36 巡り会いにて
抵抗しても無駄だということを知ったわたしは自分の心が次第に壊れていくような感覚に襲われていた。
あの男は最初お母さんを失った悲しみからわたしに対して異常なくらいこだわるようになった。はじめのうちは抱きしめたり、買い物に行くとわたしの服をやたらと選びたがったり、その程度だったと思う。どんどんエスカレートしてきて一緒にお風呂に入るまではギリギリの許容範囲だったものの、挙句体を触ってきたのだ。
最初は激しく抵抗した、怒りもしたしそれがおかしいとわかるくらいの常識は身に着けていた。
そこから父のほうが激昂するなんて、思いもよらなかった。
「どうして俺の悲しみを分かってくれないんだ!!」
叩かれ、蹴られ、罵声を浴びさせられた。
そして汚された。
疲れ果てた父から解放され、逃げるように自室へ籠って泣いた。悲しくもあったけれど、それ以上に悔しかった。
おかしいのはあいつなのに、なんで勝てないんだって。
いなくなった母をひどく恨んだ。今でも恨んでいる。
学校へ行くと嘘を吐いて、あいつが仕事中にあいつの部屋を荒らして弱みでも握ってやろうかと思った。
けど本来、仕事中だったはずのあいつは部屋の中にいた。
コンビニとかで時間を潰していたのでけっこう間が空いている。忘れ物を取りに来たといっても通じるかどうか分からない。
見つかったわたしは殴られるのを覚悟してぎゅっと目を瞑った。
「なんだ、帰って来たのか。ちょうどよかった」
そう言ってわたしの体を貪りだした。
何故?
学校へ行っていないことに対する言及は一切なく、ただただ自分の感情をわたしにぶつけた。
自殺でもしようか。
そう考えたことが何度もあった。
「希望を捨てちゃだめだ」
かえでが毎日わたしを慰める。よく飽きもしない。
ある日、わたしは体育の時間で運動中に転んだ。顔に怪我をして帰ってきたことがある。
「その顔、なんだよ」
父はわたしの首を絞めた。
「誰が勝手に傷付いていいなんて言った!」
足が地につかない。
首から上が熱い。苦しい。
ふと思った、このまま抵抗しなければ楽になれるのかな?
「うぐ」
唸った父の声で意識を取り戻した。
父はわたしを抱きしめていた。
「う……、ごめんな。怖い目に遭わせて、ごめんな」
父は泣いていた。
それに釣られてというわけではなく、わたしも泣いた。
どうして楽にしてくれなかったの?
この男はわたしを一生縛るつもりだった。
父はただ狂っているわけではない。突発的な暴力は振るうものの、目に見えた傷は絶対に負わせないように計算していた。
ただその代わり精神的な摩耗がひどかった。
「なんで飯ひとつまともに作れないんだ!」
テーブルの上に乗った料理を喚く子どものように散らかし、下に落とした。
「くそ、俺が帰ってくるまでに片付けておけよ」
財布を持った父は部屋の扉を壊さんばかりの力で閉めた。
フローリングに散らばった料理をゴミ箱に移し、ウエットシートで吹き上げる。わたしの分の晩御飯をいただき、食器を洗う。
別に不味いわけじゃない。
アイツが求めているのはきっと母の味だ。小学生のわたしがその域に達せるわけがない。あいつもわたしを見ていない。どいつもこいつも本当のわたしを見ようとしない。
「さて」
本来の目的を達するべく、わたしは父の部屋に入った。
以前、為しえなかった詮索を今のうちに済まそうという作戦。わたしがいるとあの男はなかなか出ていかない。
働いている素振りがないのにどうして生活ができているのか、聞いたところでまともな答えが返ってこなさそう。
部屋の灯りを点けてデスクあたりを中心に手を付ける。
几帳面というわけじゃないのである程度もとの形を維持しておけば不審に思うこともない。机上にあったノート型パソコンを立ち上げてみる。
「やっぱり」
案の定ログイン画面が出てくる。アカウントがひとつなのでユーザー名は自動的に入っているけれど問題のパスワードがわからない。
試しにあの男の名前や誕生日あたりを打ち込んでみる。何通りか試してみても開く気配がない。
もしかしてお母さんの誕生日?
イニシャルや数列を入れ替えて再度試してみる。
幸いに何度も間違えたら通報されるようなシステムじゃなかった。5回間違えると一分間操作ができないというペナルティのみだったので再チャレンジすることは容易だった。
「…………開いた」
目の前に広がる幾つものフォルダの中から開いては閉じての作業を繰り返す。
「ま、きな」
ローマ字で書かれたフォルダを見つけたわたしは恐る恐るクリックした。
「ひっ」
頭が真っ白になった。
幾つもの画像と動画が並んでいた。そこに表示されているサムネイルを見ただけで何かはすぐに理解できた。したくなかった。
母の無残な姿など、見たくなかった。
ほとんどの画像が裸で泣き叫ぶ母の姿。周りにはどこか見覚えのある男たちが嬉しそうにピースする写真。父が、あの男がわたしにしていることそれ以上のことを母はされていた。
悔しそうな顔の母の手にくしゃりと握りしめられたお札を見て、わたしは吐き気がした。
理解、したくない。
でも謎は解けてしまった。
母は金稼ぎの道具にされたんだ。
「最低だ」
いや、もうそんな一言で片付けてはいけない。片付けてはならない。
とにかく急いでパソコンの電源を落としてこの部屋に入った証拠を隠さなければ。
ギリギリのところであの男に見つかる、なんてミスは侵さない。
あれだけ衝撃を受けたのにわたしは、未だにわたしのままでいる。悲しくなるほど落ち着いている。叫んでもどうにもならないのだから。
だからせめて、楽しいことを考えよう。
あの男をどう苦しめてやろうか。
「明日から夏休みが始まります。熱中症には十分気を付けて、危ない場所に行ったり知らない人についていかないこと。そのほかのことは今配ったプリントに決まり事が全部載っていますので破らないように」
先生の声があまり頭の中に入ってこない。
入ってきているのにあまりそれが重要だとは感じない、というか頭の中がふわふわしている。
すべてがどうでもいい。
周りにいるクラスメイトは夏休みというパワーワードに意気揚々としている。
どこに行こう。
何をしよう。
喋る言葉がすべて耳障りだ。
家から出る口実が一か月近く失われることを知ったわたしの心情を誰が理解できる?
このまま義務教育という過程が終わった後、わたしはいったいどうなるのだろう。
将来は何になりたいか、という道徳的な授業でわたしは用紙に『自由』と書いたとき、担任は困った顔で笑った。
「具体的なこととかないの? まいちゃんは可愛いんだからモデルさんとかどうかな」
やっぱり最初から最後までこの人も外見でしかわたしを判断しないんだな。
そしてわたしは大人という存在を見限った。
交番にも駆け込んだことがある。
話を聞くだけで具体的な解決はなにもしてくれなかった。
やがてあの男のもとへ警官が訪れたらしく、何と言ったのかすぐにわたしの反抗期での悪戯扱いで終わった。
その日はたしか罰として一晩中ベランダに立たされたっけ。
ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ひたすら謝るしかなかった。
「――――い、まい」
「うん?」
「夏休みはさ、私とどっか行こうよ」
「どっかって?」
かえではうーんと唸って考え込む。
突発的に言っただけのようだ。
「そんなに無理しなくてもいいよ」
「んー、逆にやりたいことが多すぎて悩んじゃうなー。プール、キャンプ、夏祭り」
お母さんがいなくなってから、そういったイベントものはやった思い出がない。
あの男はまず連れて行こうとしないし。
「だから、今年は行こう! 大丈夫だよ、私にとっておきの作戦があるから」
「あまりいい予感はしないけど」
期待はしていない。
期待してよかった試しがないから。
「私が直に迎えに行けばさすがに頷かざるを得ないでしょ」
それくらいであの男が引き下がるとは思えないけれど、かえでなりに考えてくれたのだろう。
「ん。じゃあ待ってる」
それが素直に嬉しいと、そう思ってしまった。
それもまたあの男が絶望のどん底に落としてくるのだけれど。
「明日から一緒に父さんの実家に行くから着替えの準備をしなさい」
わたしに暇を与えない。
口答えをすればまた打たれる。今までは学校があったおかげで軽度な暴力で済んだけれど一ヵ月近くの夏休みということもあり行動はエスカレートするかもしれない。
そう思うと反論することは愚か、従わないともっとひどい仕打ちが待っている。そう刷り込まれている。足がすくんでしまった。
言われるがまま鞄に着替えを詰め込んだ。
うちは固定電話が無く、わたしも携帯電話を持たされていないのでかえでに事情を説明する手段がなかった。恐らくマンションに来たところでそこにわたしは居ない。
かえで、ごめん。
車でおよそ二時間。
父方の実家は正直言うとあまり覚えていない。お母さんがいなくてとても不安だった記憶しかない。
あのときはどうして来られなかったんだっけ?
車を運転している父は相も変わらず空いた左手でわたしの胸を揉んだり下部へ手を回したりと不愉快な気持ちにさせられたまま外の景色をおとなしく眺めていることしかできなかった。
「さ、着いたぞ」
車から降りて荷物を受け取ったわたしはなかなか立派な門を通る。
こんなに広かったんだ。
「やぁ、まいちゃん久しぶり。叔父さんのこと覚えてるかな?」
庭を眺めながら回ろうとしたら声を掛けられてビクッとなる。振り返るとなんとなく覚えがなくもないおじさんが立っていた。
少しだらしない体型をしている。
「あ、あんまり」
「そうかぁ、ショックだなぁ。まあそのうち思い出すだろ。なはは」
陽気に笑うおじさんの後ろからあいつがやってきた。
「よ、久しぶり」
「おう、思えばあん時以来かぁ」
「ま、そのへんも含めて話があるんだ。どうせあいつ等が来るのは夜だろ?」
何の話をしているのか、いまいちわからない。
大人の話だということと、周りには聞かれたくない話だということがトーンでわかる。
「まい、6時まで自由にしてていいぞ。ただし危ないところに行くなよ。あと暗くなる前に門の内に入っておきなさい」
「はい」
どういう風の吹き回しだろうか。
あの男がわたしに自由を与えるだなんて。
わたしがいると何か支障を来すのだろうか。なんにせよこの自由時間を過ごさない手はない。家の中を探検するのもいいけれど、なるべくあの男からは離れていたい。
わたしは外へ出ることにした。
「うわ、田舎」
近くの民家もぽつぽつと視界に映るだけでも指折り程度。
コンビニっぽい店があったけれど初めて見る名前の店だ。夜八時に閉まると書いてあるのでコンビニではないことが分かった。種類も野菜のほうが多いし、お菓子や飲み物が数える程度。
見たことない飲み物ってなんとなく手を出しづらい。
「自販機……」
探さなくてもあるようなものが無い。
こんなことってあるのだろうか。お金はあるのに、物が見当たらない。やっとの自由時間にこんな仕打ち、神様はとんだ意地悪だ。
「あ、自販機」
農道を歩きに歩いてやっとのことで見つけた自販機が隣接して二台。もう一台には男の子が1人ちょうど飲み物を買っているところだった。
二台もあれば自分が飲みたいものだって揃うはずだ。そう思ったら一台はたばこ自販機だった。そしてもう一台は全部売り切れと赤く光っていた。
「えぇ」
あの男の子が買ったやつで最後だったようだ。しかも麦茶。わたしが飲みたかった。
とことんついていない。この人生も、今も。
せめて照り付ける日差しをよけようと自販機の背を陰にしゃがみ込む。
「飲む?」
さっき自販機の前にいた男の子がまだ口を開けていないペットボトルを差し出してきた。
このときはまだ、彼のことを好きになっていない。




