31 いとめいは 「地」
急な斜面などは一切ないが、普段あまり運動をしない、歩くことを好まない人間からすると少しきつい部分もあったりする。例えば足場の不安定さ、普段使うことがないであろう筋肉を使っているのだと考えると、あとの筋肉痛が恐ろしく感じるけれど置いて行かれないようになんとか食らいつく。
「大丈夫? 枚方さん」
塚本さんが私のペースに合わせて速度を落としてくれた。
「なん、とか。普段あ……あんまり運動しないから、かな」
呼吸も乱れてままならない感じの息継ぎである。特別私だけが置いて行かれているわけではなく、川名さんと塚本さんを除いた三名が少し息が上がっている状況だった。
そんな中でも私はビリということになる。
さすがは塚本さんというか、ペースが落ちるどころかむしろ久々の運動にいきいきしている感じすら見て取れる。キラキラしてるなぁ。
「くそ、なんでアイツは、いつも早いんだ……」
松永さんが苦しそうに先を行く川名さんの背を見つめる。湊ちゃんに至ってはほとんど足元しか見ていない。こけないか心配になる。
「ほら、もう少し行った先が見晴台だよ。がんばれがんばれ」
川名さんは私たちには見えない方向を指さし、爛々としている。スタミナが無尽蔵なのではないかという気さえしてくる。そういえば年度初めの体力テストでのシャトルランはけっこう最後まで生き残っていた記憶が微かにある。それで部活動に入っていないというのは、ポテンシャル的にももったいない気もする。本人がそれでいいというなら、まぁ、いいんだろうけど。
「三途の川が見える」
「いや山を見よう!」
縁起でもないことを言う湊ちゃんに私が全力でツッコむ。
やっとの思いで見晴台に着いたところでしばしの休憩となった。
「ぷはー、生き返る」
松永さんが水筒のお茶を飲みながら一息。
「皆さんお待ちかねのもぐもぐターイム」
川名さんがおやつ、というよりは時間的に昼食時なのでお昼ご飯を用意していたみたい。
「サプライズのサンドイッチ? サンドウィッチ? どっちでもいいか!」
手作りと思われるサンドイッチがパックにぎっしりと詰まっている。事前準備の時にはそういったことは一言も言ってなかったのでその場の誰もが面食らった。
「え、あ、ごめん。言ってくれれば私も用意したのに」
松永さんが申し訳なさそうにあたふたしている。
「そうだよ、今回のことだってまかせっきりだし」
「いいのいいの、好きで用意してんだからさ。花嫁修業の一環ってやつよ」
照れくさそうに鼻をすすり「ささ、おあがりよ」と言ってパックを順々に回していく。
「わ、これバジル? うんまーい!」
「本格的なたまごだ、これは」
塚本さん、湊ちゃんと順々に一つ手に取って食べていく。
そして私の番。
「あ、じゃあ私もタマゴサンドで」
一口ほおばる。
「~~っ!!」
声にならない声が、まさか自分から出るだなんて思ってもみなかった。どこか味わったことのある刺激が舌先から鼻の奥にまで染みていく。
「え、え?」
「あちゃー、当たり引いちゃったかぁ」
川名さんがあはは、と乾いた笑みを浮かべるのを私以外の三人は見逃さなかった。
「まさかこれって」
「まさにロシアン」
「まだまだ当たりは混じっているよ?」
パックを再び順々に回しだし、一同は先ほどの微笑ましさが瞬く間に失せ、全員が思わず喉を鳴らした。そして早々に脱落した私は手に持ったお茶をゴクゴク飲み、若干虚ろになった眼で行く末を見守ることにした。ちなみに私のタマゴサンドと勘違いした物はからしの色だったらしく、見事にたっぷりと塗りたくられていた。
「なんという悪戯心か」
湊ちゃんが涙目になりながら赤いサンドイッチ(なぜそれを選んだのか)を食べていた。見る限りハバネロタバスコ唐辛子系というのは瞭然なのに。敢えてかな、敢えてなのかな。
「え、なにこれ普通に変な味……」
松永さんが眉をハの字にさせてツナマヨらしきサンドイッチを見つめている。
「それは確かプロテイン入りだよ」
当たりなのかハズレなのか微妙なラインを引いてしまったので、余計にリアクションに困った松永さんはより一層怪訝な顔つきになった。
そんな中、一切ハズレ(川名さんにとっては当たり)を引かなかったのは塚本さんだった。
「ありゃ、おかしいな。そんなに単純だったかな」
私たちが引いている時点で単純明快なはずはないとツッコみを入れたかったけれど、残ったハズレを食べさせられそうなのでスルー。
塚本さんは相変わらず涼しそうな表情で「ひやひやするねー」と言いつつ残りも見事回避して除けた。
結局最後まで塚本さんだけが餌食にならず、登山が再開された。
「鉄壁の塚本さんを崩すことは最後まで叶わなかったわけだ、けどまだ諦めたわけじゃあない!」
先行して謎のガッツポーズを決め込む川名さんに一同がどこか呆れながらも笑う。そんな目的があったとは、そしてそんな目的のために巻き添えを食うとは。
なだらかな道のりになったので後半は思ったよりも楽に上ることができた。
「ほら、もう少ししたら着く……よ」
川名さんの明るいトーンが途端に消え失せ私たちもそれに違和感を覚えて前を見る。
奥から集団がやってくるのが見えた。
思わず私も身震いしてしまった。見るからに屈強な男の人が特に周りを気にすることなくがやがやと談笑しながら近づいてくる。
私たちは見た目に圧倒され、まったく口を開かなくなり静かに通り過ぎるのを待った。
隣を過ぎた瞬間私は少しホッとして肩の力を抜こうとしたその時だった。
「きゃ」
咄嗟のことで受け身を取れず私は顔から地面に倒れてしまった。
「枚方さん!」
みんなが駆け寄ってきてなんとか上体を起こす。
「っだよ、気をつけろ!」
振り返った男が一言、怒気を込めた声音で吐き捨てて行ってしまう。
その後ろ姿を松永さんがジッと睨みつけていた。
「見た?」
その一言に湊ちゃんが力強く頷いた。私にはなんのことだかさっぱりわからなかった。
「あいつ、完璧に狙ってた。枚方さんの足元狙ってたよ」
松永さんに真っ直ぐ言われて、私は思わず目を逸らしてしまった。
「ごめん、咄嗟のことだったから。何が何だか」
「そっか。でも早く消毒しないと、鼻先が擦り剝けて血が出てる」
「え」と思わず私が自分の鼻を触ろうとしたのを塚本さんが止めた。
「化膿するといけないから下手に触んないほうがいいよ」
「この先の目的地に水場があるから急ごう」
川名さんの案内で私たちは少し小走りしながら思いのほか早く目的地に着いた。滝が流れていて手前に達筆な字で何か書いてあるけれど、それどころじゃなく私たちはその流れをたどったところの水たまりに辿り着いた。
「ここの水は岩石とかがろ過してあって、まあ詳しくはわかんないんだけどとにかく天然水で飲んでもいい水だから、ここで一回汚れを落とそう」
掬った水で鼻先を洗い、なんとも準備のいい湊ちゃんが鞄から絆創膏を取り出してくれたので貼ることにした。
「私もよく、こけるから」
確かに学校でもよく膝に絆創膏を貼っている姿が見られる。随分と見た目がオシャレな絆創膏なのでファッションなのかと思っていた。
「それにしてもあいつら何なわけ!?」
松永さんが両手を打ち付けながら悔しそうに声を荒げた。
「あの人たちが例のちょっとガラの悪いお客さんなのかな」
塚本さんが顎に手を当てて言う。
「変に因縁吹っ掛けられないといいんだけど…………」
「それについては大丈夫。室内とかは無理だけど屋外には幾つも監視カメラがついてて何かあったらおじさんが助けてくれるはずだから」
へぇ、それは知らなかった。
確かに室内だと着替えたりとかいろいろあるからプライバシーに関わってくるだろうけれど、それ以外だったら普通に防犯とかだもんね。
「痕、残んないといいけど」
苦手とは言っていたけれど、松永さんがなんだかんだ一番心配してくれていたので、とても申し訳ない気持ちになりつつもみんなの優しさが何よりの着付け薬になったので私はみんなの不安と裏腹に楽しくなってしまった。
それから下山して、再びコテージに戻る。
配達された焼肉セットとウッドデッキに置いてあったコンロや網などといったバーベキューセットを慣れない手つきで運び組み立てる。木炭と訳の分からないジェルをセットして火を起こす。辺りに落ちている枯葉も私と湊ちゃんでかき集め、残りの三人はテキパキ組として作業をこなしている。
「それにしてもすごい量、飲み物足りるかな」
お菓子とか飲み物はそれぞれが必要かなと思うくらいの量を持参してきているので、正直に言うと足りない可能性もある。
「ダイジョブダイジョブ。おじさんに買ってきてって頼めばいいんだから」
手をひらひらさせながら川名さんは言うけれど、それだとおんぶにだっこで申し訳ない気がしてしまう。さすがにそこまでの我儘は通らないんじゃと思いながら川名さんが気軽に電話を掛けている。
「ああ、それならもうそっちの冷蔵庫に入れてあるから勝手に飲め」
「さっすがおじさん♡」
さすが悟さんっ!
確かに冷蔵庫にお茶とジュースと入っている。もっと細かく言えばジュースは炭酸系とそれ以外を一本ずつと選択肢まで与えているあたりは本当に脱帽です。
「あれ、誰かスマホ見てない?」
松永さんが落ち葉拾いをしている私と湊ちゃんのところに駆け寄ってきた。
「スマホ? 部屋は探したの?」
「うん。っていうか散歩帰りに持ってないことに気付いたからてっきりコテージに置いてきたとばかり思いこんでてさ」
うーん、そうなると。
「滝のところか、もしくは見晴台のベンチとかに置いてきたとか」
「やっぱそうなるかー」
心底嫌そうな顔をした。
確かに松永さんもあの山道は少し堪えていたようだったし、でも可能性があるとしたらそこくらいだろうし。
「しゃーない、ちょっと鬱だけど行ってくるよ」
「待って」
松永さんが走り出そうとしたところに川名さんが駆け寄る。
「一人じゃ危ないから私も行くよ」
「私も、人数多いほうが探す手間省ける」
湊ちゃんも手を挙げてついていく気満々だ。
「私は、ちょっと足でまといになりそうだから荷物番していようかな」
探しに行きたい気持ちはあるのだけれど、私の鈍足だとかえって迷惑になる気がする。
それに、空が少しどんよりしてきている。どう見ても急いだほうがよさそうな雰囲気だ。
「じゃ、私もお留守番かな。枚方さんはケガもしてるし、それこそ一人じゃ危ないでしょ?」
私の両肩を支えながら後ろから姿を現した塚本さん。あ、いい匂い。
「水差しちゃったね。なるべく早く戻ってくるようにするから準備、進めてて」
松永さんが軽く頭を下げて小走りになる。それに続いて川名さん、湊ちゃんもついていく。
「それじゃ、このあたりの落ち葉拾っちゃおっか」
「うん」
塚本さんと落ち葉拾いを始める。
なんだか少し緊張しちゃうな、二人きりだなんて。
思えば綺麗な人という印象が濃いせいで当たり前のように感じてしまっていたけれど、なんでも一通りこなせる塚本さんって、とても器用なんだなと素直に感心する。
それにとても落ち着いている。その様相もまた、彼女が綺麗だと言われる所以になるんだろうな。ほんと、川名さんの真似じゃないけれど、どこか欠点とかあったらそれは是非とも見てみたい気もする。
「さてと、さっそく焼き始めましょうか」
「え?」
聞き間違いかなって思った。それとも優しさから先に焼いておいて、みたいな考えだったのかわからない。けれど例え走っていったとしても戻ってくるのに往復で一時間近くは掛かるはず、それにその計算もずっと走ったとしての計算だから実際はもっと掛かるだろうしスマホを探す時間もプラスされる。
「でも、みんな戻ってきてないから戻ってきてからのほうが」
「戻ってこないよ」
ぴしゃりと笑顔のまま言い切った。
「な、なんで」
「もしかしたら死ぬかもしれないから、かな」
戸惑う私を余所にライターを使って火を熾す。さっき拾った落ち葉がパチパチ音を立てて黒くなっていく、それを団扇で仰いで火の通りを全体に移す。
「死ぬって……はは、冗談きついね」
金網の上に野菜や肉をトングで次々置いていく。焼いている間に紙皿を取り出し、そこにタレを垂らす。割り箸と紙皿が二つ、揃う。
「はい、枚方さんの」
「ねぇ、待ってなきゃ、ダメだよ」
私の前にスッと差し出したそれを塚本さんはゆっくりと引っ込めた。そして塚本さんは軽く溜息を漏らした。
「これは私なりの贖罪のつもりなんだけどな、無意味な怪我をさせたことに関しての」
「それって」
塚本さんは私の鼻先、絆創膏が貼られたところを人差し指で軽く二回、叩いた。
「あの男、私の差し金って言ったら信じる?」
ぞわっ。
鳥肌が立った。いくら冗談にしても質が悪すぎる。
「ついでに、松永さんのスマホが落ちているその近くに待機させてるって言ったら? 人気のないところで襲われたらどうかしら? 彼女たちはお世辞にも強いとも言えないし、もう少ししたら雨だって降るから助けに行くのも難しい」
食材を焼く音がとてもうるさく感じた。塚本さんの言葉が私に不安を与えてくる。
「ひとつの物語でも作れそうだね、それ。でもあんまりそういうのは良くないと、思う」
「そうだね、よくない。よくないことが確かに今から起こる」
「だ、だからそういうのが…………っ!」
「うっさいなぁ」
「っ」
「だから、本当のこと言ってるじゃない。大丈夫、少し前に確認してこの場所に監視カメラとか音を拾うものは一切なかったから、だから安心して本当のことを言っているの。これでも信じられない?」
塚本さんの態度ががらりと変わった。とても怖い。目つきがとても鋭く、声にも棘がある。
「ちなみに枚方さんがこの会話をボイスレコーダーとかで盗聴しているなら話は別だけれど、無理よね? だってみんなのスマホは私が預かっているから」
「え」
そう言って塚本さんが近くに置いてあったバッグから私たち四人分のスマホを取り出した。え、四人分?
「誰がスマホを無くしてもいいようにみんなの分を預かってたの。みんなって仲いいのね、友達といるときはほとんどスマホを触っていない。今の時代、誰だって肌身離さず持っているのに、食事中や授業中、話をするときだってほとんどの人が触っているのよ? スマホ」
焼けた食材を順々に取り皿に分けて、机に置いていく。座って食べ始める塚本さん。
「しかもここのキャンプ場は、まだWi-Fi設備も整っているわけじゃない。つまりいつも以上にスマホを操作しない。だからあとは誰かが気付くだけで舞台は整えられた。枚方さんも座ったら」
「どうして」
「ん?」
「どうしてみんなのスマホを取ったの? 悪戯? だとしてもダメだよ。みんなと連絡が取れなかったらいつ戻ってくるか……も……」
言葉に詰まった。嫌なイメージが頭にこびりつく。そんな私を見て、塚本さんは静かに笑った。
「だから取ったのよ。助けが呼べないように。万が一でも事故に見せかけられるように、ね」
「…………」
「気になるようなら見に行ってみたら? 間に合えばの話だけれど」
私は走り出した。
そう、これは塚本さんの話を信じたわけじゃない。私は塚本さんがスマホを取ったという事実のみを早く伝えるために動き出した。あとでみんなで説教しよう。質の悪い冗談を仄めかした塚本さんの意地悪さと、その悪戯をきちんと謝罪させるために。
そのためには事実をきちんとみんなに報せないといけない。見つからなかったら本当にいつまでも探す可能性が非常に高かったから。
一度、後ろを振り返ったけれど塚本さんはとくに気に留めることもなく焼肉を楽しんでいた。
どうして、どうして? 疑問だけが頭の中をぐるぐると駆け巡っている。
どうして、どうして?
どうしてあたしは今こんな目に遭っているの?
「もういやだっ! やめてください!! 許してください!!」
湊ちゃんから聞いたことのない叫び声が、ざわざわと風に揺れる葉が、あたしの心を荒立てる。
「面白くねぇ、面白くねぇな!!」
男は怒号を浴びせながら、湊ちゃんの顔を蹴り飛ばす。
「……っ、……」
体をひくつかせながらとうとう声も出せなくなった姿を見て、あたしは奥歯を噛み締めた。
何故、この男は意味もなくあたしたちを襲うのだろうか。見覚えがあるその男、睨みつけたことがあるのでよく覚えている。枚方さんに足を掛けた男。
どうしてこんな場所にいるのかなんて考える必要なんてものはない。明らかに目的はあたしたちだったからだ。問題はどうして狙うのか。
「あ、が!」
髪の毛を引っ張られ、押し倒される川名さんを助け出せる勇気が今のあたしにはなかった。
「ふぅ、ふぅ」
息を整えようとしても視界が白くなったり黒くなったりと脳がチカチカする。あたしもあの男に既に殴られ、恐怖心を植え付けられてしまっている。それをされて泣き叫んだ湊ちゃんは声が出なくなるくらいに殴られたり蹴られたりしてしまった。見せしめというやつだ。
この手の暴力に慣れている。一切の躊躇がなかった。
「暴れたら殺す」
「ふっ……、う……」
川名さんのズボンが男の手によって下ろされ、下着が露わになる。
力じゃ勝てない。助けを呼ぶにも連絡手段がない。近くに人がいる気配もなく、風は次第に強くなり空は曇天に覆われる。
恐い。嫌だ。逃げ出したい。
「松永さーん、川名さーん」
「え?」
遠くから声がした。
明らかに枚方さんの声だ。どうして、どうして追いかけてきたの?
「ダ……」
声を上げようとしてあたしは止まる。
今、声を上げて居場所を知らせてしまってはこの男の餌食になるだけじゃないのか、と。枚方さんはあたしらん中でも一番おとなしい、これ以上犠牲者を増やすわけにもいかない。
けど、放っておいたら遅かれ早かれ気付いてこちらに来てしまう。そしたら男に捕まってしまう。
お願い、来ないで。
「おかしいなぁ、はぁ、はぁ、あとはこのあたりくらいなんだけどな」
一本道だったし入れ違いなんてことはさすがに無いだろうけど……。ふと、さっき塚本さんが言っていたことが脳裏を掠める。もし、あの話が本当なら?
一か八か、私は私の勘違いだったという方向に賭けてみる。
「もう警察には連絡しました! あなたがそこでしていること! もう無駄なことは辞めてください!!」
精一杯の声で私は呼びかける。これで実は何にもなくて不思議に思った松永さんたちがひょっこり出てきて合流するのが私の理想だった。
「あのガキが、そういや残っていやがったな。めんどくせぇ」
ぼそりと吐き捨てた男が川名さんの口を手で押さえ、木陰に隠れる。
ゆっくりと確実に近寄ってくる枚方さん。まだあたしたちの姿は捉えられてはいない。不思議に思ったのは、枚方さんがあたしたちの身に何が起こったのか、まるで知っている風な口振りをしたことには唖然だった。けれどそんなことの理由をいちいち考えている暇はなく、一歩一歩確実に危険が彼女の身に迫っている。なんとかしなきゃ。
川名さんから離れ、枚方さんの死角にずっと居続ける男はある程度の距離まで詰めたら、恐らく枚方さんを捕らえるだろう。足場も悪い中で下手に逃げられたら自分の身も危うい。確実に捕まえられるところまで、限界まで息を潜めておくつもりだ。
せめて、せめて枚方さんだけでも。
「に……逃げて!!!」
「っ!」
「クソガキがっ!」
男はあたしを睨みつけたあと、枚方さんのもとへ一直線に走り出した。
ガサガサと音を立てているのでかなり目立っている。枚方さんもあいつの存在に気付いたはず。
「っ、あの人!」
一目散に近づいてくる人影があった。私に足を引っ掛けてきた男の人だった。
それって、つまり塚本さんが言っていたことが本当だったってこと?
もしそうだとしたら、どうして?
「危ない!!」
視界には映っていない松永さんの声で私は我に返った。
けれど気付いた時にはもう遅かった。
「きゃっ」
両肩を掴まれ地面に押し倒された。
「はは、お前か。運が悪いな、こんなところまでわざわざよぉ」
「----」
私の両腕を上に上げるように男の片手で抑え込まれ、もう一方の手で口を押さえられ身動きも取れず、声が出せない。
恐怖のせいか開くことができない口の中、歯がカチカチと音を立ててしまう。その恐怖が男に伝わったのか、にたりと嗤った。
力の差が歴然、大きい体、暴力行為、この男が私と……私たちと同じ人間だとは到底思えなかった。
そしてこの男の口から吐かれる独特な臭い。
私がもっとも忌み嫌う、お酒。酒に溺れた父、父が酒を飲むたびに理不尽な暴力を受ける母。辛かった日々。父が出張で帰ってこないと知った日は、安心して夜も眠れた。
けど、そんな生活に我慢できなかったのは母よりも私なのだと知った。知ってしまったから、目に焼き付けたくもない行為を、動画として記録に残し否、証拠を残し終わらせた。
父はもう私と母には近付けない。そうなったから。私がそうさせたから。
やっと、やっと解放されたと思ったのに。
いい加減にしてよ。
「いっっっっ!」
私は男の、土に汚れたその手を思いっきり噛んだ。軽いなんてものじゃない、本気で。本気で肉を食いちぎるつもりで。
男はたまらず仰け反り飛び上がる。
「「あああああああ!!」」
松永さんと川名さんが脇から勢いよく男を押した。私から引きはがすために。
「がぁっ!?」
急な斜面でバランスを崩した男は後方へ倒れる。いや、転がっていく。
そして、そびえたつ木に激しく頭を打ち付けた。
「………へ」
男を押した勢いで地面に伏せた川名さんがか細い声を上げる。松永さんも倒れた状態で男のほうを向き、たまらず目を見開く。
静寂に包まれた中、ぽつぽつと雨が降り始めた。
上体を起こした私は倒れた男のほうを見る。
口の中に入った泥のようなものを吐き出す。
それは鉄の味がした。
土。
地。
ああ、血か。




