56 矛盾と逡巡
塚本が泣き終えるのを、俺、明羽、納富と三人でしばらく待っていた。
「……ひっ、う」
だいたい5分くらいだろうか、綺麗な顔が台無しになるほど目の周りは赤く腫れぼったくなっていておまけに鼻水もちょっと垂れているのが少し面白いとさえ思ってしまった。
「どう、これで満足?」
痺れを切らした明羽が声を掛け、一瞬だけぴたっと泣き止んだ塚本。そして明羽の方を見た途端。
「ふ、うぅぇぇええ」
また泣き始めた。
「おい、泣かすなよ」
「え、あたし!?」
あーあ、せっかく落ち着こうとしていたのに。
「っていうか、さっきまでの調子はどうしたんだよ」
あれだけ人縛っていきり立っていた女が、酒飲みの泣き上戸みたいにわんわんと泣いている。
「結局、彼女も子どもだったってことじゃないかな」
納富が言う。
「二重人格に近いものだと思うよ。子どものころから、とても私たちが想像できないほどの人生を歩んできていて、あれだけの計画性と実行力を十代の女子が行使できるかと聞かれると稀なんだろう。だからそう、完璧を求める自分を無意識のうちに作り上げていたんじゃないかな。例えば、言葉遣いや仕草が変わる瞬間が彼女にはあったんじゃないかな、心を壊す、あるいは作り変えるほどの何かがきっかけになって。自分の心は成長できるものだけれど、作られたものは別だ。だから幼い頃の彼女の中で人格を作り上げたんだろう」
「でも、要はあいつも含めてあたしらを閉じ込めた奴が元凶ってことじゃないの?」
塚本が泣きじゃくっている間にある程度の情報を手に入れたという納富が彼女の過去について教えてくれた。俺が本人から聞いた話とも遜色ないのでほぼ事実なのだろう。そして二人がどうしてこの場所に訪れたのか、その経緯もある程度理解はした。
それにしても。
「戸田の野郎、まんまと踊らされたわけか」
女性に対しての憧れっていうか、欲求が人一倍強いのは知っていたけれど、そこまで人を変えてしまうものなのか。
「ん、まあ君ら仲良し三人組に関して言えばだけれど、戸田君にだけ彼女がいなかったから、その焦りもあったんじゃないかな」
「あー」
納富の一言に頷く明羽。
そこで、俺は妙な引っかかりを覚えた。
「待てよ、彼女がいないってんならマコっちゃん……原町だってあいつ彼女いないだろ?」
「ん?」
俺の言葉に納富はまだしも、俺の仲間内の事情を知る明羽ですら表情を曇らせた。
「いやいや、あれまだ別れてないでしょ? 隣のクラスの百坂さん。去年の夏くらいからだったっしょ」
「そうだね、去年は同じクラスで今年は違うから少し可哀想だと思ってたんだ。まあ君たちも今年は離れ離れになって明羽のテンションもだだ下がいたいいたい明羽さん太ももつままないで」
は、去年の夏?
そんなわけが……いや、この状況で二人が照らし合わせてふざけるなんて考えづらい。
だが、俺の記憶、認識が正しければマコっちゃんは一度だって彼女を作るなんてしてこなかったはずなんだが。
いや、俺の勘違いなのか。
「居た、のか……?」
改めて声に出してみても、いまいちしっくりこない。
「めぎゅるん?」
「悪い、自信が無いんだ」
俺は、自分がおかしくなっていることにもっと早く気付くべきだったのかもしれない。
「俺は、大切なはずの父親の死因さえはっきりと思い出せない。親父は雨の強い日に水位が上がっていた川に落ちて死んだはずなんだ。子どもを助けようとしてって事だったが、だけど塚本が言っていた死因とは違う、けれど俺はそれを全否定できない。そうだったかもしれないと、俺が思っているから。事実関係を調べることができないこの状況では何とも言えない。俺は、こんな大切なことを覚えていない、最低野郎だ」
これが思い込みなのか、記憶障害なのか。今までそこに何の疑問も持っていなかった。だが、
「あたしは、デリケートな部分だから詳しくは知らない。いとは?」
「悪いけれど、知っている。調べさせてもらったっていうと気分を害するかもしれないけれど、彼女が語っていたことが真実かどうか照合するための判断材料としては」
は、納富の瞳をじっと見た。
「残念だけど、まいやんの言っていることが真実だよ」
納富は、静かに目を伏せた。
事件そのものの記事を見れば関係者を装いでっちあげることは難しくはない。けれど、塚本はその日の事を鮮明に語って見せた。誰かから聞いた話とかではない限り。
俺の親父を殺したのは、死に追いやった人物は塚本麻衣。
拳を静かに握りしめた。
「わたしが、一番の違和感を覚えたのはそこ」
俺の怒りに、元凶となる者の声が割り込んできた。
「わたしも、それなりに人間を観察してきた。メンタリストを名乗るわけじゃないけれどある程度の動きとか、考え方とかは想像がつく。わたしは、家族愛の強い巡瑠がお父さんの仇を知ったら、きっと怒りに我を忘れると思った。心を壊せると思った。だけど、自信があるようにそれを否定をされた。まるでわたしが間違っていたのかなと錯覚しそうなほどに。そこが、怖かった。それと矢武くん。彼が暴走するのは少し想定外だったけれど、あなたは彼の暴挙を止めた。まるで先回りをしていたかのように」
「しゃべるな」
「わたしを救ってほしかった、その何かがわたしに今度は牙を剥いた気がしたの。だからわたしはあなたをずっと拘束して、抗うことをやめるまで、飲まず食わずで監禁する気で――――――」
「黙れ!」
俺は、塚本の首を両手で締めた。
「か……は………っ」
力いっぱいに、だったと思う。今の自分が何をしているのか、俺は俺が分からないでいた。
苦しそうにしている塚本だが、抵抗の意思は見せない。きっと、何もかもを諦めているのだ。
なら、いっそ楽にしてやろう。
俺の中で何かが壊れていく音がした。
「やめ、なって!」
馬乗りになって首を絞めていた俺を後ろから覆いかぶさるように引きはがした明羽が俺の頬を叩く。
「あ、あんたまで堕ちてどうすんのさ。はぁ、はぁ」
息を切らしながら涙目になっている明羽を見て、俺は自分がやろうとしていたこと、先ほどまでの行動を振り返り悪寒がした。
俺は、何をしようとしたんだ?
「………………」
納富と目が合い、俺は目を反らした。
また何かを見透かされそうな気持ちになったからだ。何もやましいことはないはずだけれど、俺は人に話せない秘密というか、あの力に限って言えば誰かにおいそれと言っていいものじゃないことは、さすがに分かっていた。そして誰も信じない話を、恐らく唯一信じてしまう納富いとは、過度に期待をさせてしまう。だから俺も期待してしまう。もしかしたら、俺には思いつかない打開策を提示してくれるのではと。
だが、発動条件というのが今のところ俺自身の死がトリガーでしかない。おいそれと使えるわけではない、というよりは時間を巻き戻すことが目的ではないから。
最悪を、死を回避するための手段でしかない。
「もしかして」
納富の声が聞こえたと同時に、ジャラジャラと鎖の音がする。
あいつが戻ってきた。
口にはしないが、誰もが息を呑む。
状況を打破する手段も作戦もない。相手が一人なら俺だけで抑え込めるか?
ある程度位置取りだけ決めておいて俺が抑えている隙に女子たちが助けを求めに外へ出るか?
建物に人員を配置されていたらそれこそ詰みか。
もっと考える時間があれば、そう悔やむのも一瞬。扉の鍵が外れる音がした。
「おとなしくしていた方がいい」
仰向けに寝転がる塚本が単調に言った。
直後、扉がゆっくりと開き誰かが入ってくるよりも先に扉の隙間から覗かせたのは、黒い筒だった。そして黒い筒の全容が見えた時に、俺は震えた。
扉の隙間からこちらを伺うように向けられている銃口に。
最初から抵抗する意思を奪うための一手だったのだろう。凶器をちらつかせることで、絶望感を与える。それがはたして本物か、なんて無粋なことは誰も思わないだろう。
この状況で偽物を見せる意味がないから。
「以外におとなしいじゃないか、麻衣のことだ。何か余計に知恵を巡らせるかと思ったが、なるほど。ガス欠か」
長かった。
男は深く、そうつぶやいた。
「そ、まるで監獄に居るのと変わらない。いや監獄の方がマシか、なんせ荷が下りたあとだからな」
なあ?
誰にでもなく同意を求めるような上ずった声を出す。
「残念だよな、お前らも被害者だし俺だって被害者だ。そこの色ガキにさんざこき使われて、そのほとんどがわけのわからんことで。目的がハッキリとしているならまだ手の出しようがあったんだけどな。迂闊に動けなかった。おかげで君らも巻き込まれたし、今からは俺の我儘に巻き込む。だが、安心してほしい。そこで全てが終わる。解放されるんだよ。つっても信じられないだろうがな」
男は、本当に心から嬉しそうに、無邪気な笑みを零す。その笑い声とともに構えられた拳銃が揺れる。偽物か本物か、安全装置が付いているのか、それがどこか。素人では判断できない、ましてやこの状況。ゆっくり考える隙なんて与えてくれるはずもない。
「女の方はいいな。麻衣だけのつもりだったが、なかなかどうしてレベルが高い。男のお前もだ。俺が女だったら抱かせてやってもいいってくらいのな。最近のガキってのはなんでこんなレベルがたけぇんだ? イケメン美女ばっかりが子作りすっからか? なんてな」
下劣な眼つきを一周させ汚く笑う。
腰巻の男は一瞬だけ顔をしかめた。その手の話を苦手としているかのように。
「でも悪いが男の買い手ってのはすぐには付けられねんだ。ハーレムのところ悪いがお前はお留守番だな」
銃口を真っ直ぐ俺の方へ向けた。
動くな、ということらしい。
「お前たちは自分で立てるよな? お手伝いが必要か?」
全身を嘗め回すような卑しい眼つきに、明羽といとはゆっくりと立ち上がる。
「一つだけ質問しても?」
「……ああ」
表情に余裕があるいとが気に入らなかったのか、不機嫌に頷く。
「もし、これが彼との今生の別れだというのなら、最期に2,3言話をしてもいいですか?」
意味を分かって言っているのか、喉まで出かかった言葉を押し殺し、男は無言の肯定をした。
「立川巡瑠、飛躍しすぎた妄想かもしれない。だけど、よく考えて。この状況はもしかしたら初めてかもしれないけれど、もし一度やり直しを試みていたのなら、大幅に巻き戻ったのなら――――」
「時間切れだ、言っている意味がわからん。何かの暗号めいたもので助けを呼ばれても困るからな」
いとは静かに目を閉じて「わかりました」と言うと、出口の方へゆっくりと歩き出す。明羽もそれに続くが、未だに立ち上がろうとさえしない塚本に痺れを切らした男が歩み寄り、塚本の横っ腹を蹴りつける。
「結局、ガキがいくら知恵絞ったところで大人には勝てないんだよ。お前が例え大人になったとしてもそれは縮まらない。俺が爺さんになったときくらいだろうよ、もし今後負けることがあるとすればな」
髪の毛を掴まれ、無理矢理立たせられた塚本が最後に俺の方へ向き直って、笑った。
「もう一度会えてよかった」
なんで、そんなことを言うんだ。
思考回路が一瞬だけショートした俺は、気付けば男が塚本を引きずりながら部屋の外へ出ていくところまで動くことができなかった。
部屋の扉が閉まるその瞬間、俺は立ち上がろうとしたのか、はたまた足がもつれたのか、前に倒れんばかりの勢いで駆け出していた。
「くっ!」
扉は防音のため、早く閉めることができない。
男にタックルをかまし後方の壁にぶつけ、ひるんだところですかさず俺は拳銃を奪おうと掴み上げる。男が手放すことを恐れ、俺を急いで引きはがそうとした拍子に、二発。間近で大きな音と、フラッシュで一瞬だけ何が起こったのかわからなかったが、俺は構わず死に物狂いで拳銃を奪い離れる。
「はぁ、はぁ」
カタカタと震えながら拳銃を両手に構えた。ずっしりと重量感がある。昔、的屋で買ったエアガンとは全然違う。本物だ。
「ひっ」
短い悲鳴が聞こえた。
だが、片方の耳が金属音のような音がずっとしているため、よくは聞こえない。
「あがぁ」
塚本の叔父と呼ばれる男がその場でうずくまっていた。
見ると右の太ももから大量の血を流している。被弾したのだ、と気付く。
「めぐる」
狭い通路、引っ張られた髪の毛から手を離され自由の身となった塚本が地面にへたり込んでいたが、俺を見上げて声を漏らす。
なんだ、その顔は。
「めぎゅるん」
「巡瑠っ!」
ああもう、周りの音が聞こえづらいったらない。
「親っさん!」
腰巻だった男が声を荒げて近付こうとしていたので、俺はためらわず一発だけ、誰に当てる気もなかったけれど、場を支配するために天井を撃った。
「っ」
空気が一瞬凍り付いたところで再び腰巻の男へと照準を当てる。片手をあげて撃ったせいか、反動に肩が痛くなる、だがそれを悟られないように俺はしっかりと構えた。
「動くな」
男はあっさりと両手を上げて膝をついた。
廃墟となったラブホテルから脱出するなら今しかない。
出口に繋がるだろうと思しき階段が左手にあるので先導しようと歩を進める。だが、足にうまく力が入らないことに気付く。
「ひゅぅ、ひゅぅ」
喘息にも似た、何かが絡みつくような呼吸をしている自分がいた。
熱い、熱い。夏だから、なんて言い訳にならないくらい焼け焦げるような気分だ。そしてそのあとに感じた痛みで、ようやく気付く。
そうだ、銃声は二発。一発が俺に当たっていたんだ。
腹部をゆっくりと触る、ずぶ濡れだ。鉄の臭いが鼻につく。そう、俺以外が俺の状態に気付いていたのだ。だからみんな俺を見て俺に声を掛けた。だが、今はそんなことさえどうでもいい。俺が倒れたら、恐らく誰も助けられない。
塚本の叔父が倒れ、奪い取った拳銃で残るもう一人の腰巻だった男を牽制できている今。
「肩を」
被弾した左の脇腹を抑え動き出す俺の側に一番近かった塚本が歩み寄る。怪我人に、というよりは血に抵抗がないらしくあっさりと俺の左脇に首を掛け体を支えた。
もしこの状態で塚本に銃を奪われたらどうする。
そんな考えも過ったが、その動作が自然であったためすぐに払拭された。
半ば塚本に引っ張られながら、大人しく膝をつき両手を上げた男への警戒を怠らないため、常に銃口をそいつに向けていた。先に連れていかれそうだった明羽と納富は男から少し離れた先に怪訝な表情のまま立っていた。男を横切った二人に合流しようとした。その瞬間、男の口角が僅かに上がったことには気付かなかった。
「早く出よう」
その場で留まってスマホで助けを求めるのも良かったけれど、恐らくは一刻も早くこの場から出るほうが心身ともに落ち着けていいだろうと誰もが考えた。もし、ほかに仲間を潜伏させていて返り討ちにあったら、なんて考える余裕は誰も持ち得ていなかった。
だが、幸いにも階段を下りていくと一階と思しき駐車場に出た。この建物の構造上、一階のスペースに駐車場を設けているようだ。周囲と間あいだに鉄骨が見え、廃墟として取り壊す予定なのか、薄黒いビニールで周囲が隠れている。
もっとも幸運だったのが人が隠れるようなスペースがなく全体を見渡せるので、伏兵や見張りがいないと分かったことだった。
「めぎゅるんは拳銃を構えて持っていない方がいい。今警察に電話して保護してもらうから、然るべき正当防衛だとしても、その一回に留めておくべきだ」
「…………」
俺は震える手を抑え込むように拳銃をズボンのポケットに仕舞った。万が一にも暴発なんてしたらという恐ろしいことは考えないようにした。このまま置いていくよりかは、保護してもらった時に警察に押収してもらった方がこちらの正当性が証明できるんじゃないだろうか。
「外の方も、あいつらはいないみたい」
先駆けて駐車場の出入り口から外を覗いた明羽が声を掛けてくる。
もう安全圏に入ったも同然だ。
気を張っていたことで腹部の痛みもある程度ごまかせていたけれど、肩の力が少し抜けたことで痛みが全身を駆け巡るように増幅した。
「ぐぅっ」
食いしばりすぎて歯が折れるんじゃないだろうか。ほんの一瞬だけそんな冗談みたいなことが脳裏を掠めていった直後。
乾いた音が響いたと同時に何かに引っ張られる感覚が襲った。
衝撃と痛みが遅れてやってくる。俺は耐え切れずにしわがれた叫び声をあげていた。
「い、いやぁぁっ!」
そして次に明羽が悲鳴を上げた。
「お前っ!!」
納富が俺たちの後ろに向かって怒号を散らした。
「はぁ……はぁ、塚本、大丈夫か」
脇腹を鷲掴みして堪えながら、俺は起き上がろうとする。俺と一緒に倒れた塚本のほうを俺は見た。
塚本は地面に突っ伏したまま、ぴくりとも動かなかった。
「おい、どうし……た……」
揺さぶろうと塚本の背中に手を掛けようとした俺は固まった。膝に温かい感触を覚え、じわりじわりと染みこんでくるくるそれが液体だと気付いた時、ひどい頭痛に襲われた。滲むような視界に飛び込んでくる赤い色に吐き気を催しながら、俺は今ようやく後方へ振り返った。
その男は、悦とした笑みをこちらへ向けていた。




