26 嫉妬の魔女
「泥棒猫もいいところよね。せっかくのご馳走に余計なスパイスを放られた気分」
高いヒールで女はアタシの横っ腹をゆっくり踏みつける。
ジワジワと痛みが増していきアタシの顔が苦痛に歪む。
「これでも頑張って抑えている方なの。私って顔に出ないけど、充分に腹が立っているの」
「ぐっ! うっ」
圧迫されていき、呼吸がしづらい。抵抗しようにも満足に動けなくては余計に痛みを伴うだけ。それでも我慢できずに体をよじる。
「さっきの選択肢。該当するなら恨み、ね。訂正しておきましょう、私はあなたを殺したい」
横っ腹の痛みが引いていく。
女が足を退けた、そう思った矢先に今度はその足でお腹を蹴られる。
「ぎっ、げほっ! ごほっ!」
肺の空気をすべて絞り出されるように、アタシは堪らず咳き込んだ。
「叫ばないのね、なるほど。私の彼が図らずしもあなたという人間性を引き立たせたってわけ」
嫌に暴力的な女。
見た目とは裏腹に汚い真似を、その内に秘めていた感情を露わにした。その姿を見て、アタシはどこかで感じた高圧的な視線を思い出した。
「会うのは二回目なのに、随分なご挨拶ね」
負け惜しみにもならないけど、アタシはコイツが嫌い。それだけは知っている。
「へぇ、分かっちゃったんだ?」
髪型も、見た目の雰囲気も全然違う。声も恐らく意識して変えているのか、あの時変えていたのか。
けどその眼をアタシは知っている。
「偶然とは思えないけど、もしかして昨日からアタシたちのこと尾けてたわけ?」
昨日という単語だけで、もう正解に辿り着いたも同然だ。
正体は巡瑠が助けたとか言う女。美人ですごく嫉妬したけど、こんな一面を持っているのなら今は全然羨ましいなんて思わない。むしろこの女がアタシに嫉妬していたのかと思うと心がスカッとする。
「アイツに助けてもらったからって、気があると思われてる勘違い女? やだやだ痛すぎて見てらんないわ」
さっき横っ腹を踏まれたのと蹴られたことへの仕返しで悪態をついてやった。悔しいけど、こんな負け惜しみみたいなことを言うことくらいしか、今のアタシにはできそうにない。
「立川巡瑠。海星高校の生徒。16歳、8月10日生まれで血液型はA型」
女は辺りを歩き回りながら淡々と、プロフィールを読み上げるかのように言ってのけた。
心臓がドクンと跳ね上がった。
「アイツから聞いたわけ?」
いや、助けてもらってそこまでの個人情報はどんなコミュニケーション能力を持っていたとしても相手が軽んじない限り、そこまでの情報は入手できない。
いくらこの女が美人だからって巡瑠がそこまで話す? いやでもそこはあいつを信じたい。
「聞いたわよ、三年ほど前に」
「三年?」
中学生の時?
顔見知りってわけ?
「んーどうかしらね。一気に話しても会話がもたないでしょ?」
女はアタシのスマホを取り上げアタシに時間を示してきた。
3月26日午後2時31分。
「え」
美帆たちと買い物に来てから、まだ三時間しか経っていなかった。
「時間はたっぷりあるんだから」
***
最初の何時間かは絶望していた。
だって今どきの学生は連絡さえ着いてしまえばほとんどの家庭が気に留めないからだ。それこそ反抗期を迎えた学生だったらメッセージに返信さえくれば何日かは放置できてしまうのだ。無断外泊なんて物珍しくもない。たとえ厳しい家庭があったとしても警察に相談するかしないかにも影響する。体裁や面子にこだわる家庭は警察に連絡することをためらう。そうじゃない家庭にしたってそれこそ警察がまともに取り合ってくれるかという点も重要になる。
でもそれは連絡すら途絶えた時にほぼ適応される。だからアタシは絶望している。
指紋認証でスマホのロックを解除され、ありとあらゆるSignalでの会話、やりとりを覗かれる。そしてアタシという人間のパターンを読み取られる。文章の構成やどんな絵文字をどんなパターンで使うのか。
この女の手口はスマートだった。
三時間に一度というペースでスマホの電源を起動させその時に来ていたメッセージに返信して、不必要な時は基本的に電源を落としている。位置情報の把握を恐れているのだろう。
「そろそろお腹空かない?」
「どうせまたおんなじパンでしょ」
アタシを殺すという選択肢は目的の中にどうやら含まれてはいないらしく、水とパンだけなら不定期に与えてくる。
けど余計なものは与えない。
全く何も与えないことよりも、あえて味気のない食物を与えることで味覚的欲求を煽っているのだと、あの女は言っていた。
「それでも昔の人はそんなプレーンなパンでさえ、大事にしていたのよ? いつからか味という名の美を求めすぎて大切なものを見ようとしなくなった。見た目ばかり彩って中身が欠けてちゃ、意味ないでしょ?」
仕方なくアタシは味気のない食感のみのパンを一口齧る。
「アタシがあいつと別れることで、あんたはそのあとどうしたいわけ? 同じようにこうやって縛り付けるわけ?」
続いてペットボトルの水を飲み、持っていかれた水分を補充する。
幸いにもトイレにだけは行かせてくれる。そこは同じ女だからこその酌量かもしれない、けど他の要求は一切呑んではくれない。
ただひとつ怖かったのは、拷問のような処置をとらないということ。アタシは何も要求を呑んでいないのに強硬手段に出ようとしないコイツの真意がわからない。
そもそも巡瑠と別れろという要求が意味わからない。
「もしそうなら?」
「アタシは別れない。たとえ死んでも」
アタシは言い切った。
こいつがどうしてアタシとあいつを別れさせたがっているのか、自分なりに考えてみる。一番自然なのはこの女が巡瑠に気があるということ。昨日今日でアタシに接触してきたのは偶然なのか、はたまた必然なのか、例えば後ろ盾が大きい相手なら素性を調べられたのかもしれない。そうじゃなければ本格的なストーカー。何をやっていようがこの女がストーカーしていることには変わりないけれど、それにしたって用意が周到すぎる。
「へぇ」
感嘆と声を漏らした女はアタシに近づいて屈む。
「それだけ強気でいられるのはいいことよ。普通なら従順になるもの、恐怖のあまり。だけどあなたは確信しているんでしょ? 自分は殺されない、殺しが目的じゃないって」
確実な保証はない。
意図的ではあるけれど強要はしていない。この女は何かをゆっくりと待っている感じがする。けど、それはこっちも同じ。さっき語った通り、この女は監禁のやり口がいささかずさんな気がする。鎖で縛っていることと連絡手段を絶たれたことを除けばその他はわりとルーズだ。
例えばトイレに連れて行ったとき、下の階に降りる階段を安易に見つけられた。廊下に出ても外窓が閉ざされていてどこなのかは視覚情報として入ってはこなかったけど、どこかのビルの少なくとも一階ではない場所ということはわかった。
そして廊下に出た時が、逃げ出せるタイミングだということも同時に悟った。
彼女はとくに見張りをしないのだ。トイレで用を足した後、手だけは縛られているので手を洗うことが困難なとき、呼びに行くと廊下の離れで彼女は待っていた。正確な位置で言えばトイレと階段はほとんど隣り合わせ、その奥の長いすに彼女は腰を下ろしていた。
その時に、アタシは思った。あれ、これって逃げ出せるんじゃない?
けど手に縛られた鎖の音で彼女はこちらに気付いて歩み寄ってくる。
そうだ、チャンスが訪れて且つ鎖の音を立てないように意識すれば、もしかしたら。
「だってそうじゃなきゃアタシはとっくに殺されてたはず。つまりそうできない理由があるんでしょ」
だったらアタシは逃げ出すチャンスを待つのみ。
「当たらずも遠からずね。説得するより殺すほうがメンタル的にも時間的にも楽なの、けどそのあと処理が大変なのよ。愉快犯に見せかけでもしなきゃ周辺から炙られるから。あなたを殺して巡瑠が私に心を開けばいいけどきっと無理、私一度失敗しちゃってるのよね」
「は?」
この女はまたもわけのわからないことを言う。
「あなたはどうやって巡瑠の心を開いたの? 普通なら決して靡かないハズなのに。あなたにはああやって楽しそうに」
「はっ、別に大したことしてないし。あんたのアプローチが弱かっただけじゃない?」
本当に大したことなどしていない。条件付きな口上だったし、あれを告白と呼ぶには不格好すぎる。けど、この女のように傍から見ている人にとって、あいつは楽しそうと捉えられるんだ。それは素直にうれしく感じた。
「そうね、弱かった。父親を殺すくらいじゃ、足りなかったみたい」
「は? 父親? 誰の?」
訝しんだアタシに対してこの女は不気味なくらい笑顔だった。
「誰って、知ってるでしょ?」
アタシは心臓が跳ねるように熱くなる。
「巡瑠のお父様♡」
ゾクッ。
「う、うそ」
「嘘ならどれだけよかったか、事故で死んだとか何とか聞かされてはいるんでしょ? あれまったくの嘘」
それまで強気でいられたはずのアタシは、身を竦めるように女から距離をとる。しまった。この女は誘拐犯どころじゃない、殺人犯だったんだ。
いや待って、落ち着けアタシ。まだ巡瑠のお父さんを殺したって話が本当なのかどうか分かんないじゃない。
口からの出まかせ。アタシを怯えさせるための作戦だったら?
「そうね。別に盗聴されているわけでもないし、信じていないようなら今からする話はただの昔話」
「私と巡瑠は小学6年の夏休みに会ってるの。あの頃は楽しかった。私の一生癒えることない傷を巡瑠は癒してくれた。本当にああいう男が世の中に存在するのねって思った。そして私は堪らなく巡瑠が欲しくなったの。心の拠り所が私になって、私だけを見て、私だけを愛してくれればなって。だから一旦彼の心に隙間を作ろうとした。別に家族のうち誰でも良かったのよ? お母様? 妹の沙希ちゃん? ほんと、誰でも良かった。けどね、あの頃の私も幼かったと思う。故に過ち。一番の頼りである父親を殺したところで巡瑠の心に隙間なんてできなかった。むしろ孤独という闇に覆われて、誰にも頼らない道を選んだの。私に頼ることを自動的に拒んだのよ」
坦々と、語る。
感想文のように語る。
まるで童話のように、他人の話のように語っている。
アタシは、今のすべてが事実ならという最悪な展開を予想してしまっていた。
もちろん、巡瑠から中学時代の話を聞くなんてことはしていない。それはアイツの中でもタブーだと思ったからだ。
「その話が、もし本当だったとしたらあんたは巡瑠にとって親の仇も同然でしょ。そんなんでアイツに受け入れられるわけがない」
犯罪者であり、ましてや家族を殺した相手に恨みを抱かないほうがどうかしてる。
「そうね。けど他の誰かに心を開く彼なんて私は見たくない。だから私のモノになるか、ならなかったら死ぬまで傍で見守ろうと思うの」
「そんな横暴、許されるはずがない」
傍で見守るというのが穏やかな中身じゃないことはアタシが今置かれている状況からみても明らかだ。こいつを巡瑠に引き合わせるのは非常にまずい。
「私もそう思ってた、正しくいられるって。けど神様なんていないの。いつだって人間が私の運命を滅茶苦茶にしてきた。でもそのことを証明できなきゃ、それは神様の悪戯で済まされるのよ」
手元のスマホに目をやりスワイプする。何かのメッセージを送っている。アタシのじゃなくて自分のを操作している。
しばらくすると廊下からいくつもの足音が聞こえてきた。
コンコン、と2回ノック。
「どうぞぉ」
入ってきたのは見知らぬ男たち。
年齢層もバラバラで誰も面識がない。
「本当にこんなところでやるんだな」「すげぇ、まじか! 興奮してきた!」
アタシを見る男たちの目が、違った。
最初に抱いた感情はとても不快なものだということ。それに男たちの臭いが部屋に籠り、なんともいえない異臭に包まれている。
そんな中で男たちは、徐に服を脱ぎ始めた。
「ひっ」
まともな叫び声すら、今のアタシには上げられない。心の奥底から震えが止まらない。
これから何が始まろうとしているのか、容易に想像できたから。
「だからこれも神様の悪戯」
女はとても冷静な口調で言い放った。
罪悪感も何一つも感じえないその瞳の奥は、どこかアイツに似ている気がした。
「あ、頭おかしいんじゃないの!?」
「おかしいのは私を作り出した汚い大人たち。あなたも同じ目に遭えば価値観だって変わるわよ」
同じ目。これが?
アタシの洋服が誰とも知らない男たちによって剥かれていく。
「あ、生はダメよ。いろいろと後処理が面倒だから」
「い、いやっ。やめて!!」
そしてその日、アタシは人としての尊厳を失う羽目になったのだ。
誰か。
誰か助けて。
巡瑠、ごめん。
本当にごめんなさい。
誰か。
誰でもいい。
アタシを。
殺して。




