40 悪を超えて
記憶がない、何をしていたのか、何をされていたのか。
めぐると出会って三日が過ぎた。短時間で仲良くなれたとは言えないけれど、おおよその時間で彼に絶望を与えたことは否めない。
きっと彼は誤解したままわたしから逃げていく。永遠にさよならしてしまう。
あのときのめぐるの目には、どう映っていたのだろう。きっと仲直りのつもりでお菓子とジュースを持ってきてくれていた。なのに、彼にとって最悪のカタチで裏切られた。そんな誤解されたままお別れなんて、わたしには耐えられない。
不幸中の幸いか、このあたりには民家が少ない。今まで出逢う頻度から考えても、近くに宿が一件でもあればめぐるはそこに滞在している可能性が高い。もし民泊だったとしても見つけられる範囲にいる気がした。思い立ったわたしは四日目の朝、素早く着替えを済ませて玄関を飛び出した。この家に居る者に見つかればまた外出することさえ難しくなってしまう。最悪でも日没までに戻って来られさえすれば怒られる心配もない。
「めぐる、めぐる」
走りながら息を整える様に彼の名前を音にする。
会いに行って、果たして彼は会ってくれるかな。短期間で彼を何度も傷付けてしまった。
わたしにとって短いようで永遠にも思えた時間が終わる。子どもの稚拙な考えだと他の人はきっと笑う。好きに理由を求めたがる。
走った。
サンダルしか履いてこなかった自分をこの時ばかりは呪いたいと思ったけれど、脱いでしまえばいい。
脱いだサンダルを片手ずつで持ち走る。
「いっ」
ろくに整備もされていない農道なので砂利が時々足の裏に刺さる。
痛い。
速度が緩まないように、歯を食いしばって走る。溢れる涙を止めたくて空を見上げる。澄んだ青、わたしには眩しすぎる。
やがて小さな看板が立てかけてある民宿に辿り着く。玄関先にはのれんが下がっていて営業はしているみたい。
目の前を一台の自動車がゆっくりと横切った。
何気なく目で追った車内の後部座席にわたしが逢いたいと願っている人物が座っていた。そして目が合った。
「めぐる!」
目が合うと同時に叫んだ。それと同時にホッとしたわたしはたちまち体から力が抜けてその場にへたり込む。
車が停まる。ドアが開かれてめぐるが降りてこようとしていた。
「止まりなさい」
ひとつ前のドアが開き、大人の男の人が降りてきた。
たったそれだけで、わたしは恐くなった。
ドアを閉めて、男はわたしにゆっくりと近付いてきた。立ち上がれないわたしはその男を見上げた、太陽の光でよく見ることができなかった。
「きみ……、うちの子に何をした?」
「え」
冷たい一言、その言葉にわたしは上手な返し方を知らない。
そう、まるで再認識させられているようだった。
人に言えないようなことをわたしは彼にしたという。それを突き詰められているような感覚だった。
「ふん、あいつは泣き虫のくせに誰に似たのか意地の張ったところがあるからな。君も言わない、ということは聞かなかったことにしておくべきなんだろうな」
未だに立ち上がらないわたしを見兼ねた男はおんなじ目の高さまでしゃがみ込む。
恐い。
大人の男、わたしにとって恐怖の対象でしかない。何をされるか分からない、抵抗しても力でねじ伏せられる。どうやっても勝てない。
背筋が凍り付くように寒い、なのにすごく汗が滲み出てきたし息も苦しい。視界がぼーっとする。
「詳しい事情は知らないけど、俺の家族を傷つけるやつは許さない。でも君には巡瑠を恨んでほしくない。だから俺を恨め、こんな状況を作り上げた自分を恨め。俺はここから離れるし、君はあいつにもう会えない。そういう選択を、君はしたんだ」
わたしが反応を示す前に、男は立ち上がり車へと帰っていく。
「降りるなと言ったろう、戻りなさい」
開け放したドアから降りてきためぐるは何かを言いたそうにしていたけれど、やがて口を噤んで車へ乗り込むとドアを閉めた。続いて男も車へ乗り込むとそのまま車は前進する。
動けなかった。追いかける気力はもう尽きてしまっていたみたい。後部座席から彼はわたしを見ていた。
「めぐる」
ボソリと呟いたわたしの声はもはや誰にも届かなかった。
そっか。
あの男も屋敷にいる男たちと同類なのか。
わたしから光を奪い去っていく悪魔なんだ。
許さない。
わたしの彼を奪うことは決して許されない。
あはは。でもまだダメ。今のわたしじゃ弱すぎて何も取り戻せない。手に入れることができない。
「まずは自由を手に入れよう」
やり方は知ってる。
自分が自由になるためには、相手の自由を奪わないといけないんだって。
屋敷へと足を向ける。
廊下をわざと軋ませながら歩き回り、目的の場所へとたどり着く。すると間もなく目的としていた部屋から一人の人物が顔を出す。
「誰だ……、ってなんだお嬢ちゃんかよ」
「あ、えと、こんにちは」
たどたどしく挨拶をする。すると男は廊下に出て辺りを見回した。
「こんなところで暇してるのか? ならおじさんの部屋でゆっくりしていけばいい」
「あ……はい、わかりました」
肩に手を回されて返事をするよりも早く部屋の中へ半ば強引に連れ込まれる。
男たちの目を見ればだいたいわかる。男女比で言えば男は複数いるのに対して女もとい獲物といえばわたし一人。当然中には満足しない奴だっているわけで、他を出し抜きたいと思っている者ばかりである。実際に主導権を握っていそうな男ばかりわたしの眼に映るわけだからそこから除外されている人間をわたしは狙った。でも誰でもいいというわけじゃない。
あるものを所持しているからこそ、そして夜の時間にあまり携われなかった者だからこそ、付け入りやすいとわたしは感じた。
「いやぁ、まさか昼間から君と居られるなんてな。俺はラッキーだ」
部屋全体が酸っぱい臭いに包まれている。この男特有の、ということだろう。畳の部屋で家具は丸テーブルに座椅子、茶色のクローゼットとシンプルだ。
促されたわたしは対面したテーブル、というわけではなく敷布団のうえに座らされる。
ま、これからいったい何をしようとしているのか、わたしが何をされようとしているのかは明白だけど。
「あの、カメラとか持ってましたよね?」
問いかけに一瞬、警戒するような顔つきを見せたけれど相手が子どもだということもあるのか、そんな表情はすぐに緩和された。
「そうだったね、それがどうかしたか?」
この男は毎晩カメラで写真を撮るように命令されていた。もしかしたら別の可能性もあったけれどカメラを所持している人間はこの男だけじゃないかと考えた。もしくは所持している人間は他にもいるけれど行為に準じることで精一杯だったとか、写真に収める癖がこの男にはあったのか。
「わたしの写真を撮ってましたよね」
「ああ」
とくに隠したりすることもないと感じたのだろう。事実そうなのだから。変に否定して勘繰られるようなことは万が一にも避けたいのだろう。
なんせ、決定的な証拠なのだから。
わたしが毎晩のことに関して不本意だとういうことは誰が見ても明らか。わたしにとってなんの得もない。あんなことをされてご褒美も何もない、誰が喜ぶものか。
こどもという浅知恵を逆手に取ろう。
「ちゃんとした写真を撮ってもらえませんか?」
男は顔をしかめた。
「具体的には?」
「モデルさんとかいるじゃないですか。ああいう人たちっていろんな格好でたくさんポーズをとってて少し憧れていたんですよ」
「おじさんの持ってるカメラでもあそこまで再現するのは無理だね。照明とか送風機とか様々な機材を使っているから、けど君だったらそういうの無しでも大丈夫だと思う」
そして男は立ち上がり茶色のクローゼットを開けた。
体を反らして中を覗き込むと、とてもじゃないがこの男が持っていると犯罪の臭いがするそういった異彩を放つ多様な服装、コスプレ衣装が嫌な意味で目に鮮やかさを与えた。
「条件はおじさんの趣味にも付き合ってもらう。そういうことでいいね?」
有無を言わさない、圧を感じる。たとえそれを拒もうと、話自体を白紙に戻そうとしてももう後戻りはできない。したところで乱暴に扱われるだけ。なら、条件を呑もう。今この瞬間だけは、わたしとこの男は対等な位置関係にある。そう錯覚させ、逆転させる。
ま、コスプレくらいならまだ可愛いものか。
「は、はい」
男はそれぞれ右手と左手に別々の衣装をとり、唸りながら交互に見やった。
「こっちから来てもらおうかな」
手渡された衣装を見る。
普通に体操服? と思いきやズボンだけ違う。なにこれ。紺色の見せパン?
「君にとってはあまり珍しい恰好じゃないか」
やっぱり体操服ってことだろうか。しかしながらこの男、ずっとこっちを見ている。
「ん、どうしたかな」
「あの」
ちょっと恥ずかしそうな女の子をイメージする。
「後ろ、向いててもらえませんか?」
身長差で上目遣いになったのであまりにもあざとすぎるかなと思ったけれど、男の反応を見てわたしは心の奥底で嗤った。
「あ、ああ。ごめんね」
この男、やはりそうか。
集団でいるときと、こうして対面で向かい合ったときと比べるとあまり覇気がない。簡単に言えば異性に慣れていない。ときどき、態度は大きくなるけれどわたしと向かい合うと少し落ち着きがない動作をする。目を合わそうとしなかったり、手を握ったり開いたり繰り返す。
この男さえどうにか出来れば、わたしの勝ちじゃないか。
心の奥底の煮えたぎった想いがふつふつと湧き上がるのを堪える。
すごく気分がいい。
男が後ろを向いた。
わたしはその隙にカメラからSDカードを抜こうとして、手が止まる。
待って。この中にそもそもわたしの写真データがあるとは限らない、男がカメラを手に取れば抜き取ったことがバレる。もしそれが違うデータだったら、わたしがやろうとしている事が知れ渡れば、終わる。
冷静になれ。
確証を得る時間は今は取れない。確実に確認ができる隙が必要だ。
「…………着替え終わりました」
「お、やっぱり似合うなぁ。言葉足らずかもしれないが君は本当に何を着ても似合うよ!」
昂揚した男は様々な角度からレンズをこっちへ向けてシャッターを切る。まだポーズも何もしていない、ただ立ち尽くしているだけなのに、それでも男は満足そうだ。
「次はこれを着てくれ!」
荒々しい息を吐きながらすぐさま次の着替えに移ることとなった。手渡された衣装はギラギラした手触りで色鮮やかな印象。フリフリがところどころついていてリボンが大きい。
これ……は魔法少女、なのかな。
和室の、しかも敷布団の上で撮られる写真は雰囲気も何もあったものではない。それでも不満を漏らすわけにはいかず、要望通りに着替えて挙句ステッキも持たされる。
「うは、これは独り占めしたいくらいの写真が出来上がりそうだ……」
ぶつぶつと呟いている。写真を誰かに見せる、いや売るつもりなのかな。
ま、どっちにしても今撮られてるぶんも新しく弱みにするつもりだから、あまり笑顔で撮られるのも控えなきゃなぁ。かと言って嫌そうな顔をしても男のテンションを下げて逆上されるかもしれないし、調節が難しいや。
「こういう格好ってやっぱり興奮しますか?」
思い切って質問してみる。
「ん、まあ。人によりけりだけどおじさんは好きだよ」
だいぶフラットに答えたつもりだけど、目線や息遣いで興奮してるのはバレバレだ。反吐が出る。
「じゃあ、こういう格好でするのも好き、ですか?」
上着を少しめくってヘソを見せる。
男は分かりやすく動揺した。
「本当はそんなつもりなかったけど……、いいんだね?」
「…………はい」
嘘つき。
あらかた写真を撮ったあと、どうせすぐには帰すつもりなかったくせに。下心を丸出しにしている男ほど、分かりやすいものはないんじゃないだろうか。今までそういった視線で幾度となく見られてきていたせいか、敏感になっている。
望んで行為に及ぶのは、気分からじゃない。
わたしには、この部屋で自由に動ける時間が欲しいのだ。
目の前の男はいそいそと服を脱ぎ始めている。
わたしは静かに目を閉じた。
「ふぅ」
わたしはゆっくりと隣で爆睡している男の腕をどかして起き上がる。ティッシュペーパーで色んなところを拭いて私服に着替える。
行為を終えたあと、だいたい男は満足して寝てしまう。皮肉にもわたしにはそういったことへのスタミナが付いてしまったので女性慣れしていないこの男より先に果てる可能性は極めて低いと思った。
だからすぐには起きない。けど、グズグズしている時間もない。わたしはすぐに、男のバッグを漁り中からカメラを取り出した。
電源を点けてSDカードの中身を確認する。さっき撮られていた写真。なんともいえない微妙な表情で撮られているが、これはこれで良かったのかな? とか考えつつそれよりも前にスクロールする。
「ふ、ふふ」
ニヤニヤが止まらない。
わたしの勝ちだ。
カードを引き抜いて部屋を出る。
夕方より少し前に差し掛かっている時間。夜になる前に決着をつける。
「先立つものとか、必要だよね」
昼間から広い座敷でお酒を飲んでいたのは今日も確認済み。
酔いつぶれている男たちの自室へ順々に赴いて私物を漁る。財布からお札を引き抜いて無造作にズボンのポケットへと仕舞う。
さて、これで下準備はだいたい終わったかな。
あいつの所へ向かう。わたしと同じ部屋だけどほとんど帰っていない。顔を合わせたくないし一緒の空間で過ごすなんてもってのほかだ。
ささやかな反抗をしているわたしがあいつに逆上されない理由は幾つか考えられるけれど、決定的な点で言えばわたし自身がここでは商品として扱われているからだろう。へんな気を起こさないように、適度に自由を与えられているのと同じ理由。
見えない鎖でわたしを飼いならしているつもりなのだろう。今からその袂を分かつ。
戸を開けた。
「……ん」
わたしが部屋へ入ってくると父親は顔を上げた。机に向かってどうやらお札を数えていたらしい。
「麻衣か、帰ってくるのが早いな」
「ええ、お父さんに用があって」
わたしは素早く父の手からお札を奪い取った。
「おい、何してんだ!」
突然のことで驚いた父が激昂した立ち上がる。
わたしは父の顎を狙って頭突きをかました。
「ぶ」
息が詰まったように後方へ仰け反り、倒れる。
しばらく唸ったあと、すかさず反撃しようと上体を起こした父は、固まった。
わたしは父の携帯電話を片手に持っていた。パスワードを解除して三桁の番号を見せつける。
「分かってる? 今ここで問題を起こして一番困るのはわたしじゃないんだよ?」
「親に向かってなんだ! 早く金を返しなさい!」
声を荒げる父に向ってわたしは軽く人差し指を口に当てる。
「黙れ、お前は親でも何でもない。それにこれはわたしのおかげで稼げたお金でしょ? どうせわたしのために使う気なんてないんだから、回収しておくね♡」
お札をポケットに仕舞い込んで代わりにあるものを取り出す。
脅しの道具、にも使えるかな。
「は、ははは。おま、お前そんなものでどうする気だ?」
わたしの手に持たれたフォークを見て笑う。
「所詮、こどもの考えることだな。おとなしく金とケータイを返しなさい。今ならまだ手は出さないでいてやるから」
「はぁ。やっぱりお父さんのその態度ってあれだよね。自分より下に見てる相手だからそうなんだよね?」
こいつがここに来てから、わたしがほとんど見たことのない低姿勢で過ごしていた。わたしはその光景を見て表面は素通りしていたけれど、内心ではかなり動揺していた。
今さら躊躇なんて覚えなかった。
わたしは思いっきり父の太ももにフォークを突き刺した。
「いっ――――――――」
すかさず叫びそうになる父の口をポケットから取り出したお札で塞ぐ。
「わお、贅沢な口封じ♪」
ジタバタと暴れだす父にまたがり、太ももから痛みの元となっているフォークを抜いてあげる。
「うーん、意外と刺さりは浅かったなぁ」
先端数ミリ程度が赤く染まっており、やっぱり女の子のましてや小学生の力なんてそんなものなのだと悟る。
「んん、んんんんっ!!」
「静かに」
眼球の先に光沢のある先端を突き付ける。
「どう? 今度はこれを落とすだけで、お父さんは見えてる世界の半分を奪われるかもしれない。そう考えるとちょっとは復讐に値するのかな、なんて」
涙ぐんだ眼が大きく見開かれ小刻みに震えている。
ああ、怖いんだ。
やっとわたしのことを怖がってくれた。
嬉しい。
「それじゃお父さん。支度して?」
わたしの言葉を聞いて父は表情を曇らせる。
「車を出して、家に帰るの。それと変なことは考えないでね? ここにお父さんたちがしたことの証拠がしっかり詰まってるから」
唸っていた父の声が消えた。絶句していた。
果たしてそれがどういう気持ちだったのか。裏切られたような気持ちだったのか、それとも人生が終わったと嘆きたくなる気持ちだったのか、心底どうだっていい。
わたしはこの男が心底邪魔でしょうがないのだ。
「言っとくけど、他の人を呼ぼうとしたすぐに通報するから。せいぜい自重してね」
ケータイをフォークを持つわたしは父が鞄に荷物をまとめるのを待った。
ときどき痛そうに太ももを抑えながら誰にも見つからないよう、裏口から外へ出た。父が車へ乗り込みシートベルトを締める。わたしも助手席に乗った。
その間、一言も会話はなかった。
実の親子なのに、まあこんなものだったかもしれないね。これまでも、そして今だって。
日が傾いてきている。そろそろ男たちがアレに気付く頃かな?
「な、なぁ」
窓の外を見ていたわたしは運転席の方を向く。
「やっぱり考え直さないか? 乱暴に扱われて気が立ってるんだろ? お父さんがあの人たちにちゃんと抑えてもらうようにお願いするから」
「そうまでして金が欲しい? なら自分の体を売ればいいと思うけどなー」
皮肉にもそう言ってやった。フォークを片手にちらつかせてもう片方の手は携帯電話を握りしめる。
そう、例えばハンドルを無理に切ってわたしがバランスを崩したところでその二つを取り上げるとか、どこで反撃されるか分からない。でも、かえって好都合かもしれない。
山道をひたすら登ったり下りたり、見覚えはあまりないけれどどこか知らない場所へ走らせてわたしを困らせる、という考えも否定できない。
携帯電話に関して言えば圏外に出てしまえば助けを呼ぶツールとしてもまったく機能しなくなる。だからなるべく人目につかない山奥へと入り込むはず。
そんな浅はかな父の考えを逆手に取ろう。
さっきからちょうどタイミングよくバイブレーションが鳴ってるわけだし。
「ね、お父さん」
返事はない。でも聞こえないはずはないので、そのまま続ける。
「どうしてわたしが武器に似つかわしくないフォークなんてものを持ってきたか、わかる?」
「…………さぁ」
フヒッ。
「あそこのお屋敷って、包丁が一つしかなかったの。脅しにはそれが一番効果的だったんだけど、どうしても持ってこられなかったんだよ」
「ど、どういうことだ……」
「もう使っちゃったから」
使う。
本来の使用目的ではない意図した使い方。料理以外に使われることなんて限られているけれど、わたしはあくまで凶器の話をしている。まさか、と思うだろうけどわたしは敢えてそこで話を一旦とめる。
「な、なぁ。使ったって何にだ? お父さんに教えておくれ。まさか取り返しのつかないことをしたんじゃないだろう? お前は賢い子だ、まさかそんな」
「そ、だから賢く利用させてもらったの。子どもの戯言だと思われるかもしれないけどわたしを犯した奴らのうち1人を刺してきたの。心臓一突きっていったら即死かなぁ。ほかの寝てた人たちは起きてからパニック状態かな。さっきからお父さんの携帯電話鳴りっぱなしだもん、ふふ」
マナーモードにしてたからお父さんには分からなかったかもしれないね。
「何を言ってる……」
わたしはピッと応答ボタンを押した。
「おいテメェどこ行きやがった! ぜってぇ見つけ出してぶっ殺してやるからな!! それと警さ――――」
切った。
「めちゃおこだねぇ。それもそうだよね、状況証拠ってやつかな? だいたいはお父さんがやったと思われてるはずだろうし」
「は、は?」
機体が僅かに揺れた。分かりやすく動揺しているのだろう、手汗を拭こうと片手ずつズボンで拭っている。そしてまたしっかりとハンドルを握りしめているけれど小刻みに震えている。呼吸も苦しそうな感じだ。
「だってあの人たちからしたら、気付けば人が殺されててそんな状況の中、荷物をまとめてわたしを連れて逃げるように居なくなってるし。あ、それと寝ている人たちの財布の中身を抜いてきたの、賢いでしょ? というわけで弁明の余地なしって感じじゃない?」
「なんて、なんてバカなことを」
奥歯を噛み締めながらハンドルに額をくっつける。その拍子でクラクションが鳴ってしまい、慌てて顔を上げる。
「お前らが私を馬鹿にしたんでしょ?」
「っ」
「お母さんはどこ? 生きてるよね? あんなことして逃げられた? それとも都合が悪くなって殺した? それともそれとも私を置いて逃げた? 自らが助かるためだけに? 私を身代わりにした? 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない――――――――」
「いい加減にしてくれ!!」
声を張り上げる。
そんなことで何故?
「なんであなたが被害者面するの? いい加減にしてほしいって、それは私が常に思っていたことだと分かって口にしてるの?」
私に、この男の半分も遺伝子を受け継いでいるのだと思うと腹立たしい。
「はぁ。どうしてお父さんってこう我慢ができないのかなぁ、やっぱり育ちが悪かったせい? あんな人たちと同類ってことはやっぱりろくな家庭環境じゃなかったんだよね? だから私も巻き込むんだ。それが当たり前になってるから。自分が迷惑を被ったことがないから」
「うるさい! お前なんかに何がわかる!!」
父の運転する車が曲がり角に差し掛かった。
「理解したいなんて誰も言ってない」
瞬間、私は身を乗り出してハンドルを握る。
そして道路とは反対側の方へハンドルを切った。
ガードレール。
雑木林。
巨木。
私は着替えが入ったトートバッグを自分の顔に押し当てた。
それが精一杯の身を守る手段。
運が良ければ生きているだろう。
道なき道を下る。
ひどく揺れる車体に父はブレーキを踏むことさえままならない。
瞼をぎゅっと閉じた。
音が止むのを、静かになるのを待った。
「あ……」
ひときわ大きい音が響き、静寂に包まれた。
「あれ、から、だ……おも、い」
腕に強く力が入らない。
何かに押し込まれているみたいだった。触ると表面がザラザラしていて白い。あ、これエアバッグだ。へぇ、本当に出るんだ。貴重な体験してる、なぁ。
なんとか首を動かして隣を見た私はた目を見開いた。
「は、はは」
上体が少し浮いた状態、エアバッグと天井、そして背もたれに圧迫されてピクピクと動く腕が、そこにあった。当の本人はめり込んでどんな表情か分からない。フロントガラスが割れており、破片がところどころに刺さって血が滲み出ていた。
小柄だったことが幸いしたのかガラス片も刺さっていなければエアバッグに圧迫されてもいない。ただ、車の前部分は歪みがひどく、助手席側のドアはびくともしなかった。
仕方なく私は席を倒して後部座席の方へ這い出して後方のドアから外へ出た。
「はぁ、はぁ、はぁ」
外傷は見たところないけれど、身体じゅうのあちこちが痛い。まるで前進筋肉痛のような気怠さがある。どこか骨が折れている可能性だってある。
助けを呼ぶ体力が尽きる、はたまた誰かが駆けつけてくる前に私は見つかって困るものをトートバッグの中に潜ませる。
普通にバッグの中に忍ばせていても万が一中身を見られたら説明ができない。かと言ってこの近辺に隠したところで回収しに来られる確率はそう高くない。
ポケットの中からありったけのお札を取り出して、数枚は自分の財布に仕舞う。財布の中にSDカードも忍ばせる。トートバッグ内の洋服のポケットに数枚、見られにくい下着類に包ませたり、靴下の中、様々な箇所に小分けして隠す。
「あと、は」
もう一度車の中に戻って手放した携帯電話とフォークを回収する。
「…………」
こうなってしまえば父は肉塊も同然だ。
誰かが助けなければあの人は助からない。
「あは、ははは、はははははははは――――――――――――」
生まれて初めて、私は自由を手に入れた。
学校へ向かう道すがら、たまに見かける仔犬がいた。
今日は外に出してもらえてるんだ。ずっと家の中じゃ、気が滅入っちゃうよね。
そう思った私の心とは裏腹にすごく寂しそうな眼をして仔犬は座り込んでいる。
確かに最近は肌寒いせいで私も家を出た時とかは億劫にもなるけれど、君は服も着せてもらえているじゃないか。
それだけ暖かそうなら別に問題はないんじゃないのかな。
「ばいばい」
私は笑顔で手を振って学校へ急ぐ。
帰りにもあの仔犬をたまに見かける。
オレンジ色をした屋根の家の人に飼われているんだと思う。だっていつもそこにいるから。
「もう家の中入っちゃったかな」
私は少し残念な気持ちになりながら帰路につく。
次の日は、外に出ていなかった。
その次の日はいた。
「なんか君、いつも震えているよね」
潤んだ瞳をこちらへ向け、か細い声で鳴く。
どうも心なしか、少し痩せている。
「またね」
悔しいけれど、あの子は既にあの家に飼われている身であるからこれ以上は関わってやれない。きちんと世話をしてやっていない家に飼われた君の運命だ。
「そう、誰だって環境を選べない」
他人を変える、または整えるだけの力を非力な小学生である私はまだ持たない。
地獄を抜け出した私はまだスタート地点に立っているだけなのだから。
次の日。またあの子はいない。
その次の日、また次の日もあの子の姿はみない。
やがて気にも留めなくなったとある日。
いつもさして変わり映えのしない景色に違和感を覚える。
オレンジ屋根の家の前に看板のようなものが、その近くに普段では考えられないくらいの数の自動車が。
『是枝 家』
吐き気がした。
黒のスーツ姿や喪服を着た人たちが家から出ていく。
棺を運ぶ人たち、少し離れた位置で見てはいけないと思いつつもつい立ち止まって見てしまっていた。棺からほんの少しだけはみ出た布片に目がいった。
お別れの時、本人に思い入れの深い品を棺に入れるあれだ。私も少し前に手順を見ていたから覚えている。
「あの仔犬…………?」
頭が痛くなった。
「あ、そっか」
仔犬じゃない。
「犬じゃなくて人だ。あの子だったんだ」
違和感の正体に気付いた私は、何事もなかったかのように道を歩き出す。
歩きながら目頭をきゅっと抑えていっぱいに開く。幻を見ていたわけじゃない。
これまで人として真っ当な扱いを受けられなかった私。そこから解放され、奴らのようにはならないと誓った私。
けど。
けれど。
私は結局あいつらに染まるしかなかったということだろうか。
薬のように長時間漬けられていれば、それと同等かそれ以上の時間を以てでもないと解放されない。
いや、違う。そうじゃないか。
私は自由なんだ。もう何にも縛られない。
あの子のような仔犬とは違う。私は先に居る人間だ。
わたしは私以下を決して人とは認めない。
「は、ははは、ははははは――――――」
引き取られた叔父の家へ帰ろう。
中学校に入って、これから楽しいスクールライフが待っているんだから。




