22 愚者と賢者はともに害がない。 半端な愚者と半端な賢者が、いちばん危険なのである
私は、なんとなくだけど知っているよ。
君たちが今、とても苦しんでいること。その事を楽観視している、そのフリをしているのが私には見るに堪えない光景だった。
それはどうしてだい?
誰を守ろうとしているんだい?
何と戦っているんだい?
立川巡瑠。
織田明羽。
君たちはとてもよく似ている。
本当の自分を誤魔化そうとするところ。心配性なところ。本当に大切だと思う相手には空回りばかりして。
そんな君たちが愛おしく感じるのは私自身で言うところの興味本位だろうか。
この気持ちを恋と表現すると色々と誤解を招きそうだからここは違うと否定しておこうかな。
1年生の頃の明羽は本当に楽しそうだった。好きな人が出来たことのない君を惚れさせた男がどんなものなのか、こっそり観察していたが成程確かに顔はいい。だが肝心の中身というのはどうも第三者視点からは判断できなかった。けど別に二人の仲を邪魔するなんて無粋な真似も私らしくはないと思って避けていたんだけどね、まさか別れたと聞くとは思わなかった。
それを知った周りの反応は理由なんだとかどっちが悪いだとかそんな話ばかりで盛り上がっていたのをよく覚えているよ。付き合いたての頃は興味のなかった生徒も別れ話となると異様にテンションを上げて上からの物言いが凄まじいったらない。
だけど私は既に別の観点を探っていた。
まさかそれが牙を向くなんて思いもよらなかったけどね。
「矢武くん捕まったらしいよー?」
学校はこの話題で持ち切りだった。
私は教室全体の会話を目で追いながら、時折前の方を見つめる。
無論、空席である。
昨日から学校を休んでいる立川巡瑠、その人の席。今朝のホームルームで聞かされた話はすんなりと受け入れられた。
何故なら私は事件の前の夜、彼に会っているから。
***
月明かりと少ない街灯で照らされた公園に向かって走り出す彼の姿を見た私は不審に思って後をつけた。まさかこんな夜中に出掛ける用事でもあったのだろうか、なんて考えるより先に私は彼を追っていた。公園内に入ったときにまさか今から遊ぶんじゃないだろうね、と肝を冷やした。
だけど私の思惑とは大きく外れて君は公園の外囲いになっている茂みへ入った。
何をしているのかと近付いたところで、夢中になってしまった。
今振り返られると確実に見られてしまう。そう悟った時には既に遅かったみたい。
「納富」
「こんばんは。あまりいい気分じゃ無さそうだね」
明らかに様子がおかしかった。
目が怖い。いつも私に向けてくる不信な表情とはまた違う。余裕のない彼がそこに居た。
「俺の周りを尾け回してるみたいだな」
その言葉を聞いて胸が熱くなった。
そっか、繰り返しているんだ。
終わってないんだ。
「その前は矢武だったな?」
その表情は怒りに、憎悪に満ちていたように暗かったな。でも私にじゃない。それだけは分かる。
彼に恨まれることだけは、私はしないと思うから。もし未来がそうだとして、今の私は間違いなく彼の味方でいる自信がある。
矢武に、殺されたんだね。
すぐに察することが私にはできる。伊達に観察してないからね。
答えることは簡単だけど、それが彼にどんな影響を及ぼすのかイメージできなかった。
めぎゅるんのズボン、尻ポケットに入った物を見てしまったからには他人事に出来ない私が今ここにいる。
「そうだよ」
めぎゅるんが掘り起こしているその場所が何なのか、何があるのか、私には分かっていた。
だけどその中身はきっと未完成で矢武が何をしようとしているのかまでは知らない。だからきっと、彼の望む答えを私は持ち合わせていない。
「知っているんじゃないのか? 矢武の家」
めぎゅるんが近付いてくる、その一歩一歩が私にはとても永い時間のように感じた。
知っているよ。教えてあげてもいい。
でも教えたら、きっと私の望む終わりは訪れない。
君にいくら時間は戻せても、どうしても戻れない道がそこにはきっとある。
どうか、踏みとどまって。
「教えろ」
心の叫びも虚しく、彼はまた一歩近付いてくる。
逃げなきゃ。そう思って後ろに下がっていくけど、一向に走り出せない。
怯えてしまっている、私が?
「めぎゅるん、いったいどうしたの? なんか怖いよ」
膝が笑っている。私自身も思わず笑ってしまいそうになる。私は何に怯えているんだい?
高圧的なめぎゅるんにかい? いや違う、それだけはない。
彼の持つ刃物で脅されでもしたら? それも有り得ない。彼はそんな事しない。
じゃあ何か?
彼のことを救えていない私に、私は私に怯えているのだ。
めぎゅるんがこうなったのは恐らく今からおよそ24時間後、その私が何もなし得ていないという証が今の彼の姿だと気付いた。
私には救えないの?
そう考えると私は自分の不甲斐なさに泣けてきそうになる。
ここで、もし矢武の家を教えれば彼は私に感謝してそこに向かうだろう。そして矢武を殺してしまえるんだろうね。
その目は、覚悟をしちゃってるんだもん。そこに私の入る隙は無いんだもんね。
だけど、その後に様子は一変した。
「ぐっ」
めぎゅるんは唐突に苦しむような声を漏らして頭を抱えながらその場に膝を付いた。そして私の顔を見た瞬間、目が真っ赤に充血してそれと同時に涙を流していた。
「っ」
私は思わず息を飲んだ。確かにさっきまで血走った目をしていためぎゅるんだけど、ほんの一瞬で病的なまでに真っ赤に染まることが果たして起こり得るのだろうか?
そして、彼の涙にはどんな意味があるのだろうか。
「の、納富?」
彼は、まるでなぜ今ここに私がいるのかと言わんばかりに驚愕に慄いていた。
そして徐に自身の左脇腹あたりを触って何度も何度も深呼吸をしたのだ。
私が驚いたのは、彼にさっきまでの威圧感がまるで演技か嘘だったかのように雰囲気がガラリと変わっていた。
「めぎゅるん?」
「…………」
立ち上がった彼は私と視線を合わせようとはしない。何かを必死に考えているようだ。
「いや、何でもないんだ。忘れてくれ」
真っ赤なその瞳は少しずつ血の気が引いていきだいぶマシにはなったものの、彼の雰囲気は依然として異彩を放っていた。
切羽詰まっていた人間が何の拍子もなく突然落ち着くものか。私は核心に迫る一言を持っている。
「……戻ったんだね」
めぎゅるんの瞳孔が開いた。そしてゆっくりと瞼を閉じて静かに頷いた。
「もうイトチンに嘘つくのも疲れてきていたところなんだ、正直に――――」
めぎゅるんは全身の力が抜けたように前方に倒れ込んだ。
「あ」
咄嗟のことで私が支えた時には、既に膝は土まみれになってしまっていた。だけど私には支えきることが出来ず、結局は共倒れになってしまった。
「いっだぁ」
そのまま倒れるかと思いきや後ろにジャングルジムがあったせいで頭を軽く打ってしまう。涙目必須だ。
「ちょっと、めぎゅるん!」
痛さを堪えるあまり、少し怒気の篭った口調になったけど彼の顔を覗き込んだことで固唾を呑む羽目になった。
ゆっくりと目を開けた彼の目は、またしても真っ赤に染まっていた。真っ赤というよりも、真紅に近いのかもしれない。もはや人に顕れる症状のそれを越えている。
流れた涙が赤くなく、むしろ透明というのに納得のいかないほどその目は異常だった。
「あ、れ。納富?」
背筋が凍った。
何も知らない人が見れば、めぎゅるんの状態は異常。
「ぁがっ」
そしてまた突然声を上げたかと思うと真っ赤な目から涙を流す。
ドライアイとも言い張れないほど違和感のある症状。
そしてすぐに目の赤さはたちどころに引いていく。
「の、どみ……」
私を見つめる彼の眼差しは悲しみの微睡みそのものだった。
気付けば私は彼を抱き締めていた。
自分でもなんでそんなことしたのか、ただの慈悲なのか、それとも愛おしくなってしまったのか。そんなことはどうだっていい、ただ見てられなかったことだけは確かなんだ。
私がこうすることで収まるような問題じゃないことは分かってる。けれど恐怖の真っ只中にいるのは私だけじゃない。めぎゅるんもいる、というかむしろ彼の方が辛い目に遭っている。
抱き締める理由なんて、もうただそれだけでよかったんだ。
「あがっあぁぁぁ!」
白目を剥いて気を失ってすぐに意識が戻る。ショック状態に近い。
そして彼から漏れる声も息を吐く音も聞こえなくなった時、公園内は静寂に包まれた。
「治まった?」
めぎゅるんの顔は覗きこまず、だけど私は彼の体から抜けた重みで意識を取り戻したことはわかった。
「なぁ、どうしてこんな事してくれるんだ?」
抱き留められたまま、私も彼もお互いどちらかが離れることはしない。
「ふふ、さぁ? どうしてでしょ」
「敵わないな」
ゆっくりと起き上がっためぎゅるんは私に手を差し伸べ、それに応え立ち上がる。
「矢武に殺された」
背中とお尻についた砂を払っていた私は一瞬固まる。やっぱり、と納得がいったのと同時に悪い予感が当たったことへの罪悪感に苛まれそうになる。
「それは何度も?」
分かっていたけど、それを敢えて訊くことが私の今の役目だと思った。憶測でしかない私の情報が今なら役に立てるかもしれない。
「24時間後に…………9回くらい」
私が想像していた回数よりも多い。めぎゅるんは気付いているのか知らないけれど、死の淵から戻ってくる…………、いやこの表現が正しいのかはわからないけれどとにかく彼が戻ってきた時、目が赤く充血する。そして同時に涙も流れ落ちる。死に方によってかは分からないけれど気を失ったり飛び起きたり、反応が様々なのは尋ねづらい。
「やっぱり今の矢武だと、厳しいの?」
私は少し前と今の矢武が違っていることを知っている。荒々しかった彼の心は傍から見れば治まったのか、別の事を捌け口にしているのかとみんなは思っている。
部活も退部届けを出して、事件後のギクシャク感に耐えられなかったのか誰とも話さなくなりそして孤独に堕ちた。
けど、単純に言えばただ洗練されていただけ。厳密に言うと孤独になったのではなく、されたのだと後に私は気付いた。
暗い井戸の底。ジメジメとした壁を登るには取っ掛りもなく纏ってくる水だか泥だか分からない感触に埋もれる矢武。彼にロープを降ろす救いの手がそこにあったら誰だってそれを掴み登る。そして救いの手を差し伸べた誰かを神にも近い恩人として特別視する。そこに井戸を掘り落とした張本人だとは決して気付かれない。たとえ気付かれても落ちたのは自分だと言い聞かせてしまうほどに感謝咽びく。
そして、その心の隙を信仰心や忠義に変えるのも容易い。
「あいつは異常だよ、警察が来ようとも止まらねぇんだ」
恐らく何度か人生をやり直しているめぎゅるんは警察を動かすまでに至ることが出来ている。状況を伝えづらい中で犯行現場を抑えさせる場面は作れたということなのかな?
「ってことは家にまでは駆けつけてはくれたんでしょ? だったら……あ」
あとは何が問題なのか。それは警察の武装力、または警戒心の足りなさ。
「殺人罪だろうと公務執行妨害罪を科せられようと矢武は止まらない。それだけの執念でアイツは動いている」
サイレンを鳴らしたパトカーや町中で巡査を見かけるとたとえ法に触れるようなやましい事が何一つ無くても少しは萎縮してしまう。それは先の事を予想、または警戒する人の本能というもの。もしかしたら、とか近くでなにかあったのかな? とか普通の人なら考える。
通報されたという状況ならば警棒や拳銃を所持していることは明白なのに、それなのに矢武は止まらなかった。
各国に比べてしまえば日本というのは重犯罪による被害報告が少ない。良く言えば治安がいいことになるけれど、悪く言ってしまえばいざと言う時の経験則が未熟ということ。不測の事態に反応が遅れる。即ち油断。
それならば駆けつける警察に黄色信号を送ればいいだけかもしれない、けど通報の際に過剰申告してみたとしよう。
例えば不審者の数。集団なら万全を期すことはすべからく。だけどいざ駆けつけてみれば敵は1人、現場を訪れてみると嘘の通報をされたのではないかと疑念を抱かれる。矢武は捕まったとしてもその後の説明を問われ、穏便には済まないかも。
もしくは敵の武力の強さを盛る。それも電話口だと虚偽の疑いをかけられるケースもある。
世の中イタ電をする愉快犯がいるのが憎たらしく思えてしまう。
でも私はだからこそ考える。
「矢武が来る前に不審者を見たとか伝えられないの? 道でなら職質とかされて最悪犯行を食い止めるとか」
私の提言にもめぎゅるんは静かに首を横に振った。
「その手はもう納富がやってくれたんだ。結果は察してくれ」
今も日々を繰り返している、効果の無さは一目瞭然ってわけね。
「怒られるの覚悟して嘘の通報した時に警官の人数増やしても結局駄目だった。夜中だし、人手を割けなかったのかもだけど矢武は止まらなかった。警官を刺すとは思わなかったけどな、拳銃奪ってそこからは本当に酷かった」
めぎゅるんの乾いた笑い声を漏らすその瞳に光が灯っていなかった。
私には想像もつかないけど、きっとおそろしく悲惨だったのだろう。
「せめて矢武の動きを止められたらいいんだけど……。バリケードみたいなの敷き詰めて籠城ってわけにもいかないし」
矢武はめぎゅるんとその家族には近付けない。けどそれなら当初の予定通りに敷地内に火を放つに違いない。火を放たれる前に消防を呼べばたとえ放火にあっても間に合うけど、どちらにせよ無事では済まない。それ以前の問題として駆けつける前に矢武に逃げられればより厄介かもしれない。
素直に証拠も残してくれるか、それも教祖様の教えで矢武が1番気を付ける部分だったら希望も薄い。だったら仕掛けてくるタイミングが分かるところで一気に叩く気なんだろう。彼はきっとそうする。
危ないことはもう平気でやっちゃうんだろうね。
「その点に関してはもう大丈夫だ。ある程度のヒントは得られた」
何かを確信した彼の目は陰りを潜めているままだ。とても状況を打破できる手立てが浮かんだようには見えない。
「お願いだから危ない真似だけはしないで」
私から言えることは、もうこれぐらいしかない。それも何の効果のない言葉。
「今日の夜中、正しくは24時間後だけど危ないから近寄るなよ」
目を細めることで威圧してくるめぎゅるんは私の心の中を透かしているかのようだった。それとも、彼が接してきた別の私が心情を吐露したのか。
「お前にも死んで欲しくないからな」
私は自分の死を当然だけど知らない。
その時の私は何を思って命を散らしていったのか、彼は知っているのだろうか。
彼の理屈に則るなら、話をしている段階でまだ死のループをしていないところをみると進む時の間だけは生き長らえていることになるのだろうか。それとももう死んで別世界線の私とまた似たような会話を繰り返しているのかもしれない。
立ち去る彼の背中が見えなくなると、私は満天の空を見上げる。
自分の知らない世界を知れる立川巡瑠という人物が羨ましい。些細な変化が幾つもの束のような世界を生み出していて、私たちはほんのひと握り。
それを知ったら一生気が晴れない世界なんだと悟ってしまいそうになる。
「ちっぽけな世界」
きっとそうやって人生を諦める人たちも多かっただろう。
でもね神様。
やっと私のやるべき事を見つけた気がするんだよ。
***
次の日。
おそらく事件が起こる前日。
めぎゅるんは学校を休んだ。
夜中の疲れが抜けなかったのか、ただの寝坊か、それとも何か狙いがあってのことなのか。Signalでメッセージを送っても帰ってはこない。まさかブロックされてるのでは!?
「納富さん」
スマホを両手にワナワナと震えているとふと、私の席の前に誰かが立っていた。
「おや珍しい! マコっちゃん」
心の底から驚いたあまり、普段より少しハイトーンな声で応えてしまった。
「あんたまでその名を……。いや、目を瞑ろう。あんたに聞きたいことがあって」
「めぎゅるんのことかな?」
間髪入れずに返してみたけど、やはり当たっていたようだね。原町誠ことマコっちゃんは息を吐きながら首の後ろを掻く。
「やっぱ何か知ってるんだな」
「それをわざわざ尋ねる君の方こそ、思い当たる節があったりする?」
私の挑発的な物腰が癪だったのか、無言のまま私の方を見下ろした。
「私の方もメッセージが返ってこないから、マコっちゃんの求む答えは残念だけど持ち合わせていないよ」
彼が私の元に訪れたのも、Signalにめぎゅるんからの応答が無いからなのだろう。マコっちゃんには悪いけどめぎゅるんが彼らに話していないことを私が漏らすわけにはいかない。ただでさえ胡散臭がられてるんだから。
でも、私なんかより全然親しいはずの彼らにめぎゅるんが相談を持ちかけなかったのも今のやりとりで頷ける。
彼もまた友人のために動くことを惜しまない人柄なのだろう。めぎゅるんといる時はふざけあってるクセに、なかなかどうして食えない男だねぇ。
「なるほど、あいつもあいつで話そうとはしないし手強いもんだ」
やっぱり男の子同士なんだって思えちゃうな。なんの気兼ねもなく話せるし、幼馴染みってこともあるんだろうけど言わなくても友人の変化に気付ける部分が図らずしもあるんだね。
それにもう1人の彼、確か戸田くんだっけ? 彼も……。
「あれ、戸田くんは一緒じゃないの?」
「あー」
マコっちゃんは教室全体を見渡しながら肩を竦めた。
「休み時間になった途端やたら嬉しそうにどこか行ったんだけど、まだ戻ってこないな」
「ふぅん」
嫌な予感、は正直ある。でもそれと同時に友情というものを信じ抜こうとする期待感にも溢れる。
人は簡単には変われない。
だけど、変わってしまったら戻るのはより難しい。
「戸田くんのこと、よく見てあげなよ」
「はぁ?」
マコっちゃんは素っ頓狂な声を上げる。
私は予定の時刻が近付いていたので椅子から立ち上がり彼の肩に手を置く。
「素直な感じだからさ、彼。誰よりも染まりやすいかもしれない、だから気を付けなよ」
忠告くらいなら、しても大丈夫かな。
それで私の今後の状況が変化しようともめぎゅるんがきっと私を助けてくれる。私はそう信じてる。
「くそっ、今年度入ってからおかしな事ばかり起きやがる。どいつもこいつも!」
握り拳に込められた力は、きっとどこにもぶつけようがない怒りを振りかざしたくて仕方ないのだろう。悲しいかな、その気持ち分かるよ。
教室を出たアタシが目指す場所は特別教師棟の女子トイレ。一般教室棟から遠く普段なら利用者があまりいない女子トイレにわざわざ足を運ぶ理由がアタシにはある。
いや、正確に言うと私には無いけどどうやら向こうがあるらしい。
出向いた先、なぜこの人物が人目を憚ろうとしてまでアタシに会いたがっているのか。全くわかんない、けど珍しく真面目なのは文面でも分かった。
「で、こんなくっさい場所になんの用? いと」
女子トイレの構造として手前に横長の鏡面、洗面台が2つに奥は個室のトイレ4つ。その先の窓を開け、縁に肘を置いて待つ納富いとは、なんかこう様になっていた。いじめっ子のようだ。
「なんだとはご挨拶だね、明羽……、っていうセリフを1度言ってみたかったんだよね〜」
「帰る」
アホくさ。
振り返って早々に立ち去ろうとしたアタシの腰にいとは必死で抱きつく。
「あーごめんごめん! もう懐かしさに現抜かさないから!」
鯖折り状態なアタシは腰に手を回しガッチリとロックしてある腕を力任せに外し押し退ける。
「はぁ……いいから……はぁ、で? 何?」
ただでさえ空気の通りが悪いこんな場所で抱きつかれ、さらに余計な力まで使ったせいか、ひどく暑い。用件を早く終わらせて教室に戻りたい気持ちが勝った。
「あー、そうそう。いい加減に話してくれないかな? そうじゃないとめぎゅるん死んじゃうよ?」
いとの含みを込めた言い方に若干腹が立ったものの、聞き捨てならない単語が直後脳裏に焼き付いた。
「訳のわかんないこと言わないでくれる? アンタらが最近仲良いのは遠目でも分かってたけど冗談にしてもタチ悪すぎない?」
苛立ちが収まらない。それと同時に心の奥に引っかかる靄のような気持ち。焦り、不安。
「そうだろうね。それは私も望んでいない、だけどこの状況を作り出したのも間違いなくあの人なんだよ」
心臓の音が跳ね上がる。
暑さとは別の汗が頬を伝う。感触。気持ち悪い。
「だから話してくれないかな? 君が人質かつ犠牲にならざるを得なかった春休み。残念だけど、私はその元凶を知っているよ――――」
「いやぁ、まさかこんなところに呼び出されるなんて人生初っていうか、夢にまで見たっていうか、でも立川じゃなくて本当に俺なんかでいいの?」
「えぇ、手紙にも書いたあった通り。私は貴方に来てもらいたかったの。戸田くん」
同時刻。
屋上へ続く階段の途中。
「「塚本さん」」




