61 決別の揺らぎ
「ひ」
目が覚めると同時に呼吸が漏れた。
自分の部屋、ベッドに横たわっている。
「そっか、まだ自宅待機の期間だったか」
日付を確認するときっかり24時間遡っている。
痛みは体が覚えている、なんて言うけれど時間が逆行しているこの状況では記憶で再現されているようなものなのだろうか。
心臓にあたる部分を掌でそっとなでる。
「生きた心地がしないな」
全部が実は夢だった、なんて楽観視できればどれだけ楽だろう。
麻衣を部屋に残し、一階の勝手口を開けた先で自殺した俺を誰が先に発見するだろうか。やっぱり麻衣か、次に沙希か、救急車を呼ぶのが先か母親に電話するのが先か。
嫌な想像がどんどん膨らむ。
麻衣を救うということは、それまでに歩んできた人生、それから先を捨てるということ。
割に合わない。
馬鹿々々しい。
「これを、あと何度繰り返したらいいんだ」
今日は沙希も平常授業なのでまだ学校だろう。
俺はまたキッチンへと向かい、包丁を取り出す。
綺麗なままだ。これから、また汚れるのだ。
同じ轍で勝手口を出てすぐのところでうずくまる。
刺さった瞬間に体重を乗っければ、幾らか楽に逝けるのではないかと、そう思ったのだ。
「ふっ、ふっ」
息を整え、一瞬。
世界から音が消えた。
「っ」
自宅待機の期間がおよそ5日、土日を挟むとちょうど1週間。
既に、俺の心は憔悴していた。
寿命が縮む、なんて皮肉にもならない。一番不安なのは、心が擦り減り、折れて、壊れてしまうこと。
目が覚めると、俺は車の後部座席にいた。
「大丈夫? 大変な目に遭ったばかりで、こんな時間まで拘束して悪かったね」
ああ、思い出した。
矢武侑史の事件を解決した直後か。
夜中の出来事で矢武が連行され、事情聴取のために俺が警察署へ赴いた、帰りの送迎中だったと思う。
そんなにパトカーに乗る機会はないと今後も願いたいので、印象的だ。
とはいっても、ご近所の眼も考慮して覆面パトカーでの送迎だけど。要は一般車と変わらない感じだ。別に悪いことをしたわけじゃ……、いや、前のアルバイト先からネットランチャーを拝借した事に関してはちょっとだけ小言を言われたくらいだけれど。
一応使用期限切れのを譲ってもらったので窃盗罪ではない。
「ほら、もうすぐ着くよ。一応念のため、ここ数日は巡回で来ると思うから、また会うかもね」
婦警さんはハンドルを握る左手の親指をグッと上げた。
なんでか知らないけれど、ノリがいい。
そして程なくして、家に着く。
「ありがとうございました」
「また何かあったら遠慮なく通報していいから」
お礼を言って車から降りると敬礼してくれたので、こちらも敬礼で返す。
「はは」
既視感というか、同じことを繰り返している気がして思わず笑ってしまった。
婦警さんの車が見えなくなるまで家の前で棒立ちのまま、考える。
このまま、母親と妹に逢うべきなのか。これから死のうとしている奴が?
どの面下げて。
玄関を開けると、二人はいる。
もし、今その光景を目の当たりにしてしまえばまた揺らいでしまう。
「会えない」
俺は握りしめていた拳をそっと離して自宅から離れる。
とは言っても悠長にしているとまた時間を無駄に消費して死の回数を増えす要因にもなってしまう。
住宅街をなんとなしに抜け、いつの間にか景色が開けていた。
土手に着いたが、平日ということもあって野球の練習などで使われているグラウンドはお年寄りが集まりグラウンドゴルフをしていた。
「長閑だ」
近所で放火及び、殺人未遂事件があったとは思えないくらいだ。
これから起こる惨劇を知らなければ、幸せなのだろうか。変な話、自分が関わってないだけでこの国、この世界ではそれ以上の事件があるんだ。
当事者じゃなければ、平和な日常でいられる。
「なんで俺が……って、考え出すとキリがないよなぁ」
いかん、尻込みしてしまう。
高架下まで下り、椅子やらよくわからないオブジェを横目に河原へと足を突っ込んだ。
「~っ」
日陰になっているからか、思った以上に冷たい。
溺れたら、きっと苦しいんだろうな。
親父はどんな気持ちだっただろう。
無我夢中だったのか、怖かったのか、怒っていたのか。
その時の親父にはもう会えない。
ゆっくりと前進して、洋服が水気を吸い充分に重くなったところで俺の体は沈んでいく。
藻掻いて、足掻けば助かる。
静かだ。
鼓動だけが、早くなっていく。
ぼやけた視界いっぱいに広がる青い色に、俺は少しばかり感動していた。本来ならば濁りを見せている川も、陽の光を吸収できるくらいに今日は透き通っている。別世界。
やば、苦しい。
ジッとしていることなんてできず、暴れては大量の水を飲み、吐き気を催すも次から次へと水が入ってきて、本当に最悪だった。
はやく、早く俺を殺してくれ。
そしてまた、静寂が訪れる。
「……」
教室でほうきを持ったまま、俺はぼーっと突っ立っていた。
「立川くん? 手止まってるよ」
「あ、ごめん」
教室の黒板の斜め上にある時計を見て、思った。
掃除の時間だ。
状況を把握するのにあと20秒ほど欲しかったけれど、とにかく久しく見なかった日常の最中ってことにひとまず安堵した。
塵を集めながら、頭の中で時系列を整理する。たしか今日の深夜に矢武が俺の家を放火しに来るんだったな。
非現実的な妄想であれば嬉しいけれど、残念ながらこれから起こる惨劇の一部なんだよな。
「はぁ」
「あ、ごめん。言い方きつかった?」
同じ掃除当番になっている松永さん。まあ、掃除当番なんて毎月人が変わるからそれほど喋ったこともない間柄だけれど。
「あれ、たしか」
「ん?」
「ああ、なんでもないよ。大丈夫」
この人も麻衣に脅されているんだっけか。
立て続けに4人の名前を言われたのでそのあたりは曖昧なんだけど、まあ後々明羽と納富にこってり絞られるらしいのでここで変にプレッシャーを与えないほうがいいか。どうせ俺これから死ぬし、それで下手に勘違いして自分を追い込まれるのは、ちょっといたたまれない。
と、いうよりだが。
時たまにこちらを伺うようなしぐさが目立つな。
掲示板事件の罪悪感? か、もしくは麻衣に見張りを頼まれているとか。後者のほうが妥当か。
周りの視線ってのは俺もだいぶ気にしなくなってたから、ここらへんは俺の落ち度でもあるのか。
これからは周囲の観察とかほんと気を付けよう。マジで。
ただ、学校という舞台で迷惑は掛かるが、時を遡れる例の、アレをやってみたい気持ちがあった。
俺は徐にほうきを置いて、教室の廊下側へと数歩向かう。
「え」
教室の掃除当番、俺を抜いた3人が不思議そうに俺を見た。
のちのちトラウマになるかもな、ごめん。
振り返って思いっきり駆け出す。
飛び上がり、開いている窓のサッシを踏み込み、さらに飛ぶ。
「いっけぇぇぇええええっ!!!」
あ、でも下手したら死ねない可能性もあったかな。
ジェットコースターの落ちていく感覚、エレベーターが上の階に着いた時に一瞬下がるあの感覚を思い出しながら俺は目を閉じる。
一瞬の絶大な痛みと無の世界が訪れた。
「いっ!」
てぇぇ。
「あ」
生きてる。
ふと周りを見渡し、松永さんと目が合う。
「ど、どうかした?」
ちょっとヤバいやつを見る眼差しで声を掛けてくれている。
ふと黒板に目をやると、一日戻っていた。
そうか、24時間遡るから土日にならない限りはこの時間ずっと掃除中なのか。
なんか、掃除当番のみんなには毎度トラウマ光景を見せているようで申し訳ないな。
と、言いつつも繰り返すけどね!
「へっ?」
「いっけぇぇええええっ!!!」
これを何回か繰り返したわけなんだけど、結論だけ言えば飛び降りは当たり所が悪かったらすぐには死ねないので、やはりオススメはしない。自殺事態をオススメはしないけど。
「あ?」
間の抜けた声が漏れ出た。
状況が明らかに一変した。
慣れないベッドに横たわる自分がいた。死ぬまでにわずかな差があれど、基本的に日中を繰り返していた俺だが、さすがにこんな時間にベッドでぐうたらするほど腑抜けた生活は送っていない。
「ああ、そういえば」
矢武に殴られて数日ほど検査入院をした日があったっけ。
ということはゴールデンウィーク明けの五月中旬までは戻ってこられたわけだ。
「てことは、殴られた後の痛みが引いていくのも、逆を辿るから痛みが返ってくるわけか」
死の痛みは一瞬だが、そうじゃない痛みってのは、残ってくるから億劫なんだよなぁ。痛みを伴う前まで戻れればいいけど、下手なタイミングだともう一回それを浴びる可能性もあるわけだ。
俺が殴られたのは放課後の時間だから、このままいけば……。うへぇ。
しかし、病院か。
いい加減、飛び降りは辛いからなんか別の、あんまり痛くないやり方ないかなぁ。
できれば麻酔とか打ってほしいけどほいほい打てるもんじゃないし、普通に危ないか。
病院ってのは生かす場所だしな。
「せめて、誰か命が危ない奴に分けられたらいいんだけどな」
そこまで都合のいい能力じゃないか。
病院で命を絶つのはさすがに気が引けるな。なんというか、生命を冒涜しているとかそういうことを言われそう。
俺が死んだ後、家族がバッシングを受けそうだ。
「せめて敷地外で死ぬか」
検査入院だし、行動すべてを制限されているわけじゃないので抜け出すことは簡単だ。そのぶん、時間が巻き戻る時間も行動を起こした時間に反映されるのでロスしてしまうが、こういった最低限の倫理を捨ててしまえば心が壊れる要因にもなるだろう。
俺が俺であるための、必要なプロセスであると信じるしかない。そうでなければ今まで落としてきた命、悲しませた人たちに顔向けできない。
病室を抜け、エレベーターで1階へ下りる。コンビニやカフェが内設しているので入院患者や診察に来た人だけでなく、付き添いの一般客も多い。
なんとなく、自分が場違いな存在なのだと思い知る。生きている世界が違うような、まるで自分だけ切り離されているような。
独りで突っ走っているだけのような。
楽しそうに談笑する人を横目に俺は玄関ホールから外へ出る。
着替えているので変に目立つこともなく、あっさりと敷地外へ出られる。許可もなく病室から抜け出ていると分かれば、騒ぎになったりするのだろうか。
「環境が変わるたびに、辛いな」
自分で選んだこととは言え、直面するとやっぱり苦しい。
「…………」
家に帰るわけにもいかない。そもそも歩きでなんて帰れる距離じゃないし、どうしたもんかね。
歩きながら考えてみるが、そもそも普段から刃物やら凶器を持っているわけではないので、どうしてもその場その場での選択にムラができてしまう。思い切ってひとつに絞ってみるのもやりようか。
ただ、歩いているだけなのに妙な違和感があった。言葉に出来ない、だけどなんとなく気持ちの悪い空気。
悪寒。
「ああ、なるほど」
思えば病院の外に出てから、この感覚はずっと続いている。単に空気が淀んでいるだけじゃないようだ。そしてひとつの結論。病院内ではなく外に見張りがいたようだ。
「たしかお前、停学くらってたよな?」
立ち止まり振り返って、俺を見ていた奴と視線を合わせ、俺は笑う。
手っ取り早い方法があった。俺の望む結末へ導いてくれそうなやつがいた。
「矢武侑史」
「臆病もんが、気付いてんじゃねえよ」
どうやら俺がビクビク周りを警戒しているせいで気付かれたと思っているようだ。ただ残念ながらちょっと違うんだよな。
警戒はしていたけれど、ビクビクはしていない。
なんせ俺は今、お前に会えて嬉しいんだから。
「なにニヤついてんだよ、きめぇ」
吐き捨てるように言う矢武。
「お前さ、俺のこと殺すつもりでしょ?」
露骨に眉根を寄せた矢武。
今の反応を見る限り、この時の矢武は芯から麻衣に毒されているわけではないようだ。暴走するギリギリのところを漂っている。だから俺の発言も頭がおかしいやつのことを見る反応をしている。
大方、あいつに俺を見張るよう命令されているのだろう。けど、あんまり尾行慣れしていないのだろうか俺に近付き過ぎていた。しかし、一見飼いならすことなど不可能そうだが、どの段階でこいつは塚本麻衣に懐柔されたのか、気になるところではある。今さら気にしたってしょうがないのだろうけれど、異性を取り込むことは難しくないとしても、矢武は明羽のことが好きだったんだよな? つまり元から俺をよく思っていなくて、そこを突っつかれたって感じか。
放課後の帰り道しかり、どこかで殺す隙を伺っているのではと思っていたけれど……、こんなに情熱的とは。
「明羽が好きならさっさと告っとけば良かったんでねぇの?」
仲のいい男女混合グループから、いきなり彼氏ができたと言って付き合いが悪くなった。とはいってもグループ内で誰かと付き合った場合を考えると明羽なら避けたい事案だっただろう。
男女のグループの仲間って時点で明羽の選択肢から矢武は消えていた。まあ、あんまり居心地よさそうな感じもしていなかったらしいからそこに関してはお互い鈍感なのだろう。
「うるせぇよ、勝ち誇ったつもりかよ」
矢武からすれば俺の存在はいきなり出てきて意中の女を奪い傷付けたあとに別れた、ようは遊んでポイしたように見えるんだろうな。
「麻衣め、全て織り込み済みだったわけか」
矢武とは言わない、誰かが俺を逆恨みするようなポジションにいる前提で計画は動いていた。一番扱いやすいのはそれこそ異性交遊の間柄、友情と恋心を同時に刺激できるだろうから。次点で恋心、そして友情と一択ずつってところか。
もし条件が合わず友情のみを選択されていた場合、万が一にも納富あたりが俺の敵になっていた可能性もあったりするのだろうか。塚本麻衣がもし、陥れることに本気だったら? ほぼ全てを掌握できる可能性もあったのではと、あり得ない妄想をついしてしまう。
塚本麻衣の敗因は恋。
不確定、不安定な気持ちを活動源にしていたから。
だが、果たして敗因と呼んでいいものなのか。恋をしたおかげで彼女は踏み止まれたという見方も決してできなくはない。良くも悪くも、完璧じゃなくてよかった。
「人を殴る勇気はあるのに、告白する勇気がないとかお前以外と奥手だよな」
俺の挑発と同時に矢武は怒りの沸点が達したのだろう、掴みかかってくる。
「また殴るのか? それって図星ってことになんぞ?」
口で敵わないから力に頼るなんて今どき幼稚園児でもそんなことしないと思いたい。
「離せよ、お前ホモか?」
我慢の限界だったのだろう。
矢武は俺を思いっきり突き飛ばし、俺は地面にこれでもかと尻餅をつく。
「ってぇ。これでもいちお、入院患者なんだけど?」
だが、俺のジョークなんて矢武は聞いちゃいなかった。
それもそうだろう。俺の手に握られている物に気付いてしまったのだから。
「尻ポケットに入れるの好きだよなお前。長財布じゃねえんだから」
「俺を、どうするつもりだ」
「あ?」
俺の手に握られているもの、出刃包丁を古紙で包んだものだ。俺の家に侵入したときもそうだけど、こいつの家にはもっとこう、コンパクトなナイフはないのかね? 果物用とか。
俺を殺すつもりで持っていたのか、それとも脅し用か。そんなことはどうだっていい。
これを使って矢武を脅し返すのも面白そうだけど、これ以上油を売るのも利口じゃない。それに、こいつの顔を見るとまた怒りが湧き出そうでたまらない。
「ぐぅっふ」
「…………は?」
古紙をビリビリに破り取り、包丁を自分の心臓めがけて突き刺す。
「は…………は……」
「っ、くそ、おれ、俺じゃねえからな!!」
青ざめた顔をした矢武が慌ててその場から駆け出す。
まあ、あの顔が見られただけでも、突き飛ばされたことに関してはチャラにしてやろう。
にしても、痛ぇな畜生。
「やっぱあいつ嫌いだな」




