13 誰もが持つ恋心
目を閉じる時、そこに目を開ける俺はいるのか。
寝るということは脳を休めること、それはすべての機能が停止するわけじゃない。
その間に何があるのか分からないことが怖いだなんてこれまで一度も考えたりしなかったし、これからもそう思うことはないと思った。
いつもはやらない戸締まり確認も入念にやったしカーテンを閉める前に外を見て不審な影がないかもチェックした。
用心深い俺に家族は白い目を向けていたが状況を説明するわけにもいかずそこは放置。
仕舞いには俺の方が放置されそうだけどその時は泣き喚くだけ。
「朝だ」
俺の懸念を失態させるべく、気持ちのいいアラーム音で覚醒。
「だっる」
余計な気を回したなと、重い体が語っていた。
よっこいせ。
開け放したカーテンから漏れる朝日が部屋に舞うホコリを反射させる。たかだか数日掃除しなかっただけでこの有り様かよ。
「さてと」
乗り越えたか?
人は死の運命から抗えないとばかり思っていたが、物語や宗教上だけの話か? あるいはそういった虚実皮膜な境界線なのだろうか。
何にせよここからは未知の領域だ。
本来はそう思うことさえ実に可笑しいことなのに、笑えない。
常にわからないから未来なのに、それさえも昨日時点では確約されていたのだ。
これらを「リアルな少し長い夢」で処理できるならしてしまいたいが、よりにもよって不安の種を植え付けやがった。
矢武の停学処分はいったいいつまでだ? いや待てよ。確かマコっちゃんたちが見舞いに来た時に一週間だとか言ってなかったか?
ということは昨日から謹慎は解除されてるはずなんだけど。先延ばしになったとか?
「気にしてても仕方ないか」
机上のノートに気になった点を書き出して身支度をする。
「直接確かめればいいことだ」
***
登校風景に気になるような変化は基本ない。一部を除けば電車を経由してくる生徒はほぼ同じ時間帯で行動しているから実はループをしているのではないかとヒヤヒヤしてしまう。
「毎朝毎朝変化をみつける人間なんていない」
いるとすれば余程の神経質か、不審人物か。
あ、俺もここの学生からしたら不審人物扱いなのか。
何人かの視線が痛い。今もこうやって誰にも聞こえないくらいの声でブツブツ言ってるし。うんそれは怖い。
「なにぶつくさ言ってんの?」
その声で俺はたまらず身震いしてしまう。理由はお察しの通り。
「イトチンちゃんおはよう」
「そんな平成教育委〇会みたいに呼ぶなっちゅーに」
またよく分からないことを言うておりますけども、何はともあれ今日が火曜日だということを再確認する判断材料にはなったわけだ。
これまで登校中に納富と出会ったことなど無かったからだ。
「こんな時間に会うなんて珍しいね」
「ま、たまに朝練もあるけどそれ以外の日はだいたいバラバラだねー」
たまにしか朝練がないというのは納富が所属する女子バスケットボール部のことだろう。
海星高校のバスケ部が強いという話はあまり聞かないからそれらも影響しているのだろうか?
「あまりやる気のある部とは言えないな」
少々嫌味っぽく言ってみる。
「私がそもそもやる気無いんだよ、他の人には悪いけどさ」
そう言いながら納富は人差し指を静かに立ててウインクした。どうやら他言するなというサインのようだ。
「それで続けるメリットは?」
無駄な質問だとは承知の上で、そこは敢えて訊ねる。
「唯一続いた習い事というのと、何もしないよりはマシとの狭間かな。少しはスポーツとかしないと自分を護れないじゃない?」
それなら空手とか柔道、この学校には無いがレスリングでも良かったのではないかと思いもする。
最近はスポーツジムもかなり増えていると聞くし、金銭面を考慮しないならばそっちの方が効率が上がるだろうに。
ま、それも自衛手段を持ち合わせていない帰宅部の俺に言われたくはないだろうから声には出さない。
実際、自分の身を護れていないから次から次へと面倒事に巻き込まれているのだ。
「立派な心掛けですな」
俺には到底、理解できない。
「矢武ももしかしてそういう感じか?」
「え? あー……っと、うん。コートが隣で彼は身長高いから余計にね。サボり魔なんだよ」
「そうか」
自分が決めた、特に目標とかも掲げずにやっている部活や習い事。
プロを目指さないスポーツ選手は、いったいどこを目指すのか。
勝ちたいから勝負をするのであって、負けてもどっちでもいいという考え方を否定するつもりは無いが賞賛も送らない。
俺にはやりたい事なんて無いのだ。
「めぎゅるんは何というか、ゆとりじゃなくさとりだよね」
さとり?
「空島編のホーイホホーイの人?」
「衝撃貝持ってんの?」
流石というべきか、恐るべし対応力。
「しかし今年は雨季が曖昧だな」
ここで話を強引に変えたのは納富が俺に対して持っている興味、その真髄まで迫ってきそうだったから咄嗟の判断を下した。
「先週はザーザー降ってたかと思えば今週はカラッとしてるしね」
唐突な話題変更にも拘らず納富は前のめりに食いつく。まるで撒き餌に群がる鯉のようだ。
「そういえばあと1ヶ月くらいで夏休みだねー、なにか予定は組んだ?」
「1ヶ月先の予定なんて芸能人とかセレブじゃないんだから……、毎年特に何もしてないよ」
予定と言えば各教科における担当教員が配る夏休みのお供をどれだけ早く終わらせられるか実験するくらいだ。プール、海、夏祭りなどは定番で誘われれば行くというくらい。正直乗り気はしない。
「だってほら塚本さんとか明羽とか、意外とめぎゅるんモテモテじゃない?」
なるほど、俺が二人のうちどちらかを選んで遊びに出掛けると思っているようだ。納富の予想を裏切るようで悪いがひと夏のアバンチュールとやらには残念ながら発展しない。
俺にその気が無いからだ。
「けっこう健気な塚本さんは多分誘ってほしいんじゃないかな?」
「だからって俺から誘う理由がない」
女子にはデリケートで分かりづらい部分があるから心のうちに留めておくけれど、可愛い女の子からの好意に喜ばない男なんてまず居ないだろう。そして気持ち半分でその領域へと足を踏み込めば最後、何があろうと引き返せない。
ましてやその内側の感情も露呈すればたちどころに誹謗中傷の的だ。
そう、まるで俺だな。
だから俺は、こうして女子にはあまり話しかけて欲しくないのだが納富はそれらを踏まえた上でのこの態度ときた。そして俺は納富が少し手痛い目にあえば俺からすぐに距離を置くと思っているから現状何も下さない。
「塚本に対してはLIKEであってLOVEじゃないからな」
出来ることなら今後も良いお友達関係でいたいものだ。
「どこに不満があるってわけでも無さそうだね……。黒髪で清楚で人当たりも悪くなく健気な純粋乙女。私が嫁に欲しいくらいだよ、なっはっはー」
わざとらしく大口あけて笑う納富。どういう立ち位置なのかは聞かずに一先ず無視しておこう。
「おっと、それじゃ私はここで。また教室で昨日の続き聞かせてよ」
昨日の続き?
というかもう校門前なんだけど。ここで俺を置いて先に行く意味は? と、頭の中をはてなマークで埋め尽くす前に意図を理解した。
「おはよう立川くん」
チリンチリンとベルを鳴らしながら俺の隣にやってきてペダルから足を下ろして並走を始める塚本。
「おはよう。昨日は一緒に帰れなくてごめんな」
一言だけフォロー。
昨日は三度目にも至ろうかとしていた死から解放された(厳密には先延ばし)俺は一緒に帰るはずだった塚本を危険に晒さないよう断ってから、その後は帰り道を尾行していた。
悪く言うなれば俺と塚本どちらが対象か、或いはどちらもなのかを検証していた事になる。要は餌だ。無論それが俺だけなら大事に越したことはない。
「用事なら仕方ないよ」
「そう言ってもらえると助かるな」
塚本は謙虚だ。自分の意思というものをおくびにも出さないような振る舞いが男子の人気を集めている。もっと細かい点で言えばただの物静かでおとなしい子とは一線を画している部分。
掲示板事件の被害者の一人でもある塚本はそのことに対して触れようとも、ましてや忘れようともしなかった。そこで全校生徒に知らしめたのが塚本麻衣という女子の芯の強さ。
そこから更に人気はうなぎ登りとなった。そしてそれに比例して俺の株も大暴落。とほほ。
「あ、先に行ってて。自転車置いてくるから」
少し小走り気味に自転車を推しながらそう言い残した。
普通の歩きよりも少し遅めに俺は生徒玄関に向かい、パタパタと後ろから塚本が追いかけてくる。
互いが靴を履き替え、談笑しながら階段を上っていると、とある人物が下りてくるのを俺は見逃さなかった。
「「…………」」
身長は190センチもあろうかという男子生徒。男子バスケ部だという矢武。相手もこちらに気付いたようで表情は今に刺し違えてでも殺しに掛かりそうなほど剣幕だ。
だがすれ違うだけで向こうがこちらに突っかかるようなことは無かった。
流石に学校でまた問題行為を起こすのは避けたのだろう。既にあいつは黄色信号だから教師陣の目も光るはず。
「あの人、だよね?」
後ろを見て矢武の姿が見えなくなったことを計らって塚本が声を細めて言う。
この確認は俺を殴り飛ばして一週間の入院を余儀なくさせた男か、ということなのだろう。
「そうだなー」
遠巻きに観察しようとしていたのにまさか鉢合わせするとは。
普段は明羽たちチャラチャラした連中といるから単独で行動しているところを見るのは初めてだった。
もし、矢武が今日俺のことを狙っているのだとしたら?
俺はどこぞの達人でもないから人の殺気とかは分かるはずないが、殺したいほど憎い相手が目の前に現れたとき果たして平静を保てるのか。
俺の目に映る矢武は、少なくとも人を殺めるほどの覚悟を持っているようには思えない。それとも装っているだけなのか。
どちらにせよ、俺には刺し違える覚悟があった。
***
「ふーん。別々に帰ったけれど、何も無かったと?」
昨日体験した出来事をきちんと教えている俺もおかしいが、納富もなかなかにクレイジーだ。
「タイミングを逃したってわけじゃないとすれば、単純にめぎゅるんが塚本さんと一緒に帰っていることそのものを忌み嫌ってる印象かな」
作り話かもしれない俺の体験談にこうも耳を傾け自論を唱える納富に対してはどこか素直に心強いと思えない自分がいる。
自分の身に起きた出来事にもしかすると関係しているのではないか、まさかマンガのようになにかの能力者なのか、などと問い質すにも馬鹿馬鹿しい妄想が掻き立てられる。
そもそも自分に起きた現象さえ信じていいものなのか不安になってきているってのに。現状、まさに自暴自棄一歩手前まで追い込まれてる気がした。
ある種の精神病か、それとも自分がおかしいと自覚できている間はまだ正常なのか。
誰かにすべてを洗いざらい話せればどれだけ楽か。だけど、誰がこんな話を信じようか。
精々、目の前にいる納富がいいとこなのかもな。
「つまり矢武は塚本のことが好きなのか?」
恋愛絡みで二股していると勘違いした矢武が逆上して俺を殺す、か。
だが、あいつが俺に殴りかかったのは少なくとも明羽の為を想っての行動だとばかり踏んでいた。
ただの友情なのか、それとも愛情なのか。俺には知る権利も無いし興味も更々無い。
「さぁ? 私そういうのチンプンカンプン」
「俺が言うのもなんだけどイトチンって好きな人とかいないの?」
「失礼だな。好きな人くらいはいるよ?」
そうなのか。仲がいい男子とかいる感じではないからその手には興味が無いのかとばかり思っていた。片想いくらいはしてるってんなら、俺にかまけず自分の事に時間を使えばいいものを。
「ただね、私が思い描く恋愛が普通じゃないって事だよ。それこそ絵に描いたような素敵な話でも、マンガのような恋とも違う」
納富は悪戯っぽく微笑むと人差し指を立てる。
「誰とも味わえない事を私は私の好きな人に与えるのが、需要と供給ってね」
俺は少し言葉に詰まった。
だが、それは納富の言葉に感心しただけではなく、ここまで彼女が自分のことを話したことが初めてだったから。
恋愛には様々な言葉で意味を、そして形を為せることが出来る。幸福、苦楽、共存、依存、束縛、支配、歴史、教訓、成長、守護、金銭、暴力、強奪、肉欲――――。他にも様々な言葉を孕んでいる感情は表面だけを見れば憧れを抱いたり他の人間を疎んだりしやすい傾向にあるが、恋愛とはただただ甘酸っぱい思いをしたいが為にしていいものじゃないということ。今までの自分の人生、いやそれ以上の覚悟を決めて臨まなければすぐに絶望する。
そして絶望したのが俺だ。
じゃあ、俺はまだ絶望の中にいるのだろうか。そのまま淀みの中で漂うしかないのだろうか。
「正直、羨ましいよ」
納富にそう想われてる相手のことが。
やっぱり俺にとって他者とは、遠い存在だな。
色恋沙汰よりも、明日を生きられるかで精一杯の俺にとって「恋」はまだまだ克服できそうにない。




