不機嫌な理由
私に切り傷という屈辱を与えた後、さっさと、まるで期待外れ用無しとでも言わんばかりに背を向けて消えた勇者。
あまりの舐めた態度に反応出来ず、その背を呆然と見つめ、はっと気が付いた時には彼の気配は微塵もなし。
この怒りを何処にぶつけてやろうかと考えるも、そのまま純白の城に乗り込むのはどう考えても頭がおかしい。そんなのは単純頭、単細胞のジョーゼフではないか。
どうにか自分を落ち着け来た道を帰ることにする。が、はたと気づく。
今纏っている服は水に濡れ、ここまで羽織ってきたローブも少女に被せたきり、返してもらうのを忘れていた。
門までは普通に、人間の目を盗んで飛べばいいとして、門番になんと説明したものか。
馬鹿正直に話してなるものか。魔王様側近が一人ジベット・ハイネダルクが人間の娘を助けたなど士気に関わる一大事だ。
だからといって、何?誤って川に落ちたとでも言えと?さすがにそれもどうなんだろう。
女性隊員なら「ジベット様ったらそんなおっちょこちょいな一面もあったんですね!可愛らしい!」と笑って流すだろう。いや、それすらも少し…いやかなり恥ずかしいんだけれど。
けど門番は男。笑って流してくれるとはどうも思えない。
…………あぁ、もう。
なるようにしかなるまい。
私は服や髪が含んだ水分を出来るだけ絞り、なるべく遠回りをして飛び、服を乾かすことにした。
数刻後、纏っていたローブについて門番に指摘されるまでは何とかなると思っていた。
「……なぁ、どうしたんだよ」
城に帰って早々、魔王様に報告をしなければと執務室に行ったのだが、魔王様はどうやらサボりに逃げてしまったあとで、そこはもぬけの殻。
私が大変な目に合っていた時にあの男はそんなことも知らずサボっていたのね、とフツフツと怒りが湧いて魔王様愛用のペンを折ってやろうかと思ったが、物に当たるのはよろしくない。
仕方なく書類でまとめて出そうと、勇者の容姿と、少し手合わせした時からみた力量、彼の仲間たちについてを丁寧にまとめていたら、兵士たちの訓練を終えた後らしきジョーゼフにそう尋ねられた。
おかしいな。服は帰ってきて真っ先に着替えたし、髪もきちんと乾かしたはずなのに。
「なにが?」
「いや、何って……おま、それ……」
ジョーゼフはそこで言葉を区切ると、ため息を付いて、所々鱗がのぞく手で、私の前に置かれた紙を引き抜いた。
「………これ、抹消インクだろ」
「…うそ!?」
抹消インクとは、その名の通り。
残しておきたくないが、報告しなければいけない事柄や、他人にバレたくない事などを記す時に便利なもので、書いた時は普通のインクと同じ、しかし、乾いてから一日経てばそこに記されていたことは全てなかったように消える、というもの。
しかし、その材料はどれも貴重なものなので、インク自体高価なのだ。瓶一つで2ヶ月は余裕で贅沢生活できるであろうほどに。
………それを、こんなことで使ってしまった。
はぁ、とため息をつくものの、使ってしまったインクは元に戻らない。もうこのインクは別の場所にしまっておこう。厳重に。
諦めてそのまま続きを書こうと、普通のインクを取り出す。
「お前がそんな間違いするか?常々節約しろーだの無駄にするなーだの言ってるお前が。どうした?大丈夫か?」
唯一の同期であり階級の同じ男の優しさが身にしみるが。
言えない。言ってたまるか。勇者に傷を負わされたなど。
このちゃらんぽらんに言ったが最後、「俺が倍にして返してやらぁ!」と城を抜け出すこと目に見えている。何故か知らないが、幹部の面々は魔王様含め私に甘い気がする。そんなだから時々甘い物が食べたいだの、私が甘えたくなってしまうのだ。
よく分からない思考回路からギリギリと歯ぎしりする私を見て、何かを察したらしいジョーゼフはスっと紙を机に置くと、腕を組んだ。
「まぁなぁ。この頃は目に余るな。仕事をしたくないのは分かるが」
「…………は?」
「しかし、魔王様は腐っても魔王様。女好きでも魔王様だ。ここは堪えろ、な?」
「……………………」
目を瞑り、うんうんと神妙に頷いてみせるジョーゼフ。
なるほど。ジョーゼフは勘違いしてくれているらしい。別に訂正する必要も無いので放っておこう、と目を紙に戻す。
というか、上司に対して腐ってもって言った?
「な?美女に目がないって言っても、サボり魔でも、それでも魔王様だ」
ペンを走らせている間にも、ジョーゼフは私を宥めようと言葉を並べるが、魔王様についてはフォローになっていない気がする。段々と上司を馬鹿にしてるのかと思えてきたけれど、この男は悪気、という言葉を知らないので、きっと精一杯フォローしてるつもりなのだろう。その気持ちは大事ですね、ハイ。
さっさと書き上げて、ジョーゼフに紙を突き出す。咄嗟に受け取ってしまったらしいジョーゼフは、嫌そうな顔をしたものの、意味を正しく理解してくれたらしく、ハイハイ、と手を振って部屋を出ていった。
「………そんなに顔に出てたかしら」
ぺたぺたと顔を触ってみるが分かるはずもない。
元々スラムで生きていた為、喜怒哀楽を知ることも無かった。今思えば惨めで辛かったかもしれないが、その時はそれが普通だったのだから。
こちらに来てから、やっと嬉しい、悔しい等の感情を得て、少しずつ表情筋も動くようになってきていた。
そんな鉄仮面が、この数年で何も隠せないほどに動くようになっているというのか。それは偵察や潜入等の仕事上よろしくない。引き締め直さなければ。
「仕事しよ」
そう、まだまだやることは残っている。上司が仕事を放棄するなら尚更だ。ほんとやめて欲しい。なんの罪もない部下に仕事が降りてくるんだ。
私はぐっと伸びをして、頬を叩いてから、机から立ち上がり、部下の訓練に動き出した。
勇者の力量に適う、とまで行かなくてもいい。せめて死なないほどの力量を身につけてもらわなければ。