魔王の命により
ふぅ、と息をついて、手にしていた童話集を棚に戻す。なかなかに分厚いそれは見た目に違わず重く、一つ読み終わる頃には腕がだるくなっていた。
日々鍛錬や実践戦闘などで重たい剣を振るっているクセに、と言われそうだが、元々どちらかというと華奢な方であるジベットの為に、との計らいで、特注で作られた物なので、武器にしてはとても軽いのである。
ただ、そうはいってもジベットは、左腰には二振りの刀と、右腰に一振りの剣、と計三振りもの武器を下げているため、それだけで鍛えられるものではある。
立ち読みで硬くなった腰を捻り、ポキポキと鳴らしてから、棚の整理を再開した。
本があったら開いてしまうのは私の悪い癖である。
気合を入れ直すため、頬を手で打って、よし、と声を張る。
これが終わっても沢山仕事があるのだ。一分一秒無駄にするべきではないのに。
私にとって、毎日が戦争のようなものだ。
さっさと棚整理を片付けようと、手を伸ばした。
私の覚えている限りで、最も古いものであろう記憶は、荒れ果てたガラクタのような建物が連なった貧困街……所謂スラム。そこで一人ゴミを漁り、毎日毎日、必死に命を繋いでいた。
両親の記憶、というものはなく、とうに死んでいるのか、生きていて、理由があって捨てられたのかすら分からない。何故私はこんな所にいるのか、両親がどんな姿なのかすらも知らずに生きていた。
自分の、尖った耳や背中に生えるコウモリのような羽から、両親の姿を思い描いたりもした。その度、虚しいような寂しいような気持ちが胸を占め、一人涙を流したこともあった。
その為、身の丈にあった服も靴もなく、ゴミの中から見つけた大きくボロボロのワンピースを被り、同じくゴミの中から見つけた、靴紐の切れ端を幾つも繋ぎ合わせたものを腰に巻いて留めた。
靴は、小さいものも大きいものも、片足だけのもあったけれど、見つけては夜、眠って起きた時には無くなっていた。
仕方なく裸足で生活していることが日常だったため、足の裏は傷でボロボロ。初めは血を流していたのだろうけれど、それもいつか固まり、厚い皮のようになっていた。
髪は切ることも出来なかったし、夜の寒さを凌ぐために肩に流したりすれば、それなりの温かさを得られたため、放置して伸ばし続けた結果、引きずるほどまで伸びていた。
元の色が分からなくなるほどくすんでしまった髪や肌を見るたび、このまま生きて、いつか死んでいくのか。誰にも認められず消えてゆくのか。自分が産まれた理由さえないまま死にゆくのが怖く、そう考えてしまう自分が惨めで恐ろしかった。
そんな暮らしをずっと続け、もういっその事死んでしまおうか、など考え始めた頃、あの人に出会った。
この世界で魔王と呼ばれる、あの人に。
スラムに見合わぬ上質なコートに、手入れの施された髪に肌。
好奇心にかられて見に行った私は、彼の従者に捕まって、暗殺を疑われ殺されかけた。
もう生に執着もなく、むしろこのまま死ねたら、美しいこの人の目に写って死ねるのか、など思い、されるがままにされていた私を助けたのは、他でもない魔王様その人で。
死を厭わない態度に興味を持ったらしく。
魔王様の城に連れてかれ、あれよあれよという間にメイドさんに服を剥かれ、髪を洗われ身体を洗われ。
気がついた頃には、汚れで黒くなっていた肌は白く、引きずるほどに長かった髪は膝ほどで切りそろえられ、白銀に輝いていた。
ボロボロだった羽も綺麗に手入れされ、傷だらけの身体には薬が塗られ、ふわふわの、身の丈にあった本物のワンピースを纏わせてもらい、生まれて初めてぴったりの靴を履いて歩いた。
綺麗な見た目になって漸く、再び魔王様の前に出された。
見違えた私に、魔王様は笑顔で一言。
『お前、今から俺の為に戦え』
その日、私は『ジベット・ハイネダルク』という名前を魔王様に頂いた。
初めて呼ばれた日、わけも分からず、ただ涙が溢れて止まらなかった。生まれてから、一度もあげたことの無い泣き声をあげ、それこそ熱が出るまで泣き続けた。
そんな私を、彼の人は厭うでもなく、優しい笑みを浮かべて、抱き寄せてくれた。そして大きな手で頭を撫でてくれた。
私が泣き続け熱を出して寝てしまう迄、抱きしめていてくれた。
その温もりが、優しさが、心から嬉しかった。
嬉しいという感情を、初めて知った。
それから、私は鍛錬の日々。
あの日悪夢から助けてくれた、生きる意味をくれた、希望をくれた彼の為にこの身を捧げよう、その気持ちだけで今まで生きてきた。
そして、城に来てから10年で、私は魔王様の側近にまで登りつめた。
今は、彼のために日々励む毎日である。
棚が片付いたのを確認して、満足した私は、魔王様の書斎へと向かった。
一般に、魔王城、と呼ばれるこの場所は、漆黒で塗り固められた巨大な城であるが、大きく五つの棟で分けられる。
入口である大門を抜け、魔王城を取り囲むように広がる『真血の池』の上にかかる大橋を渡ると、漆黒に深紅と金で華美な装飾が施された正門が現れる。
それをくぐり抜けると、エントランスにあたる場所に出る。
そこから、左手前、左手奥、正面階段、右手前、右手奥に、それぞれ深紅、紺碧、黄金、翡翠、純白の像が左右に置かれた門がある。正面階段については、門はないが。
左手前、深紅の像の間を通ると、軍隊エリア。その名の通り、軍関連の人々が務めるエリアとなっている。ここが、魔王城では三番目に大きなエリアで、私も一日の半分はここで過ごしている。
左手奥には財政エリア。ここはまぁ、説明要らないか。そのままである。
右手前には設備エリア。と、呼んではいるが、なんかよく分からないエリアだったりする。
それも、軍隊エリアに置けなかった物品を貯蔵する倉や、資料やら本やらが所狭しと詰まった書物庫、そして大切な食堂などが階に分けて設置されている場所だからである。
そして、右手奥のエリアは、魔王城で二番目に大きな、寮棟エリア。魔王城に務める人の多くがここで寝起きしており、部屋は一人部屋、二人部屋、四人部屋があるが、多くが一人部屋となっている。
この棟とそれぞれのエリアは中庭や庭園から繋がっており、エントランスを抜けなくとも、色々な場所から出入り可能である。
最後に、正面階段を上がった先には、魔王様の執務室や私室、私たち側近や各エリアの幹部の私室がある、特別エリアがある。
広すぎてまぁ、最初はよく迷子になったものだけれど。
慣れればなんてことはない。側近になったのに迷っているようでは目も当てられないしね。
今は設備エリアにおり、これから執務室に行くので、特別エリアまで行かなくてはいけない。中々遠い道のりである。
廊下を歩いていると、仕事に励む何人かの兵士に手合わせを申し込まれた。
それに了承の返事をしつつ、足を止めることなく歩いて、たどり着いた重厚な扉の前。
いつも思うが、シンプルなものを好む私的には、この城は何処も彼処も華美すぎる気がするが。先代の魔王様も先々代も、そのまた前の魔王様もみな「派手なら派手なだけいいじゃん!」思考だったらしい。もう仕方ないよね。それは最早遺伝だ。
気を取り直してノックをするけれど全く応答がない。ので、まさか、と思い扉を開くと。
「げっ!」
窓から逃げ出そうとしている魔王様がそこにいらっしゃった。
城に負けず劣らず華美なマントを窓から吹きすさぶ風にはためかせ、褐色の肌に漆黒の髪。血塗られたようなルビーの瞳。作り物かと疑うほど何処から見ても欠点のないほどに整った顔。
頭から覗く、緩く湾曲した立派な角。
玉座に腰掛けて不敵に笑ってさえ居ればとてつもなく絵になるものを、この人は……!!!
こんの、サボり魔がっ……!!!
魔王執務室、と呼ばれるそこは約十五畳ほどの広さがあり、扉から正面に繊細な模様が枠を飾る大きな窓。その窓よりの中央に引き出し多めで機能性を重視した執務机。その傍らにはフカフカのクッションがついた大きな椅子。右の壁には本棚がズラリと並び、そのどれもが隙間なく本を詰め込まれている。対する左の壁には、魔王様のマント掛けや、彼が戦場に立つにあたって背負っている大剣が立てかけられていた。
「げっ、じゃないですよ!何やってんですか!!仕事は?書類が山とありましたよね?」
「………あー、その、えーとだな、ジベット。書類は……そう!書類が風で外に飛ばされてしまってな。今から取りに行こうと……」
「扉が開かなければ外には飛ばされないと思いますけどね?」
にこり、と笑って首をかしげれば。
ぐ、と押し黙り、美しい顔を歪めた、褐色の肌に冷や汗を流す魔王様。を引きずり戻し、椅子に座らせる。
そして机を挟んで仁王立ちし、腕を組む。
何故この人は世界征服を狙っているにも関わらず逃げようとするのだろうか。もうほんと分かんない。
ジト目で睨んでいた私を見て、頬をポリポリと指でかいた魔王様は、机の下からそっと山のような書類を取り出した。
「どこまで進んでます?」
「………………………………」
「手を付けてない、なんて言いませんよね…?」
ギクリと肩を揺らした魔王様に、わざと重ーくため息をついてみせる。
すると、いやぁ、と言いながら魔王様はやっと羽根ペンを取り出した。
そして、見つかったら仕方ないか、と書類に目を通し始める。
初めからそうやって手だけを動かしていればいいんですよ。手だけを。
……しかし。
「何故こうなるまで、ためるんです…?」
毎日届く書類を、その日のうちにこなしていれば、ここまでにはならない。仕事が遅いとか、出来ない訳では無い。むしろ手際はとてつもなく良いこの男のことだ。
そんな私の疑問に、魔王様はニヤリと笑った。
「座って書類仕事よりも、前線に出て敵を叩き潰す方がしょうに合っていてな」
アンタそんなこと言ってても書類は届き続けますからね。
全くこの人は、と何度目かのため息をついた時、荒々しいノックの音がした後、返事を待つ前に扉が開かれる。
大きく開かれた扉から入ってきたのは。
ヒビの入った顔の、割れた部分からは鱗が覗き、腰からは竜の尾が見える、短い青髪の美青年が、肩で息をしながら立っていた。
「何、ジョーゼフ。城内では走るなって……」
「悪いジベット!今それどころじゃねぇ!」
それどころじゃないってなんだ。大体アンタはいつもいつも側近だと言うのに落ち着きが無さすぎるんだ。
はぁ、と息をついたジョーゼフは、魔王様の前まで来ると、その前に跪き、一言告げた。
「人間族が、魔王様を倒すためにと勇者を掲げたと」
「!」
は?なに?
驚いて書類を取り落としそうになった私とは違い、魔王様はほぅ、と頷いただけ。
そして神妙に考え込んだ後。
「いいだろう。面白い。……興味が湧いた」
と、楽しそうに笑った。
うっわ。
その笑顔の後、大抵がろくな事にならないという事を知っている私とジョーゼフは顔をひきつらせた。
側近の二人が微妙な顔をしている中、魔王様は長い指を組んで、私をその目で捉えた。
獰猛な獣のような、血に飢えた目。
私はゴクリと生唾を飲み込んで、その視線を受け止めた。
「……ジベット・ハイネダルク」
「………は」
魔王様自身の与えてくれた名前を呼ばれ、長い髪を乱しつつ、そっとジョーゼフの隣に跪くと、上から声が降ってきた。
「勇者という人間に会ってこい。そして、どんな者か探ってこい」
「……………御意」
顔をあげれば、魔王様が一つ頷いたのを確認し、私は踵を返した。
どれだけ仕事が溜まってようと、彼の命には逆らえない。逆らうつもりもない。
ただ、あまり長引かせると他の仕事に差し支える。
さっさと終わらせてしまおう。
背後では、未だ邪悪な笑い声が漏れ聞こえていた。