさっきのちょっと奥手の好青年風の演技に繋がったのか。

 おしゃべりなナースから、私より、多くのことを聞き出したかもしれない。

「梧原は、複雑骨折で手術をする。このタイミングでお前の姉も日本に、顔がわからない状態で」

 その一言ですべてが線になる。正気か、とまつりは久住を見る。

「姉と思われる死体に、覚せい剤が? 父は、それを取り出して梧原の身体に詰めると?」

「密輸で一番厄介なのは、犬やら検問やらの時に不自然さがないことだ。死体ならそれができる」

 犬は腐臭で鼻が利かないし、顔はぐちゃぐちゃ。マグロ状の死体が一番見つけづらい。

「多分、熊ケ谷さんたちが追っている取引はフェイクだ。裏付けでバタバタする間に、こっちで」

 彼がイラついているのが、ハンドルを弾く指先でわかる。携帯のディスプレイには熊ケ谷の名前が表示されている。ここで実家のことを通報されたら、私は、どこにも居られない。

 せっかく苦労をして、念願だったマトリになれた。それなのに。

 気付いたら手を伸ばして、久住の携帯を取りあげようとしていた。

 その行動が引き金となった。

「動くな」

 低い声と共に、カチリと、お腹辺りに銃を突き付けられた。

「お前が裏切る可能性もある。お前も、俺も、ここで判断を間違えたら、一生取り返せないものを背負うだろうな。俺は熊ケ谷さんに電話する。ここからの行動は、自分で決めろ」

「な……」

 動揺しているまつりを、久住の声が追い詰める

「お前は、一番に何を守りたいんだ!」

 本気で怒っている。

 まつりはぐっと堪えて、静かに電話が終わるのを待つことにした。

「久住です。熊ケ谷さん、実は――」

 彼のはっきりとした口調と声は、マトリとしての誇りを、譲れないものを確かに持っている。

「今、笠洋会と氷田病院の繋がりを確認して、一つ気になることが……はい。そちらが――です。至急、横浜分室に任せて応援を」

 妃早や玲央、熊ケ谷、そして自分にもあったはずの信念。

(私……)

 まつりは、自分のことしか考えていなかった。マトリとしての使命を、忘れていた。

「終わったぞ」

 久住の声は先ほどの恋人のように優しかった。気遣うような視線が、まつりの心に刺さる。

「泣くほど、嫌だったか。疑って悪かった」

「……違います、私。仕事辞めなきゃいけないかもって、そう思ったら」

「そうか」

 まつりを置いて、ちょっと出てくると言って、久住は車を降りてどこかへ行ってしまった。

 しばらくすると、涙がようやく止まった。

 正面を向いて、頬を叩く。ふと、見覚えのある車が駐車場に入ってくるのがわかった。

 職員用駐車場にはふさわしくない黒塗りの高級車。佐久真の車だった。

(やばい!)

 とっさにシートベルトを外し、前に屈んで隠れた。

 車のドアが開き、ドキッとしたが、久住だった。戻ってきた久住は、まつりの体勢を見て察した。

「大丈夫だ、起きろ。不自然にするよりも、こうしたほうが良い」

 そういって腕を引っ張り上げられた。

 見つからないかと佐久真の様子を垣間見ようとすると、久住の端正な顔が近くにあった。

「さっき練習しといて良かったな」

 そっと腕を回される。顔も、唇も触れそうに近い。

「この状態で、佐久真の様子は確認できるか」

 吐息が唇に触れる。

 ぞくりとしながらも、まつりは小さく「はい」と告げた。

「状況は?」

「今、車を入れました。運転手はそのまま待機して、付き人二人を連れて施設に向かっています」

「よし。よくやった」

 犬にするように頭を撫でられる。

 からかうような笑顔にむっとして胸を押した。

 久住の目は、全く笑っていなかった。

「梧原と接触して受け渡しを行うだろう。張るぞ」

「応援は?」

「要請したが、どちらもまだ推測の域を出てないから。とりあえず今やっていることが一段落した段階で、横浜分室に頼んでこっちに来るらしい。外に元々停めてあった車を見張ってもらう」

 なるほど、とまつりは納得した。

 ナースたちの心を掴んだ久住は、職員用の駐車場に三日前から不審車が停まっているという情報を得て、すぐにそのナンバーを四ツ原に照合してもらっていた。梧原の組の車だった。

「えっ、久住さん、さっき出たのは――」

「ああ」と呟いて、何かを思い出したように、久住は手に持っていたビニール袋を放りなげた。

 受け取ると、温かい。

「お前が食べたいって言ってたオレンジチョコまん。趣味悪いぞ」

 中を見れば包み紙に包まれた中華まんとミルクティが入っている。

 優しく包み紙をはがすと、オレンジ色の、つるんと輝く皮が見えた。

「悪かったな。誰であっても疑うのが仕事だが。お前の気持ちも考えずに怒鳴った」

「いえ、私が」

「ひとまず早く食え」

 呆れたように言った久住に頷いて、勢いよくかぶりつく。

 その食べっぷりを見て、久住は笑った。

「ほんとに、よく食えるよな」

「泣くと、お腹すくんです」

 早く食え、これも食うか、ともう一つもらって、まつりは遠くに停まっている佐久真の車を見る。

 まだ出てこない――中で誰かを待っているのだ。ミルクティの蓋を開け、一気に流し込んだ。

 これは、あたりだ。まつりは残った包み紙と、佐久真の車を見て頷いた。


  *


『1408、対象と佐久真が接触』

 インカムでまつりと久住は確認を取り合いながら、間合いを詰めていく。

 まつりの顔が割れているうえ、佐久真は勘が鋭い。久住もナースに見られると面倒だが、さっき建物内の下見はできている。まつりは先回りをして、久住が梧原を追う形で尾行することになった。

(念のため、いつも持っていてよかった)

 銃を構えながらその時を待つ。

 佐久真と梧原は、きっとここで会う。

 取引に相応しい場所は限られる。万が一の時に逃げやすいところ。そうなると、最上階と逃げ場のない院長室や会議室などは候補から外れる。人目につきやすいところも。だから広場も外れる。

 梧原がマークされている可能性も考えると、外で合う確率も限りなく低い。なるべく手身近に、後処理がしやすく、かつ関係者以外は入れないところ。

 二階の薬品倉庫に、佐久真は来るはずだ。彼は医師免許もあるうえに、オペ中の立ち入りも許可されている特殊な人物。病院内を歩き、薬品倉庫に入ることも勿論できる。ここならば、関係者しか入らないうえ、最悪、窓をあければ職員用の駐車場があるからそこで受け渡しが可能だ。

(間違ってないよね。あの不審車の真上の部屋で、あまり人が来ないのはここだけ)

 梧原は院長である父親に手術を施されたあと、指示された通り、この薬品倉庫に訪れるはずだ。そこで、佐久真に手術を受け、薬品倉庫にあるものを使って一時的に傷口を塞ぐはずだ。

(ばれませんように)

 積み上げられた段ボールの陰に身を隠して待っていた。

 ガタンと戸が開く音。荒い息。梧原が先に来たようだった。苦しそうな息遣いで床に座り込む。

(痛いだろうな。異物なんて入れて)

 音からして、窓の近くに座ったらしい。

 でもよかったとほっとした。佐久真が先だった場合、先に部屋中を調べられる危険がある。

 それくらい、彼は用心深い。

「ち、くしょ……いってぇ!」

「――うるさいな、もうちょっと静かにできない?」

 佐久真の張り詰めた声に、一気に部屋の空気が持ってかれた。

「ちくっしょ、ふざけやがって」

「おい。兄貴分の俺に向かってその態度はないだろう?」

 ぞくっとするくらい冷ややかな佐久真の声。

(こんな声、聞いたことない)

 鳥肌が立った。

「布嚙んどいて。痛いから。それとも、シャブちょっとだけ分けようか?」

「誰が……!」

「あっそ、じゃあ黙っててよ」

 いつも通りの口調だが、無理やり口に何かを突っ込んだらしい。苦しそうな梧原の声が聞こえたあと、躊躇なくメスを取り出す佐久真の姿があった。

「と、思ったけど。やーめた。誰か、つけてきてるよね」

 扉のほうを向いて煽るように、佐久真が声をかけた。

「待っ――」

 焦った久住が踏み込むのを、佐久真は待ち構えている。

 どうして、と慌ててまつりも立ち上がった。物音がたってしまい、佐久真がこちらを見る。

 視線が合わさり、にやりと彼の唇の端が歪んだ。

「なーんだ、こっちか。まつりちゃん、言ったよね?」

 まつりは黙って銃を構える。

「邪魔したら殺すよって」

 その声で、鳥肌が立ったときの嫌な予感が――確信になった。

 付き人は二人しかいないが、厳しいだろう。

 まつりは銃を構えたまま、声を張った。

「関東信越厚生局麻薬取締官です! いますぐ降参して、両手をあげなさい」

 銃を握る手が、震えている。こんなこと、初めてのガサ入れの時もなかった。

(久住さん、早く来て)

 だがいつまで経っても久住が踏み込む気配はない。

 ちらりと扉を目で確かめたのがわかったのか、佐久真も扉を気にしている。少し考えるような間の後、佐久真は付き人に声をかける。

「念のため、外も確認しろ」

 佐久真の指示に従い、付き人の一人が扉を開けた。

「あれ、誰も……っ!」

 扉上の縁に足をひっかけて隠れていた久住は、付き人が外に出た瞬間思い切り頭を踏みつけた。

 そしてそのまま蹴り上げて、室内に入る。もう一人に銃を定める瞬間に、佐久真も久住に注目し動き出そうとした。

「動かないで!」

 威嚇のために銃を一発だけ撃つ。

 佐久真の目が、こちらを見た。

「あなたの相手は、私よ」

「――面白いこというね」

 佐久真はふっと小さく笑って、悠然とした足取りでこちらに歩き出した。

 だが、彼の足は低い悲鳴で止まる。

 久住が鮮やかに男の懐に潜り込み、膝を蹴りつけていた。その膝が明後日の方向を向く。

「腹だったら死んでたぜ。感謝しろよ」

 低く言い捨てたと同時に、男が倒れる。

 そして久住の銃も佐久真に向けられた。

「みなさんで僕を悪者に? 僕は何もしていない。腹が痛いという弟分が心配でここにきた」

「ここは一般人は入れない」

「開けっぱなしだったよ」

 そうだ。確かにまつりが来た時、扉はすでに開いていた。

(お父さんの指示ってことね)

 佐久真は小さく笑うと手を挙げた。武器など持っていないことを示すように。

「これでいい?」

「動かないで!」

「僕の弟分はとても苦しそうだ。縫合した下腹部が痛いのだろう」

「そうですね。うちが診ます。腹の中の覚せい剤を取り出して」

 梧原の額にはじっとりと脂汗が浮かんでいた。

 佐久真が、梧原に言う。

「できるよな。そうしないと――あれはいつでも沈められるぞ」

 あれ、とはなんだ。

 探るように佐久真と梧原を見る。二人の目が、佐久真が足もとに落としたメスを見つめている。

(あれって……ものじゃなくて、まさか!)

 人を沈めるなんて言えば、脅迫になる。だからあえて、言葉を濁したのだとしたら。

 まずい。梧原のほうに駆けだそうとしたまつりの前に、佐久真が立ちふさがる。そのはずみで、メスが蹴られて、梧原のほうに飛んだ。

「君の相手は、僕だよね」

 まつりが久住に声をかけたときには、もう遅かった。

「くそったれ……!」

 窓際にいた梧原は、メスを手にすると自分の腹を引き裂き、覚せい剤を出して窓の外に投げた。

 それと同時に力尽き、梧原自身も窓から落ちていく。

「な……!」

 動揺して窓から身を乗り出した久住を、まつりは冷静に眺めた。

(大丈夫。外には熊ケ谷さんたちがあの車をマーク)

 きーっと急ブレーキを踏む音がした。嫌な予感がして急いで外を見れば、ばらまかれた薬をバイクが回収している。まさか、二重に……。佐久真がこちらをちらりと見る。

「君は――どっちだと思う?」

 外を見れば熊ケ谷と妃早はバイクのタイヤを銃で撃ち、確保しているところだった。

 その横を梧原の死体を乗せた車が走り抜ける。佐久真の車で待機していた運転手が操縦していた。

「フェイクです、妃早さん! バイクじゃない! 車……車っ! それは覚せい剤じゃない!」

 おそらく本物は、まだ梧原だったものの胃に詰まっているはずだ。

 下腹部にフェイク。胃に本物。そんなに詰められていたら、どのみち内臓は助からない。

「現物は、ない。僕は驚いてつまずいただけ。何もしていない」

 さあ、煮るなり焼くなりどうぞと言わんばかりの佐久真の顔は勝ち誇っていた。

 おそらくあの車は途中で乗り捨てられ、梧原の死体だけ出てくる。そして現物は都郷連合に。

 ――負けた。

 完敗、という文字が頭に浮かび、その場に跪く。

「重要参考人として、来てもらうぞ」

 放心状態のまつりを見かねて、久住が冷静に佐久真の手首に手錠をかけた。

 カチャン、という無機質な音が頭の奥に響き、まつりは佐久真を見る。佐久真は何か考えるような素振りの後、久住を見た。

「……なんだよ」

「いや、君たちは本当に税金の無駄遣いだな、と。僕をこの状態で捕まえても無意味だと気づかないか? 無能な役人ども」

「っ黙れ!」

 怒りの沸点に達した久住が、感情のまま拳を振り上げる。

 にやりと佐久真が嗤うのが見えた。まずい。

 確保して無抵抗な、状況証拠しかない被疑者。一発でも殴れば、久住のほうが処分される。

「だめです! 久住さん!」

 まつりは佐久真をかばうように両手を広げ、前に出た。

 眼前でぴたり、と久住の拳が止まり、彼の顔が、怒りと悲しみで一瞬歪んだ。何かを堪えるように、震えている拳を下ろす。そして、それらを振り切るように背を向けた。

「そいつはお前に任せる」

 そういうと、のびている佐久真の付き人を確保していく。

その様子を見て胸を撫で下ろした。彼のこういう場面を見るのは初めてではない。ぶれない正義が、理性を支配してしまうらしい。時にそれは拳になり、密売人たちを傷つける。

 佐久真はふんっと鼻で久住を笑った。

「しつけられていない犬はよく吠える。君もこいつらに感化されて道を見誤らないことだ」

 まつりは唇を噛み、感情を出さぬよう努めて声を出した。

「大丈夫です。少なくとも、あなたは悪ですから」

「僕たちが悪、ねぇ。そうだ。君は知っているかい? 金の泉の場所を」

「……金の泉?」

「俺のオヤジ、笠洋会会長が託した、金のなる泉のことだよ。いくつかあって、ものや形は様々だ。オヤジ自らの手で何名かに託したと聞く」

 まつりは「どうして、私に?」と、ちらりと佐久真の表情を盗み見る。

 彼は笑っていた。いつも通りの、冷たい目で。

「探せるところは探したのに見つからない。会長は君を可愛がっていたから、もしかしたら、と」

「知りません。そんな子供の時の話」

「知ることができたら、行ってみるといい。何が正しいのか、正義か。確かめるために」

 まつりは背筋がぞっと粟立つのを感じ、その不自然なほどの自信に、眩暈がした。

 よろめいたまつりの肩を、確保し終えた久住が支える。

「無駄話はするな。行くぞ」

 タイムオーバーだ、と嬉しそうな声で佐久真が言う。

 まるでこれから起きる何かを心待ちにしたような、場に似つかわしくない、満面の笑みだった。


   *


 佐久真はすぐに釈放された。

 覚せい剤の現物も、都郷連合との繋がりも、佐久真が直接関与していた証拠がない。梧原への連絡は付き人がしていた。付き人も全て自分が独断でやり、佐久真は無関係だと言い張っている。

 これで長いこと拘束すれば、大まかな暴動(?)も起きかねない。一般人に危険が及ぶのは避けたい。上層部も苦渋の決断だった。

 実家の不祥事はニュースで大きく取り上げられた。まつり自身も取り調べを受けたが、幸か不幸か。その過程で、まつりはある事実を知らされた。

 特別養子縁組を三歳の時に組まれ、現在の両親とは法律上の血縁関係がないということだった。

 それによって辞職は免れることができた。

おそらくはその頃から暴力団との癒着が始まっており、何かあったときに被害のないようにそうしたのだろうと教えられた。

 しおりは五歳を過ぎていたため、戸籍を移すことができても、法律上はそのまま両親が実親に位置づけられる。普通の養子と違い、特別養子縁組は三歳までと決まっている。そのため、まつりだけそれを組んだのだ。

 仕事は続けられるものの、天涯孤独の身という事実を知らされたのだった。

まつりが落ち込んでいたことに気付いてか、今日は飲みに行かないかと珍しく熊ケ谷に誘われ、彼の行きつけのバーに連れて行ってもらった。

 雰囲気のいい、神楽坂にある落ち着いた、会員制のバー。それなのに心は踊らない。

 お任せで作ってもらったカクテルは、淡いピンクと白の可愛らしい色合いをしている。

目の前に置かれたグラスで乾杯だけして、ひとくちも口をつけていなかった。

「落ち込んでいるな」

 優しい声で、熊ケ谷は慣れた様子でロックグラスの中のウイスキーをまわした。

 ゆっくり飲んでいるようで、実はもう二杯目に突入している。新潟生まれの酒豪だ。

「佐久真の釈放が、悔しいか?」

「はい……悔しい、です」

 まつりは下を向いた。その一言に、熊ケ谷は無責任な言葉をかけない。

 ただ黙って、まつりが話し出すのを待っている。

「私が先に、梧原を保護すべきでした」

 佐久真を捕まえられると躍起になり、最優先事項を忘れていた。

 ぽつりと大粒の涙をこぼしたまつりを、熊ケ谷は責めなかった。

「それを言うなら俺もバイクを追いかけた。佐藤に任せて、俺が車を担当すべきだった」

「一人であの車を止めるのは、無茶です」

「無茶でもやるのが仕事だ。判断は現場に出てこそ身につく。あの状況で君より判断すべきだったのは久住。そして何より俺だ。横浜分室に応援要請をすべきだった」

 それは、確かに正しい。経験値でいえば自分が低いことは明白だ。

(でも……あの中で一番佐久真さんの思考を理解できたのは私だ)

 考えればわかったのに、考えられなかった。自分のことで一杯になってしまっていた。

「でも」

「今回以上に動かなければいけないときに、悔しさや後悔が判断を迷わせ、足を引っ張る。君には、まだまだ動いてもらわないといけない」

 数々の現場を経験した熊ケ谷の、確かな言葉の重み。

「君がやるべきことはやった。そしてあれが今の精一杯なら、落ち込むよりやるべきことがある。その落ち込みは自分のため以外の何ものでもない」

 厳しいことを言うようだが、と苦い笑みを添えて熊ケ谷が言った。

 厳しくなんかない、と思う。これはきっと熊ケ谷なりの思いやりだ、と。

「――熊ケ谷さんも、こういう思いしたことがありますか?」

 その問いに、熊ケ谷は少しだけ考えるように口を閉ざした。

 グラスを回し、一気に飲み干すと、いつも通りの穏やかな笑みで話しはじめた。

「たくさんある。自分の実力不足、指導不足。いろんな理由で容疑者をとり逃がして後悔ばかりだ。でも、五年前の自分では無理だったことができるようになった。俺は――それでいいと思う」

 新しいウイスキーを注いでもらうと、彼は受け取ったグラスをまつりのグラスに重ねた。

 キンッと、ガラス同士の触れ合う音が耳に残る。

「少なくとも二年前、ここに入ったばかりの君は、指示を受けなければ動けなかった。推理があって、あそこまで佐久真たちを追い込めたんだろう?」

 温かなものが目から溢れて、ぽつりとカクテルに落ちた。

 ピンク色のカクテルがゆらゆらと揺れて、涙を呑み込み隠してくれる。

「君はよくやった。百愛さんに責められても、四ツ原さんに責められても、俺は君を庇う。それに見合うだけの仕事を、君は自分の仕事を立派にやったんだ。つらいだろうが、胸を張っていい」

 じんっとして、まつりは思わず目頭を押さえた。

(どうしよう。これ以上好きになんてさせないでほしい)

「の、飲みたいです!」

 意外そうに何回か瞬きした後、熊ケ谷はいつも通り笑った。

「そうか……好きなだけ飲め。明日も仕事だから、響かない程度に」

「は……はい!」

 一口で酒を飲み干す。

(思ったより、強っ)

 かわいい見た目のわりには強いお酒だった。胃のあたりが焼けるように熱い。

 咳こんだまつりを、グラスをカウンターに置いた熊ケ谷がのぞき込む。

「おい、氷田。大丈夫か?」

 好きな人の顔が間近にあると、心臓に悪い。余計に咳こんで、まつりは声を張り上げた。

「大丈夫です!」

「大丈夫じゃないだろう。水だ」

「ひゃい!」

 勢いよく水も飲み干し、机にだらりともたれかかる。

 しばらくはじっとしていた。熊ケ谷は酒を飲みながら、こちらの様子を気にかけてくれていた。

 大きく伸びをして、起き上がる。

「すみません。落ち着きました」

「早いな。大丈夫か?」

「はい。少しくらくらしますけど、もう平気です」

 熊ケ谷が少し呆れたようにため息とともに、優しい眼差しを向けた。

 仕事以外で心配かけるなと。

 心配してくれているのかと。

 胸の奥が疼く。気持ちが溢れてしまう前に、まつりは前から気になっていたことを聞いた。

「……ご結婚、されてないんですか?」

 グラスを取ろうとした熊ケ谷の動きが一瞬だけぴたりと止まった。

 すぐに何でもないようなそぶりで、彼はグラスに残ったウイスキーを口に含む。

(唐突、だったかな?)

 でもずっと気になっていた。歳も歳な上に、こんなに素敵な人だ。していてもおかしくない。

 しかし指輪はつけていないし、食堂かコンビニを利用している。

「……いないよ、そういう相手は」

 ほっとして、思わずまつりは身を乗り出す。

「ほ、ほんとに? そうかなと思ってました」

「聞いといて驚くな。思ってたのなら聞くな。俺も心が痛い」

 熊ケ谷は少しだけ目を細めた。空のグラスを見る目は、遠い昔を思い出しているようだった。

「でも、俺は、結婚には向かなかったみたいだ。私なんてどうでもいいんでしょ? と言われた。高校のときから十年付き合ってきた相手と結婚して、五年で離婚した」

「じ、十年!?」

 小さく頷いて、熊ケ谷は続けた。

「仕事が仕事だったから家にはほとんどいなかった。記念日は祝ったが、形だけと思われていたのかもしれない。この仕事は、伴侶であってもマトリだとは報せることができない。ただの公務員でどうしてそんなに遅いんだと向こうは思う。小さな嘘をつき続けた結果だ。どうでもいいとは思っていなかったんだが――ショックもない。俺は思ったより淡泊だったのかもしれないな」

 まつりはびっくりしたまま固まった。そんなまつりの目の前に、ホットコーヒーが差し出される。

「酔い覚ましに頼んだ。飲むといい」

「あ、ありがとうございます」

 こんなにスマートにできる人が、そんな別れ方をするなんて想像できない。

 そんなまつりの動揺を見抜いてか、熊ケ谷はいつもより少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべた。

「俺は、愚かで無力なただの人だ。むしろ悪人かもしれない。被疑者を自殺においやってしまった。部下を追い詰めて離職させてしまったこともある。何より、妻にも寂しい思いをさせていた」

「そんな……」

 否定しようとしたまつりの唇を、優しい笑みが塞ぐ。

「だから氷田。もし君の判断で、俺の判断が間違っていると感じたら遠慮なく噛みついてくれ」

 穏やかな笑みが愛しくて、切なげな眼差しが苦しくて、まつりは無言でコーヒーを手にした。

 苦い味で、少しだけ落ち着いた。

「噛みつきます。でも、手綱はきちんと握っておいてくださいね」

 その返答に、熊ケ谷は少しだけ目を瞠った。ウイスキーを飲みながら、柔らかな声で応える。

「ああ――もちろん。それが仕事だからな」

 そう言って、ウイスキーを一気に飲んだが、まずいな、と呟いて彼は自分の時計を指した。

「どうする? 氷田」

 時計はゼロ時を指していた。

 どうするか、とはどういう意味か。きょとんとしたまま答えないまつりに、熊ケ谷が補足する。

「終電はあるか。なければタクシーで送る」

 そっちか。と焦った自分を恥じた。

 まつりは俯いて、返事をする。

「終電、ない、です」

 まだ、ゼロ時になったばかりだ。

 本当はぎりぎり電車はある。もう少しだけ一緒にいたくて嘘をついた。

 じゃあ、行こうと言われて、顔を上げた時にはすでに会計は済んでいた。払おうと財布を出すと、彼は笑ってそれを断った。ますます好きになりましたと言ったら、呆れられるだろうか。

(でも、好きです)

 厳しくて優しくて正しいフォローをくれた時も、先ほどの切なげな顔も、一つひとつが好きだ。

 それはまだ内緒にしようと思う。もう少し近づいて、もう少し成長するまでは。

(部下のままでいい)

 そんな言い訳を胸に、タクシーに乗り込んだ。揺られているとさっきの酔いもあってか、眠気が襲ってきた。ウトウトと船を漕ぐまつりの肩を熊ケ谷がゆする。

「氷田?」

 起きなきゃ、と思うのに起きれなかった。そのまま熊ケ谷の肩にもたれた。

「大丈夫じゃないじゃないか」

 そっと大きな手が少し髪を撫でた気がした。呆れたような優しい声が子守歌のように感ぜられた。

「ああ、もしもし。夜分遅くにすまない――。氷田なんだが」

 どこからか、妃早の声が聞こえている気がした。

(あ、そうだ。妃早さん、心配してるかも)

 最初は嫌がっていたけれど、いまは二人で過ごす時間を楽しんでくれている気がする。

(勘違いじゃないといいなぁ)

 まつりは温かなぬくもりに身をまかせ、ゆっくりと意識を手放した。


   *


 朝起きると、肌触りの良いこげ茶色のシーツに包まれていた。

大きなベッドはキングサイズで、見渡す限り部屋は黒系で統一されている。

「ホテル……じゃないよね? ここ、どこ?」

 頭の奥がガンガンと痛い。

 比較的アルコールたちには強いほうだから、久しぶりに効いている。

(うー、お酒なんてもう二度と飲まない)

 なんとか気だるい身体を動かして、まつりは部屋を出る。

 ダイニングは広く、暖色系でまとめられたお洒落なカウンターキッチンがある。シンプルで高級そうなセンスのいい家具にも目が釘付けになる。そんな中央には黒い革のソファと、ガラスの机。

 それと、PCをいじりながらコーヒーを飲む、熊ケ谷の姿があった。

(な、なんで! 熊ケ谷さん、メガネかけてるし!)

 こちらが声をかけるよりも早く、熊ケ谷のほうが気付く。

 作業をしていた手を止め、かけていたメガネを机に置いてから振り向いた。

「おはよう、氷田」

 いつも通りのにこやかな笑顔を向けられ、まつりはすっかり動転してしまう。

「お、おはようございます。あ、あ、あ、あの私」

 しどろもどろになりながら、何があったのか問いかけようとする。

 まつりのその様子を見て熊ケ谷がふき出した。

「安心しろ。俺はこのリビングのソファで寝たし問題はない。ホテルに一人で泊めるのは佐久真の件があって不安だった。君が家の住所を言わないから、俺の家に連れてきただけだ。」

 上司をソファで寝かせてしまった。純潔を保証されたが、それはそれで。

(熊ケ谷さんとだったら……ってそうじゃなくて! いやーん、妃早さんすみません! 決して、決して浮ついた気持ではないんです! 課長は、本当に憧れと言うか! 妃早さんへの気持ちとは全く違って!)

 どうせ気にしないであろう妃早への言い訳を色々考えていると、目の前にコーヒーが差し出されている。熊ケ谷が悩んでいる間に淹れてくれたらしい。

「朝から百面相か」

 笑われている。

「すみません。何から何まで」

 コーヒーカップを手にして、その重みで余計に申し訳なさが増す。

「――酔わせて悪かった」

 先に謝られて、きょとんとしてしまう。

 呆けたまま固まるまつりに、彼はいつも通りの穏やかな笑みを見せた。

「ああ、それと。昨日はうなされていたが、大丈夫か? 変な寝言を言っていたよ」

「変?」

 まつりが聞き返すと熊ケ谷は「ああ」と短く答えた。

「〝金の泉〟と言っていたかな?」

 驚きのあまり心臓が止まるかと思った。

 確保したときの佐久真の笑顔と、匂わすような言葉が、頭に蘇る。

 全身に緊張が走り、鼓動が大きくなる。

「氷田? 顔色が悪いぞ」

「あの……実は!」

 まつりは答えようとした。けれど、その声は来訪者を報せる呼び出し音にかき消された。

「来たか」

 壁にかかっている時計はまだ七時。熊ケ谷はインターフォンで確かめて、その人物を通した。

(服装が、女のひとっぽかったけど)

 慌てて隠れる場所を探すまつりを、熊ケ谷が呼び止める。

「氷田、話は今度聞くから。玄関に一緒においで。多分心配してるから」

 首をかしげて、熊ケ谷についていく。廊下を抜けるとちょうど家の前についた合図があった。

 扉を開いた先にいた人物に目を奪われる。

「――妃早さん」

 そこには朝が弱いはずの妃早が、化粧まで綺麗にして立っていた。

「ばか。ほら、着替えていくわよ」

 そう言って渡された紙袋には着替え一式が入っている。昨日と同じ服を着て、そろって出社したら面倒なことになるからと、悪戯っぽく熊ケ谷は笑った。

「課長、すみません。うちの子が」

 深々と頭を下げる妃早に、ちょっと氷田に言っておいてくれ、と熊ケ谷が言う。

「気を許して、信頼してくれるのは嬉しいよ。でも、あまり、男と二人きりで油断をするのはやめたほうがいい。仕事上も、プライベートも。何をしても起きないからさすがに心配になった」

「すみません、肝に免じます……」

 いたたまれなくなってうなだれたまつりに、熊ケ谷は気にするなと声をかけた。

「氷田。少し待っていてくれ。佐藤。少し説明をするから来てくれ。トイレはここだ。それから……浴室が……眠気と酔い覚ましに……着替えてから来るといい」

 そう言って熊ケ谷は妃早を中に通し、部屋を説明している。そして、あっという間に玄関に戻り、コートを着込んでバッグを手にする。靴を履きながら、妃早に駅への近道の説明まで。

「俺は先に出る。オートロックだから、そのまま出てくれ」

 お礼を言おうと様子をうかがっていると、熊ケ谷がこちらを見た。

「氷田、佐藤、また後で」

「は、はい! ありがとうございました! いってらっしゃいませ!」

 笑いながら返事代わりに片手をあげて、外に出る熊ケ谷を見送る。

 扉が閉まると妃早はオートロックが作動したことを確認し、こちらを睨んだ。

「この、ばかっ! 課長じゃなかったら、とっくに食われてるわよ!」

 すごい形相で駆け寄ってきた。

 ヒールは脱ぎ捨てられ、玄関に転がっている。両頬を手で引っ張られた。

「痛い、痛いです! 妃早さん!」

 抗議の声をあげると、「罰よ」と厳しい声で言われた。

 泣きそうになると、少ししてから解放された。痛くて涙が出そうなのを必死に耐える。

「何もなくて良かったわ。課長も連絡くれたけど。酔っているまつりを抱え、佐久真につけられていたなんてこともありえるでしょ? あの時間で家まで運べとも言えないし。それを考えたから、課長に任せるのが正解だと思って。朝までお願いしたの」

 妃早の手が今度は愛しむように、熱を持ったまつりの頬に触れる。

「ほんとうに心配したのよ」

 妃早の目は少し潤んでいる。

 本当に心配してくれたのだ。まつりの胸がぎりっと軋む。出てくる言葉は一つしかない。

「ごめんなさい」

 素直に頭を下げると、妃早は小さなため息とともに、いつもの笑顔を見せた。

「ほら、私はリビングでお化粧直してるから。早く着替えてきなさい」

「はい!」

 かけていくと、まつりの耳に「無事でよかった」と呟く声が聞こえた。

 ありがとうございます、とお礼を心の中で言って、持ってきてくれた服を見る。そこにはまつりの大好きなジュースとお菓子も一緒に入っていた。

(好きって気持ち、どんどん増えてくなぁ)

 熊ケ谷も、妃早も、時間をともに過ごせば過ごすほど好きになっていく。

 ふわふわとする身体を叱りつけ、ブラウスを脱ぐ。

 ふと、洗面台の鏡に映る自分が目に入り、ぞっとした。

(一瞬、お姉ちゃんに見えた)

 似てないといっても、ふとした表情。仕草が似るときがある。思えば、姉はいつもこんなふうに幸せそうな顔をしていた。

(そういえば)

 ふと、まつりはあることに気付く。

 父親は、どうしてこのタイミングで姉の行方に気づき、直接、死亡を確認したのだろう。裏のことが露見する可能性は、低いほうがいいのに。リスクを考えるのなら、二度と会わないだろう。

(まさか)

 あの父親が動いたということは、彼自身が動く理由があった。そして、しおり側にも父親側にも死んだことにしたほうが良い理由があるのだ。

 もし、佐久真の近くで別の人生を送るために、『氷田しおり』を抹消しなければならなかったとしたら。そうまでして、氷田しおりを消したい理由は何か。

 ドクン――心臓が早鐘を打つ。

 どうせならこのまま、打ち続けて壊れて、悪夢のような事件を終わらせてほしかった。

(何があるというの? 教えて)

 まつりは唇を噛み、鏡の中の自分に手を伸ばす。鏡越しにしおりとは違う、耳についたクローバーのピアスに触れる。

 佐久真の「どちらが正義か」という言葉が蘇る。

 しおりが佐久真の傍にいるのならば、そして佐久真がそれを許しているのならば。きっと佐久真にはしおりを傍に置く理由がある。知らなければいけない。なんとしても。

まつりはゆっくりと息を吸って、もう一度鏡を見る。そこに映った自分は、先ほどとは正反対の険しい顔をしていた。

 クローバーの花言葉は『約束』。

 まつりはピアスに触れ、そして、御守代わりに首から下げているペンダントに触れる。胸の中央で、蛇の絡みついた十字架が揺れている。しおりがまつりの就職祝いにくれたものだった。

『たくさんの人を救ってね。まつりちゃんならできるわ』

 あの約束を、果たさなければ。

 まつりはごくりと生唾を飲み、下着をとった。

(蛇は罪、十字架は命――)

 命をもって罪を償う。これを渡された時は気付かなかったが、もし、この十字架もクローバーのように何か意味があるのだとしたら。

 しおりにはマトリを受けると言っていた。合否について濁したまつりに、なんとなくだが気付いていたはずだ。マトリになったまつりに、しおりが渡した意味は何だろう。

 息が詰まりそうになった。

(真実を、知らなくちゃ)

 あのときのような、悲劇をもう二度と産んではいけない。

 まつりは浴室に入り、お湯を出す。湿気が一気に広がって、水滴がネックレスを伝う。

 まるで蛇が涙を流しているようだった。


   *


 お昼を食べ終え、事務所に向かう。

(やば、急がなくちゃ)

 今朝は支度が遅くなり、ギリギリになってしまった。昼休みはせめて誰よりも早く席につかなければ。学生の頃から使っている腕時計を確認した。なんとか、10分前に辿り着いた。

 ほっとしながら室内に入ると、そこに佇んでいたある人物に目を奪われる。硬直するまつりに、彼女は話しかける。

「久しぶり」

 そこにはふわふわのコートに身を包んだ百愛がいた。

「皆は?」

「……えっと、皆さん外に出てます。っていうより、よくここに入れましたね」

「忘れ物したから取りに来たいって言ったのよ。嘘だけど」

 小さく笑い、百愛はまつりに箱を差し出す。

「あげる」

 まつりは戸惑いつつもそれを受け取る。

 驚いてばかりのまつりに、百愛は優しい声で語りかけてくれた。

「実家の青森に帰るの。妊娠したみたい」

 その告白に、一瞬息をするのを忘れた。

「最後になるかもだから、お礼にお菓子。一番お気に入りなのよ、それ」

 にっこりと嘘みたいに綺麗に笑った。心臓が跳ねる。

 取り調べには百愛も応じてくれた。だが、憔悴している中での取り調べに、時折苛立った様子を見せたり、泣いたりしていた。こんなことになるなら、話さなければ良かったとも。

「あの、この度は――」

「謝らないで」

 まつりが言うのを遮って、百愛の声が響いた。

「どうして、ですか。こんな風にお礼を言われるような状況じゃ……」

 でも、と百愛は静かに、悲しみを絞り出すように言った。

「百愛ね。あいつが死んだとき悲しかったの。なんでって、あいつを助けたかったのにって。でも、課長さん。わざわざ家に来て線香あげてくれたのね」

 熊ケ谷が手を合わせに行っていた――まつりは百愛に責められても庇うと言った彼を思い出した。

「皆、あいつを悪く言うんだ。あいつの実家まで、縁を切ってるとか言って葬式もこなくなってさ。百愛は百愛で、あいつを売った裏切り者とか言われて」

 百愛の声は震えていた。泣いているのだと気付いた。

 悔しくて、不甲斐なさに全身が震える。まつりは彼女の泣き顔を目に焼き付けた。

「あの人だけだったの。お線香あげにきてくれた。そしてね、だいちゃんは百愛を守ろうとしたんだって教えてくれた。百愛は知らないふりしてた。自分を守るため、だいちゃんに負担させてた」

 百愛ははっきりと言った。

「課長さん、赤ちゃん手帳に気付いて言ってくれたの。元気な子供が生まれますようにって。百愛、いっぱい酷いこと言ったのに。悪いのは百愛なのに」

 嗚咽が漏れ始めた百愛を、止める術を知らなかった。

「百愛、皆を恨めない。まつりちゃん、明くん、皆必死に頑張ってくれたの本当は知ってる。あいつを見殺しにするつもりはなかったって。でも百愛は自分を守るため、酷いことばかり言った」

 ごめんねと一言、泣きながら百愛が言う。

 その言葉にまつりの目にも涙が浮かぶ。ぽつりと落ちた滴が、菓子箱の熨斗を濡らした。

「百愛さんの大事な人を本当にごめんなさい。お子さんが元気に健やかに育つことを祈ってます」

「命に代えても守るよ。薬だけはやるなって言う」

 冗談めかして、百愛が言う。

 その目が、ふと哀切に歪んだ。そして、真剣な目がまつりを掴んだ。

「ねえ。百愛があいつを告発したの、間違いじゃなかったよね」

 確かめるような言葉には迷いが見えた。きっとたくさんの心無い言葉に傷ついて、自信を失くしているのだ。いつもの百愛らしからぬ、不安げな様子にまつりは胸を痛めた。

 自信満々そうで明るい華のある百愛。あの彼女が、こんなにも悲し気に萎れそうになっている。

 そんなのは駄目だ。彼女は間違ってない。それだけは――胸を張って言える。

「はい。百愛さんは正しいことをしたんです。それは私たちが保証します」

 はっきりと言うと、百愛はどこかほっとしたように表情を緩めた。

 そして「良かった」と柔らかな声で言う。

「まつりちゃんやここの皆も正しいことをしたよ。それは百愛が保証する。だから、お願いだから、今度はだいちゃんを殺した奴らを捕まえてね」

 佐久真の顔が浮かんで、全身から血の気が引く。

 百愛はそっと小指を差し出した。契ろうと、まつりも小指を差し出す。その指は顫動していた。

「約束、だよ」

 まつりは震える小指をしっかりと絡めた。

 佐久真の残像を振り払うように、強く絡める。

 これからだ。熊ケ谷が言うように、落ち込んでいる暇なんてない。

 皆が前へ進むために。いま、自分のできることを精一杯するだけだ。

 

  *


 百愛が来た旨を久住に告げると、少しの間だけ動きを止めた。

「なるほどね、百愛ちゃんの子ども。かっわいーんだろうなぁ」

 椅子の背もたれに身を委ねながら、嬉しそうな顔をする久住にまつりは目を丸くする。

「へえ……じゃあなおさら、妃早さんと別れたの早まりましたね」

「あー。好きだけど、自分の子どもはいらねぇ」

「なんで!」

「犬や猫と一緒。かわいいからって育てられるとは限らねぇだろ」

 からからと笑いながら、彼はいつものように煙草を口に含んだ。

「お嬢は? 二六年間彼氏がいないようだけど」

「私は欲しいです。自分の子ども、かわいいに決まってます!」

「女ってそうなんだなー。俺は一回もねぇよ。自分の子どもなんて、怖くて想像もできない」

 久住の暗く沈んだ声に、引き寄せられた。

 怖い、というのはどういうことだろう。

 まつりはあることを思い出した。久住が以前暴力団の末端と連絡をとるために潜入捜査をしたとき。体に無数の傷があり、肝が据わっている久住を向こうが完全に信用したというのを。

(体に傷……)

 もちろん、捜査の過程でついた傷もあるだろう。だが、おそらくは違うはずだ。

 虐待された子どもは、自分の子どもも虐待する。そんな根拠のない噂を鵜呑みにしていたら――嫌な想像が頭を過ぎった。

「久住さん、あの」

「やめやめ。っつーか、百愛ちゃんも俺のエスなのに、俺じゃなくてお嬢に最後の挨拶とか」

 苦笑すると久住は煙草を消し、熊ケ谷の机の上に置いた菓子箱から一つを取り出した。それを感慨深そうに見つめたあと、ラッピングを剥いていく。

「でも、お嬢はそういうとこが良いんだよ。上辺だけじゃない信用を、お嬢はとれる」

「信用って、とるものではない気が……」

 真剣な返しに久住は笑い、菓子を口の中に放り込んだ。

「あっま!」

「それ甘いですよね。美味しいですけど」

「甘々だよな。お嬢みてぇ。甘いと、いつか騙されるぞ」

 その目は笑っていない。

 まつりは口を閉じ、久住を見据える。少し怒っているような瞳が、ゆっくりとまつりから外れた。

 久住は無言で菓子を見つめている。何を思っているのか、その綺麗な顔からは汲み取れない。

 少し寂しそうに見える顔が気になり、まつりは皆が来るまで彼を食い入るように見つめていた。  


   *


 春の匂いがする、とニュースでは言っているようだが、初春というのは風も強く、寒い。

 夜になると、日が落ちて気温も低くなるのだ。

 薄手のニットワンピースに、コート一枚を羽織っただけでは、風が吹くたび体が縮こまる。

「うー、寒い」

 まつりが唸り声をあげるお腹を押さえて時計を見ると、時刻はもう夜八時を回っていた。売店も食堂もとっくに閉まっている。

 仕方ない、と立ち上がり、皆の夕飯を買ってくることに決めたのだ。

 庁舎から出て区役所を通り過ぎた先――というと遠く感じるが、一本道なうえにほんの数分だ。

 一区切りついたら妃早も行くと言い、危ないからコンビニの中で待っているように、と。

(でも、これじゃあ)

 棚卸作業中、と大きな文字の張り紙が入口に貼られていた。中で待つのは無理らしい。

 立ち尽くすまつりを、店の前を掃除している店員が訝しげに見ている。

(もう一つ先まで行かなきゃ)

 ただでさえ、このお役所ロードは夜になると人通りが少ない。コンビニまでなら、最悪ダッシュで駆け込めばなんとかなるが、その先は別だ。

 携帯を取り出して、妃早に電話をしようと歩きだした、そのとき。

 掃除していた店員が、こちらを気にしていたせいか、持っていたホースを手放した。

「きゃっ!」

「うわっ、すみません!」

 ホースは見事にまつりのコートや服を濡らす。

(さ、さむ! 凍る!)

 震えるまつりを見て、店員があわてて中に駆け込み、タオルとお茶を持ってくる。

「これ温かいお茶です。すみません、寒いですよね。本当にどうしよう」

 紙コップに入ったお茶を差し出された。飲むと、出がらしなのか少し苦い。まつりの反応を窺うように、店員がこちらを見ている。急いで飲み終えて、まつりは空のカップを渡した。

「あ……大丈夫ですよ。職場が近くなんで。用があるのでもう行きます」

 そう言って、まつりは引き返そうとした。

 そのとき、人影がさっと電柱に隠れるのがわかった。

(あまり鉢合わせないほうが良いかな。とりあえずは)

 第一、ここまで来たならば庁舎に戻るよりも、先にある店のほうが近い。

 携帯で妃早を呼び出しながら、まつりは引き返すのをやめ、コンビニを通過した。

 何回かのコールの後、妃早が出る。

「妃早さん? まつりです。あの、実はさっきから――イヌがいるんですよ」

 妃早がはっとしたのが息遣いでわかる。元警察だったらイヌはスパイや密偵を表すと知っている。

「とりあえず、近くの飲み屋に入りますね。待ってます」

 努めて明るく返事をしてみせて、まつりは先を急ぐ。

(とりあえず、あと一つ越えたら、飲み屋街。さすがにそこでは何もできない)

 まつりは最新の注意をはらいながら、前へ進む。

 自分の呼吸が耳にうるさい。落ち着け、と叱咤をして足を進める。ふと、見覚えのある車が交差点に止まっていた。まつりの全身が硬直する。

 いつも通り、甘い顔に似合わぬ、きつい煙草を吸って、佐久真が車の前で待っていた。

 足音で気付いたのか、彼はまつりの姿を確認すると、柔らかに微笑む。

「やあ、まつりちゃん。そんなに急いでどこ行くの?」

「あ……この先の飲み屋で先輩たちと待ち合わせなんですよ」

 緊張のため喉はカラカラで、声も掠れていた。なのに生唾はどんどん溜まっていく。

「そうなんだ。へぇ、それは残念だね。まつりちゃん――そこには行けないから」

 後ろをつけてきた人物が距離を詰めてくる。まつりは素早く目でそれを追いながら、佐久真にも注意を向けた。

「さすがに慣れてるね。一筋縄ではいかないかな?」

 まつりは後ろにさがりながら、相手が動くのを待つ。

 体格や力の差は相手の方が確実に上だ。ならば、無理をしないで相手の力を利用したほうが良い。

 そう思って思考を巡らせていた矢先、ガクンッと膝から落ちてしまう。

「……え? なんで?」

 起き上がろうとしても、身体に力が入らない。

 佐久真がくすくすと笑っている。

 そして倒れているまつりに合わせるようにしゃがみ込んだ。

「あのコンビニは君を観察するために、部下にやらせてるお店でね。君が外へ出たら連絡をもらってたんだ。今回、君が一人だったのは好都合だった」

「……ストーカーって、呼んでもいいですか?」

「はは、光栄だ。水が冷たくて悪かったね。君に薬を飲ませる機会が、あそこしかなかったから」

 迂闊だった、と思った。いつか騙されるという久住の声が頭の中で蘇る。

「僕はね、やっぱり君が持っていると思うんだ。この間の君の反応で確信した。゛金の泉゛の場所」

 そういうと佐久真は、動けないまつりの耳元に唇を近づける。

「ねえ。そのピアス、君の趣味とは思えないんだけど。誰から貰ったの? ずっとつけているよね」

 佐久真はそのまま、ピアスに優しく口づけた。

 まるで確信をしているように、期待を込めるように。そっと。

「まぁ、とりあえず君の先輩が来ないうちに」

 佐久真は立ち上がった後、真っ赤に染まったまつりの顔を満足そうに眺め、まつりの腕を優しく引っ張った。抱き起こされ、そのまま担がれる。

「君は昔からあまり体重が変わらないなあ」

 嬉しそうに佐久真はそう言った。

 幼い頃、佐久真に肩車をしてもらった頃は、こんな風にさらわれることなど想像していなかった。

(妃早、さん)

 まつりは車に入れ込まれる瞬間、願いを込めた。

「足が動くようになったら着替えよう。君にプレゼントしようと思っていた服がある」

 そう言って佐久真はブランケットをかぶせた。

 車内の温度も少し温かい。まつりはシートに身を委ねた。大人しくなったまつりを、佐久真が嬉しそうに見る。その視線から逃れるように、まつりはゆっくりと目を閉じた。

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