35 お父さん
わたしは早くに母を亡くした。
そのせい、とは言いたくないけれどあまり笑うことがなくなった。
でも実はお母さんは亡くなっていないことを知った。
でも、決して帰ってこない。
帰ってきたくないからだ。
わたしを宝物だと言った母は、わたしをみて微笑むのではなく泣いていた。
世間というものを知れば知るほど、あの涙の意味が分かってきてわたしは母をひどく嫌った。
ウソ吐き。
宝物って言ったくせに。
手放すなんて。
わたしを置いていったお母さんが嫌い。
うそつきは大嫌い。
子どもは何が楽しくてあそこまで笑うのか。
何も考えていないから笑うのか、何もされていないから笑うのか。
思えば笑顔なんて私には最初からなかったのかもしれない。
「子どもなんて」
嫌い。
その先を敢えて口にしなかったのは、もし誰か大人に聞かれたとき「あなたも子どもでしょう」という一言で片づけられてしまうから。
これだってただの逃げに過ぎない。
本当に嫌いなのは世の中だ。わたしを助けてくれないこんな世の中、応えてくれない世の中。
「ありがとう塚本さん。一人で重かったでしょう?」
「いえ、大丈夫です」
学級委員なんて進んでやるものではない。うんざりしているわたしを見て担任の先生はにっこりとほほ笑む。
この人もわたしの外面しか見ていない。
数秒、その場から離れようとしないわたしを見て不思議に思ったのか、先生がわたしと同じ目線まで腰を下ろして顔を見つめる。
「どうかしたの?」
「あの」
正直に話そう、話してしまえば楽になれる。
立場上、担任の先生ならわたしの味方に成りえる、そう思ってわたしは決意する。
「あ、あの。わたし、家の人に――――」
言葉に詰まった。
あの男の顔がわたしの邪魔をする。獲物を見るような濁った眼、酒とたばこが入り混じった口臭、大きな声、体臭、感触。
すべてがわたしの邪魔をする。
「なんでもありません」
胸が苦しい、いやなざわつき。
「そう、何か困ったことがあるならいつでも相談に乗るからね」
先生は、優しかった。
けど、優しいだけじゃわたしは救われない。
助けてほしい。
頭の中で思うのはすごく簡単。なのになんで声にならないの。
「ありがとう、ございます」
わたしは職員室をあとにする。
校庭で遊ぶ子どもたち、わたしより学年が上の子もいれば下も当然いる。それぞれにそれぞれの遊びをしている姿がまぶたの裏に焼き付いた。もしかして夕方だったせいか、夕陽のせいで眩く見えたのかもしれない、そう思うことにした。
「まい、おわった?」
教室へ帰ると、クラスメイトの田栗かえでが居た。
「こんな時間まで待ってなくてもよかったのに」
なんだか申し訳ない。
「副委員がああだし、男女って決まりがなかったらわたしがなってもよかったのに」
かえでの言う副委員長は野球部の西川って男子。学級会などは率先して仕切るものの、休み時間は我先にとボールをもって外へ行き、放課後は部活だからといって主だった雑用はわたしに押し付けていく。
「あくまでも推薦だったら、わたしたちに非があるかもしれないけどね。あいつ立候補したから」
「他に誰もやりたがらないでしょ、こんな役職」
女子は誰一人として手を挙げなかったせいで多数決となってわたしに的が集中した。へんに目立つから嫌なんだよね。
「ある意味先に副のほうへ立候補したのはかしこい選択なのかもしれなかったね、頭いいんだか悪いんだか」
「悪知恵っていうのよ」
呆れながらランドセルを背負う。
「よし、帰ろう」
かえでの言葉にわたしは心臓が締め付けられるように息苦しくなった。
帰る、という言葉がわたしにとってどれだけの苦痛か。この気持ちはきっと誰にでも理解できるものじゃない。それこそ世界で自分が一番不幸だとその時その時思う誰かさんよりは不幸な自信がある。それはもうたっぷりと。
わたしは物心ついたその時から不幸なのだから。
「…………」
「今日も寄り道していく?」
わたしの境遇を知っているかえでは気を遣ってそんな提案をする。休日とかは無理やりにでも理由をつけてなるべく家に居ないようにしている。行先の提案をよくしてくれるのがかえでだ。
彼女の家に遊びに行ったこともある。きっと、これが当たり前の家庭でそれが日常なんだなと思うと、羨んだ。
私も。
私もいつか幸せな家庭を築けたら。
そんな幻想を抱いて夢を見ることで、現実逃避をしているのかもしれない。
そうすると余計に悲しくなってわたしは誰に対してでも素っ気なく過ごすことに決めたのだ。わたしと深くかかわってくる人間を、恐らくわたしは恨むから。
「恨んでくれていい。まいにはもっと過ごすべき日常がたくさんあるから。だからわたしは非常にもそれを教え続けるよ」
いけ好かない女。
だからほかの女子からいじめられるんだ。
田栗かえでという名前で「でんぐりがえし」と同級生たちにバカにされていた。もちろん名前だけで人をバカにする愉快な人たちじゃない。独特な、要は変わり者としてかえではクラスの中でも浮いた存在になっていた。
ある意味わたしも浮いた存在だけど。
男子から変な目で見られ、女子からはなかなかに嫌われている。まぁこれも容姿のみに限った話だけど。
「今日は……はやく帰らなきゃ」
帰りたくない。
「そっか」
悲しい顔をしていた。
自分が無力なこどもだということを突き付けられているようだ。早く大人になりたいと思う反面、先を知るのが、未来へ向かうのがたまらなく怖い。
果たしてそこにわたしはいるのだろうか。もしいたとして、それは本当にわたしなのだろうか。
そんなことを考えながら帰るのが当たり前になっていた。
「じゃ、途中までだけど行こっか」
「うん」
なるべくわたしと一緒に居てくれるのはかえでだけだった。
少し前までは方角が同じで一緒に仲良く帰る子もいたんだけれど、やたらと注目されるし一緒に居る子はそれを良く思わないせいか周りから段々と人は減っていった。
そして最後の1人となった。
「どうしてわたしと居るの?」
そう聞いたことがある。
「まいが大好きだからだよ」
まったく話にならなかった。
どうも様子を見ていると好意的な好きとはちょっと違うようだ。恋慕? に似た何かだと本人は言う。
意味は全く分からない。
「おお、まいじゃないか」
後ろから声を掛けられて、わたしは背筋が凍り付いた。
ゆっくり振り返ると背の大きい大人がそこに立っていた。
「お友達と一緒かい、こんにちは」
「…………こんにちは」
顔は笑っていたものの、目の奥が笑っていない。わたしに対する怒りが溢れていると即座にわかった。
かえではこの男のことを知っている。だから警戒する。
「遅くなるといけないから、先に帰って大丈夫だよ」
小声でかえでにそう言った、けれどわたしの声は震えていた。
「う、うん。また明日ね」
戸惑いながらもかえでは急ぎ足で別方向へ行く。わたしの表情から察してくれたようだ。行ってくれて一安心したわたしはホッと胸を撫で下ろす。
「おい」
すぐに息が詰まった。
凄まじい吐き気にお腹が痛くなりそうだった。
「なんですぐに帰ってこないんだ?」
「い、委員のお仕事があって……それで遅くなりました。ごめんなさい」
悪いことをしたわけではないのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
「そうか、帰るぞ」
少しだけ安心したわたしはその人の後ろをついていく。
程なくしてマンションの前に着いた。カードをかざすと自動ドアのロックが解除される。エレベーターに乗る時もカードが必要で再度かざす。
わたしが住む部屋の階で降りる。玄関までカードキーと徹底している。
ロックを解除するとわたしの手が強い力で引っ張られた。
「あ」
ガチャリ。
壁に叩きつけられる。
「誰が口答えしていいって言った?」
靴を脱いで部屋の中へ上がり、こちらへ向かってくる。
「ごめ、なさい」
わたしは玄関から飛ばされたので靴を脱げていないせいで、立つことができなかった。
「おいおい、玄関で靴を脱がないなんていけないじゃないか」
わたしの靴を脱がして後方へ放り投げた。
そして、わたしのズボンへと手を掛ける。
「っ!」
発狂しそうになった。
「やめ、やめて! やめて! やめて! やめて!」
抵抗も空しく、両手を上げられて押さえつけられた。
「助けて! 助けて助けて助けて助けて!!」
叫んだ口を口で抑えられた。
そして服を脱がされていく。
わたしはこの男、実の父親の慰み者になるしか選択肢は与えられていなかった。




