45 いとめいは「田」
「少々まずいことになったかな」
「いや、少々どころじゃないかもね」
田栗楓という少女との対話は思いのほか興味深い話だった。ま、そのすべてが真実とは限らないしいくらか脚色も混じっているのだろうけれど。だが少なくとも彼女が今のように変わってしまった要因は、やはり中学校で起きた花咲じじい事件がネックになっているんだと思う。
「やっぱり置いてくるんじゃなかった」
コンビニで明羽を置いてきてしまった。
と、いうのも塚本の過去を知るうえでどうしても越えなければならない壁が彼女にはあった。忌むべき過去に刺激を与えてしまう。そして私の独断で彼女を置いてきた。
しかし、それが仇になった。
塚本の過去話を半ば終えようかとしたところで私のスマホが鳴った。タイミング的には明羽かなと思ってチラ、と画面を見る。Signalにメッセージが入っていたけれど、目に留まったのは短い一文だった。
『たすけてころされる』
置いて行った私への仕返し、というわけではなさそうだ。少なくともこんな低度のイタズラを今のタイミングでしてくることは可能性としては低い。
文字の変換もなければ、改行句読点すらない。切羽詰まった状況にも見て取れた。
そして肝心なところはここからだった。
「返信しても返ってこない、のは質が悪すぎる」
「返す余裕が無いか、もしくは時既に……って、睨まないでくれよ」
「冗談はやめてほしいもんだね」
「冗談じゃなくて、可能性の話なんだけど、まあいい。麻衣がとうとう動き出したって考えていいのかな」
押し黙るように考える。
「わからない、けれど少なくとも私の考えはあの女に見抜かれてたってことだろうね。もしくは……」
「私がリークした、そう言いたそうだね納富さん」
考える可能性としては一番濃厚ではあるんだよね。
「残念ながら私じゃないよ。と、言っても判断材料が無いんだからそもそもどちらも証明のしようがないんだけどさ」
「まだ何も言ってないんだけど、もしかしてあれかな? 自分で墓穴を掘っちゃったパターンかな? 図星なのかな?」
などとへらへらしながら煽ってみるけれどとくに変わった初動もしなかったので表情をもとに戻す。
「まだ全部可能性の段階だからそりゃ断定ってのは難しいだろうね。杞憂で済めばそれに越したことはないんだけど」
さっきからスマホに電話を掛けているけれど、明羽が応答する気配が一向にない。掛け直してくるわけでもないし、ただ単に私自身に怒っていて電話に出ない、のほうが幾分かマシに思えるくらい。むしろそうあってほしいと願うけれど安否の確認をしないことには、どう判断していいかもわからない。
「ベタなセリフで悪いけれど行きそうな場所に心当たりとかないのかい?」
「そんなの、地元じゃないのにわかるわけないだろう……」
嘆いたそのとき、スマホが震えた。
右手に持って走っていたのでそのまま手元を確認して立ち止まる。
『織田明羽』
応答ボタンをすかさず押した。
「もしもし明は――――――」
「――――から語るは、俗称『舌切り雀事件』ってところかな」
明羽の声じゃない。
「急に居なくなって現れたかと思えばそんな話か…………あれもお前がやったってことなのか」
次に男の声。
この声は間違いない。めぎゅるんだ。
じゃあ、一緒にいる女は。嫌な予感がした。している。
「塚本麻衣、なんで明羽のスマホを持っているッ!!」
思わず自分のスマホを握りつぶしそうだ。いや、いっそ叩きつけたい衝動に駆られた。
そもそもなぜ呼び出しに応じた?
私と会話をする気が無い。なのに応じて、めぎゅるんと会話をしているあの女は何を考えている。
いや、待って。
今の会話に違和感はなかったか。
『舌切り雀事件』、あれもお前がやった。
炎天下で走り回っているというのに、寒気がした。
「自ら手の内を明かしている? 一番知られたくないであろう、彼にそれを」
何故?
そんなもののどこにメリットがあるというんだ。
間違ってもめぎゅるんは酔狂者でも極悪非道アブノーマルな思考を持ち合わせているわけじゃない。いくら塚本麻衣の姿かたちが理想のそれだとしてもだ。それで愛しの彼がなびくだなんて盲目さは持ち合わせいないだろうに。
「撒き餌か」
スピーカーモードにしているので当然、隣にいた田栗楓にも聞こえている。というかわざとそう仕向けた。彼女の反応がどういうものになるのか。一番手っ取り早いと感じたからだ。
「どういう意味かな」
「文字通り、この状況がだよ。麻衣が居なくなったお友達のスマホを持っていた。そして通話を通して教えた。残念、麻衣を変えてくれた愛しの王子様に一目会えるかと期待したけれど、もう術中というわけだ」
「麻衣さんの旧友にしては、いらないおしゃべりが多いみたいだ」
「っ」
背後に誰か立っていた。
一歩前に駆けだして振り返る。
「え……」
思考が止まる。
隣にいた田栗は首を傾けて難しい顔をしている。そうだ、この人物は田栗に対して話しかけたものの、面識はないはずだから。
「や、納富さん。こんなところで奇遇だね」
笑顔で手を上げる男子。同じクラスの戸田圭吾がそこにいた。
「は、たしかに奇遇だね。ただ奇妙ではあるけれど、偶然ってのは少し考えづらいんだけどね」
どうも嫌な感じだ。学校で見かける戸田くんと、今目の前にいる戸田くんがまるで別人のなりすましかと疑ってしまうほどに、異様であった。
私服姿だから、とかそういった変化の違いで済んでくれれば良かったけれど、明らかにクラスメイトに向ける表情じゃない。笑顔になりきれていない。
「織田さんはすぐに騙せたんだけどな。一筋縄じゃいかない、か」
何故そこで明羽の名前が出たのだろう。
「明羽に会ったの? ならちょうどよかった。どこにいったか分からないんだよ。教えてもらえると嬉しいな」
不用意な接触は避けるべきだ。例えこの男が妨害目的で近付いたとしても、こんな町中で不祥事を起こすような人振りではないはずだから。
あくまで冷静に、沈着に。
「うん? というかこれから連れて行くんだよ。織田さんのところへ」
ぬらりと手を伸ばしてきた。それを咄嗟に払った。
「痛いな。自分の立場は分かってる? もう筒抜けなんだよ。麻衣さんに全部」
「……見張っていたというのか」
「黙秘だ。俺も頭は良くないから麻衣さんからあまり会話をするなと言われているんでね」
成程。徹底した情報操作というわけか。
どんな言葉で惑わせても、時間稼ぎにはならないか。
腕力、逃走するための脚力、体力でも敵いそうにないな。彼だって腐ってもサッカー部員だ。下手に動いた方が危険。
「とりあえずおしゃべりが過ぎた田栗さん。君にはペナルティだ」
一瞬だった。
私には戸田くんが腕を振っただけに見えた。
「うっ」
右肩を抑えながら田栗は顔を歪ませた。
抑えた部分から漏れ出る赤い鮮血に私は青ざめた。
戸田くんのほうへ視線を向ける。さっき振るった手にはカッターナイフが握られていた。場合によっては人の命を奪いかねない、まぎれもなく凶器。それを眉ひとつ動かさずに振った。振れてしまっていたことが恐ろしく感じた。
自分が何をしているのか分かっていない。殺傷事件を日中の住宅街、そのど真ん中で堂々と行ったのだ。
「田栗!」
よろめく彼女を抱き留め、ゆっくりと座らせる。
「うん。まあ殺すつもりはないさ、傷は浅いし血管が浮き出ていないところをわざと狙ったんだから」
「そういう問題じゃない! 傷をつける行為そのものが罪になるんだぞ!!」
「勘違いをしないでほしい。俺はこのまま逃亡するつもりはない、自分がしたことの責任は十分に理解している。だから田栗さん、今すぐに救急車を呼ぶべきだ。そして誰が君を傷付けたのかもだ。俺には逮捕される義務がある」
なんだ、この男は。何を言っているんだ。
「そう、これは誰かの思惑のうえで成り立っているわけじゃない。俺が自発的にしたことだ。残念だが俺の役目は人質を二人連れてくること、あとはお役御免ということになる。一人は成功した。さて、君はどうだ?」
思わず息を呑んだ。同じ高校生とは思えないほどの圧をかけてくる。
この言動は間違いなく私を脅迫している。脅迫の方がまだ可愛いくらいだろうか。選択肢など最初から与えるつもりなんてないくせに。あえて選ばせる自由を与えることで優位性を示している。嫌な女だ。同性にはまったく好かれない性格をしている。
一度、肺に溜まったいやな空気を吐き出す。
「拒否すれば?」
「したきゃ、すればいい」
徹底してるね。
どのみち彼は捕まるつもりらしいからポケットに忍ばせているボイスレコーダーの役目はどうやらここでは無いみたいだ。
「あ、そうそう。納富さんは自発的に向かってくれるだろうからとある場所だけは教えるけれど、それを例えば警察に通報して匿ってもらったり、余計な行動とかしてだ、もしもそれがバレたら織田さんと巡瑠が……、はは」
笑いながら一度、戸田くんは目を伏せる。
「友達を失うのはお互い怖いな」
怖い、か。
その表情がとても恐怖を感じているだなんて思えない。どす黒い笑顔だ。
「めぎゅるんが捕まってるのを知ってて、どうして友達を裏切るのか。教えてもらいたいね」
「ああ、たしかに友情は大切だ。社会に出ていくうえでも信頼関係が一番だと揶揄されるけれど、それが正しいと思えるくらいに友情は美しいことだ。だけど、それをはるかに凌駕してしまった、この感情はいったいなんなのか、それをあの人は教えてくれた」
「愛だ」
「愛というのはこれまで積み重ねてきたものとはワケが違う」
「突然に始まりいつ終わってしまうかもわからない恐怖の中」
「必死に足掻いてしまうけれど、それが醜く見えない」
「みんな恋愛をしてしまう理由がようやくわかった気がする」
「恋人とは、友達なんかよりも尊い存在なんだ」
「より深き、自分にとってかけがえのない理解者だ」
「だから優先順位なんて一目瞭然だろう」
「友よりも恋」
「恋をするというのは美しい!」
「世界が360度変わるというのは本当だったんだ!!」
それは変わっていないのでは。
などと口にしないように、分かりやすく後ずさる。
そうだ、彼は基本バカなのだった。
矢武侑史も頭はよくないけれど、執念深い恨みが無い分、行動を起こそうとする軸がぶれがちだけど……。なるほど。非モテの戸田くんならば、あの女の独壇場だったわけか。しかも、めぎゅるんと親しい位置にいることも踏まえると、最善の駒だったというわけだ。
あの夜、幾度となく立ち向かった彼は何かしらの方法を使って矢武を退けたわけだけど、これが友人になると厄介だろうね。手段や手口というよりも、心の問題だろうから。
あのとき。
身内の人間に危害を加えられたといった彼は、逆上して矢武を殺しに行こうとしていた。それに近い衝動が起こらないとも限らない。私は、彼を犯罪者にするわけにはいかない。
当の本人はすでに捕まっていると考えるほうが自然かな、あの会話がリアルタイムのものであればの話だけれど。それとも声だけ似ている人物を使っていたとしたら? そうだ、その可能性も捨てきれていない。
けど、確実に明羽は危機に瀕しているだろう。どれが真実かなんて、やはりこの目で確かめないとわからないわけか。
こうしている間にも田栗はスマホを使って救急車を呼んでいる。最長七分、ここは住宅街にあたるので実質五分以内か。
悔しいけれどゆっくりと考える余裕はなさそうだ。
「場所は」
「へ?」
未だ高ぶる気持ちを抑えられない戸田くんは胸を締め付ける様に抑えながら逡巡。ふーっと息を吐きながら首を鳴らした。
「エミュレーという名前の元ラブホテルだった建物。そこに行くといい」
半信半疑ながらもスマホで一応調べてはみる。
ここから徒歩20分。
「まだ潰れて間もないらしいから、そこで間違いない。ちなみに織田さんもそこへ連れて行った。これでようやく本当に俺の出番は終わりだ」
そう言うと戸田くんは突然後ろ向きに倒れた。私と田栗は驚いて声を漏らす。
「あの人のお役に立ててよかった」
満足そうな笑みで静かに目を閉じた。
口から静かに血を流しながら、突然動かなくなった。
「戸田、くん? 戸田くん、戸田くん!」
声を掛けようがピクリとも反応しない。
「……行きなよ」
肩を抑えながら田栗は呟くように言った。
「いま救急車が到着したら納富、きみはチャンスを失うだろう。自由に動ける今だけが、麻衣を止める絶好の機会だといい加減に気付け」
「言われなくても、けど最後にひとつ謝るね。事と次第によっては塚本を殺してしまうかもしれないけれど、そのときは恨んでくれていいよ」
「言うね」
塚本麻衣。
洗脳だなんて、そんな生易しいものじゃない。
支配だ。どんな思想を抱いていたって、誰だってひとつしか命はない。そこは揺るぎない事実だ。どんな理由があっても、心を弄んでいいわけがない。
彼にとって友人だった男が、彼の命を狙う女にすべてを、文字通り命をも捧げてしまった。戸田くんだって悪い。少し考えれば分かることなのに。あの女に負けた。自分に負けた。
学校での悪戯行為、今のところ足が付いているのはこの件だけ。殺人や教唆に関してはそもそも結び付けられないように仕向けている。過去に何があったとしても、やっぱり確たる証拠が無ければ絵空事で終わってしまう。
だが、今は違う。うまくいけば現場を抑えられる。数珠繋ぎで今までの悪行を暴くことができる。
ピンチを逆手にチャンスを、か。
果たして名言通りにうまくいけばいいけど。




