47 教祖
Signalの返事が返ってきていたことに気付いた次の日の朝。
『残業で通知切ってたから気付かなかった。本当にごめん(m´・ω・`)m』
こっちから送っておいてなんだけれど、これで良かったと思う。
一晩おいて我に返ってみれば生徒と教師という立場で変に繋がりを持つのもリスクが高い。何を送ろうとしたわけでもなしに、そんな文面を打って送っていた自分が恥ずかしい。
いつも通りの日常に戻ろう。
それが一番いい。
と、思っていたのだけれど。
「あぁ、また奇遇だな」
放課後、図書室へ本を返しに来たはいいけど受付カウンターにいたのはまたしても下川先生だった。図書担当の先生がいるのかどうかを疑いたくなってくる。
「今日は返却だけですから」
「ん、受付に来るのはだいたい本を借りるか返すくらいだろうしな」
手を差し出してきた。
「…………」
「あ、いや。手じゃなくて本を受け取りたいんだけど」
「あ」
何故だろう。
普通に考えればそのはずなのに。私は差し出された下川先生の手を握手するかのように握っていた。
「セクハラですね」
「不可抗力すぎん?」
「ふふ、それもそうですね」
今度こそ本当に本を渡す。
「はい」
返却処理が終わり、本を渡される。
生徒の自主性を引き出すべく、自分で借りた本は自分で元の棚に戻すのがこの学校のスタイルだとか。なので私は元あった場所へ本を戻しに行く。
本棚に本を返そうと上の段に手を伸ばす。
「塚本」
「はい」
振り返ると下川先生が私の目の前に立っていた。
そして徐に顔を近づけてきて――――――――――。
ゆっくり、呼吸が離れていく。
「これって懲戒免職になりません?」
「そういうことになるな」
焦っている様子はない。
というより焦っているのは私のほうだ。
自分の鼓動が近くに聞こえてくる。自分の吐息が全身を包み込むようで煩い。
「先生、結婚されてますよね」
「ああ。結婚していた、今は一人だ」
離婚した。遠回しに言うあたりは少なからず事情がありそうだけれど。
「私を選ぶ理由、教えてください」
「選ぶだなんて、俺はそんなに偉い人間じゃない。ただこういうのって、なんだろうな。ほかの人に向けている表情と俺と話している時の表情が違うってのが一番かな」
私が心の中で抱えていた想い。それが本心か分からないままでいた部分の答えを、まるで用意していたかのように先生は答えた。
「先生は、それでいいんですね」
「それがいいんだ」
間髪入れずに答えられる。
感覚が、音がとても心地いい。まるで夜眠りにつく前のように安心してしまう。
私にとって運命的な出会いは今まさにここで、この人がそうなのだろう。二度目の恋、私にとって人生の転機だと思った。
「私のことを見ていてくれますか」
ふと、思ったことが声に出てしまった。
先生は何も言わずに私を抱きしめた。とても暖かくて、大きくて安心してしまう。
今まで多くの罪を重ねてきたけれど、私にも救いがあるのだと思った。こんなにも幸せでいいのだろうか。愛されていいのだろうか。
自分の父を殺し、親戚を殺し、愛する人を追ってその人の親を殺した。
なのになぜ私は満たされている?
神様という存在がいるなら、私を野放しにしておくはずがない。
極論だ、神様なんていない。
真っ当に生きようとしてもこの世は損をすることばかりだ。
不均衡で、脆く、そして深い。
私は先生の体を抱き返す。そして再び唇を重ねる。
幸せ者。
「塚本さん、なにかいいことあった?」
「え」
午前中の授業終わりに隣の席にいた女子生徒が声を掛けてきた。
「ごめん。気分悪くしたらあれだけどなんていうか。いつもより明るい、から」
なんでか頬を赤らめて俯き加減で言うので、まるで魅力ある異性に対してかのような振る舞いに違和感を覚えつつ、ふるふると首を振った。
「いつも通り、に見えないかな?」
我ながらいつも通りが何なのか、はっきりと自覚しているわけじゃないけれどそれに追随する要因は分かっている。
女子は恋をすると綺麗になる。
見た目だけが、という問題じゃない。その言葉の裏には心や身なりという面も当然ながら含まれている。
洋服の趣味だったりメイクや細やかなところまで気を遣うようになり、好きな人の好みに合わせようとしたりといった行動に移るようになる。要は心構えや意識が変わるのだと思う。
気持ちに余裕ができて浮かれてしまうことだってある。
恋って、愛っていうのは一種の麻薬だ。
理性と感覚をマヒさせる。愛を知った人間はそれがすべてになってしまう。秩序や協調性を無くさざるを得ない。
命短し恋せよ乙女。
様々な娯楽がある世の中でもう死語となったフレーズだけれど、それでもこの言葉に重みを感じてしまう。命は短い。長い人もいるけれどそれは単純に結果論であり不確定な未来にいつまでも希望を抱いてはいられない。
恋とはまさに人生一番の教養であり、祖である。
「好きな人、できたの」
このとき、私は屈託のない笑顔をしていたらしく誰が見ても魅力的に見えたのだという。
裏のない顔、面。
そのとき、教室に下川先生が入ってきて一瞬だけ視線が合う。けどすぐにお互い視線を逸らし、私は談笑、先生は別の生徒に用事があったらしく話しかけている。
いけないことをしている気分、というよりは明らかにいけない関係になっている。恋に障害があれば燃え上がるなんて、いつか誰かが言っていたけれど、確かにと私は心の中で乾いた笑みを浮かべる。それがものすごく興奮してしまう。
もし、バレたらどうなるのだろう、と。
普通に考えればお互いに不幸な結果が見えることは明白。
ただそれだけでは済まない可能性だって孕んでいる。私の身元が洗われたときに過去の事件を引っ張り出されたとき。
恐らくすべてが終わる。
けど、不思議と不安はない。これも下川先生のおかげかな。
「せーんせぇ」
クラスで(私を除く)1、2を争うくらいの可愛い生徒が彼に近付いて腕を組む。
「またか、あまりひっつかないでくれよ」
呆れながらも女子生徒をなだめるように頭をポンポンと叩いて引きはがす。
ん?
なぜだろう。
胸の奥が少し苦しい。ああ、嫉妬しているんだわたし。
「あーん、いけずー」
「今どきいけずも死語だろ」
そそくさと教室を出ていく先生。
先生はこちらを向きはしなかった。
「あの子、名前なんだったっけ」
「ん? ああ、由梨ちゃん? あの子かわいいよねー。露骨な下川狙いがうざいけど」
「へぇ、由梨ちゃんか」
「うちも性格悪い自覚あっけど、あの子もかなりわるそー」
性格のいい人間なんてそうそう居はしない。
けれど彼女、由梨ちゃんという子は言うようにいつも下川先生に絡んでいく。私が好きになる前からその兆候はあったけれど、クラスの女子から少し煙たがられるのも事実。
その行為で先生が靡くことなんてないのに、分かっててやっているのだとしたらそれも意味が分からない。
ま、人にはいろんなのがいるから。私の邪魔さえしなければいいんだけれどね。
放課後。
「悪いな、あまりかまってやれなくて」
「それで結構です。私がほかの生徒から煙たがられますので」
「……鋭いな」
図書室の遅い時間帯、というのが私たちが二人きりになれる唯一の空間だった。
「ここ本当に放課後開けておく意味ありますか?」
何度も足を運んでいるが、放課後の時間なんて週に十数人いるかいないか。毎日開けておく意味なんてあまりなさそうだ。
「開けてないと困るだろ。この時間がひとときなんだから」
そう言われるとなにも言い返せない。
「なんか物足りないって顔してるよな。キスでもするか」
「そういうのは黙ってしてください」
カウンター越しに二人して身を乗り出してキスをする。
「今はこれで我慢してくれ」
「先生ってこういうの手慣れてませんか?」
「そう見えたんなら、大成功だよ」
仕方なしに座り直す。
「時間が経つの早いですよね」
「そうだな、今日もほぼ来ないし。閉めちゃうか」
少し意地悪な顔をして席を立つ。私もそれに続く。
扉の前に行き、鍵を閉める。
ん?
まだ私たちがいるのに鍵を中から閉めた?
「麻衣っ」
先生は振り返って私を抱きしめた。
「っ」
少し息が詰まったものの、別段危害を加えるつもりはないような力加減だった。
再び唇を重ねる、それよりも先へ、舌を入れてくる。
ふと、その先の展開を想像してしまった。
それは、
それは私にとっていい記憶ではないものが蘇ってきた。
恐怖、苦痛、悶絶、憎悪、快楽。
感情を頭の中で反芻して息が詰まる。脳が痺れる。
私は吐き気を感じて咄嗟に先生を突き放した。
「はぁ……はぁ……ごめん、なさい」
殺したかった男たちの顔が、殺した男たちの顔が、克明に浮かび上がる。
口元を抑えた私は図書室内にある手洗い場へ駆け出した。
そして、そこで、嘔吐した。
後ろにいる気配に構わず、私は醜い部分をさらけ出した。嫌われたかもしれない。嫌がられるかもしれない、そう考えると涙まで同時に溢れ出た。
「…………」
先生は何も言わずに私の背中をさすった。
「いきなりすぎた、ごめん」
もう私の呼吸は乱れていなかった。
「す、すみません。少しずつ、少しずつ慣れますから、お願いです。今は私のそばにいてください」
「……ああ」
過去のことを打ち明けるつもりはない。
けれど先生が勘のいい人だったら、何かに気付いたかもしれない。先生は何も言わずに私を抱きしめた。今度は優しく、ゆっくりと。
呪いなのかもしれない。
お前だけ幸せになんてしてやるものか。死んだ人間が私にそう説いているようだった。数分くらい経っただろうか、床に座り込んでもといへたり込んでいる姿は、さながら映画のラストシーンのようだったけれど、それをしている本人たちは自覚なんて湧くはずもない。
まるで二人して眠り込んだかのような静寂。と思ったら外のグラウンドで部活をしている生徒の声が気付けば聞こえてくる。
永遠かに思えたその空間。
「ちっ」
聞こえるか聞こえないかの音で先生が舌打ちをしたのを、私は聞き逃さなかった。




