50 しらきり雀
「おっはよー」
仲のいい友達と何気ない会話を弾ませながら学校へ向かう。
「あ、由梨おはー」
ごく自然の風景である。
いつもと変わり映えがするかどうか、昨日とは違う景色を探しつつ卒業するまでは大きく変化しないであろう日常。
「油断」
誰かが耳元でそう囁いた気がした。振り返っても誰もいない。
「由梨?」
「……ん」
不審に思った友人が声を掛けてくる。
「ね、なんか言った?」
「え、なにも……、もう怖いこと言わないでよー」
霊感? 空耳?
いや、もっとはっきりと鮮明に聞こえていた。
あの女に非常によく似た声が。
今思えば、あの声は自分自身がそう告げていたんじゃないかと思う。
警鐘を鳴らしていた、あれは本能だったんじゃないかって。
教室に入ったあとから空気がいつもと違うことに気付いた。そこに居たみんなが一斉にわたしの方を向いたのを違和感とせずして何と呼べばよかったのか。
ここまで注目を集めるのは、正直はじめてのことだったので驚いた。
「なに、あれ」
電子黒板に浮き出た画像。
少し粗が目立つ、元のサイズから引き伸ばされたソレは覚えのない写真だったけれど、身に覚えはあった。
眼の奥がチカチカする。周りを見ることができない。
マスクをして出かける男女二人組の写真。
一人は顔を隠しているだけなので、知っている人はすぐにピンときてしまう。
ほぼ毎日あわせる顔であったなら、たとえ変装していようと自分のクラスの担任の先生だということは火を見るよりも明らかだった。
問題はもうひとりの変装している女の方。
私は冷や汗が止まらない。季節的には暖かいを通り越して暑くなってくる日も多いので差はあまりないのかもしれない。
ただ私は震えていた、こわい。得体の知れない恐怖。
「これって下川のデート現場ってこと?」
一見するとそう。撮影する距離と角度からしてこれが盗撮されたものだということは誰にでもわかってしまう。人としてやってはいけないことだけれど、内容の方に誰もが注目してしまう。まるで週刊誌の一ページかと思うくらいの生々しさと、私にとってだけの既視感。
「え、この相手って」
変装をしている。だけど、その人の人となりを分かっている人間、近しい間柄にはどうしてもわかってしまう。
だって双方とも、ほぼ毎日顔を合わせている人物であるから。
そして私は、生まれてこの方変装したことなんてなかったから。それがうまくいっているかどうかなんてわかるはずもない。ただただ暴露されているだけの光景。
そこに何か書かれているわけでもない。ただ一枚の写真の画像を晒されているだけ。
もっと言えば、写真の画質がそこまで鮮明じゃないので相手の女を特定するのは本来ならば難しかったはず。わかりえなかったはず。だけど、相手はひとりふたりじゃない。随時登校してくるクラスメイトはそれを見て、悩んで誰かと照らし合わせる。そうすると話は別だ。
普段、私は執拗に下川先生とからんでいる。それはもうクラス内でもウザがられていると自覚をしてしまうほどに。ならば、考えないハズが無い。下川、そして私というイメージをどうしても連想してしまうに違いないのだから。
自らが招いた結果だと思い知った瞬間、私は膝から崩れた。
ここで、今この場で平静を装えれば、誤魔化せただろうに。
疑惑だけで終われただろうに。器用じゃないなぁ、私。
この行動によって、それは認めてしまったも同然だった。
「くだらない、くだらないにもほどがあるでしょ」
教室内の沈黙を破った声がした。
透き通った声は、その場に居た全員に染み込んだように、再び静寂となった。
声は私の後ろからした。
振り返ると、そこには塚本麻衣がいた。
「私の靴だけじゃ飽き足らず、今度は下川先生を憂き目にしようとしてるってわけ」
怒気を込め、嘆きながら壇上の横にある電子黒板に近付いた。
電子黒板の支柱にあるノートパソコンと連動しているので、生徒であろうと、教室に来れば大元での操作が可能となる。
塚本は大きく引き伸ばされた画像を元のサイズに戻した。
「どうして誰も、ここに気付かないの?」
塚本が再びダブルクリックでアップにした箇所を見ると、景色の間に僅かだけれど繋ぎ目のようなものが見えた。
「フェイク画像。この背格好、朝長さんによく似ているけれど加工されたものだよね?」
クラスメイトは息を呑んだ。
見たものをそのまま信じてしまっていたら、確かに既婚者である教師の下川と同じ学校の生徒である朝長がデートをしている場面、ということになる。これが意味するもの、情報過多ではあるが学校全体の問題へと発展する重罪になる。犯罪だ。
「私は、こんなことをした犯人を絶対に許さない」
鬼気迫る表情に誰も何も言えなかった。
「朝長さんも先生のことが好きなのはみんな知っていることだし、こんな写真にショックを受けたかもしれないけど大丈夫。気を強く持って、憧れだけで本当にこんな事はしないでしょう?」
塚本はそう言いながら私に近付き、座り込んで手を握った。
その笑顔が、怖かった。慈愛に満ちているようで、実は何もかも見透かされている感覚に陥ったから。
「命拾いした、なんて思わないでね」
まただ。
また同じ声だ。
私にだけ聞こえる、。いや違う、この女だ。
小声で、目の前の女が、囁いたのだ。
そして塚本は私を立たせるため腰元に手を置いて支える様に顔を近づけた。
「あれが加工されたものかどうか、誰が一番よく知っていると思う?」
スカートの埃をはらって、しゃんと立たせてくれた塚本。周りから見えているものと私が今感じ取っている景色は、まったく異なっているものだった。
これ以上なにを言うでもなく、塚本はパソコンのフォルダ内に残っている写真を完全消去して何事もなかったかのようにシャットダウンした。
ホームルーム前に起きた問題を、みんなでなかったことかのように、そう振る舞った。誰もがその話を暴露したい、だけど自分が一番最初は嫌だ。そんな想いを抱え、互いに牽制し合うみたいに、その話題を切り出すことはタブーのように、その日は幕を閉じるわけ。
私は震えていた。塚本の言った言葉が私の頭から片時も離れない。周りを気にする余裕すら、惜しい。
家族や周りの人から時々思い込みが激しいと言われたことがあるのを、ふと思い出した。被害妄想ではないけれど、思い入れが強すぎると。
幼い頃、気に入っているぬいぐるみを無くしてしまったとき、部屋の中のモノの配置が原型を留めないほど探し回ったり、中学生の時は、ある日弟が夕方になっても帰ってこないと知って隣町まで自転車を漕いで探し回ったり。結局、木乃伊取りが木乃伊になる結果なのだけれど「周りのことを考えなさい」とよく父親に諭されていた。だが、それがおかしいと感じたことはない。それくらいみんな常識の範囲内にあるのだから。私からすれば、思うことは心のゆとりだ。人とはそういうものだと思っている。
好きになった人のことを徹底的に知りたいと思った行動も、裏目に出てしまい付き合う彼氏からはよく居心地が悪いだとか重いだとかで最後には振られる。
好きだから知りたいじゃダメなの?
好きな人のためを思ってちゃいけないの?
高校にあがって下川先生に一目惚れしてしまったのも、彼の秘密を知ってしまったのも私の想いがそうさせて、今の私がいる。
ただどうしようもなかった。
みんなはあれを見て、たしかに下川先生と一緒にいる相手は朝長由梨のことだと頭の中に思い浮かべたに違いない。それが、真実かどうか、本人に直接聞いたり考察したり、各々が盛り上がることだろうが、私にとっては別にどうだっていい。
一度彼女を思い浮かべてくれたなら、こういう手の嫌がらせに慣れてない朝長が高らかに反応することは分かりきっていた。そして下川にも疑惑の眼差しが強まる。朝長はこの事件をきっかけにこの先、下川と関わりづらい関係性に持ち込まれた。
ただこれは目的ではなく、ただのお膳立てに過ぎない。
こういったイベントを織り込むように入れてあげるだけで、これから先もし大きな事件が起こったとしても「もしかしてあの時の」「そういえば最近こんなことがあった」と注目が集まる。
ただ当然、第三者の関与は視野に入れられる。そのなかで唯一リスキーなのは、私もその渦中に多少なりとも含まれていること。下川と関係を持っていたことは今のところ、下川本人と朝長由梨くらいだから、そこさえ塞いでしまえば問題はなかった。靴箱のイタズラさえ無ければすんなりとフェードアウト出来たものを、余計なことをしてくれた。
木を隠すなら森の中、苗があるなら植栽は続けないと失礼でしょ。
邪魔者は消えてくれたからね、あとは本命をどう処理してあげよっかな。
図書室。
「今日は何かあったのかな?」
事務処理をしながら対面に座る私の方へ視線を寄越した。
「どうしてですか?」
下川は考える。
「んー、みんなの視線をいつもより感じたっていうか。覇気が無かった、かな。いつも引っ付いてくる朝長ですら、今日は一度も声掛けてこなかったしな」
「やはり、そっちが本命なんですか?」
下川の手が止まる。
「なんだ、本命って?」
「この期に及んでシラを切るんですか?」
「悪い、俺なんか気に障るようなことしちゃってたかな? 怒ってるワケを聞かせてくれないか?」
その態度、言動に、私は怒りを通り越して呆れた。
「先生って別に彼女がいますよね? 家に何度も行ってますけど、先生の車を一度だって見掛けたことありません。それもそう、そもそも別の人の部屋なんですよね? あそこに先生は住んでいない」
「誰から、そんなデマを聞いたんだ?」
口調は変わらない。けれど明らかに動揺している。イライラしているのもあるせいか、机を叩く指の速度が僅かに早くなった。
「先生の元カノ……、いえ今も繋がっているんですか? メガネを掛けたストレートの女性が」
「燈花、あいつか? まさか知ってたなんて……」
目を泳がせながら、特徴に当てはまるであろう相手の名を口にする。
まぁ、拝借した写真の中から一番変装を施していないであろう女性の大まかな特徴を言っただけなんだけど。内容はもちろん出任せ。他の女性の所在や携帯番号は入手しているけれど、こちらからはまだコンタクトをとっていない。
「いろんな女性に手を出してる話も、噂じゃなかったんですね?」
私は、言いながら、先生と過ごした短い時を思い返す。日は浅い、けれど楽しかった思い出が滲んでいくように、涙が零れ落ちる。
「この関係も、いけないことだって、分かっていました。止めるいい機会を得たと思えば、まだ戻れます。私のことは、もうほっといてください……」
金輪際。
それだけ言って席を立つ。
「待ってくれ」
先生は立ち上がって私の腕を掴んだ。勢いよくこちらへ振り向かせ、目を見た。
「これは当たり前だけど一応確認する。今言ったことは他の誰にも言ったりしないな? 麻衣、お前は他の生徒より頭の回転が速いからわかるだろ、無事に此処を卒業したいだろ?」
掴まれた腕に、さらに力を込められる。
私は抵抗しても無駄だと諦め、何度も頷いた。声を押し殺して。
「少しでもこの話が広まればお前の将来、無事に迎えられないと思えよ」
吐き捨てるようにそう言い残し、私を押し退け図書室を出ていった。
「ぐふっ」
ああ、危なかった。
肩を払い、赤く跡のついた腕を見る。
「ふふふ、これで先生が私との想い出をサッパリと消してくれれば万々歳だけど」
文字通り、証拠になりそうなもの。スマホの中身や、形に残っているもの。
ま、どうせ最期に確認は必要だけどね。少しでも手間を省けたらいいかな。
ただまあ、最後の脅し。アレが言わば先生の本性だったわけかぁ。人から好かれようとする気持ちというのは偽りだと誰かが言っていた気がする。人は良くも悪くも見栄を張る。
信じるには、それを核心とする根拠と経験が必要だということだろう。こんなにも面倒で苦しい、なのに人は恋をやめない。危ない薬だよ、まったく。
「さて、と。記憶に新しいうちに動き出さないと」
仕掛けというのは相手に余計な考えを起こさせないことが、勝利へのカギだ。つまり、連続しているほうが好ましい。
「もしもし、私だけど」
『……はい』
低くくぐもった声が電話口から聞こえる。
「概ね成功したから、自然に誘導できそうな方はそっちを優先して頂戴。次点は可能な限りアリバイを証明できない状況をつくって」
『了解しました。それと、要のほうはどういたします?』
「問題ないよ。今は私の方が動きやすいから、仕込みは順調」
そして一方的に私は電話を切った。
「何か用?」
私は誰もいないと思われる、図書室のこの空間、いわば全体に向けて話しかけた。
「…………隠れているだけのつもりなら徹底しないと、いけないんじゃないかな」
本棚の角、そこから僅かにはみ出ていたスマホを抜き取る。恐らく盗撮していたに違いない。
「あっ!」
予想外の出来事に声が漏れる。よく知った顔のよく通る声。
私の行動に驚き、しりもちを付いた状態の彼女は僅かに怯えていた。
「ねえ、私たちってこんな出会い方じゃなければ友達になれたと思うの。朝長さぁん」
「な、なによ。私のスマホ返してよ!」
立ち上がり、私の手にあったスマホをさらに横取りしようとしてきたので手を後ろに回す。
咄嗟に私の胴へ腰を回す形となったところでもうひとつの手に持っていたモノを朝長由梨の腹部に当てた。
「がっ」
朝長由梨は白目を剥いて力なく倒れていく。
「おっとっと」
支えながらゆっくりと横たわらせて、スマホのロックを指紋認証で解除させる。
写真フォルダの中にさきほど、下川としていたやりとりのほか、数枚ほど私の写真とこの前脅しに使った写真を発見する。
復元できないように完全消去をしてから、電話帳から彼女の母親とみられる人物へ電話を掛ける。
『由梨? どうしたの?』
「あ、由梨ちゃんのお母様ですか?」
『……はい、えっと、どなた?』
「あ、私クラスメイトの塚本といいます。由梨ちゃんがですね、少し体の具合が悪いそうで。お迎えとかって、お願いしてもよろしいですか?」
『あ、はい。それであなたたちはどこにいるの?』
「学校です。由梨ちゃん喋るのも辛いみたいで、保健の先生も今日は出張でいないみたいなんです」
『……わかったわ。娘の為にありがとう。すぐに車で迎えにいくわね』
「すみません、お願いします」
さてと、重労働だけど彼女を抱えてお客様駐車場のところへ向かうとしよう。
下手に学校の先生と関わったらお役御免になってしまうだろうし。
ぴくぴくと痙攣している彼女の眼を閉じて背負い込む。
スマホは鞄の中に入れて抱える腕に引っ掛ける。思ったよりは軽いね。
「ふーんふふん、ふふふーん」




