46 告天子
中学を卒業したあとも欠かさなかったフィールドワークがいよいよ大詰めというところで一旦終わりを迎えることになった。
「初めまして、このクラスの担任を務めます。下川雲雀です。どうぞよろしく」
その出会いは人生で言うと二度目の運命なのかと思った。
「やば、イケメンじゃん。うちのクラス当たりかも」
爽やかな笑顔だった。どうして高校の教師なんてしているの? と聞きたくなるくらい逆に不自然だったとも思えるほど、格好いい。
巡瑠のことを想い続けていた自分の信念に初めて揺らぎが生じたのだ。さすがに一目惚れとまではいかないけれど、クラスの女子のほとんどが下川先生にこの時から既に好意を寄せていただろう。
悲しいかな私は、もし巡瑠と出会っていなかったら確実に猛アタックをする自信があった。私の彼を想い続ける感情に、初めて亀裂が入ったくらいなのだ。彼もひょっとしたら私と波長の合ういい人間かもしれない。
そう思っても仕方のないことだったかもしれない。言い訳になるけれど、少し前から私は何故かこのまま巡瑠とこの先一生会えなくなるんじゃないかという不安に駆られていた。ある程度の住所は例の事故であった新聞記載から伝手を辿って探しこそすれど、未だにそれらしい情報が舞い込んでこなかったのだから。そろそろ彼を想う自分にも疲れが生じてきてしまっていた。だったら、この人に乗り換えたっていいんじゃないかと。
そんな葛藤を抱えながら私の高校生活が幕を開けた。
「塚本、さん。ちょっといいかな」
たいして面白みのない入学式を終えて教室へと戻り、簡単な事項説明を終えて帰宅しようと各々が支度をしている最中。男子生徒に声を掛けられる。
またこの手か。
「えっと、ごめんなさい。名前を知らなくて」
「俺は本村駿介です。これから1年間同じクラスということで、よろしく」
ああ、出席番号順で簡単な自己紹介のときに覚えがある名前のような無いような。要はほかの人間には興味が無いのだろう。ただ今のところ二人を除いて、になってしまうのだけれど。
「よろしくね」
ただ、好意を寄せられている感覚は今のところ感じない。厚意で声を掛けている分にはそれなりの対応をしないと、ここ数年で社交性というものを培ってきているから当たり障りのない友人関係くらいは築けたらいいなという希薄。
「あ、あのさ。これから何人か声掛けて親睦会みたいなことをしようってなってるんだけど、塚本さんも良かったら参加しない? 金銭的にきついようだったら全然、奢るし」
照れくさそうに頬を搔いている、たしか本村君だったかな。彼から離れた後ろの方に何人か男女がいる。ま、見るからにイケイケな感じのグループなのは見てわかる。容姿だけで私もそっち側の人間だと思い込んだ、といったところか。
「せっかくの誘いだけどごめんなさい。今日このあと予定が入ってるから、また誘って?」
「そうかぁ。あ、いやもちろん。絶対に誘うよ!」
その言葉に私は笑顔で返して鞄を持つ。
笑顔を見た、周りの生徒から感嘆とした声が漏れていた。どうやら想像以上に注目されていたみたい。そのまま愛想よく教室を出ていくと、やはり教室内からざわめきが少しばかり起こった。
どこに行っても腫れ物のような扱いをされるんだなぁ。いや、もうすでにこうなることは諦めていた感じではある。だからといって整形するつもりなんてさらさらないし、顔が変わったら巡瑠に気付いてもらえないかもしれない。
「はぁ」
「どうした、入学初日から溜息なんて」
曲がり角で声を掛けられて思わず肩をすくめた。
すれ違いざま、だったのかな。
「下川先生」
「お、もう先生の事覚えてくれたんだな。いやー自己紹介した甲斐があるな」
そういえば、さっきの本村君然りほかの生徒の名前なんてほとんど覚えていない。なのにこの人の名前は悩むことなく出てきたということは、やっぱり少なからず私はこの人に好意を抱いているということなのだろう。人は見た目が七割か八割で判断するというけれど、まあそういうことなのだろう。私が見た目で少なからず苦労をしているというのに、私も結局同じようなことをしているのだから滑稽だと我ながら思う。
だからこそ魅力というのは、お互い惹かれ合ってこそ成立し得るものだと私は考えている。
「やけに早く帰るようだが、クラスに馴染めないか?」
「いえ、そういうわけじゃないです。ただ少し用事があったので」
先生はしばらく私の顔をジッと見たあと「そっか」と小さく声を漏らして道を譲った。
それ以上とくに追及することはなく、私は軽くお辞儀をして学校をあとにする。最近はスマホのSNSを使って探ってもいるけれど、なにしろ扱いが不得意なので難航している。
名前検索を使って本人がそういったことをやっていれば当たりは付きそうなものだけれど今は偽名を使っている人が多いし、私自身あまり彼のことを知らないという最大の欠点を抱えているので、それはもうどうしようもない。
逆に私という人間が特定されてしまい、妙な虫が寄り付かないとも限らないので極力自らを発信するのではなく、ひっそりと探りを入れていく状態。
他の人間にも探させてはいるけれど、ここまでやって見つからないとなると彼自身がSNSをやっていない可能性の方がはるかに高い。
謎めいていてそこもまた魅力的ではあるけれど、できればそういったツールをしていてほしかったというのが正直なところ。
「このあたりで潮時なのかな」
探せど探せど、想い焦がれても会えない存在。
ゴールの手前で見えない壁が先を塞いでいるような、もどかしいあの感じ。
少し根を詰め過ぎていたのかもしれない。そう自分に言い聞かせて私は、私のこれまでにしてきた大いなる目的に一度、終止符を打つことを決めた。
ただの高校生を楽しんでみるのも一興かもしれない。あの先生が言っていたように、ではなくても少し交友関係は広げておいて損はないのかも。
しかし、目的を孕んでいない私が人とうまく接することができるだろうか。
そんな悩みは徒労に終わった。いや一蹴されたといってもいい。
「塚本さんお昼食べに行こ」
昼休み、女子のほとんどが私の机の周りに集まってくる。
どうも男子人気ばかりあったせいで今まで同性からここまでモテた(?)ことなんてなかった私は面食らうけれど、それは一種の考えが及んでのことだっただとか。
いわば新入生であり、スクールカーストにおいて未だ学力や身体能力を見せあっていないという全員がほぼ一致条件の中、同郷の生徒は同士で過ごせれど、知り合いのいない学級において、まず誰と仲良くなるかというのは女子にとってかなり大事な局面らしい。
校則を破らないギリギリの派手さを外面に施す女子や、人当たりのよい女子、そして外見が優れている女子。私は後者に選ばれたというわけ。
「髪さらっさらじゃーん、コンディショナーどこのやつ?」「いい香り~」
「多分、みんなと変わらないと思うんだけれど……」
なんだろう、新鮮な感覚だ。
「ね、塚本さんて読モとかやってたの?」
「どっか専属だったりする?」
始業式はこんなじゃなかったのに、なんだろう。
まあ、私はとくにショックとかなかったのでぶっちゃけた話なんだけれどSNSなどでは美人な友人がいて、その子との写真をアップロードするだけでフォロワーや高評価が付きやすいらしく、そういった映え要因でも私とお友達になりたい女子が多かったみたい。普通は自分より優れた人間なんて疎ましく思ってあまり関わらないようにされてきた節が多い私だけれど、これも時代なのかなぁと感心するほうに気持ちが勝ってしまっていた。
目的なく近付いてくる方が私としては戸惑う次第で、それも些細なものだなとなんだか可愛く思えてそれくらいならと許してしまえた。
心の成長、というか今まで忌避の眼で見られることを嫌がってきた私がこれ以上ないくらいの苦痛を体験したせいなのか分からないけれど、案外子どもの頃だって私が割り切ってしまってたなら、今くらいじゃないにしろ家にいる意外ではそれなりに楽しいものだったかもしれない。
後悔が付いて回る。
「せっかくだからみんなで食べよ」
ふと思う。こんなに幸せでいいのだろうか。
いや、そうじゃないね。今まで苦労していたから、日常というものが楽しくて仕方ないだけ。悪くない。むしろいい。
こうやって何気なく友達と輪になってお昼ご飯を食べる。なんだろう、涙が出そうだ。
「」
会話の内容なんてどうだっていい。それこそくだらない話をしているのかもしれないけれど、なによりそれが楽しい。この子たちは私が人を殺めたなんて微塵も想像したりしないだろう。
罪悪感、今更そんなものはない。残るのはほんのちょっとした違和感、気怠さだけ。
いつかすべてが露呈して捕まる日がくるまで私は反省なんてしない。するのは求められた時だけ。必要だと感じた瞬間のみ。
我ながらくそったれな感情を持ち合わせているけれど、それを生成したのはほかならぬ周りの人間だと、私は声を大にして言いたいくらいだ。引き返せないから突っ走る。邪魔が入れば撤廃するだけ。
「っ」
食べ物が喉を通らなかった。
詰まったわけじゃない。いや、息が詰まったというべきなのかもしれない。
「あんまりくっつくなよ、歩きづらいだろ」「いいじゃんせんせぇ」
廊下側にある教室の窓、というか廊下を下川先生と女子生徒が歩いていた。それだけならおかしいことではないけれど、ひとつあげるなら距離感だろうか。
プリントをもって歩く下川先生の腕に自身の腕を絡めて歩く女子生徒。傍から見てもいい気分ではなかった。
そう、まるで女子生徒が見せびらかしているかのような振る舞いに嫌悪感を抱いている私がいた。
なにかに似ている。嫉妬だ。
「あらら、まーた下川に別の女がひっついてる」「金魚の糞じゃんうける」
「またって、結構多いの?」
気になって聞いてみる。
「名物らしいよ。あたしの姉ちゃん、いま3年だけど下川目当ての女って全学年レベルでやっぱいるらしいし、比較的多いのは3年生だって話。卒業さえしてしまえば即恋人関係を公認できるからってらしいけど」
「へぇ。やっぱり人気なんだ下川先生。私たちのクラス担任ってラッキーだったね」
「それがそう単純じゃないらしくて」
「下川のほうにも問題があるって噂。既婚者のくせに不倫してるんじゃないかって、あと女子生徒に手を出した過去があるんだとか」
「あくまで噂でしょ、でもイケてるから許されるって感じ?」
火のないところに煙は立たないというけれど、あくまで噂であって確証があるわけではない。むしろモテることを妬んだ男子生徒がそんな噂を立てただとか、自分のモノにするためにあえて蹴落とそうとした女子生徒の仕業だとか、そっちのほうが信憑性は高そうということで、この話は幕を閉じた。
放課後、私は図書室で貸出カードの登録をしていた。
この学校では本を借りて帰る際に、本誌最後のページに名前を書く欄の記入用紙があるわけじゃない。生徒一人一人が図書カードを発行するのだけれど、全員が必要というわけではなく利用する人が個人で発行しにくるしかない。
どうしても読みたい本があって毎日図書室で読むのも苦にはならないけれど万が一他の人が借りていった場合が待たされるわけで、さすがにそこまでは待てない。なので少々手間だけど情報を入力して自らカードを発行しに来ている次第ではあるんだけれど。
「お、塚本じゃないか」
図書の受付に下川先生が座って本を読んでいた。
「ここはいいぞ、静かだし。本が読めるうえに申請すればそこのパソコンで調べ物ができる。まさに現国担当の俺にはおあつらえ向きってわけだ」
「先生は図書室も担当しているのですか?」
「まさか、図書担当の先生は別にいるよ。俺は臨時で入っているだけ」
下川先生は読んでいたページにスピンを挟み閉じた。
「カードを作りに来たんだろ? 手順を教えるよ」
パソコンの前に座った私の後ろに回り込み、画面を指さしながら流れを説明してくれている。
「で、情報を入力し終わって空カードに付いている番号を読み込ませると登録完了だ」
「ありがとうございます。ですが、いろいろ見られながらだと少しやりにくいです。それにこれって個人情報ですし」
下川先生は笑った。
「俺は先生なんだから生徒の住所やご家族さんの連絡先くらいは知ってるぞ?」
「まあ、そうですよね」
冗談のつもりだった。少しからかってみたくなったと言った方が分かりやすいかな。大人の対応というのを見てみたかった。私にとって恐らく初めて会う種類の大人だから。
「先生はSignalの使い方わかりますか」
「ん? 人並みにはだけど。どうかしたか」
スクールバッグからスマホを取り出して差し向けた。
「クラスで友達ができました。けどこれの使い方をよく知りません。友達に聞くのも恥ずかしいので教えてください」
「ああ、そういうことか。ぜんぜん教えるぞ、何せ俺は先生だからな」
先生もスマホを取り出して私のと画面を比較しながらアプリケーションの取得方法を教えてくれた。
「まあ、塚本ならすぐに使いこなせるさ。しょっちゅうアップデートするから俺も少しずつついていけなくなっててな」
「ふふ、そしたらその時は私が教えますよ」
そんな会話を交わしながら大まかな設定をしてくれる。
「はい、あとアイコン変えたりとかプロフィールから編集すれば一通りはできるから返すよ」
私はスマホを受け取って画面を見た。
「ありがとうございます」
「あ、あとオマケで追加しておいた。これ、俺のアイコンね」
見てみると、友達一覧のところに一人、候補が上がっていた。私は先生のほうを見た。
「大丈夫。先生の方にはまだ追加していないから、不必要なら削除してくれて構わないよ」
「そう、ですか」
つまり一方的に私から送らなければ何も問題はない、そういうことだ。
「あんまり変な意味で捉えないでくれ。勉強で分からないことがあったりだとか、そういうのでも大丈夫だから」
「そうですね」
初めての友達一覧には、『ひばり』と平仮名で名前が書かれていた。こういうのって最初は家族を入れたりするものなのだろうか。電話帳のほうには何人か連絡先が入っているけれど、今どきSignalのほうが使い勝手がいいということで主流になってはいるし。メールなんかほとんど送らないし、くるとしてもサイトとかのスパムくらいだ。適当に調べ物をしたりしていたらいつの間にやら未読のまま何百通も溜まっている。
「…………」
連絡をしなければ。
連絡をしたら、どうなるのだろう。
私の望むものを、あのひとは与えてくれたりするのだろうか。
逡巡したのち、「ありがとうございました」とお礼を言ってお目当ての小説を借りて帰宅した。
「ただいま」
玄関を開けるとタイミングよく叔父が廊下を歩いていたので、視線を合わせる。
「お、ぉかえり」
私の姿に驚いたのち、バツが悪そうに俯き加減で応えた。
「叔母さんは?」
「美容室に、出掛けています」
「そう」
ローファーを脱いで、家の中へ。
「で、成果は?」
「申し訳ございません」
「意外と人脈なかったのね」
叔父、いまは養子縁組なので義父と呼べばいいのか曖昧だけれど、これまでどおりの関係性でいるというメッセージ性を残して叔父。
彼が私にしたことを忘れないし、私が何をされたのか忘れさせてやらない。父をはじめとした私を不幸にした連中に復讐するし、盛大に利用する。
叔父は何があろうと私に逆らえない。私が真実を握っていることを知っているから、それが私自身を守る抑止力になっているから。武器であり、防具にもなる、万能だ。
叔父にとっては私という存在がこのうえない窮屈なものになっていることは間違いない。もし、反抗の意思が少しでもあれば私は全てをぶちまける。誘拐、監禁、強姦、殺人。どれをとっても重い重い。
まあ、殺人に関しては偽証に過ぎないけれど。これだけのことをやってのけるってことは他にも余罪が出てきそうだからどちらにしてもバレたくないのだろう。
一番確実なのは私を始末すること、だけどもしそれが実行された場合の布石は既に打っている。PCやスマホの中、叔父の犯行につながる証拠となるものを家や通っている学校に隠している。
公言していないけれど、恐らく叔父自身そのことに感付いている。それでも対策のしようがない。私がそれを見張っているから。
けど、最近感じているこの気持ち。
燃え尽き症候群というより、集中力が切れてしまった時のようなあの感じ。
焦っている、私だって人間だ。感情を捨てたつもりはない。
「まぁいいや。しばらくは待機でいいよ、お仲間さんにもそう伝えて」
「え、あ、ですが」
私は焦る叔父を見て笑って見せた。
「大丈夫だって、この言葉に裏はないから。そのままの意味の待機。しばらくは泳がせてあげる」
普段から私が叔父にどんなことをしているのか。態度を見てしまえば窺い知れるところだけれど、基本的に私は温厚篤実な人間のつもりだ。
その態度が逆に怖がらせてしまっているのだと思うと、やはり気持ちのいいものである。
自室に戻りパソコンを起動させる。
長めのパスワードを打ち込み、ロックを解除。誰かに触られた形跡は……うん、ないね。
「はぁ、一途でいられる自信があったのにな」
気持ちが揺らいでしまった時点ですでに私の負け、というか一種の一目惚れに近い形だということに、私は自分自身にショックを受けていた。
「見た目が少し似てるだけで」
私が結局のところ外見で判断をしていたという事実が判ってしまった。自分に裏切られ、尚且つ彼を裏切った。
「人間って脆いよねぇ」
机に突っ伏して呟いてみても何かが変わるわけでも、返ってくるわけでもなかった。
いや、やっぱりよくない。
先生は既婚者で、噂の範疇では不倫をしているだとか女子高生に手を出しているだとかあるし、真実ではないにしても警戒はしておかなければ。
ただひとつ思うところがあるとすれば、私ならもしかして先生の性根を変えることができるんじゃないか。人間は脆い。もちろん肉体的にも精神的にも。
周りの人間を少なからず操ってこられた私ならば、易々と出来るのではないか。
見た目だけなら申し分は無いだろうし。
学校指定の鞄からスマホを取り出してSignalでメッセージを飛ばしてみる。
『先生 いまお時間よろしいですか』
しかし、返事が今日のうちに返ってくることはなかった。




