58 都鹿野
俺の意識が何度か取り戻されたとき、目の前の塚本は裸で、俺自身も裸で、塚本が乗っかって上下に動き、俺はその姿を眺めているだけの日々だった。
まだ、まだ求めているのか。
それが何時間、何十時間だったのかわからない。時間を数えることさえも辛かった。
全てがどうでもよくなり本能の赴くまま彼女に全てを委ねていると気付くも、また意識が薄れていくとそれがどうでもよくなり、またふと思う、それの繰り返しだ。
ただ、そこまでして求められて、それに応えたいと思う心が芽生えてしまいそうで、それが恐かった。本当に俺から何もかもを奪った女が、そのすべてを自分に据え変えて補おうとしているのか、と健気だと思ってしまうほど、衰弱していた。
塚本麻衣はおかしい。
その認識も塗り替えられてしまうほど、俺も壊れ、おかしくなっていた。
じゃあ、今の状況を分析している俺は誰か。
別の人格の俺かもしれない、或いは未来の俺、過去の今までの俺、俺じゃない誰か。またはこれも夢か。
ただひとつ言えることはこの時、時間は永遠だったということ。
そのカラクリに気付くのが少し遅くなっただけ。
殺してくれ、殺してくれ。
ずっとそれを願っていた。衰弱した人間は心の痛みを無くすための逃げ口として自殺という手段を用いる。人によってそれが様々だが、心の許容範囲を越えて、溢れてしまった状態で、どうしようもなく衝動的にそれらを図る人が多い。
では、死にたくても死ねない人間はどうなる?
解放されない人間は、永遠にその痛みの中をさまようしかないのか。どこかで落としどころを見つけるしかないのか。
いくらなんでも体力が無尽蔵すぎる。
「はっ、はっ……愛してる、愛してる」
何度も何度も何度も何度もなんどもなんどもなんどもなんども————————。
だが、繰り返していくうちに俺は一瞬の変化を見逃さなかった。
「巡瑠、苦しいの、目が充血してる……」
一度目は、気付かなかった。なぜならそんな症状は今までになく、初めてだったから。
またしばらくして、
「巡瑠、苦しいの、目が充血してる……」
同じ言葉を聞いて俺は、はっきりと意識が覚醒した。
ここに閉じ込められてから、俺は何回死んだ?
何度か置きに覚醒する意識は、目が覚めたわけじゃない、死に戻って僅かに体力が戻っていただけだった。つまりこのあとおよそ24時間後に死ぬ。
時間の間隔がマヒしているとは言っても、丸一日近く塚本は俺を解放してくれない。今まで我慢していたものを吐き出して吐き出して、周りが見えていないのだ。
最悪だ。
それに気付けず、昇天していたなんて。吐き気がする。
だが何度も死に戻っていた俺にとって、目の充血を指摘されるなんてことは今まで無く、これが恐らく初めて身体に及ぼす影響だったのだ。
ここで一つ仮説を立てると、死に戻る現象には身体的負担はもちろん、繰り返し過ぎることへの身体的負担が生じるのではないか、ということ。
今はとにかく理屈っぽいことは考えないようにしないと、僅かながらでも抵抗しないと、本当に危ない。
「…………ぁ……」
だが、全身に力が入らない。恐らくはもう衰弱しきっているこの体では、指先ひとつ動かすことさえ叶わない。
脳は思考を繰り返す、だが肝心の伝達神経にまで達さない。
塚本に犯される永劫を過ごすのか、いつかは限界がきて生命を全うする瞬間が来るのか。
どっちにしても諦め、になる。
明羽、納富、沙希、母さん、父さん、マコっちゃん、圭吾。
俺は閉じた目から、薄っすらと涙を浮かべた。
俺は、塚本麻衣を殺す。
残された最期の力で俺は塚本の首へ手を伸ばした。
「っ」
一瞬だけ、驚きに目を開いた塚本だったが抵抗なく、位置が逆転する。
「そっちを選ぶんだ」
苦しいはずの塚本が口を開く。
「ありがとう、救ってくれて」
気付けば、塚本の黒目は宙を見ていた。
「ああああああああっ! があああああああああ!!」
俺は叫ぶ、既に喉が枯れ、熱くなっても止めることはなかった。
叫びながら、地べたを這いずり、扉を叩く。
いや、もう叩くというよりは触るだけのようなものだ、なんせ力が入らないのだから。恐らく無理をしたせいで実際よりも少し早めに、俺の命は尽きる。
変化を、今までとは違う変化をどこかでつけないと。
情けなく、みっともなく足掻く。
どこまでもどこまでも足掻く。
強い意志を持たないと。
「巡瑠、苦しいの、目が充血してる……」
意識がハッキリとしたとき、俺と塚本の視線が交差した。
また、死んだ。
初めて人を殺した時の間隔が、手に残っている。
目の前で息をしている、真っ直ぐ俺を見つめている瞳が、宙を剥くのを俺は知っている。
俺は、奥歯を噛み締めた。
人を殺した人間は、いつまでもそのレッテルを貼られる、だから衝動的とはいえ、覚悟を持たなければ死人に顔向けしてはいけない。
俺の罪は、無かったことになるわけじゃない。俺の中できっといつまでも引っかかり続ける。それを気にしなくなった時、俺は人として終わってしまう。
ただ、塚本を今殺してもまた同じことを繰り返してしまう。
それでも俺は、塚本麻衣の首を初めて再び、絞め始める。
そして、
「ありがとう、救ってくれて」
また、同じ言葉を繰り返す。
俺はまた地べたを這いずり、扉を叩く。
今度はしっかりと、叩く。
ひたすら叩く。
また、命が尽きようと、構わない。
他に出来ることなんて、ないのだから。
何度かこの一連の流れを繰り返した。一生を終える度に、やはり行動自体を変えない限り何も変わらないのだろうか。
そう思った半ば諦めかけていた、しかし。
「っ」
俺は目頭が熱くなった、今までと違う変化が確かに訪れたのを感じ取る。
シャラシャラと鎖の音が静かに聞こえた。
扉のロックが外れて、きぃと音を立てながら開いていく。
がたいのいい男が立っていた。
見張りをしていた男なのだろう。塚本が死んでいると分かれば、真っ先に俺を殺しにくるに違いない。逃げれるものなら逃げたい。
だが、このままでもいい。どうせ苦しいのなら、一瞬で楽にしてくれた方が、より巻き戻れる。
「いや、驚いた」
男が塚本の死を確信し、俺の方へ歩み寄る。
「仇を打たれたのは釈然としないが……。ああ、あなたにとってもこいつは仇でしたね」
男は一度塚本のほうへ視線を寄越し、懐から取り出した拳銃を引き絞り二発、打った。
「……あの女はイかれてる。ああ、気にしなくていいですよ。もともと俺があいつを殺すつもりでしたし、首に絞めた痕は残っているでしょうが、偽造はいくらでも可能なんで、俺が全て被りますよ」
「あなた……は、味方なのか?」
俺は息を整えながら、問う。
「敵か味方か、ね。そんな風に誰とでもハッキリさせられたら楽なんでしょうけどね実際」
男は溜息を吐く。
「今の段階ではどっちでもない、目的は達しましたし。ただ、あなたの父親には恩義がある。望みがあるなら可能な限り叶えますよ」
敵でも味方でもない。
この男は塚本に仕えていた以上、信用できないが、今の状況、そしてその前の状況を変えるヒントが今は欲しい。
「二人、女子がいたはずだ。二人がどうなっているのか知りたい」
「…………知らないほうが幸せなこともあるんだけどなぁ」
男は気難しそうに頭を掻きながら溜息を吐く。
「んじゃ肩貸しますから、立ち上がったら自分で歩いてくださいよ。あんた相当臭いがきついんで」
「は、はは」
笑うしかない。こんな惨めになると、きっと人間は悪口を言われたってどうでもよくなるんだろうな。どうにか立ち上がる。足が震え、壁伝いにしか歩くことができず、男が先導した先をついて行く。
「っていうか、あの部屋にいたならあんた気付いてんすよね? その二人がどういう目に遭ってたのか」
「…………」
いい想像は、普通しないだろう。
だが、俺は今生きている。だから確認をする必要があるのだ。俺がこの先に未来を見据えられるか、どうか。
重苦しい扉を、男は開ける。
「うっ、こっちのほうがひでぇな」
心底嫌だと顔を歪ませて扉を開け放ったまま、離れる。
俺は壁に全身を預けながら、ゆっくりと近付く。
「っ」
息を呑んだ。そして、
「ぉえ、え゛っゔぉ」
溜まった空気と、何もないはずの胃の中のものが全て出てきた。
「だからこういうの苦手だったんだ」
俺が目の前で嘔吐しているのに眉ひとつ動かさず、男は扉を閉めようとする。
「だ、だずげっ、ぁ……な゛、いど」
「無駄だよ、あんたのとこより酷い。死んで数日は経ってる」
そして男は見たくないものに蓋をした。
全裸のままだとどこへも行けない。
男はそう言って俺にコートをくれた。
どうして夏なのにコートを? そう尋ねたかったが、黙って俺はそれを羽織り建物を出た。
「羽織るものって、結構何かを隠すのに役立つんだぜ先輩」
「先輩?」
「ああ、俺のほうが下なんすよ」
「…………」
「ま、説明もめんどいんでこれくらいで」
外は真っ暗だった。近くの公園のベンチに座り、俺は男が買ってきた缶コーヒーを受け取る。
「さすがに自販機にホットはなかった。コンビニは便利っすねぇ。にしても夏の夜は冷えるな」
「あ、ありがとう」
確かに全裸にコートという羞恥的な格好なんてどうでもいいくらいの出来事が連続していた。
俺の状態よりも遥かに酷い仕打ちを受けて亡骸となった二人を思い出し、えづく。
「お構いなしだったんだろうな、窒息死かショック死か。あんなに塗れていたんじゃ、どっちでも同じか。ゾッとするよ、男で良かった」
「…………」
「そんな怖い顔すんなよ、あのままだとあんたまで文字通り昇天してただろうぜ、あの女、性欲もバケモンとか冗談きちぃ」
そう、だろうな。
どうしようもない怒りを、この憤りをどこへぶつけたらいいか、分からなかった。元凶となっていた塚本麻衣は死んだ。俺が、殺した。
「ま、このままあれが事件となったらこれまであの女がしてきたこと、過去にされてきたこととか全て明るみに出るだろうから、真実がバレたとしてもあんたはそこまで世間に非難されない。それがあんたの親父さんに出来る唯一の恩返しだろうから」
「聞いても、いいかな? 父さんとのこと」
ブラウンがかった髪色をした長身でがたいのいい彼が、缶コーヒーを飲み干す。
「あの人は、俺の命の恩人だ。そして俺を助けたせいで、命を落とした」
雨が、轟々とアスファルトへ跳ね返る。
いつもは穏やかな川やクリークも汚い色をした激流へと変貌を遂げていた。
「巡瑠の名前を出して俺をおびきだそうとしたのか、だがその子は巡瑠じゃない。なにがしたいんだ?」
あの人は僕のことを見て言っていた。
「雨の日に出掛けているこの子が悪いんですよ。こんな日に出掛けるなんてワケアリでしょ? だから教えてあげるの、お外は危ないんだって」
僕はその日、母と喧嘩をして家を飛び出していた。
公園の屋根付きベンチに座っていたら、この女の人がやってきて、お話してくれた。
そして帰り道とは少し逸れた橋の上に、今僕たち三人は雨に濡れて立っている。
けど、何がどうしてこういう状況になったのか、わからない。
あぶないよ。
僕は目で彼女に訴えたけれど、さっきとはまるで別人だった。子どもを理解する目線で話してくれたお姉さんは、僕の事なんて全く眼中にない。
「人質をとるようなやり方をしても無駄だ。君がわざと俺の車に轢かれようとしていたことも、ちゃんと家の人に説明させてもらう。だが、今は川の水位も上がっていて危ない。大人しくその子とお家に帰りなさい」
「…………」
「どうあっても俺を悪者にしたいらしい」
雨が体を芯から冷やしていく。
風邪をひいてしまう。頭がボーッとしてきた。
「ごめんね」
お姉さんが僕の耳元で囁いた。
僕の事を抱っこして手すりの上に座らせてから、僕の視界は一瞬にして橋の上から離れた。
背中に打ち付けられるような痛みを感じ、水の中に落ちたと気付いた。
そこからはひたすら苦しみながらもがき続けるだけだった。
雨が降ってうるさかったのに、水中は嫌ってほど静かだった。そこに一つの音が届く。
僕は誰かに抱きしめられている。
そしてそのまま引き上げられる。
「っくしょう! あのガキが!」
水面から顔が出て、僕は飲んでしまった水を吐き出す。
「げほ、ごほっ」
「そこまで飲んでないな、ならいい。空気を含めば少しは浮力が増すからな。なるべく手足は動かすな、顔だけを水面から出しておくんだ」
さっきの男の人が必死に何かを叫んでいる、けれど僕にはよくわからない。
「ちっ、暴れるなって。ぐっ」
男の人は僕のシャツを掴み、陸地まで泳ぎ始める。
流れには逆らわず、とにかく川の端まで泳ぎ進む。
「はあ……はぁ、あぁ、くそっ」
僕はここで死ぬのだろうか。
ぼやけた視界に、突如あの人の顔が映る。
「おい、いいか聞け、聞くんだ!」
薄っすらとした視界がくっきりと映る。
「最悪の話をするぞ、俺はお前を助けて死ぬつもりなんてない! そんな犠牲の英雄なんぞなりたくないし、赤の他人を助けるほどの余裕なんてないんだ。だが、もし、仮にも俺が死んでお前が生き残れたら……」
彼はただ雨に打たれているのか、泣いているのかわからないが、とても悲しそうで、悔しそうだった。
「俺の息子、立川巡瑠を助けてやってくれ。あの子は狙われている。俺は……、俺だけじゃ守れない」
「め、ぐる」
「俺の事を命の恩人だと思い、感じ、そのことで負い目に感じる日がもし来たのなら、君にとっての救いは唯一そこだ!」
また、視界がぼやける。
「いいか、忘れるな! この日を! 俺の願いを聞き入れろ!」
「小学生にそこまで恩を着せるなんて、普通子どもの記憶なんてあてにしないだろ? ま、あの女と親父さんの顔だけは忘れたくても忘れられなかったけどさ。遺族との立ち合いの場で会った時もお互い覚えてないでしょ? そのあとは正式に家の方にも謝りに何度も行ったから、その後でなんとなくあなた方一家のことは探らせてもらってたよ。そん時からずっと言いたかったけど、あんまし顔似てないよな」
問題はあんたを狙っているはずのあの女がどこにいるのか、と人差し指を立て、続けた。
「あんたも捕まってるときに聞いたでしょ、『舌切り雀事件』。死んだ高校教師と俺の母さんが昔付き合ってたらしいの。あんま良くない別れ方して、さ。まあ、あれだけ浮気してたんなら少なくともあっちが黒でしょうけど……、で、だ。ろくな証拠も無く未解決になってるせいで関係者女性が全員疑われまくりで心身ともに疲れちゃって、俺が学校から帰ると母さんがいつの間にかいなくなってた」
俺の顔を見た彼は否定する。
「ああ、勘違いしないで。行方知れずってわけじゃなくて、単に疲弊して入院してるだけだから。それでも警察はお構いなしに、あくまで任意と言って事情聴取に押し掛ける。逃げ場なんてないぞって言われてるみたいだって」
彼は懐から煙草を取り出し、咥える。
「未成年だろ」
「拳銃持ってるのも法律違反でしょ」
はは、と笑いながら火をつける。
一吸いして、遠くを見つめる。
「明確な証拠もないから、容疑者候補はだいたい同じ感じで、精神的に追い詰められる。そうした罪悪感から炙り出そうって魂胆だろうけど、被疑者の人数が人数だし非効率だと俺は思うね」
家族の心配、というよりは単純な捜査に関しての駄目出しというところか。
「あの女が小間使いしてる暴力団に辿り着いて、そこから拾ってもらうような形でここまで来たんだけどまぁ、わりと大変だったよ。ゴールデンウィークには訳の分からないキャンプサイト貸し切るよう手配させられたり、あんたらとの帰り道を尾行したときも、何回かあったかな。そんな警戒するなって、全部総括してるあの女の指示なんだから」
何もかも、全部ね。
行き場のない怒り、時間が経てば消火されるのだろうか。心に何かを抱えたまま、俺はこの先を生きていくのか、想像ができない。
「あの女が、いなければ」
塚本麻衣。
結局、あいつは何がしたかったのか、最期まで理解してやることができなかった。いや、もともと合わないのだろう。水と油、どれだけ同じ器に溢れても、決して交わらない。
器に注がれる前なら、どれだけ安全だったことだろうか。
「あの女がいなければ、俺ももちっとマシな人生だったんだろうな。川に落とされることもなく、あんたの親父さんが犠牲になることもなく、俺の母親だって今より元気だったかもしんないし、同学年の生徒が放火魔になることもなければ、女友達二人が死ぬことだってなかった。俺に関してはこんな物騒なもん持たなくて良かったんだよ、本来なら」
本来なら、人生どこで歯車が狂うか分からない。それも意図的なもので狂わされたのなら、その前に戻りたいと願う。
ただ、ひとつハッキリしていることがある。
死、という運命は変えられるということ。俺が過去に遡っている方法が、それを示している。生命の終わりが確定されているのなら、そもそも俺に命を絶つ選択権なんてないはずだ。
なら、変えられないことなんてない。
問題はどこまで戻るか。
「……なぁ」
俺は頭のイかれた提案をした。
「俺を殺してくれ」
「…………本心か? 家族だけならまだ生きてるってのに?」
俺の事を調べているというなら、どれだけ俺が血のつながりを大切にしているか、彼は知っているのだろう。だからこそ、俺の発言に心底驚いている。
「そうか。あんたは解放されたかったのか。その選択肢もアリだったな」
訝しみながら、煙草をふかす。
「子どもっぽさを無くすために始めたけど、本当はあんまり好きじゃないんだコレ」
立ち上がり、地面に落とした煙草を靴で踏み消す。
「今更なんだが、俺の名前は都鹿野。都鹿野一颯と言います。よろしく先輩」
俺の体が横に飛んだ。
頭に感じた、その一瞬の間隔で俺は死を悟る。
限界まで戻ってやるよ。




