38 地獄に落ちた少女
「からかってる?」
わたしは首をぶんぶん振った。
その様子を見て、立川くんは肩をすくめる。
「ごめん、いきなりわけわかんないよね」
「いや」
かぶせる様に即座に否定。
「俺って、そういうのがよくわかんないんだ」
「え?」
「食べ物とかは美味しいから好きかどうかわかるじゃん? けど人が人を好きになるっていったい何なんだろう。楽しいとか感情だけだったら別に友達同士でもいいじゃん。だけどまいが言っている好きって付き合うってことでしょ」
人を好きになる定義。
こどもなのにそこまで理由を求めるって正直予想外だった。無頓着ってわけじゃない、きちんとわたしの言葉の意味を分かったうえで、あえて質問をしているのかな。
説明はできないわけじゃないけれど、これに関しては理屈じゃない。彼は感情で誰かを好きになったことがないと捉えていい。だったらそれを教える誰かが必要となる。
「じゃ、じゃあ」
わたしは震える手を抑え込む。吐き気がしそうだ。あの男がわたしに対してやっていたことは奇しくも快楽という志向に基づいた行動をしている。本来なら好きという感情、愛するという感情で正当化される行為。
わたしがあの男の真似事をする。
大丈夫、彼はわたしが汚れていることを知らない。わたしだけの秘密。なら、立川めぐるという一人の人間をわたし好みに変えるのもまた一種の愛。
頭の中から離れない、あいつの気持ちよさそうにするあの顔がたまらなく憎たらしい。今すぐにでも上書きしたい。なら、適任は彼だ。
「ね、楽しいことしない?」
「どういう遊び?」
「遊びかぁ。たしかに間違いではないかもね」
あいつにとっては遊びも同然だし。他の人だって遊びでやっていることが多いらしいし。
わたしは立川くんを抱きしめる。
「んー」
彼の唸る声が胸に響いて少しくすぐったい。けど、とくに暴れる様子もないので離さない。
ドキドキしてる。この音はきっと彼の耳にも響いているはず。
「な、なにしてるの?」
わずかに震える声で立川くんがわたしに尋ねる。さすがに戸惑っている様子を見て、かわいいとさえ思ってしまった。
「なんか赤ちゃんみたいで恥ずかしいんだけど」
ふむ、そういった恥じらいは確かにある。わたしも一瞬母親になったかなーくらいの気持ちになりかけた。いわゆる母性みたいな感情なのかな。
だとしても自分のことよりわたしのことを優先して助けてくれた彼に対するわたしのこの感情は嘘偽りなく恋心だ。
「大丈夫、少しずつ慣れてきて安心できるようになるから」
辛抱ならず、彼の口をまた塞ぐ。
キス。
彼にもこの意味くらいはわかるはず。
「顔が赤くなっている」
至近距離でお互いを見つめる。彼の瞳が揺らいでいるのが見て取れた。
「これって、いけないこと……じゃないのかな」
ふと視線を逸らしてボソッと呟く。
もしかしたら、そうかもしれない。けどそれは固定概念だ。法律とかに違反しているわけじゃない。あくまでモラル上、道徳的な考えをわたしたちは刷り込まれている。
ただ、それを敢えて言わない。
いけないことをしているかもしれないという感覚でいた方が、より繊細な感覚になるだろうから。
禁断の果実を口にしたアダムとイヴのような。人間というのは好奇心の塊だ。イヴは蛇に唆れて果実を口にした。いけないことだと分かっていても、欲望には勝てないのだ。
この場合、わたしは彼を唆す蛇なのかもしれない。けど、禁断の果実を食べるときは彼と一緒に。
「いけないことなんて、実はないのかもしれないよ? だってすごく気持ちがいいんだもん」
いけないことだったら、こんな感情をきっと神様は与えたりなんかしない。本当にいけないことは、嫌がる相手を無理矢理に抑えつけること。
わたしもちょっとは強引だったかもしれない。
「いやだった?」
「いやじゃないけど、よくわかんない」
すごく、すごく楽しい。気持ちがいい。
わたしは早く彼に同じ気持ちを共有してほしく、再度キスをする。舌を入れる。
ときどき苦しそうに眉をひそめるその顔を見て、きっとわたしは恍惚とした表情のはずだ。わずかに目を開けた立川くんの目がトロンと虚ろになったあたりで一度、口を離す。
「はぁ、はぁ」
お互い、息を切らしながら。一言も声を発さない。
しばらくしてわたしの手を握った立川くんが真っ直ぐな目で見つめてきた。
「あ、あの」
なにか言いたそうにしている。わたしの手を握る彼の手が強くなったり弱くなったりと、本人が気づかないくらい何かに迷っている。
「今まで、女の子からべたべた触られたり……その、頬にキスされたりとか、は、したけど。こういうのは初めてで、その、なんて言ったらいいかな」
「ふわふわってするでしょ?」
ゆっくりと頷いた。
初めての感情にはなかなか嘘なんて付けない。ましてやこどもというのは良くも悪くも素直なんだ。きっと、わたしもそうあるべきだったんだよね。
道を踏み外した、彼を同じところまで引き込むんじゃないか、不安になる。
だけど、やはり立川くんはモテる。なら、誰よりも先手を打てたことはちょっとした強みになる。あとはどこまでいけるか。
「ね、明日はもっと気持ちいことしようよ」
「明日?」
今日はまだ時間があるけれど、すぐには手を出さない。
焦らす。
それによる効果は現れるのかどうかわからないけれど、明日はわたしの方が抑えられないかもしれない。ほんのすこしの我慢。
「そ、そう」
やっぱりどこか残念そうに空返事をする。
「明日、自販機のところで待ち合わせね」
わたしはそういって日が傾きかけた空を見た。
服ももう乾いた。サンダルを履いて道に出る。立川くんに手を振って来た道を引き返した。
あんまり遅くなってあの男に暴力を振るわれるのも怖かったし、今日はあの屋敷のような家を探検するのも面白そうだとも思った。
そうすれば明日からはずっと外で遊べばいい。
「ただいま……」
というのもへんな話で、ここはわたしの家じゃない。
「お邪魔します」
言い直して門をくぐる。
カラカラと玄関の戸を開けてサンダルを脱いで脇に寄せる。全体的に和の家だ。どことなく木の香りが漂ってきそう。
襖があってその向こうで笑い声が聞こえる。
そっと開けて中を覗くと、あいつがいた。何人かの大人と机を囲ってお酒を飲んでいるみたいだ。やけに上機嫌なのがムカつく。
なんだろう、あのお酒を飲んでる男の人たち。やっぱりどこかで見たような。
「ひっ」
脳裏にいやなものがフラッシュバックして後ずさろうとするけど足に力が入らなくなって転ぶ。
「なんだ?」
陽気に談笑していた男たちから笑みが消え、襖を開ける。
「あ……ああ」
なにかがプツンと切れて力が抜けた。
「うわ、おい! このガキ漏らしやがったぞ!」
「宗次、お前普段どんなえげつねぇことやってんだよ!」
高らかに笑い合う男たち。
わたしは身の危険を感じた。宗次、と呼ばれたのは父の名前だった。苦虫を嚙み潰したような表情でわたしの方を見ていた。
最初のおじさんも一緒になって笑っていた。
そうだ、出会った時点で気付くべきだったんだ。最低だ、わたしは。母に乱暴したやつらの顔を忘れるなんて、思い出せないだなんて。
あいつはわたしの休みを利用して金稼ぎを企んでいた。
「た、助けて!」
決死の思いで走り出した。玄関はすぐそこ。外に出て助けを呼ぶしかない。ここにわたしの味方はいない。さっきまで抜けていた力を精一杯振り絞って走る。玄関のカギは掛けていなかったおかげですぐに開けられる。
「いっ」
外の景色が見えた瞬間、思いっきり髪を引っ張られてわたしは転んだ。背中を打ち付けられた痛みで思うように声が出ない。
「叫ぶな、こっちは金払ってんだ。損はさせるな」
屈強な男はわたしの顔を殴った。平手打ちというわけではない拳を作って殴ったのだとわかったとき、鮮烈な痛みとともに視界がぼやける。
「お、おい。顔はやめてくれ」
あいつの声が聞こえる。
「はっ。知らねえな、だったら躾くらいしとけよ」
わたしの体がどこかへ連れていかれる。廊下を引きずられているということだけは分かった。
「頼む、麻衣。頼むから抵抗はしないでくれ」
泣きながらわたしの顔を覗き込むあいつの顔。ひどい顔、お前の遺伝子なんかわたしは微塵も受けついでない。父親面をするな。こんな状況になったのも全部おまえのせいだろ。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
そしてわたしは、奥の部屋に連れ込まれてやっぱり服を剥かれて数人の男たちの相手をする羽目になった。より酷かったのは父親よりもこいつらの方がわたしの扱いが雑だったこと。殴りはしなかったものの、首を絞めたり身体じゅう擦り傷ができるくらいに甚振られたことだろうか。
「」
叫びをあげることも面倒に感じた。
思えばいつかはこんな目に遭う運命だった。あの男の部屋で母の姿を見た時から覚悟をしなくてはいけなかった。いや、抵抗するべきだった。何か対策を対処法を見つけるべきだったのだ。
こどものわたしには手を上げることはないだろうと油断していたわたしの落ち度だ。
男たちの行為は夜遅くまで行われた。部屋の中には異臭が漂うようになった折でわたしは男たちから解放された。いや、ただ単に放置されたというほうが正しいかもしれない。
途中からわたしの意識は薄れている。具体的に何をされたかはわからない。それでもひどい仕打ちを受けたことだけは身体じゅうの痣と痛みで理解に及んだ。
「麻衣、ごめんな。麻衣」
意識を取り戻したわたしは父親が自分の上に乗っかっていることに気付いた。何度も懺悔しながら、臭い部屋で実の父親は娘を犯している。
他の人から見ればなんて異様な光景だろう。これが世の中? これが現実?
一通りの事が終わった後、わたしは風呂に入れられた。そのときにやっと一人の時間が訪れ、わたしは傷が染みるのもお構いなしに身体じゅうを入念に洗った。
洗い流さなきゃ、洗い流さなきゃ、洗い流さなきゃ。その一心だった。
湯船に浸かり、揺らぐ水面をジッと見つめる。
静かなわたしを余所に、あいつらはまた酒を飲んで笑い合っている。耳障りだ。
誰にも気づかれたくないわたしは音を立てることなく、泣いた。声を押し殺すことはとても難しい。泣きたくないのに、後から後から涙が溢れて止まらない。
誰かに助けてほしい。
そう思うからいけないのだろうか。
助かりたかったら、自分の力でどうにかするしかない。
昨晩は眠りにつくことができなかった。
寝ているときにもし襲われたら、そう考えてしまって恐怖で睡眠をとることさえ憚られる。
朝方になってわたしは家を出た。
男たちは夜遅くまでどんちゃん騒ぎをしていたのである程度の時間になっても誰一人起きてはこなかった。なので少し中を散策してみた。
どうやらこの家に女性はまったくいないようだ。玄関の靴も、脱衣所の洋服も調べてみたけれど、この家に住まう女性は居ないことがわかる。
もしいたらわたしの二の舞。いや、あの男たちにとってわたしさえいればいいのだろうか。
サンダルを履いて戸を開ける。
今日もうっとうしいくらいに晴れていた。
「股いた……」
憎々し気に呟く。
「逃げてもムダだろうなぁ」
子ども一人で生きていける世の中じゃない。
まして、親戚関係がグルになっているとすれば誰かの家に引き取られるということも希薄になる。最悪、ここより施設に入った方がかなりマシな環境にはなるだろうけど、今のわたしは大人をまったく信用していない。
冷静に立ち返ってみても、わたしは誰も信用できない。決意というより、呪いだ。
「うわがき、そうだ。上書きしなきゃ」
わたしはフラつきながら、二度目の道を歩みだす。




