51 舌切り雀 前編
「え」
ベッドに横たわった朝長由梨は意識を覚醒させるとともに、それを失う前の出来事がフラッシュバックする。
「ひっ」
驚いたように上体を起こして、刺激を感じた腹部をさすった。よかった、無事だ、と彼女は安堵したに違いない。そしてよく見ると自分の部屋のベッドに寝ていることに気付いた彼女はまたも息を吐いて安心しただろう。
さあ、夢から覚める時間だよ。
「体調はどう?」
すぐそばにいたのに気付けなかったのか。条件反射のように私から距離を取ろうとしてベッドから落ちそうになるのを堪える。
「な、なんで私の部屋にお前がっ」
起き抜けに視界が安定しないのか目をぎゅっと瞑ったり開いたりしながらも私のほうから視線を外そうとはしない。
「なんでって、誰がここまで運んだと思ってるの?」
「……は?」
部屋の戸をノックする音。
「麻衣ちゃん、喉渇いたでしょ。麦茶でよかったら……」
朝長由梨の母親が部屋に入ってきた。
そして起き上がっていた娘の姿を見て慌てて駆け寄る。
「もう、由梨。起きたのならそういいなさいよ。倒れたって聞いて、麻衣ちゃんが連絡してくれたんだから、ちゃんとお礼をいいなさい」
「え、は? え?」
目が覚めたばかりで状況が呑み込めない、というのも無理はない。朝長由梨を倒れさせたのは私なのだから。
「ごめんなさいね、不躾な娘で。気にしないで、ほら麻衣ちゃん、お菓子もあるから食べてね」
「ありがとうございます」
知らない間に家族と打ち解けている姿がそんなにおかしかったのか。信じられないものを見ているかのような眼差しを向けられている。
「それじゃ、邪魔者はこれで退散するわね。由梨、熱中症は恐ろしいんだから水分補給をしっかりしなきゃだめよ?」
「は、はぁ!? 熱中症?」
またしてもなんのことか分かっていないような口答えをする娘の姿に呆れたのか、頭を抱えて溜息をつきながら部屋を出ていく。
「……いいお母さんだね」
ふと、自然に声に出ていた。
「そんなお母さんをあんたは騙してるってことは分かってる?」
「ふふ、弁解しないんだ」
「なんとなく察した、私だって馬鹿じゃない。いったいどういうつもり?」
机の上に置いて行ってくれた麦茶を飲み干す。
「ふぅ、別に。さっきの図書室でのことはお互い忘れましょうねっていう提案をしたかっただけ」
「それだけで、ここまでやんのかよ。あんたスタンガンみたいなん持ってたでしょ」
「わかるもんなんだ」
思わず笑ってしまった。
「笑い事じゃないっつーの。くそ、今日は最悪だ」
「下川先生のことはよくわかっているでしょ? 私は今回のであの人の本性が知れたから……、今後関わる気はないよ。あなたも実は知ってたんじゃないの? 先生の本性というか裏の顔ってのを」
「…………」
朝長は黙り込む。
分かっていて、それでも好きで、もしかしたらその中の一番になれるんじゃないかと自惚れて、交際を迫った。つまり、これまで下川が手を出してきた女たちよりも自分のほうがスペックが上だと判断したのだろう。若いし、可愛いし、と。
ただひとつの誤算といえば私が出てきたから、朝長由梨は焦りを見せてしまったのだろう。私が下川先生から身を引くように促そうとした。
ふざけるなと声を張り上げたい気持ちに溢れた。そんな低レベルな争いに巻き込まないでほしい、彼女らは彼女らで底の知れたあの男の周りを渦巻けばいい。
「まだあの学校にも先生と関係を持った人って沢山いるみたいだし、泥沼化する前に私はフェードアウトするつもりだから。今日はそれを伝えたかっただけ。明日からはいつもどおり、ただのクラスメイトでいましょうね。それじゃ」
鞄を持って私は部屋を出ようとする。
「ふざけんな、おまえみたいな自分の価値も分からないような女がしゃしゃり出てくるから、私のすべてが狂ったんだ。なのに引っ掻き回した挙句、勝手に退場するだって? まさに我儘お嬢様って感じだな。うざ」
涙目の彼女を見た。
ベッドから飛び上がって今にも殴りかかって来そうな、そんな剣幕な表情の彼女を見て私は。
「は、はは、ははははははは」
滑稽だ。
「自分を武器として扱ってきたあなただから、少しは分かりあえると思ったけれど違うみたいだね。言っておくけれど私は恵まれてなんかいない。これまでも、今も。勝手に決めつけるあなたもそのへんの一般人と同程度でしかなかったね」
「友達になれるって言ったの、撤回するね。それじゃ、ばいばい」
扉を閉めたその向こうで、ぼすん、ぼすんと怒りをぶつける音が聞こえた。
さて、あの女にはもう用済みとなったところで、いよいよ本番に移りこもう。
休日。
私たちの住む地域から程よく離れた隣の県へはるばるやってきた。
「ごめんね、車出してもらって。愛人とあう予定とか、よかった?」
運転席に座る男はひどくしかめた面をしているけれど、私の一言でより一層堀が深くなった。わかりやすい、そして扱いやすい。
「ほんと男って恋愛感情云々より真っ先に体にいくんだから」
「いや、世の中そういうのばかりじゃ…………すみません」
車を運転しているこの男、後部座席に座る私には、最上級と言っていいほどにが頭が上がらないだろう。私の叔父にあたるこの男は、過去に実の父親を含めた集団で私ひとりを犯しているのだから。そのときの証拠を幾つか握っている私は、こいつらを操り人形のように手となり足となりと、小間使いが出来る。時には犯罪すれすれのことだって私は平気でやらせる。
あれもこれも、自分たちの首を絞めさせて、より罪悪感に苛まれながら、たっぷりと時間をかけて忠誠心を芽生えさせる。
なんてことはできもしないので、いつでも彼らを断つことができる準備だけは済ませてはいる。いつ反逆の狼煙を上げられるか分かったものじゃないから。
「私の言ったこと、やってくれた?」
「はい。つながりのあるファミレスに工作員を送り込んで監視カメラの映像を差し替える手順までは今のところ大丈夫です」
「先週、ひとり寂しく昼から夜遅くまで勉強していた映像が実を結べばいいけど。くれぐれもタイムコードの打ち間違えは注意してね」
叔父はごくりと喉を鳴らした。
私がここまで大胆な行動を起こすと思っていなかったのだろうか。といっても、私の計画は誰にも話してはいない。
彼らにはただ、私の一日のアリバイを作ることと、こちらから指定した女性たちのアリバイ証明を有耶無耶にすること。そして可能ならば当日、T県の隣にあるN県のとある旅館になるべく近付かせること。
知り合いの知り合い、そのまた知り合いと伝手を広げていけば、全てを掌握することは不可能でも一部の人間を間接的に操ることが可能となる。
イベントによる客寄せ、彼女らの日々のブログやSNSなどから興味のある情報を絞り、操作する。
けど、私にはどうだっていい。
興味のないこと、必要じゃないことは記憶に留めるだけ無駄なのだ。
少数で行動するのが最適解だけれど、逆に大勢を巻き込んでしまえば一枚岩じゃないと錯覚させることができるんだとか。
何事もそうだ、メリットはあれどデメリットもついて回る。世の中一番いい方法なんて存在しないんだよね。
見た目だけでちやほやされて、同性からは疎ましく思われて、誰も私自身になんて興味ないんじゃないかって。本気で人を嫌いになった。
だから――――――、誰が死のうと、苦しもうとも、心が痛まない。
やがて目的地に到着する。
「じゃ、25時ごろにまたここに迎えに来てね。再三言うようだけれど、私に何かあったら今までのこと全てがバレるって思ってね?」
「…………了解です」
さてと。
遠路はるばる来て、のんびり観光ってわけにもいかないからなぁ。
「前入りしておいた方がいっか、そのほうが身も隠せるし」
マスクを着用して伊達眼鏡をかける。
変装しすぎると目立つし、そのままでだって当然目立ってしまうので、これくらいがちょうどいいかもしれない。
それにしても、実に惜しいことをしたと、かなり後悔している。
塚本麻衣。俺が赴任するクラスの中では過去類を見ないほどの美少女だった。透き通った肌、なんて化粧品のコマーシャルみたいな言葉が実に非常によく似合っていた。あれでスキンケアもなにもしていないというのだから、まさに天性のものだったんだろう。
だからこそ、俺の秘密がバレたくなかった一番の相手だったと思っている。いや、一番はあいつか。家では会話が無いくせに、離婚はしたがらない、いつまでも未練たらしい女だ。付き合ってた頃はとても楽しい、よりよい関係性だと思っていたが、どうにもしがらみばかりで結婚という儀式そのものが俺にはあっていない。
俺を求める相手はこの先、まだまだいるかもしれない。俺だってその期待に応えたい。
だが、塚本麻衣。彼女は美しかった。他の女との関係を切ってもいいと初めて思えた、俺にそう感じさせた唯一の女。もう少し待てば適当な理由で他を捨てて一択に絞ったものを、だからこそ惜しく、悔やまれる。
未成年だから彼女との写真を残すわけにもいかず、止む無く消去したわけだが。まあ、不倫そのものがいけないことなんだけど、それでも未成年を、しかも自分の生徒に手を出したとバレた日には想像も絶する。
「ね、きいてるー?」
「ん、ああ。ごめん、すこしボーッとしてた」
「ちょ、運転中にそれはまずいでしょ」
そう、だな。
今他の女のことを考えるというのは無粋だった気がする。
しかし、面倒だ。
助手席に座る志緒利が珍しく誘ってきたので応えたわけだが、友人から旅館のペアチケットを譲ってもらったらしい。期限が近いのでどうしてもとごねられたからこうやって運転しているわけだけれど。まあ、隣県だし誰かに見られたり、バレたりっていうのはそこまで考えなくていいのか。
高速のインターを降りて休憩を取りつつ、土産コーナーで物色する志緒利を遠目に見る。
旅行の土産を買うなんて、誰かに自慢する気満々じゃないか。
ったく、カップルじゃないんだから。少しは考えてわきまえてほしいもんだ。
これだからその時その時を生きたいバカな女は嫌いなんだよな。
「ふぅ」
駄目だな、ストレスだ。
煙草でも吸いに行くか。
「くそ暑いのに、なんで外なんだよ」
喫煙所が設けてあるのは外の端に寄った一区画。
愛煙家が見たら発狂しそうなこの差。
「時代だねぇ」
そう嘆くしかなかった。
と、いうか。
いや、喫煙所が遠くて助かったと、俺は思ってしまった。
視力はいいので遠くにいる人混みが誰とか、そういった判断がつくのだが。
「美香……か?」
もしパーキングエリアで遭遇したら、修羅場というものになっていたのだと思うと、安堵した。
偶然? それともどこかで嗅ぎつけたか?
そんな思考を凝らすも、やはり偶然だと思いたい。
最近、Signalも返しが遅めになっていたりとして俺としては自然消滅したつもりだったが、向こうがどうかわからん。というか、向こうがもし男と居てくれれば割り切れるのだけれど案の定、女友達とプチ旅行だというのが面子で分かる。
「先に車に戻るか」
志緒利にはメッセージを残せばいいだろう。
これ以上、誰かと鉢合わせするのは心臓に悪い。これを機に何人か切るか。
「おまたせー、次はどこにいこうか?」
志緒利が車に戻ってきた。
俺は顔に被せていた帽子をとり、倒していたシートを起こす。
「現地に着いたらとりあえず先にチェックインしてから観光するとして、もう少し危機感を持ってくれよ」
俺の発言に志緒利はわざとらしい溜息を吐く。
「だから、はやく奥さんと別れればって言ってるじゃん」
「簡単に言うけどな。結婚より離婚の方が難しいんだぞ、今の時代」
志緒利は俺が妻帯者と知っても自分が一番だと思い、容認してくれる数少ない不倫相手だが、皆一様に同じ文言を口にする。
たしかに志半ばで身を固めてしまった俺も悪いと思っている。だけど、それを他人にどうこう言われるのははっきりいっていい気がしない。
志緒利とはこの旅行を機に、ちょうどいいかもしれない。
なんてことを考えつつ、次第に暑さを思い出していく夏を感じていた。
夏シーズンより冬シーズンのほうが人気があるからといって、夏は穴場かと言われたら、そうでもないらしい。
冬は温泉巡りで人だかりが出来がちだが、このあたり夏になると蛍が大群で現れるらしい。
ガキの頃見て以来だったか。つっても特別これがって思い出はないんだけど。綺麗で幻想的な光景というものは自然の中で芽生えたものは、それはそれは貴重なのかもしれないけれど、今となっては科学で映し出される映像の方が綺麗だと感じてしまっている。
美しさってのは、儚いくらい上書きされてしまう。
俺の隣ではしゃぐ志緒利も確かに外見は可愛い、クラスに一人いるくらいの可愛さだと俺は思う。この例えというか尺度は人それぞれだが、俺はそれをめったにないくらいだと思っていた。
関係を抱く前はあんなに燃えていたのに、燃え尽き症候群なのだろうか。
今は何も感じない。たまに理想通りにならなくてイラついてしまうくらい、今は他のことで頭がいっぱいだ。
やっぱり、塚本なのか。
俺はやはり彼女と関係を断たれたことが、思いのほかショックだったらしい。
男の価値は一緒にいる女で決まる。
塚本は確実にステータスだ。ただ隣を歩くだけでも品性が向上する。自信の魅力を未だに武器として扱えない、その幼さも俺にはグッと来た。
だから誰かのモノにされてしまうまえにアプローチを仕掛けたんだが、欲をかき過ぎたと猛省したな。
「ね、ホタルだって。私まともに見たことないから見たいな」
「まあまあ。どうせ日が暮れてからだし時間までのんびりしようか」
夜は灯りがあるだろう。だが、日中ほど誰かと鉢合わせる可能性は減ると思った俺は本来ならば面倒くさがるところを、志緒利と一緒にいられる時間を考えた時に、それくらいの我儘は許してやりたかった。
そしてその身体を堪能するのが今までの行為とは非じゃないくらいに、愛おしく感じる。
チェックインを済ませて、一度部屋へと案内される。
「わ、すっご。ザ・旅館って感じ」
定番の定番。
畳の部屋に縁側が付いた部屋。少し豪華だと思ったことは今通された部屋には襖がありそこが恐らく寝室扱いになること。机をどかしてそこに布団を敷くことはないみたいだ。あとは個室露天風呂が付いているという点。
「景色もいいな」
外観もかなり風情があって良かったが、内観も申し分ない。和というテイスト、世界観を守るということは実は現代社会ではとても難しいこと。古来の、日本らしさという部分だけというのは再現するのにどうしても海外から発信した便利性、現代の技術性を欠いてしまうということになる。時には不便を感じなければならない。だが、それはそこに殉ずる場合で、景色として自らがそこに携わらない形で再現された中では、目を見張るものがある。
「夕食は何時にお持ちしましょうか」
「ご飯食べてからホタル見に行くか」
志緒利は満面の笑みで頷いた。
「それじゃ、夜の八時くらいにお願いします」
「承知いたしました」と消え入るような声のまま、部屋の戸を閉める。
部屋の隅に荷物を置いて、縁側のカーテンを閉めた。
さっきまで景色に感動をしておきながら、どうしてそれを閉ざすのか、志緒利はそれを訪ねようとはしない。別に仲居さんに気を遣って、入ったときに景色を褒めたわけじゃない、本心だ。けれど、景色だけじゃ満たされないのが、現代人だ。心にゆとりを持たない。大切な心が欠如しているわけでもない。
最初からそんなのを持ち合わせていないだけ。
「おいで」
「ん」
襖をあけて俺は志緒利の手を引いて寝室へ入る。
敷き布団は予め敷いてあったのでそこに志緒利を放る。
倒れた志緒利にまたがりキスをする。ほんとうに今日は暑い。
「風呂でするのは初めてか?」
「うん」
「そうか、たまには風情を楽しみながらもいいな」
結局はこうなる。
どんなにいい景色を見ても、美味しいものを食べても、会話をしても、思い出をつくっても。
これには敵わない。
さて、夜までにどれだけ刻めるだろう。




