後編
「いでででででででっっっっ!!!!」
「どういうことかちゃんと説明しなさい。さもないと頬をちぎるわよ」
「ぼぼばぎぎああいでぇ~!!(頬はちぎらないでぇ~!!)」
「自分が何をしたのか、はっきりと自分の口から言うこと。お母さんが納得しなければ、今日のご飯はなし」
「あべべぼー!! ぼべばぼばむー!!(やめてよー!! それは困るー!!)」
「……もうその辺にしといてやれよ」
相変わらず表情の読めない顔をして自分の息子を叱る氷天に、さすがのシェドもげんなりとしてそう言うしかなかった。
氷天はざっくり言えば、シェドやレイナの旧友だ。シェドやレイナが冥界に住んでいるのに対して、氷天は冥界でも現世でもない、また別の世界で普段は暮らしている。そして瑞雷と呼ばれたこの少年は、氷天の息子らしかった。
「そういや、どうしてこっちに?」
「少し、休暇で。ちゃんと許可は取ってる」
実は氷天はとある事情から、冥界や現世に行くには許可を取らないといけないことになっている。もっともシェドは別にそんな面倒なことしなくても、と思っているのだが、そんなに柔軟にはいかないらしい。
「玖雷は?」
「どうしても仕事で抜けられなかった。だから、今は瑞雷と二人で来ている」
「そういや氷天も学校の給食作る仕事だー、とか言ってなかったっけ。よく抜けられたな」
「生徒の人数が多い分、作る人も多いから。交代で何日かまとめて休みがもらえるようになってる」
「へえ……」
氷天がその昔第一線で活躍する、ものすごく強い人だったことを考えると、やはりどうしてもくすぐったいというか、変な気持ちにシェドはなった。戦うのと給食を作るのとでは、正反対の仕事なのではないか、と思ったのだ。
「向こうに帰るときに武器もこちらに預けたから、戦うことはできない。それを機に、穏やかに暮らそうとは考えてる」
「でもさっき息子に向かってえげつないの放ってなかったか?」
シェドの疑問を見越したかのように、氷天が言った。
氷天が持っていた武器は水色の刀で、様々な方向に自在に刀の軌道を放ち攻撃できる、というものだった。その武器を持っていないはずの今の氷天が、どうして息子に向かって同じような威嚇をできたのか。というよりも、息子に向かって容赦なく一歩間違えれば死ぬような攻撃を仕掛ける方がよほど問題だとは思うが。
「あれは威力だけ元のままの、ハリボテにすぎない。いくら刀が自分の手から生成できると言っても、作った状態で没収されれば意味がない。けれど、刀を作らないまま同じような威嚇ができることを、最近知った」
「ええと……つまり、あのドカーン、ってやつが人に当たっても、死にはしないんだな?」
聞いているうちにだんだん分からなくなってきたので、シェドはだいたいそんなもんだろう、とざっくり理解することに決めた。
「そう、死なない。さっきは公園の砂に当たったから大量の砂ぼこりが舞っただけで、実際直撃しても、せいぜいドアノブを触って静電気が走った時の痛み程度しかない」
「……地味に痛えじゃん」
でも死なないから大丈夫か。シェドの感覚はまひしていた。
「……というか、あれを息子に向けるってどうなんだよ」
「瑞雷は間違ったことをしたから。罰を加えるべきだと思って、ああした」
「そりゃ、間違ってはいるんだけど……」
シェドは氷天の対応の何かが間違っている気がしたが、うまく言葉で表せなかった。何も言わなかったからか、氷天が続けた。
「実はこっちには、何日か前から来てた。せっかくだから、って言われて多めに休みをもらったから、久しぶりに冥界に来てゆっくりしようと思ってた。けれど、やっぱり瑞雷が悪いことをしていた」
「ん? やっぱり? 分かってたのか」
「最近の瑞雷はわがままだから。私の言うことを聞こうとしないし、玖雷が少し言い含めてもどこで覚えたのか、舌を出していーだ、って反抗するばかり」
「親の言うこと聞かないのは、まずいな」
「学校でもすぐ暴れたり、他の子に偉そうにしたり。ケンカして相手の子に怪我をさせて帰って来たこともあった」
「……」
それではまるで問題児だ。今はその程度で済んでいたとしても、いずれ何かのきっかけで大問題になることは間違いない。
「それに比べてシェドのところは、あまり問題を起こすような子には、見えないけど」
「そりゃな。あっちこっち問題児ばっかでも困るだろ」
「何か、特別なしつけをしたの?」
「しつけって……ペットじゃねえんだから」
「特に何も考えずに育てるだけでは、あんなに正直な子どもは育たない。私は不思議でならない」
「そんなこと言われてもなあ」
シェドは興味津々、といった顔で覗き込んでくる氷天に困惑するしかなかった。何せ、特に子育てでこだわっている点などないのだ。すでに子どものいる先輩家族にいろいろ聞いてみたりして、参考にしながらいろいろ試してはいるが、自慢できるような我流の育て方はしていなかった。
「……私は普通には育てられていないから」
「突然?」
氷天がポツリと言った。どこか寂しげな顔だった。
「楽しくて、明るい家庭だったのは本当に幼い頃だけで、あとはその日の食事を確保するだけでも精一杯、ということもざらだった。そんな状況下で母親は愛情を私に注いでくれなかったし、無理をしてまで注いでほしいとは望まなかった。だから逆に私は、息子に対する愛情の注ぎ方が分からないのかもしれない」
「そんなことねえよ」
シェドは気付けば氷天にそう言っていた。少し強い、下手をすれば怒っているんじゃないかと勘違いされるような口調で。
「え……?」
「愛情を注いでもらえなかったとか、そんなことはあまり関係ない。いや、自分の性格には影響が出るかもしれねえけど……でも俺は、息子をちゃんといい子に育てるってことが、氷天に不可能なことだとは思わないな」
「でも現に私は、瑞雷の育て方を間違えているのに」
「確かに間違ってるかもしれない。あんまり人の子育ての仕方にやいやい言うのも何か違う気がしないでもないけど、あんだけわがままで自分勝手な子になってるってことは、たぶん何かが間違ってるんだ。けど同時に、全部間違ってるってわけでもない。……今、ふと思ったんだけどさ」
シェドには一つ、思い当たることがあった。氷天が本当に人並みの愛情を受けずに育ったのだとしたら。そのやり方を知らなくて、息子にもどうしてやればいいか分からないのだとしたら。
「なに?」
「氷天って、自分の息子のことを褒めてやったことってあるか?」
「褒める……」
「別にものすごいことを出来た時だけじゃなくていい。何でもないことでも、その努力を認めて褒めてやるって、大事なことな気がする。もしかしたら氷天はそういうことに慣れてねえのかな、って気がしてさ」
シェドはどんな時にまだ幼いトクやノゾムたちのことを褒めているか、氷天に話した。それは確かに何でもないことだった。テストでいい点を取ってきた時はもちろんだが、少し苦手なメニューでも給食を頑張って全部食べてきた時とか、もっと何でもないことで言えば、鉛筆や消しゴムをこんなに小さくなるまで使ったとか。もちろん叱る時もある。悪いことをすればきちんと叱るが、いいことをしているのを見つけたら褒めてやる。人のいいところを見つけてやるのは難しいことだからこそ、シェドは進んでそのことをしようと思っていた。
「……確かに、言われてみれば。私は瑞雷のことを、ほとんど叱ってばかりだったような気がする。時には、感情に任せて怒ることも」
氷天は一見冷静そうだが、そんな彼女でも感情的になることがあるのか。
「……私も普通の死神になろうとは、努力しているから。喜怒哀楽をなるべく表に出していこうとはしている。もちろん、あまり表に出しすぎても不自然なことは承知の上で」
「よかった、氷天も変わろうとしてくれてるみたいで」
「シェドは思ったことがすぐに顔に出るようなタイプだと予想する」
「いや失礼なこと言うな。そこまでひどくないからな」
「私とシェドを、足して二で割るくらいがちょうどいい、ということね」
シェドはため息をついた。まさかそんな馬鹿みたいなやつに思われていたとは。
「……と、とにかくだな。まだ物心もついてないような子どもに、感情的になるのはよくないと思う。俺もそこまで子育てが上手いわけじゃないから、時々油断してたら感情的になって子どもたちに怒ったりするけど、それは本当はよくないことだと思う。いくら褒めても悪いってことはないから、氷天も素直に瑞雷のことを褒めてやる機会を増やしていってほしいな」
「シェドはかっこいい」
「……え」
「こういうことよね」
「あ、……ああ。そういうことではあるけど」
氷天なりの冗談だったらしい。シェドを練習台に使ったのだ。
「ふふ。大の大人がこういったことを面と向かって言われると、顔も赤くなるわよね」
「い、今のは不意打ちすぎるだろ」
「けれど、少し分かった気がする。確かにこれは、私がこれまで感じたことのない気持ち」
氷天は少し笑顔を浮かべていた。シェドも氷天に大切なことを教えられたのかな、と安堵して同じような笑顔になっていた。
「もう帰るのか」
それから数日後、冥界の中心にある駅のホーム。氷天は冥界での滞在期間を終えて帰るとのことだったので、シェドはレイナとともに見送りに来ていた。ホームには図体の大きい特別列車が止まっており、氷天と息子の瑞雷の他にも、冥界と氷天の住む国とを行き来しようとする死神たちがぞろぞろと乗り込んでいた。また後ろの方の車両では駅の職員が数人がかりでダンボール箱や発泡スチロール箱を積み込んでいた。この列車は乗客を乗せるのに加えて、余ったスペースで貨物も運んでいるのだ。
「ええ。明日には休暇が終わるから。玖雷も待っているし」
「そうか。玖雷は留守番だったのか」
「玖雷と休みを合わせられなかったから。ごめんなさい、うちの瑞雷が迷惑をかけて」
「いやいや。大丈夫だって、気にするなよ」
当の瑞雷はこれ以上余計ないたずらができないように、しっかりと氷天の腕に抱きかかえられていた。シェドと話をした後に瑞雷は何か言われたのか、そうやってほとんど身動きの取れない状態になっても特に暴れたりする様子はなかった。
「帰っても他の子に意地悪したりするなよ。友達いなくなるぞ?」
シェドが念のため瑞雷にそう言うと、こくこく、と瑞雷は首を縦に振った。どうやら相当長い時間母親と話をしたらしい。もうあんなことはしません、と顔が語っていた。
「今の私には、たくさん瑞雷のことを褒めてあげるというのは、難しいかもしれない。でも、シェドはそのことに気付かせてくれた。気付けたから、改善することができる。いろいろ試行錯誤しながらでも、やってみる。また、レイナやシェドに助言を頼むかもしれないけれど」
「ああ、もちろんだ。いつでも来い!」
シェドは自信たっぷりにそう言った。隣で話を聞いていたレイナもニコニコしてうなずいていた。
『まもなく発車します、ご乗車の方はお急ぎください』
そうこうしているうちにホームのスピーカーから駅員のアナウンスが流れた。氷天の暮らす国に向かう列車は、この便を逃せば次は二時間後だ。ここで乗り損ねて待つというわけにはいかなかった。
「じゃあ。また、会うことがあれば」
「ああ、またいつでも、冥界に遊びに来てくれよな」
「ええ」
氷天と瑞雷はいそいそと列車に乗り込んでいった。それを待っていたかのように列車の扉が閉まり、加速を始めた。シェドとレイナの見送るその列車が完全にホームから出て行ってしまった後、レイナがぽつりと、シェドに語りかけるように言った。
「変わったわね、氷天も」
「そうだな。まだちょっと面影はあるけど、だいぶ丸くなった。あ、太ったって意味じゃないからな」
「分かってる。確かに、とげとげしさはなくなったかも。こう、近付いたときに怖さを感じることも、全然ないし」
「それは確かに。氷天がこうなることを、望んでたのかな」
「どうだろうね。ウラナが本当は氷天にどうなってほしかったか……それは本人にしか分からないけど、でも間違ってはないと思う。氷天には、いいお母さんになってほしいね」
「そうだな」
駅のホーム近くには桜が咲き、花びらが舞っていた。普段暗くて太陽の光の恩恵がない冥界でも咲くように進化した、特別な桜だ。列車が行ってしまったタイミングで風が吹いて、その花びらがシェドたちに答えるようにいっそう多く舞った。