前編
冥界。
それは死神と呼ばれる者たちが暮らす、この世には存在しない場所。有り体に言えばあの世、とか死後の世界というやつだ。正確には少し違うのだが、だいたいそんなものだと思ってもらっていい。
死神はその冥界を拠点として、現実世界――すなわち、現世に赴いて、彼らにしかできない仕事をしている。それは死んだ人の魂を、きちんと送り届けてやること。
死んだ後に何の未練もないまま成仏してゆく人間の魂は少ない。たいてい何かしらの未練を抱えて、現世にとどまっている。それはもう一度婆さんに会いたいとか、遺言を言い残すのを忘れてたとか、もっと豪遊したいとかと様々だが、現世に残った魂は本人たちが意識しないうちに生きている人間に悪影響を与えてしまう。呪われたとか、祟られたとかいうのは魂が悪さをしたせいだ、ということになる。そんな魂の未練を晴らして、成仏させてやるのが死神の仕事だ。
「あー、今日も一日終わったなー」
一方で死神たちが冥界という、国家に近いものを構成している以上、冥界にとどまって治安を維持したり、上の者による統治が潤滑に行われるように補佐する役目も必要になる。少し定時より早く仕事が終わって意気揚々と家路につくこのシェドという男も警察省勤務だし、彼の妻であるレイナも、冥界の機密を一手に請け負い管理する冥府機密省勤務である。
「今日はレイナは遅いって言ってたから、飯作らないとな。何にしよう」
シェドとレイナは結婚してもう百年ほど経つ。驚くかもしれないが、死神の寿命の相場はおよそ千三百年なので、それほどでもない。
彼らには息子と娘が合わせて十人いる。これはレイナが子だくさんで賑やかな家庭がいい、と言って譲らなかったからだ。実際いつも賑やかだし、一番上の二人はほとんど成人に近いので、下のちびっ子たちの勉強の面倒を見てくれたりして、基本的にみんな仲がいい。レイナも願い通りになって嬉しそうだった。
そしていつもならこの時間に帰ると、すでに学校から帰ってきた息子娘たちと、上の二人のどちらかが出迎えてくれる。
いつもなら。
「ただいまー」
「うわあああああん」
シェドはいつもと違う雰囲気を感じ取って、一気に警戒モードに入った。よほどのことがあったのか泣き叫ぶ声まで聞こえてきた。
「あ、お父さん……」
誰かが帰ってきたことに気付いて家の奥からひょっこり顔を出した人がいた。十人の中でも一番の年上である、長女のカノンだ。金の瞳にきれいに整った金の髪をしたレイナの特徴をきれいに受け継いで、かわいいというより美しく育った子だ。父親のシェドから受け継いだものと言えば、せいぜい申し訳ない程度のアホ毛だろうか。今日も前向きにぴょこん、と一本伸びていた。
そんなカノンも家ではエプロンをつけてちびっ子の一人を抱っこしている。その時のカノンは柄にもなくあたふたした様子だった。
「どうしたんだ。そんなにきつく叱ったのか」
「違うわよお父さん。帰ってきてからずっとあんな調子で……。話してごらんって言っても首振ってだんまりするばかりで。お父さんに話を聞いてほしいんだけど」
困った様子でカノンが言った。たいていカノンがそう言えばちびっ子たちはおとなしく何があったか話すのだが、カノンにも言いたくないこととは何なのだろうか。
「分かった。カノンはご飯作っててくれないか」
「うん。お母さんももうすぐ帰ってくるみたいだから、お願い」
シェドは話を聞くなり、奥の部屋にいたちびっ子たちのもとへ向かった。
「どうした? ……って、みんなかよ」
三男のナツヤ、五女のマイカ、四男のトク、五男のノゾム。現世で言うところの小学校低学年である四人が固まってしくしく泣いていた。
「カノンに言いたくないって、一体何があったんだ」
「……いじめられた」
「いじめられたぁ!?」
シェドは素っ頓狂な声を上げた。いじめられたなどという話を生で聞くことになるとは思わなかったのだ。
「もっと詳しく聞かせてくれ」
「公園に行ったら……知らない男の子がいて、どけ、来るなって。この公園はオレ様のものだー、って」
「……は?」
そんなことで泣いてたのか、という意味の返事ではない。そんなキザなというか、訳の分からないことを言う奴が今時いるのか、という思いからだった。
「……何歳ぐらいだった?」
「私たちと同じくらい」
五女のマイカがじっとシェドを見つめて言った。
「そりゃそうか、そんなもんだよな。いい大人がそんなこと言ったとは考えられないし……」
「水色だった」
「水色? 何が?」
「髪の毛とか、目の色とか。きれいな水色だった」
「何か聞いたことあるような気もするけど、あれは違うしな……。そんな奴この辺にいるって、聞いたことないぞ」
シェドは十人の子どもの父親ということもあって、近所のいろんな人と会えばそれなりに話すような関係を築いている。冥界と言えど、お隣さんとの関係は重要なのだ。そんな近所の人たちの家に、やんちゃな水色の髪と瞳をした男の子がいるなどという話は聞いたことがなかった。
「とりあえず、気にするな。また休みの日にどんな奴か探し出して叱ってやるから、とりあえず宿題の時間だ」
「「「「……はーい」」」」
四人はご飯の時間まで、大人しく宿題をするべく机に向かった。
* * *
それから数日後。
シェドは休みの日にカノンにちびっ子たちと留守番してもらうように頼んで、外に出ていた。隣には同じく休みをとった妻のレイナがいた。
「いつもあの子たちが遊んでいる公園って、例の公園よね」
「だろうな。あの公園が一番近いし、わざわざ違う公園に行くとは考えにくい」
二人の間では通じる話だが、彼らの家の比較的近くにある公園だ。大きすぎず小さすぎず、といった程度の規模で、近くを通りかかればよく楽しそうにはしゃぐ子どもたちの声が聞こえる。休みの日なんかは、特ににぎやかなはずだった。
「……おかしいな。いやに静かじゃないか?」
「確かに。今日は何か特別な日だった?」
「いや……そんなことなかったと思うけど」
それは公園に近付くにつれ、よりはっきりと分かった。いつもは聞こえてくる喧騒というものが、全くと言っていいほど聞こえてこなかったのだ。二人は少し早足になって公園の入り口まで着き、中の様子を見た。
「言っただろ? この公園はオレのもんなんだよ! 分かったらさっさと出てけ!」
「そんなこと分かってたまるか! この公園はみんなのだ!」
「お? 言うねー。そんなにこの公園がほしいなら、力づくでやってみろよ!」
「うおおおおおーっっ!!」
ジャングルジムのてっぺんに堂々と座って偉そうなことを言う男の子と、懸命に反抗しようとしている三人の男の子。偉そうな方は水色の髪に水色の瞳。一目でマイカたちが言っていた子だと分かった。その子は悪そうな顔でにやりと笑った後、ジャングルジムから華麗に飛び降りた。そしてそれを待っていたとばかりに、半泣きになりながら三人の男の子たちが飛びかかる。
「バーカ、弱いんだよー」
それらをきれいにかわし、顔面目がけてパンチを繰り出す。あっという間に三人とも倒れ込んでしまった。
「あいつ……! なんてことを!」
シェドがついかっとなって、公園の中にずかずか入っていってしまった。
「お? なんだよお前、こいつらのオヤジか?」
「お前、自分が何やったか分かってんのか」
「何やったも何も、成敗してやっただけだ。こいつらが弱いのが悪いんだよ」
彼は大人が出てきても全く動じることなく、むしろシェドを挑発してみせた。
「やるかあんたも。オレ様がボッコボコにしてやる」
相変わらず余裕の笑みを浮かべながら、男の子がシェドに向かって飛びかかった。
その時だった。
「瑞雷! やめなさい!」
その男の子の名前を叫びながら、別の女性が公園の中に入ってきた。
「やべっ!」
「やべっじゃない。待ちなさい」
女性がそう言った瞬間、瑠璃色にも似た光線が二本飛び、地面に激突して大量の砂ぼこりを舞わせた。視界が遮られ、吸い込んでしまった砂ぼこりで激しく咳きこむ男の子を、女性は軽々と抱えた。そして呆然とするシェドの方に歩み寄り、声をかけた。
「……久しぶり。シェド、レイナ」
その姿と声に、覚えがないはずがなかった。
「氷天……?」