52 舌切り雀 後編
人間が動物であることを認めたうえで、野生動物の本能を人間に例えることはさほど珍しくない。
肉食動物、草食動物。
だいたいの質疑は二択で迫られる。
さらに例えるならサディスティック、マゾヒズム。
極端な話、中央値はない。左右どちらかに振れなければならない。どちらかといえば〇〇だ、とか俺は私は絶対〇〇だ、なんてよくある会話のひとつにすぎない。
生憎だけれど俺は痛いのは嫌いだ。そして他人から下に見られて特別に快く感じることもない。ただ、愉悦に浸るのを好む。だから俺は肉食であり、サディスティックなのだと自分自身そう思っている。
痛みに快楽を覚える人間の気持ちなんてわからないし、理解しようなんてのも思わない。だが皮肉な話、相容れないが相性はいい。凹凸の関係であり、隣合わさったパズルのピースの如くガッチリとはまる。
ただ俺が気に入り、関わる女すべてがマゾというわけじゃない。ほとんどが容姿から始まるのだが、そのなかには一般的とされる性格もいれば、自分と同じで相手を虐げることで満たされる女もいた。
まあ、最後には屈服させたわけだけど。男とは違い、女は基本痛みに強い。肉棒を刺される瞬間、子どもを産む瞬間。それは男に感じることができない世界。与えられた役割にしてはあまりにも不公平だと感じたときもあった。命が生まれるという尊い瞬間には、必ずしも誰かの痛みを背負っているのだから。赤ん坊というのは既に業を背負っているものだ。だからあんなに泣いているのではないかと、思ってしまう。母親の代わりに泣いてくれる赤ん坊は、母親にとって愛おしく感じるのだろう。女性は特別だ。大きな役割を担うことができない俺たち男は、だからこそ女性を喜ばせる努力をする。ついでに自分も満たされようとする。我欲、私利私欲の正しい在り方だとさえ自負している。
「はぁ、もうだいぶ陽も落ちたな」
「はぁ……はぁ……もう?」
布団で横になって腕のなかに志緒利がいる。
「ホタル見たかったんだろ? 着替えよう」
「は~い」
あまりにアブノーマルな趣味はどうかと思うけれど、趣向を凝らすというのはいつもと違った特別感があっていい。それに同じような行為をして、記憶の混同で違う女性の名前を囁きそうになる。そういった地雷原を回避するためにも相手によってやり方を変えるというのは非常に大事になってくる。気を許しているとはいえ油断はするべきじゃない。
好きで教職の道を進んだというのに、あるまじき事を繰り返している自覚はある。罪に対して無自覚ということではない分、厄介だと言う者もいるが。
表沙汰じゃないにしても、優しさだとかそういった普段からの行動が誤解を招くと上役からも口を酸っぱく言われた。ほかの男性教諭からは、やはりいい顔をされない。
愛情より友情とか腑抜けたことを言う奴が俺は嫌いだ。結婚することを絶対としない昨今、異性に愛情を抱きづらいと揶揄されるが、それは友情もさることながらである。
「何かんがえてんの?」
「いや、ぼーっとしてた」
営みによる疲れ、だろうか。
いつも答えの出ないことを考えてしまっている。非効率だ。
教師でありながら答えが無い問題を考えるなんて滑稽にもほどがある。答えの出る問題ばかりを取り扱っていると、そういう無駄に思えることも考えたくなってしまうものだろうか。
どんな役職に就こうがヒトであるからには限界が訪れる。
「いろいろと限界か」
人生早くに身を固めてしまった。というのも両親の人となりが厳しかったことも影響しているが、それなりに反動が出た結果が今なのだろう。娯楽を知ると戻れなくなる。ある種、誰もが意識をしていない身近な中毒である。
保護下じゃなくなった今、教師である意味もあまりないのかもしれない。
塾講師ならば、しがらみは少ないかもしれない。
どちらにしても教師というのはどこへ行っても見られる立場である限り、この生活もジリ貧だろうと考えている。
生活を捨てるか、自分を捨てるか。
「行こうか」
部屋の鍵はフロントに預けて、旅館から少し下ったところの渓流へと向かった。
「ホタルか、ほとんど見たことないけどやっぱり群生地ってあるもんかな」
光っているときは綺麗でいいけれど、本体ってけっこう虫って感じだった気がする。日中だったらなかなかの光景だったんだろうな。
「ゲンジボタルだったから、この辺って河が綺麗なんだろうねー」
「ホタルに詳しいな」
「さっきスマホで調べた」
「そういうことか」
源氏物語が恐らく由来なのだと思うけれど、まあ調べたらすぐに出てくるってのは時代に感謝だな。かといって調べても、女性を口説き落とす情報には役立てそうにないから放っとくけどな。一応、現国の教師ではあるから知っておかなければいけない分類だとは思うけれど、結局は生徒に教える範囲を復習していくだけのカタチになるからな。
「もうかなり暗くなったし遠巻きでも見えそうなものだけどなぁ」
志緒利が目を凝らしてあたりを見るけれど、街灯ばかりが目に映る。
「人の集まりもそこそこだからもう少し下ったところにあるんじゃないか?」
それか、今日はホタルが活発じゃないハズレの日という可能性もある。だとしたらついていないよな。
だが、そんな心配も杞憂になった。
次第に人だかりは増え、数店舗ほど屋台があちらこちらに見える。
街灯の感覚が次第に広くなり、合間合間の部分が消えている。そして暗闇が訪れるかと思ったが、それ以外の灯りの存在に気が付く。
「わぁー、キレー」
「最初から居たんだな」
感動しているのかいまいち分からない声とともに俺も声を漏らしていた。
なるほど、来た道を振り返ってみても分かる通り、ホタルの光は他に強い光があると認識しづらくなっているんだな。逆に言うと灯りのあるなし次第でスポットを変えることができるんだな。水草もある程度種類を植えて管理をしているのだろう。自然の光だけでムードとしては最高と言わざるを得ない。
ただ、所かまわずパシャパシャとシャッター音が響き、ホタルの淡い光もスマホのブルーライトに掻き消されそうだ。志緒利も横でバーストしている。
俺は写真などはあまり好きじゃない。思い出をいつでも振り返られるようにと思ってはみても、なかなかそんな機会がないからだ。あと、写真は物的証拠にもなるからな。相性が悪い。
「あれ、雲雀?」
人が行き交う中、声のした方向へ振り返ってしまった。
名前を呼ばれると条件反射で振り向いてしまうものだが、その癖を改めなければと思った。俺の名前を呼ぶ高い声、女性の声はアラートイコールエマージェンシーだからだ。ハッキリ言ってろくなことが無い。
「あー、久しぶり。來名」
「なになに、どったのこんなところで会うなんて!」
俺の察してくれと言わんばかりの嫌な顔に夜だから気付いていないのか、当人は嬉しそうに俺の手を取って振っている。
ただ俺と彼女の関係は既に終わっているものであり、志緒利の存在には気を遣う必要はない。問題は彼女自身なのだが。
「あ、もしかして彼女できたんだ。そうだよね、雲雀モテるもんね」
「來名はどうして?」
今日のイベント内容を考えて一人や、野郎ばかりで来るとはとても考えにくい。だから志緒利の存在を認識しなくても俺が異性とともにいるということを來名は察したのだろう。
「あ、あたしは女子旅ってところ」
自分は次の彼氏ができていないということを証明したいのか、慌てている。
「そう、か。じゃあ俺行くよ、彼女とはぐれちゃうから」
その場から早く切り上げたいという意志ももちろんあったが、実際に人の通り道に流れが生まれてしまっているため、本当に離れ離れになるかもしれない。
「ん、じゃあまたね」
來名のまた、という言葉にはやはり表情からも分かるように未練のようなものを感じた。別れを切り出したのは俺だ。肝心なところで自分を出すことのできない彼女は、割と淡白に受け入れはしたものの、どこかでつっかえていたのだろう。
どちらが原因ってわけでもない。俺としては馴染んでしまったから、としか言いようがない。來名といてその先を俺は想像できなかったんだ。
少し先を歩く志緒利のあとを追いかけて隣に並ぶ。
「元カノ?」
「ま、そうな」
否定する材料もないのでそう答える。
「ふうん。偶然? それとも雲雀の元カノってめちゃくちゃ多いとか?」
「……偶然だと思いたいね」
近くならまだしも、遠出をして知り合いに二度遭遇するのは少し珍しい気がする。嫌な予感とまでは言わないが、神様ってのがひょっとして見ているんじゃないだろうかと思った。
出掛ける前に個室露天風呂には浸かったけれど、大浴場もまた変わった効能があるらしい。
さすがに混浴も家族風呂もないし、せっかくなので少しの間だけ別行動をしようということで志緒利は大浴場のほうへ行ってしまった。
いい加減くたびれていたので、俺としてはその提案は大助かりだ。部屋で単に横になってテレビを点けてお茶請けを食べているひとときが今日で一番染みていく。
女性はだいたい長風呂だし、温泉とくれば小一時間くらい戻ってこないと思っていていいだろう。
しかし、それにしても今日は疲れた。羽を伸ばすはずが、へんに知った顔と出くわして余計な気疲れを感じてしまっている。二度あることは何とやらって流れで部屋を出て陽気に歩いてはまた誰か知り合いと会いそうで怖い。幸いにも部屋に風呂はあるのだし、もう少し人気が少なくなった時間帯に入りに行くのがベストだろう。夜遅くまでいけるみたいだし。
コン、コン。
「ん?」
志緒利か? それにしても戻ってくるのが早すぎる。大方忘れ物でもしたんだろう。
部屋のキーは一つしかない。俺が部屋を出ていくときは志緒利にメッセージを残すようにしているから、今は俺がキーを持っている。
部屋の扉を開ける前に、のぞき穴があるので外を覗く。
ノックだけ、というのが変だ。志緒利なら俺に声を掛けながら部屋の戸を叩くはず。声が聞こえないということは、少なくとも相手が俺という存在を確認する手間が発生しているということ。
「は」
微かに声が漏れた。
いや、驚きで大声を上げなかっただけ自分を褒めたい。というか、なんでここに? なんでこの部屋がわかった?
頭の中が疑問符で湧いた。
微動だにしない、ただ正面を向いて立ち尽くす相手に俺は恐る恐る扉越しで声を掛ける。
「塚本……か?」
確証が持てない。扉真ん中の覗き穴は魚眼のように見える。だから本人かどうかいまいち自信が無い。だけど、彼女ほど容姿が整った人間もそういるわけじゃない。だから俺は、声を掛けた。
いや待て、何故俺は声を掛けたんだ?
さんざん自分からトラブルを避けようとしているのに、どうして自ら招くような真似をする?
「はい」
短く、綺麗な声音で応えた。
「入れてもらえますか?」
俺は口の中に溜まった唾液を喉に押し込める。どうすることが正解なのだろう。いや、聞くまでもない。追い返すことがなによりも最善に決まっている。
だが、何故塚本がここに? そして、何故俺を訪ねてきたんだ?
尾行してきたとでもいうのか、聞きたいことはたくさんあるけれど、とりあえずあの子をこのまま廊下に留めておくのはリスクが高い。
「あ、ああ」
俺は部屋のオートロックを外していた。
無意識? そんなはずはないと頭の中で言い聞かせた。
「先生っ」
扉を開けたと同時に塚本が俺の胸に飛び込んでくる。まるで離れ離れになった恋人同士だと言わんばかりに。
心地よい香りが鼻孔をくすぐる。理性というものが一切働かない。いつの間にか俺も、塚本を抱きしめていた。
扉はオートロックなので閉まると同時にロックも掛かる。カチャリという音を皮切りに塚本は俺の口に自ら口付けをした。
たまらなく愛おしく感じてしまった。
俺の記憶が確かならば、彼女の方から俺の秘密を暴き別れを告げたはずだ。
けれどそれを、今の行為の意味を俺は疑問には思わない。今彼女が行っている行動が物語っている。過去にも俺から離れた女性は多く存在した。が、俺から離れていった女性でも戻ってくる者は決して少なくないのだ。失ってから初めて気づく。そんな感覚なのだろう。
幸か不幸か俺も、塚本に関してまったく同等の感覚を覚えていたので、多くは語らない。お互いがそうなのだと分かっただけでも、より一層愛おしく感じてしまう。
志緒利はまだ戻ってはこない。仮に戻ってきたとしても時間はいくらでも稼げる。お互い求めながら、敷き布団が敷かれた隣の部屋へと移動する。
ついさっきまで他の女と寝ていたという背徳感がなんとも昂らせてくれる。
浴衣姿の塚本もよくよく見ると艶っぽい。本当に何を着ても似合うんじゃないかと思わせる。
そんな子を今から滅茶苦茶にする。彼女もそれをよくわかっている。
もし、志緒利が戻ってきたら? 関係ない、部屋はオートロックでキーはひとつ。俺も大浴場に行くかもということでキーは俺が持っている。志緒利はだいたいが長風呂だからな。遅く行こうが俺の方が早く部屋へ帰ってくる。だから鉢合わせることもない。俺は頭の中で繰り返し言い聞かせるように確認した。
塚本が俺に会いに来てくれた。それだけでぽっかりと空いた心を塞ぐには充分だ。塚本だってきっと、俺がどういう経緯で、誰とこの旅館に泊まっているかはわかっているのだろう。そのうえで俺を選んでくれた。欲しいものが本当の意味で手に入ったとき、きっと今のような気持ちなのだろう。
塚本の唇に再度キスをし、舌を絡めようとした刹那、
「さよなら」
痛烈な一言だった。
痛みをこんな風に感じたことなんて今までなかった、俺はショックを受けたのか? そう自分に問おうとして気付いた。
この痛みは現実だ。
「あが」
顎を上手に動かせなかった。呂律がまわってないのか、情けない話…………だ。
命の終わりは美しいと、何かで聞いたか、読んだ覚えがある。
死を見るのはこれで三度目だけれど、
「鉄臭いだけ」
色味が濃い、ワインレッドのような血がボタボタと、それ以上の擬音で零れてくる。僅かながら浴衣に付着したものはあとで燃やすとして、せめてもの手向けとして看取ってやろうと思った。
多少なりとも藻掻くかもと身構えたけれど、杞憂だった。出血性ショック死といったところだろうか。
いったい私が何をしたか。
舌を切った。
自害する方法で使われたりもするだろうけれど、実際にどのくらいで死に至るのか、出血量はどのくらいで、抵抗する間はあるのか、一切不明瞭ではあった。
殺しに長けているわけではない。好きで殺している事でもない。嫌いだから、嫌いな事をしてまで問題を解決させるんだ。
饒舌でキスも上手な男が、哀れなものでピクピクと震えたのち、絶命した。
もしこれが自分とゆかりのある土地、部屋だったら。そう思うと事後処理の面倒さに舌打ちをしているところだけれど、ここはきちんとした事件で扱ってもらう。そのための材料をこんなにも用意して貰ったのだから。
部屋のクローゼットの奥に箱を二つ用意している。
素手で触ったりしないようにきちんと手袋をはめてから二つの箱を慎重に机の上に置く。
下川雲雀。
名前にすずめが入った男。舌を切られるだなんて滑稽だね。せっかくだから様式に則ってみよう。情報は多ければ多いほど撹乱しやすい。
容疑者を絞り込まれたとき、例え私が入っていようが構いはしない。捕まらないように工作をしているけれど、捕まったところで未成年だ。正当化はできないけれどきちんと理由付けもできる。私が犯罪者ということで悲しむ人も、片手で数えられる程度。いや、もしかしたらいないのかもしれない。
「ふぅ」
一息つくにはまだ早い。なのにどうしてだろう、この倦怠感は。
下川先生の鞄の中から小さい巾着を取り出す。
あった。結婚指輪。
これをあの人の血だまりに浸して小さめの筒箱へ入れる。
私の考えている仕込みはこれでおしまい。あとは部屋を出て、不倫相手が返ってきたら物語が動く。
「朝長さん、果たしてどんな目に遭うのかな」
いわば実験みたいなもの。
大きな箱の中には私が下川先生のアパート(フェイク)から拝借した茶封筒の中に入っていた写真の数々。不倫相手の写真。決定的証拠でもあるし、同時に容疑者を作り上げる最高の材料。
大きなつづらを開ければ、それこそパンドラの箱である。
誰も幸せになれない。
そして念のために、学校やマーケット。至る所から少しずつ拝借していた髪の毛を方々に散らばらせて、部屋を出る。ドアは開けてもらったので指紋なども採取できないと思う。
浴衣は脱いでリュックに入れていた別の着替えと入れ替える。
「大浴場は左、か」
鉢合わせをしないように突き当りを右へ曲がり、連絡を入れる。
「おじさん? 終わったから迎えに来てもらっていい?」




