57 瓦解
「こう見えてけっこう我慢していたんだ」
男は言い訳のように言う。
表情は相変わらず微笑んだまま。
「ま、立川って聞いた時にあの人の息子だとは思っていたんだけど……、うんあんまり似てない、っていうかまったく」
男は左手に持つ拳銃をぷらぷらと指先で垂らしながらゆっくりと近付いてくる。
「ちっ」
ズボンの尻ポケットに仕舞っていた、塚本の叔父から奪った拳銃に手を掛けようとしたが、指先に力が入らず地面にカツン、と乾いた音を立てて落ちてしまう。
「無理はするな。俺は容赦ができないんだ、さっき知っただろ? あんたの親父さんには恩義があるけれど、俺の目的はたった今コンプリートされたからもうどうでもいいんだ。そこの塚本麻衣とおんなじ燃え尽き症候群ってやつ?」
目的?
「しかし、頭を狙ったはずなんだけど胸だったか。どっちにしても一発で終わってよかったけど、やっぱゲームみたいなエイムは発揮されないね、現実つら」
塚本の叔父の腰巻だった男は、銃を構え直し、地面にうつ伏せのまま息絶えた塚本の頭に向けて構えたり、解いたりを繰り返す。
「……誰なんだ?」
人が死ぬ、そんな瞬間誰だって目にする機会そうそうない。明羽は腰が抜けてへたり込んでいる、納富も目の前の光景に動揺を見せている。
実際、俺だって怖い。次は俺が撃たれるかもしれない。さっきまで俺の支えとなっていた女子が、クラスメイトが、真横でぴくりとも動かなくなっているのだ。
心を恐怖が支配する前に、俺は次の為の情報を手に入れなくてはいけなかった。考えたわけではなく、本能として口を吐いたに過ぎない。
「冷静だね。そこにいる機敏な女子の方が頭が切れるかと思ったけれど、肝はどうやらあなたのほうが据わっていたらしい」
男は息を吐いた。
「堅物を演じるのも大変だよね、そんなに怖い顔をしないでくださいよ。俺の方が年下なんだから」
「は?」
男はプッと吹き出しながら笑った。
「まあ、その反応は最もですよね。俺かなり鍛えてますから。俺イタリアかどっかのクォーターらしいんで、タッパもある方なんですよ、顔はこっちよりなんですケド」
身長は見たところ180センチ近くはありそうだ。顔も幼い感じはしない、若いとは思うがさすがに自分より年下だとは普通考えない。
それこそ塚本麻衣のような異常者じゃないかぎり。
「その女も大概ですよね? 俺の人生滅茶苦茶にしておいて、目的を探ってみれば何のことはない、単なる痴情のもつれ。頭ん中花畑とか笑えちゃうよ、それで何人もの人生壊して自分だけ幸せになんてなれるはずないんだ」
男は再びトリガーを引いた。
更に二発、塚本の背を打ち抜く。
「やめろ! もう死んでるんだぞ」
「怨恨ならこれくらい普通でしょ、ただ確かに急いだほうがいい。建物内と違ってここは外だ。音は響くからそろそろタイムリミットでしょうねぇ」
周りを見渡しながら男は次に銃口を一番距離がある明羽に向けた。
「っ」
震える明羽は叫び声すら上げられずにいる。逃げたくても動けない。
「目撃者は殺すのが通」
やめろ、そう叫ぼうとする前に男は視線で俺を制した。だが、大人しく屈していても結果は同じだろう。
「がぁぁぁああああ!!」
腹部を抑えたまま、血を流し過ぎてとっくに力が入らなくなった脚を拳で殴りつけながらどうにか立ち上がる。
男は驚きに表情を変えたが、すぐさま立ちはだかった俺に対し銃口を向ける。
「……あなたはスッキリしてないだろ? その女に人生台無しにされて、友達家族恋人、さらには自分の命すら巻き込まれて。そいつに目を付けられたことが運の尽きだと思うにはあまりに理不尽じゃないか? 大丈夫、もう死んでいる相手を撃ったところで殺人にはならない。最期にスッキリしといて損はないでしょう?」
「お前は誰だ?」
返ってこなかった問いを、息も絶え絶えに俺はもう一度した。
「都鹿野。都鹿野一颯。
都は都って書くからよく『つがの』って間違われるけれど。ま、よろしくお願いします」
言い終えると同時に俺の体は後方へ飛んだ。
自発的に、じゃない。一方的且つ、強制的に。
それと同時に乾いた音が響いた。
焦げた臭い、そこに鉄が混じる。
自分が倒れた音や、痛みすらもう分からない。視界が端から狭まっていく。
もう間もなく死ぬのだと悟った。
「久しぶり、だな」
死ぬことが久しいと感じる人間はいない。生物は一度しか死なない、死ねない。だから必死になるし焦りもする。
「あなたとは初めましてのはずです」
仰向けに倒れた俺の耳に都鹿野の言葉がよく通る。
そう、だっけか?
続けて二発、脳天に鋭い痛みを感じて、そこで全てが終わった。
* * *
「明羽、納富……」
俺は連れ去られた二人の名を、掠れた声で呼ぶ。
断末魔にも近い二人の叫び声と、汚い男たちの笑い声だけが隣の部屋に通ずる換気口から響く。
俺はもう何日、こうしているのだろう。
手足を縛られ、換気口しかない部屋に閉じ込められ、何時間過ぎたのか、何日経ったのかもわからず、一日に僅かな水しか口にさせてもらえない。
排泄すら許してもらえない俺は、小も大もそろそろ我慢の限界が近い。
永遠に気を張っているような気分だ、少しでも集中力を欠いたら、気絶してしまいそうなほど。
「巡瑠が大切にしているものは全部ぜぇんぶ……壊れたけど、どうする?」
俺の目の前に佇む女、塚本麻衣が心からの笑みで俺を見下ろす。
「私が一番? 一番になったでしょ?」
イカれてやがる。
「……下から数えたら一番だろうな」
「ん、強情だなぁ」
絶対に屈してやるもんか。
俺にはやり直せる力があるんだ。
矢武の時みたいに、逆転するチャンスはある。
「希望を捨てないね、まだ足りないのかな? そう、例えばお母さんとか妹ちゃんとかを失えば、私が一番になれるのかな? なんて」
「…………」
はったりだ、今の状況だと既に俺の捜索願いが出されていても不思議じゃない。そんな警察が動き回るような状態で家族に危害なんて加えられるはずがない。
「まだ抱いているでしょ? 希望。そうだよね、私もいつかはいつかはって子どもの頃何度それを願ったか、覚えていられないくらい。全て、無駄な時間だったって気付くのも遅かった」
何を言い出すんだ、突然。
「私って最低だから、汚れているから。巡瑠、今でもあなたが眩しいよ。どうすれば釣り合うんだろうって今もずっと考えてる。けど、簡単なんだよ実際。あなたが私と同じくらいになってしまえばいいんだって、そう思ったから。ごめんね」
地面に転がる俺に近付き跪く塚本。
唾でも吐き掛けてやろうかと思ったけれど、片手に持っているスマホに映し出されたニュース映像を再生されたことで、そんなことを考える余裕は無くなった。
『火災があった海星市の立川さん宅では海星高校に通う長男、立川巡瑠さんが行方不明になっており、警察は重要参考人として捜索にあたっています』
声が、出なかった。
ニュースを読むキャスターの顔、テロップ、日付、天気、時間、スマホの画面を俺は隈なく見た。フェイクを疑った。この女ならば、やり兼ねないからだ。だが、仮にこれがフェイクだったとしたら、よく出来過ぎている。
「巡瑠、ああ巡瑠、巡瑠巡瑠巡瑠っ。私はこの二日間、これを見せるためにどれだけ我慢をしたか!」
息が荒々しくなっている塚本の顔を俺は、凝視した。
そう、火災のニュースは既に起きてしまったあとの文脈だったからだ。例えば、タイムリーな情報であればそこから遺体が出たか否かの説明をする。あえてそうじゃない日付のニュースを選んだとしたら、焼死体が二人ぶん、出てくれば俺は噛みついてでも塚本麻衣を殺す。けどもし、助かっているなら? 俺はこれ以上の怒りを溜めずに済む。だが、警察は行方不明になっている俺を第一に疑っているらしい。この状況を説明できないことが、何よりも辛い。被害者はまだまだいるというのに。
「…………絶望、しないよね?」
俺は塚本の一言に目を細める。
「矢武のときもそう、まるで先回りしたかのように立ち振る舞ったわけだし、あいつとのやりとりは会話じゃなかったから監視カメラも盗聴も意味ない。じゃあ、クラッキング? そんな技術持っているなんて初耳だけど…………」
ぶつぶつと考えている。
首筋に冷や汗が浮き出る。もし、もしだよ。あの夢のような出来事が、もし塚本にバレたら? 俺は、どうなる? 普通は信じないだろうが、信じた人間を少なくとも一人、知っている俺からすればまったく未知数な博打になる。隠し通せるなら隠した方がいい。
「予知夢? たまたま? すべてを自分の都合のいいように変えられるなんてそんな夢みたいなことある? じゃないと今の反応の説明がつかない」
眼を閉じた塚本は深いため息を吐く。
「どうやって過去にいったの?」
「は……はっ?」
眼を見開いた俺の表情を、こいつは見逃してくれなかった。
「嘘が下手、まさかこんな頭のいかれた質問してくるなんて、それも一発で当てられるなんて思わなかったんじゃない?」
眼を閉じたのは俺もそうだ。さらに深いため息を吐いて、うっすらと開く。
「そんな便利なもんがあるなら、とっくに使って真っ先にお前を殺してるところだよ」
苛立ちを見せて俺は呟いた。
半分は本当のことだ。そんなほいほいと使えるならどれだけ人生強くてニューゲームだろうか。残念ながら今のところ分かっていることは俺の死を持ってしかトリガーに成りえないことだ。
そもそもその事象だって、果たして本当かどうか。
実はそういう夢を見ているだけなんじゃないかと思う時もある。死ぬというリアルな夢を見て目が覚めているだけ、とか。単純に考えると一日前に戻っているという解釈だが、そこから枝分かれしてパラレルワールドになっている、とかそういう可能性だって無くはない。
「そう、便利ゆえに多用できない条件があるとか。例えば回数制限、数に限りがあるだからこそ使い方を見定めているのか。もしくは行動制限、あることをきっかけじゃないと起こりえないとか。ま、私はそれを確かめたくて、今こうやって巡瑠を監禁してるんだけどね」
「それとも複数の事象が折り重なってこうなっているとか? ある次元では矢武が君を殺している、またある次元では巡瑠は私に監禁されていなかったり、もしかしたらそもそも私と出会ってすらいない世界だってあるのかも…………、だったら私だって、あんな凄惨な幼少期を過ごしていない世界がよかった」
もはや一人で会話をしているに等しい。いや、単に独り言なのだろう。ありもしないであろう未来を希う、そんな誰もが抱きかねない妄想を、塚本麻衣は本気で願っている。
「もしかして、私があなたを特別だと思ったのも、そこに本質があった、なんて」
そして被害妄想と言わんばかりに自分だけの世界を構築していく彼女だが、それが妄言とも言い切れないところが、厄介だ。
塚本の妄想で済むならまだマシだったかもしれないが、物事のピースが幾つかガッチリとハマってきている事態に、俺は焦りを感じていた。
「まだ巡瑠の理性が残っているうちに相談しておくね。もし、このままの状態で放置したら、巡瑠はどうなると思う?」
頭の痛い話だ。
ただでさえ腹が減って、排泄を我慢して、風呂にも入ってないせいで痒いし、そこもかけなくてイライラしているというのに、これ以上何を求めているんだ。
「理性がなくなると、俺は死ぬ」
どうやって死ぬ?
衰弱死、病死、餓死、どれも長く辛く苦しい。今よりも最悪な状態が永遠のように感じるわけだから。
「ううん、死の一歩手前ってところでやっと巡瑠は私無しじゃ生きられないことに気付く。そして求めてくれるはず。だから、だから私待ってる」
やめろ。
「それじゃ」
助けて。
「何時間後」
おいて行かないで。
「何日後かに」
なんでもするから。
「またね」
扉が閉まり、ガチャリと鍵を掛けられる音を最後に、静寂が訪れる。
今思えば、俺はすでに半分くらい壊れていた。
「ぐっ……」
正直、あれほど憎い相手なのに、あいつがいたおかげで気が紛れていたところも否めないのだ。
食欲、痒み、便意、尿意、それらが全て俺に襲い掛かってきている状況を、何分何時間何日とも知れず我慢をしている状態なんて人生そうそうない。我慢が長引けば長引くほど、時間経過も遅くなっていく。
「う………ぐぅ、っ」
俺は、情けなくて泣いていた。
僅かなプライドさえも、破片すら残らないほどに砕け散っていた。
誰か、誰か俺を、
「殺してくれ」
「殺さないよ」
部屋は異臭に包まれ、涙が流れ、鼻水も拭うことができず、嗚咽を漏らしていた俺は塚本がいつの間にか戻ってきているだなんて気付いていなかった。
そもそも重い扉を鍵を外してから開ける、あんな分かりやすい音にも気づけていない時点で、俺は体に異常を来していたのだと思う。
「つらかったね」
塚本は、倒れた俺の頭を持ち上げ、自分の膝をそこへ入り込ませる。
やめてくれ。
こんな俺を見るな。
優しくするな。
「知ってるでしょ? たとえおしっこやうんこを漏らそうが、涙を流そうが鼻水を垂らそうが、体は汗で臭くなっていようと垢だらけだろうと、私は巡瑠の全部を愛せるんだよ」
塚本は俺の顔に手を触れる。指先で撫でている。
「かわいそう、唇もがさがさ。そっか、まだ今日の水を上げてなかったね」
ペットボトルキャップを開けた塚本は、水を口に含んだ。
俺は、霞む視界で何をしているのかわからなかった。
そして塚本は、俺の口に自らの口を重ねた。
キス、ではない。
口移しで水を飲ませていたのだ。
そして、あろうことかそれを俺は当然のように飲んでいたのだ。
「ぷは、あはは、はははははっ!」
そこから、塚本の中の何かが弾けたのだろう。
抵抗することをやめた俺に、文字通り好き放題やり始める。
俺の汚い顔や体を舐め、服を脱がし、排泄された汚物さえも動揺ひとつせずに脱がした服ごと放り投げ、俺の上へ乗っかる。
「……ぁ……ぇ」
もはや声すら出ない。
そして塚本自身も服を脱ぎ始める。
その肢体は、美しかった。
本人が語った過去など、まるで夢幻かのようにそれはいつまでも見ていたいと思わせる肌と体つきをしていて俺の肌に吸い付くように塚本は重なる。
「ほら、体は正直だね。生きようとしているね」
なまめかしい声と仕草に、俺は意識を保つことだけで精一杯だった。
本能が蠢いているかのように、俺の体は素直な反応を示していた。失われていく命が、それを燃やさんとしている足掻き。
そこから先、俺の理性は失われていた。
「あは、積極的になってくれた! 私は求められている! あなたに! 巡瑠に! 愛する人に!」
そして、俺の生きてきた人生と培ってきた心が、崩れていく音が響いた。




