第二十一話:パーティの始まりだ
男は必死に逃げていた。
その表情は恐怖と焦燥の色に染まり、おぼつかない足取りで、しかしそれでも転ぶことなく男は走りつづける。
少しでも歩みを止めようならばすぐに捕まってしまうという恐怖が、男の体に鞭を打ちつづけていた。
男を追っているのは、何の変哲も無いただの少年である。
まあ、男がどれほど全力で走りつづけても、どれほど複雑な道を進もうとも、ゆっくりと同じ歩調のまま常に同じ距離を保ちながら追う少年を、ただの少年といえるかどうかは疑問ではあるが。
見た目が普通であればこそ、その皮一枚の下には得体の知れない化け物がいるのではないかという想像が男に更に恐怖を募らせる。
「ふふ、そんなに怯える事は無いじゃないか……。僕は別に今君に危害を加えようって訳じゃないんだから」
「ひっ!?」
すぐ耳元近くに聞こえる声に驚き、男は後ろを向くが、少年は相変わらず同じ距離を保ったまま遠くにいる。
近づいてきたわけではない、怒鳴っているわけでもない、しかし少年の穏やかで優しい声が男の耳に届く。
得も知れぬ恐怖に囚われた男は耳を塞いで叫ぶが、それでも少年の声は一定の大きさで止む事は無い。
「ただ、僕のお願いを聞いてもらいたいだけなのさ。そうすれば君自身も悪いようにはしない」
その『お願い』がどんなものかは知らないが、威圧を与えた状態での『お願い』は最早『脅迫』である。
「ねえ。逃げるなといっているのが分からないのかな?」
「がふぅっ!?」
少年がそう言った瞬間、男の体が後ろに思いっきり引っ張られる。
だが、男は自分の体のどこが引っ張られたのかが分からない。引っ張られるという事はどこかが掴まれるという事なのに。
態勢を崩した男は咄嗟に立ちあがるが、その目の前には少年が既に立ちはだかっていた。
「う、おおおぉっ!!」
男は一縷の望みをかけて少年に拳を繰り出すが、少年は事も無げに腕を一振りしただけで渾身の攻撃を受け流す。
「あまり、面倒をかけさせないでくれるかな?」
そして、少年がもう一度腕を振るった途端、男の全身から力が抜け、その場に跪く。
少年は跪く男の目の前に君臨しながら、純粋な笑みを浮かべ
「僕のお願い、聞いてくれるね?」
男は必死に逃げていた。
その表情は恐怖と焦燥の色に染まり、おぼつかない足取りで、しかしそれでも転ぶことなく男は走りつづける。
少しでも歩みを止めようならばすぐに捕まってしまうという恐怖が、男の体に鞭を打ちつづけていた。
男を追っているのは、何の変哲も無いただの少年である。
まあ、男がどれほどどれほど少年の体を傷つけようとも、意に介するどころか瞬時に傷を治してしまう少年を、ただの少年といえるかどうかは疑問ではあるが。
見た目が普通であればこそ、その皮一枚の下には得体の知れない化け物がいるのではないかという想像が男に更に恐怖を募らせる。
「全く、そこまで怯えるほどでもないだろうに。俺達の間じゃそう珍しい事でもない」
「ひっ!?」
どれほど肉を切り裂いても、どれほど骨を叩き折っても、どれほど臓物を潰しても、少年は倒れない。
そして今、恐怖に駆られ逃げ出した男を、事も無げに追ってくる
得も知れぬ恐怖に囚われた男は耳を塞いで叫ぶが、それでも少年は一定の速度で追ってくる。
「さて、君の前には三つの選択肢がある。安心しろ、どれを選んでも死ぬ事は無い」
その『選択肢』がどんなものかは知らないが、今この状況で安心する事など出来ない。
「……はあ、埒があかない。いい加減に逃げるのを止めろ」
「がふぅっ!?」
少年がそう言った瞬間、男の体が後ろに思いっきり引っ張られる。
だが、男は自分の体のどこが引っ張られたのかが分からない。むしろ、全身全てが掴まれ、引っ張られたという感覚である。
態勢を崩した男は咄嗟に立ちあがるが、その目の前には少年が既に立ちはだかっていた。
「う、おおおぉっ!!」
男は一縷の望みをかけて少年に拳を繰り出すが、少年は冷たい目のまま無視して体で受け止める。
「いい加減、無駄だと学習した方がいい。俺だってそれほど気分のいいものじゃないんでな」
そして、少年がもう一度腕を振るった途端、男の全身から力が抜け、その場に跪く。
少年は跪く男の目の前に君臨しながら、不純な笑みを浮かべ
「さあ、どれを選ぶ?」
「さて、これで四人目か。……やはり目的があるとハリが違いますね」
廉は足下に倒れている男を見下ろしながら手に持った携帯電話にそう言った。
電話先からは東子と、その背後から耕作と優姫の声が聞こえる。
「うん、漁輔君には感謝しないとね」
「誰ですそれ」
実験に付き合ってくれた人だよっ!と突っ込む東子に笑いで返し、この男を追うために分かれた東子達と合流するために歩き出す。
「(本当に漁輔って誰だっけ……)」
結局、漁輔を実験体としたアームズ消去実験は成功した。副作用があるかどうかはまだはっきりしていないが、その時の為に一応消去した人のプロフィールはメモってある。
別に治してやる義理は無いが、廉なら再びアームズを発現させる事が出来るので、なにか他の事に利用できるかもしれない。
足下の男も、廉によってアームズを消去された。
男のは殆ど目に見えないアームズだったが、特異な能力を持てば持つほど基本的な性能が落ちていくのは廉自身がよく知っている。
一撃で致命傷を受けない限り、とりあえず廉が死ぬ事は無い(勝てるかどうかはまた別問題ではあるが)。故に廉は痛覚を切って攻撃をすべて受け止め、その部分を瞬時に作り直していただけなのだが……
「(化け物、はないよなぁ……)」
その不死身をなにか変なものと勘違いしたのか、すぐに闘志を失って男は逃げ出してしまった。
戦う気の無い相手ほど御しやすい者はない。結局廉は息を切らす暇もないまま勝ちを収めることができた。
「(……しかし、たった数日の間に四人か。それも簡単に倒せる程度の相手のみ、出来過ぎな感もあるが……)」
とはいっても、今の廉は新しい段階に進んだアームズと仲間に加え、十二分に感情も発奮させる事が出来る。
今なら、氷雨や伊集院、ユーディットにだって勝てるかもしれない。もちろん、四対一という前提の上でだが。
やっとこ主人公らしくなりやがった。
廉が空を見上げると、既に空は茜色に染まり始めていた。男を追い始めたときは日は傾いていたものの、夕焼けにはまだ遠かったはず。
随分と長い間追っていたんだなと男の諦めの悪さにむしろ嘆息する。
ふとそこで廉は左手首につけた腕時計に目をやる。
廉がつけている腕時計はいつだったか何かのイベントで楓にもらったもので、楓らしく無駄な機能が満載されている。
携帯があるために余り腕時計を持ち歩かない廉だが、今はたとえどんなものでも武器にできる素材は身につけるようにしている。
流石に友人からのプレゼントを無碍に扱うつもりは無いが、何事も万が一というものがある。
無駄な機能、といったが、その中には一応必要なカレンダー機能もある。
腕時計が示す今日の日付は八月二日、明日は鳴神の誕生日だ。
「(……危なかった。完璧に忘れていた)」
非日常に首まで漬かっていた為に日常のイベントを完璧に失念していた。
「……廉?どうしたの?」
黙ってしまった廉を不審に思った東子が廉に呼びかけると、物思いに耽っていた廉は意識を戻す
「ああ、別になんでもありませんよ。ただ、随分と非日常に染まってきたんだな、とね」
別に日常が恋しいわけではないが、戦うことが当たり前になってしまったことを思うと、やはり何やら思うところがある。
考えてみれば完全に日常の友人である楓や鳴神とは随分と疎遠になってしまっている気がする。
その事の埋め合わせのことを考えていたために、廉は東子が言葉を失っていた事に気付かなかった。
「(……日常、か)」
廉は何気なく放った言葉なのだろうが、東子にはその言葉はとても重くのしかかってきた。
廉と東子は馴れ初めからしてアームズを介した非日常であり、アームズが無ければ今のような関係は勿論、知り合う事すらなかっただろう。
言うならば、東子は非日常の象徴なのだ。
しかし、非日常はいつまでも続くわけは無い。非日常も、永遠に続けば日常となるのだから。
無論、こんな状況がいつまでも続くわけは無い。結果がどうであれ、この戦いが終わってしまえば廉との接点は無くなってしまうのだから。
そして夏休みが終わってしまえば双方共に忙しくなり、無理に接点を作る事も出来ない。高校生と大学生では生活パターンは似てるようで違うのだ。
そう考えると、特に意識もせずに廉の日常にいられる友人を、妬ましくも思ってしまう。
「……東子さん?」
今度は廉のほうが黙ってしまった東子を不審に思い、声をかける。
それを東子は急に取り繕った声色で会話を再び再開させた。
「……東子さん。氷雨の出番を削るために長話でもしましょうか」
翌日、鳴神の誕生日の朝、霧霜氷雨は最高にハイになっていた。
無論、出番を貰えたとかいう裏方的事情ではない。
それもそのはず、氷雨は今日という日に全て……というには流石に大げさだが、彼にとってはほぼ全てを賭けてきた。
その手には紙袋があり、その中には必要以上に装飾が加えられたプレゼントの箱が入っていた。
このプレゼントの選定には、数ヶ月前から気合を入れていた。
陸上部員や鳴神の友人から聞きこみをして鳴神の嗜好や欲しい物を調べ、時にはストーキングをしてまで選び抜いた品である。
……氷雨の出番、これくらいでいいかな。
ゲフンゴフン。ともかく、氷雨はそこまで鳴神の誕生日に気合を入れていた。
プレゼント一つで人の感情などそうそう変わるものではない。少々好感を持たれる程度であって、その人にとっての立ち位置はまず変わらない。
しかしそれでも、氷雨にとって今日という日は一大イベントであった。
たった少しの事でも、氷雨は鳴神の事なら全力を注ぐほどなのである。
誕生日パーティまでまだ一時間以上先、昼頃から始める筈なのに、氷雨はいてもたってもいられなくなって鳴神の家に向かっていた。
「はっはーっ!一時間ぐらいどうってこたあねーぜ!!」
キチガイである。
氷雨の脳内にはこの後のパターンがいくつもシュミレートされているが、その内容は上山と同程度である。
氷雨は周りの目も気にせず、天を仰ぎ叫ぶ。
「今日という日は。俺にとって最大の日になるだろうぜ!!」
変態である。
「最大の日になる、ネ。確かに今日は君にとって最大の日になるだろうサ」
水晶の部屋の中、水晶の椅子に座りながら少年は白と黒のまだら模様のクイーンの駒をいじりながら呟く。
その後ろには女が一人控えており、その呟きに返す。
「……霧霜氷雨の理性を削り、『相手の都合を考える』余裕を無くしました。したがって彼は鳴神翼の都合を考えず彼女の家に向かいました」
少年はまだら模様のクイーンの駒を盤上に置き、その前方に多くの黒のポーンの駒を、左隣に白のナイトの駒を置く。そしてそこから離れた位置に白のキングの駒を置く。
「さあ霧霜氷雨。君は守りきれるかな。ルークもビショップも無く、孤独に立つクイーンを」
彼が浮かべる笑みはとても純粋なもの。しかし、純粋なものが、正義だとは限らない。
更に笑みを深くし、少年は呟く。
「恨むなら、人の立ち入ってはならない領域に踏み込んだ彼を恨むんだね」
氷雨:祝!再登場!!
廉:……これは予想外の反応だな
楓:うん、だね
氷雨:……なんだよ。一体俺がどんな反応すると思ってたんだ
廉:あー……。いや、結構少ないだろ?お前の出番。だからそれに関してなんか言うと思ってたんだが……
氷雨:ハッハッハァッ!!そんなの気にする程心は狭くねぇよ。俺の心はアラスカくらい広いのさ!
廉:あまり分かりにくい例えをするな
楓:むしろグリーンランドくらいじゃない?
廉:楓、大きさもよく分からないのにそういう事言うんじゃない
氷雨:いやいや、カナダくらいあるってば
楓:馬鹿ね。アンタなんかスウェーデンくらいで充分だわ
廉:いやだから……
氷雨:なんだとう!それならお前はノルウェーだ!!
楓:ハァ!?アンタ目ぇ腐ってんじゃないの!?
廉:……なんだこの流れ。俺が異端なのか?
漁輔(仮):それなら俺の心の広さは……!
廉:黙れ
(強制退場)
廉:……あー。香川県ほどの心の大きさの奴らは放っておいて、次回予告でもするか。
廉:アッパー系の麻薬でもうったんじゃないかというぐらいテンションのあがったままの氷雨は、そのノリのまま鳴神家に辿り着く。しかし、そこに広がっている光景は、氷雨の想像を絶するものであった。
そして、呆然とする氷雨の背後に、ある人物が……
次回『情熱の緋色』……お楽しみに。