64 RE:RISE 1
「…………」
真夏日が全身を焦がすようにその日は最高気温を更新した。というよりは毎日が最高気温という今年は特に異例の事態だという。
毎年暑いのは分かり切っている。なのにこう毎日毎日最高気温を、なんて言われてそれを喜々としてテレビを見る人間なんていない。
俺は少しでも気を紛らわそうと付けたテレビを再び消す。
「あっちぃ」
仰向けに倒れ、昔は苦手だった畳の匂いが今はそうでも感じないという事に気付き、エアコンの風量調節モニターを何度も確認する。運転しているというのに、なぜこうも暑いのか。
高校生の頃の記憶があるとはいえ、やはり子どもの体というのは体温が異様に高い。さっきから噴き出す汗が目に入りそうで鬱陶しくさえ感じる。
変わらないかと思っていた視野も狭まっているように感じるし、一番驚いたのは力量が劣っていること。というより筋肉量がどう見ても一般の学童レベルなのだから当たり前だ。これで俺が小さい頃からジム通いしているか、並外れた身体能力を有しているなら話は変わってくる。良くも悪くも平々凡々というわけだ。
部屋の隅に懐かしいカバンが置いてある。遺品整理を主立ってしたのでよく覚えている。父さんが気に入っているものだ。旅行用に唯一持っているボストンバッグ。まだ新しい。
そしてその脇には如何にも子どもらしいというか、目に鮮やかなリュックサックがある。そういえばああいう色物が好きだったんだな俺、と何故か冷静にそれを見やる。
現在地としては旅館の一室だが、部屋に父さんの姿はない。そもそも仕事の出張に俺が無理を言って付いてきているから、留守にされても仕方がない。仕事の邪魔はしない、大人しくしている、そういう約束事だ。
ただルームキーは人数分あるから、俺が外へ出ていってしまおうが誰もなんとも言わない。素行不良ってわけでもないし、そのへんは割とルーズだ。というよりは一回り時代を遡るだけで今が物事をあまりシビアに考えなくていい時代だったのだろう。
そこから犯罪率が上昇したことで、様々なルールや規制ができた。子どもがパチンコ店に居てもなんともなかった時代だってあるらしいからなぁ。
さてと、これからが正念場だ。
「まだ覚えている」
最悪の事態、つまりは死に過ぎて感情までも消失し命を絶つことだけを優先にした化け物が出来上がるなんて絶望は避けられた。俺はそれで一度、失敗している。すべての記憶を放棄し、一から感情を育み、同じ順路を辿ってしまっている。
ロビーに鍵を預けようと廊下へ出る。
「どこへいく」
俺は足を止める。
呼び止められたのがたとえ自分に対してじゃなくても、それは所謂条件反射というやつだ。俺はこの声を知っている。
「荷物をまとめるんだ、ここを出るぞ」
目の前に現れた父親は俺の腕を半ば強引にとり、部屋へ戻る羽目にになる。
「あれ、たしかもう一泊する筈じゃ」
予約内容の確認くらいは済んでいる。子どもには内容がいまいち分からない部屋の案内文もほとんど把握しているし、理解力に関しては一高校生としての許容内だ。
「予定が変わった。残念だが」
怪訝な顔つきをする。だが、それは俺に対する申し訳なさ、というよりは連れてきたことを後悔するような表情だった。
確かに次の日、というか俺にとっては死ぬ前だが確かに旅館にはいなかった。自宅であることは今日が最終日だという分かりやすい情報だというのに、抜けていた。
死を迎える直前と、意識と記憶を補完する前後で大きな負荷が掛かるため、脳へのダメージが大きい。自分の中で時系列をきちんと整理しないと、今がいつなのかも把握ができなくなってきている。
しかし、多くを語りたがらない父さんが予定を切り上げる理由。それは俺にとってここが良くない場所と判断したから。前の日に何があったか、俺は心に深く傷を負っている。その経緯を父さんに全部ではなくとも話してしまっている。自発的じゃなくても問い詰められて結局は同じだっただろうけれど、小学生に話す部分とそうじゃない部分の判別を求めるのは酷だったかもしれない。
「……」
俺は無言で荷物を鞄へ詰める。
もともと持ってきているものと言えば夏休みの宿題くらいで、着替えなどほとんどは父さんのバッグにまとめて入っている。
何か言って引き留めようとしたけれど、うまく言葉が出てこない。本当はもうこの世にいないはずの父さんと話す機会は、これまでもあった。だが、それらを封殺して死に戻ってきた今、面と向かって何を言えばいいのか、言葉に詰まっていた。独特の緊張感。恐らくこれまでもこれからも、この大きな壁は取り除けないと思っていた。
「父さんは」
「ん」
「どうして、というと変に聞こえるけれど、俺たちを大事にしてくれるんだろうなって」
溺愛するわけではない、だが異様に過保護ではある。
これがこの人ならではの愛のカタチだとすれば、それまでの話だが。
「父親だから、家族だからって言えば、納得してくれるか?」
やはり濁すか。
「当たり前すぎて、どうも拍子抜けするね」
ふと気づくと、こちらをジッと見ていた。
「まるで人が変わったな。何かの真似事か」
心臓がわずかに跳ねた。
いかん、小学生らしい振る舞いをしていなかったからか? それにしても僅かの時間でそれを指摘するか普通。いや、良くも悪くも普通じゃないのが俺の父親だ。俺の異様さに気付いてもおかしくはない。
「マネ? この前観たドラマだったかな?」
誤魔化し切れるか。
「そうか」
ヘラヘラとしていたらいつの間にかお互い準備が整ったようで、これ以上言及されることはなかった。
「急ぎ足だが、行くぞ」
部屋を出て、手早くチェックアウトを済ませ、駐車場へ向かう。
ああ、なんかこの景色も既視感あるなぁ。当たり前だけど。そこでふと、思い返す。このあと、何か重要なことがあったんじゃないかと。
本来ならば今すぐにでも命を絶って時間を遡るべきなのに、それをしない理由。ここで新たな情報収集と、改めて決意を示さなければならない。
「めぐるっ!」
声を聴いて、歩みを止める。
そうか、俺の行動が少し変わったことで間に合ったのか。
父さんの車までもう目と鼻の先。乗り込む手前だ。
「止まりなさい」
冷静な、だが怒りの籠った声が場を支配した。先行していた父さんが俺を背に隠すように立ちはだかる。
「きみ……、うちの子に何をした?」
「え」
追い付いた少女、塚本麻衣を俺は見る。幼い。だが、しっかりとした顔立ちのため大人びたロングワンピースが似合っている。両手に持つサンダルと、傷付いた足先からどれだけ急いで走ってきたのかが伺い知れた。
「ふん、こいつは泣き虫のくせに誰に似たのか意地の張ったところがあるからな。君も言わない、ということは聞かなかったことにしておくべきなんだろうな」
恐い。自分が怒られているわけじゃないのに、この張り詰めた緊張感が首周りにまとわりついて気持ちが悪い。
「詳しい事情は知らないけど、俺の家族を傷つけるやつは許さない。でも君には巡瑠を恨んでほしくない。だから俺を恨め、こんな状況を作り上げた自分を恨め。俺はここから離れるし、君はこいつともう会えない。そういう選択を、君はしたんだ」
「俺は父さんを恨んでほしいだなんて思っていないよ」
俺は父さんの横を抜けて、麻衣の頭に手を置く。
震えている。単純に大人の男性に対する恐怖心としては、今の俺の眼からすれば常軌を逸している。普通は虐待の線を疑うレベルだ。
「巡瑠、お前はこの子に関わるべきじゃない」
親ならそうだろう。面倒ごとに関わらせない、ましてや馴染みのない土地でそういう厄介事は持ち帰らせないのが正しい。判断に欠ける子を導く手立てとしては正解だ、けれど。
「この子は俺に助けを求めた。それを突っぱねるような育てられ方をされた覚えがないよ、父さん」
俺は父さんに向き直る。
「一朝一夕で出来る返しじゃないな、お前は誰だ」
ボロが出ようが出るまいが関係ない。
「親として正しいことをしようとしているのは分かる。だけど、怨嗟じゃ駄目だ。人としての正しさを俺はあなたを通して学びたい」
邪魔をしないでほしい、ここで全てを説明したところで判断材料も時間もない。俺が覚えているのは先のことであって、今は今の情報を出来るだけ探らなければならない。ただ子どもの体ではやれることの限界はすぐだ。協力を仰ぐのは絶対だとしても、今はまだその時ではないと俺は考えている。
「目の前の人間を救うことの難しさをお前は知らない。お前は自分の身だけ案じていればいいんだ」
昔から子どもには理解が難しい言葉を遣う父ではあったが、分かればなんとも苦手さを感じさせない。ただ、心配するにはいささか度を越えている感じはする。
「悪いけどそれは出来ないよ。麻衣を救うことで、俺たち家族は助かるんだから」
「めぐる?」
突拍子のない話だ、と言われるだろう。麻衣が俺に固執したばかりに、父さんは計画的に殺され、家は焼かれ母さんも沙希も危ない目に遭った。
少なくともそういった可能性を減らせるのであれば、俺は何度でも死んでやる。
死を繰り返して、俺だけの未来を掴む。誰も死ぬことのない世界。
「……少し時間をやる、その間に別れを済ませなさい」
やはり相手にされないか。
父さんは荷物を持ち、車の方へ再び歩き出した。
今のまま麻衣を救ったとして、その先がどうなるだろうか。母親がいなくて、父親とその親戚関係者を上手く逮捕できたとして、麻衣自身はその後どうなる。
「…………」
「めぐる?」
俺は溜息を吐く。
「幾つか麻衣のこと聞いてもいい?」
「うん」
家族構成、母親の現状と今の麻衣と父親の状態、頼れる親戚はいるか、今住んでいるマンションの住所、ほかにも幾つか役に立つか分からない話も交えつつ、聞きたいことは聞けた。
「つまり5年の春ごろに麻衣のお母さんがいなくなった、と」
死んだことにして父親が隠しているなら、母親は麻衣を置いて行方不明になった。当然実家に帰っているわけでもないだろう、母方の一族から直接麻衣に接触をしていないとなれば状況さえ知らない可能性もある。
やっぱり今のままだと仮に状況を打破できたとして麻衣の今後が保証されていなければ意味がない。
と、なるとやはり母親か。
説得できる自信はないけど、やれるだけのことはやろう。母親が証拠に気付いてて逃げ出したなら難しいかもしれないけれど、パソコンにデータがあるのは確かだ。事実麻衣はそれを逆手に半グレを利用してきた経緯まであるくらいだから効果はあるものとみていいだろう。それをどうにか手に入れさえすれば。
「あと400回ちょっと死ねば……」
戻れないことはない。
だが、ここで麻衣が俺という存在を諦めさえすれば今後の俺に対する事態は解決される。果たして自分を追い込んだ相手にそこまでする必要があるのか。
改めて自分に問う。
うん、考えるだけ時間の無駄だ。
「お母さんに会いたい?」
「んっ」
母親との日々を思い出したのか、涙ぐみながらも頷いた。
「そうだよな」
俺は振り返り、父親が待つはずの車を見つめる。
「もう少しだけ我慢して。俺が必ず助けるから」
そうして俺は、この時間との別れを決めたのだ。
春休み。
妻と今年で5年生になる息子と、3年生になる娘がいる。
今日は土曜日で俺も仕事は休みだが、別にぐうたらするつもりはない。普段家のことをほとんど任せっきりにしてしまっている妻も、俺が休みの日は早起きをしなくていいんだとベッドでぐうたら眠り込んでいるが、俺はそれが誇らしく思える。俺に任せてくれている、信用されている証だ。
時刻は7時前、恐らくほかに誰も起きてはいないだろう。もう一度だけ眠りについてもいいだろうと布団に潜り込む。
が。
コン、コン、コンと三回ノックする音がして上体を起こす。
はて、うちの子どもたちがそんな芸当をするだろうか。少し胸がざわつく。もしかして何か悪いことをしてしまったのかもしれない。叱られるのが恐いがあとでバレるほうがより恐いというのはさすがに知っているだろうし、正直に自白しに来たのかもしれない。
「どうした、起きているから遠慮するな。入りなさい」
その声で隣に寝ていた妻が薄っすらと目を開ける。起こしてしまったようだ、悪いことをしたな。ドアノブをひねる音と開ける瞬間の服装から巡瑠なのだと察した。
「巡瑠か、おはよう。春休みなのに珍しく早起きだな」
だが、そこに謎の違和感が生じた。
「めぐる、ですか」
扉を開けてこちらを見る息子の眼は、真っ赤に充血し、あろうことか目と鼻から血を流していた。
「は」
瞬間、脳に酸素が届かなくなったのを感じた。
何が、起きている?
チカチカとする意識と硬直する体を無理矢理に解き、慌ててベッドから降りる。朦朧としている意識が薄れ掛かり、倒れそうになる巡瑠を支える。少しずつ溢れてくる血が止まってくれようとはしない。
「きゅ、救急車だ。救急車を呼べ!」
寝起きの妻に対して申し訳ない気持ちなどとっくに薄れていた。血に塗れた息子を抱え、リビングのソファに横たわらせる。その間にも巡瑠は何かを呟いている。
「ああ、いったいどうして。何があったっていうんだ……」
脱衣所からありったけのタオルを持ってきて溢れる血を拭う。外傷があるわけではないので救急処置の施しようが無い。今はとにかく体を動かさないようにしないと。
「俺は、めぐる? なのですか」
悪寒がした。いやきっと血の巡りが足らずに混乱しているだけだ、そうに違いない。
「何を言っているんだ、こんなときに冗談なんて、言うもんじゃないぞ」
細い声で諭す。廊下では取り乱しながらも電話口でうちの住所を伝える妻の声がする。
「死んで、変える、未来、明羽、麻衣、放火、矢武、監禁、殺人……」
知っている言葉と聞きなれない言葉を口にしている。ただ、関連性は分からない、どことなく物騒な響きに何か手掛かりはないかと耳を澄ませる。
「ああ、ダメだ。なんでまた、こんなことに……」
救急隊員の到着がこの世で一番長い時間のように思えた。




