椿
「次回の図工はね」
四時間目終了のチャイムまで、あと三分。
あゆみ先生は給食の準備に心がはやる男の子たちを席につかせると、いかにも楽しそうな口ぶりで提案した。
「花や木の絵を描いて、六年三組最後のミニ展覧会を開こうと思ってるんだけど。どう?」
「えーっ! やだあ!」
「おもしろそう!やってみた~い!」
教室の中は、たちまち声の嵐。
そりゃそうでしょう。花や木の絵を描くなんてむずかしいし、おもしろくもなさそう。
でもあゆみ先生は、全くひるむ様子もみせずに話し続けた。
「ただの花や木の絵じゃないよ。自分をイメージした花や木の絵なの。実物を持ってきても、図鑑を見ても、想像して描いても、何でも構わないから、これが自分!と自信を持っていえるような絵をのびのびと描いてほしいんだ!」
教室の中は再び嵐。でも今度は、あゆみ先生の発案に、何だかみんなわくわくしてるって感じ。
先生になって二年目のあゆみ先生は、小顔でショートカットがよく似合って、とてもボーイッシュ。
男子にも女子にも人気がある。とりわけ、あゆみ先生の図工の授業は、楽しむことがモットーなので、ぶきっちょな私でも、とっても待ち遠しい。
でも、今度の図工だけは、別だった。
「おい、北山、やっぱりおまえは、首ポト花を描くしかないよな」
となりの席の宮本が、ニキビだらけの顔をこっちに向けて、にやりと笑う。
宮本は、椿の花を「首ポト花」と呼んで、何かにつけては私をからかうのだ。
聞こえないふりをしていたけれど、心の底からいやあな気分になった。
私の名前は北山椿。椿と命名したのは今は亡き私のママだ。
ママは、私が三才になるかならないうちに、突然の交通事故で亡くなってしまったので、なぜ私が椿と命名されたかについては、なぞのままだ。
三年生の頃、一度だけパパにその理由をたずねたことがある。パパはちょっと申し訳なさそうにこんなふうに答えた。
「ごめんな。パパにも深い理由はわからないんだ。ただママはつきあってるころから、よく椿を見に行こうって誘ってくれたから、椿が大好きだったことだけはたしかだな」
そうか……。そうなんだ。
ナットクした私は、すぐに近所から椿の花をとってくると、ママのお仏壇に飾ってあげた。
ママの大好きな花なんだから、きっと喜んでもらえると思って……。
けれどそれは、そのころ一緒に住んでたおばあちゃんに、あっけなく捨てられてしまった。
「こんな陰気な花、飾っちゃだめよ! 椿って、花の首ごとポロッと落ちて散るでしょう?。むかし、罪を犯した人が首を切られて、その首がポロッと落ちるのに似てるから、お仏壇には不向きなの」
当然といった口ぶりで教えてくれるおばあちゃんに向かって、三年生の私はなんの口答えもできなかった。
おばあちゃんはパパのお母さん。ふだんはとても優しい人だ。
パパが忙しくて、いつもひとりぼっちだった私とよく遊んでくれたし、ママの代わりになれることは何だってしてくれた。ママがいなくても、そんなに寂しいとも思わずに過ごしてこられたのは、おばあちゃんがいてくれたおかげだ。ただ、思ったことをすぐに口に出してしまうクセさえなければ、私が椿の花に、こんなにいやな想い出を残すこともなかったんじゃないかと思うけれど……。
クラスメイトの海野菜穂子は、四年生のときに、この学校に転校してきた。
六年生のクラス替えで、初めて同じクラスになってから、ふっと気づいた。
私はことあるごとにナホを見つめているということに……。
ナホの手の十本の指。絵筆をにぎらせてもピアノをひかせても、そのしなやかな指の動きには、まるで後光がさしているかのようだ。
体育の時間、ナホの足は軽やかに宙をかける。カモシカみたいに、細くすらりとした足に、思わずため息が出てしまう。
勉強だって、テストはいつも満点。色白だし、かわいい顔だし、何よりきわめつけは性格のよさだ。
底抜けに明るく、だれに対してもわけへだてなく優しい。だからナホのまわりは、いつも友だちがいっぱい。笑顔じゃないナホの顔なんて、これまで見たことあったかな?
ナホみたいな子になりたい………。
そんなあこがれの気持ちが、ときどきヒュッと、いじけた気持ちにすりかわる。
どうせ、私なんて……。色黒だし、なにやらせても要領悪いし、友だちだって少ないし……。
そんな自分に真正面から出会ったとき、私はどうしようもなく落ち込んでしまう。
ママは、天国から私を見てるのかなあ………。
こんなうじうじした子がわが子だったら、きっと情けないよね。
もし、願いがかなうのなら、ママからのメッセージが欲しい。
「色が黒くても、椿は元気だからうれしいわ」でもいい。
「椿がぶきっちょなのは、きっとママに似たのね」でも、何だって構わない。
私のこと、ほんのちょっぴりでも認めてくれるのは、生んでくれたママだけだと思うから………。
これが自分だ!って、胸をはって言える花や木を選んで描く。それはかなり、ハイレベルな課題だ。
放課後、教室に残って花の図鑑をめくっている沖田ミカに話しかけてみた。
「ねえ、ミカはなんの絵を描くつもり?」
「んー? あたしって背が高いことしかとりえがないからさ、ひまわりにしようかなって思ってる」
すると、たまたま残って当番日誌を書いていた宮本が、さっそくミカをからかいはじめた。
「おまえがひまわり? ムリムリ。せいぜい、セイタカアワダチソウくらいがお似合いだと思うぜ」
宮本の毒舌にも、ミカは負けない。
「なによ、なんであたしがスギの木みたいなあんたからそんなこといわれなきゃならないのよ」
「スギだと? オレはアレルギーもってねえぞ」
「バーカ。アレルゲンをふりまく嫌われ者って意味よ」
もともと犬猿の仲のこの二人。口げんかはとどまるところを知らない。
「北山さん」
翌日。図工の時間の前に、とつぜんナホが話しかけてきた。
「北山さんっていいな。ぜんぜん迷う必要ないもんね」
「え?」
「北山さんっていったら、椿に決まってるでしょ。正々堂々と椿の花を描けばいいんだから、ほんとにうらやましいわ」
ナホは悪びれる様子もなく、大きな瞳をくるくるさせて話す。
「わたしね、描きたい花はひとつしかないの。だけどみんなに、似合わねえなんて言われたらショックだから迷ってるのよ」
「海野さんが描きたいと思う花なら、きっとぴったりなんじゃない?」
無責任な言い方かもしれないけれど、ほんとにそう思う。
ナホだったら、桜であろうが、バラであろうが、なんだってナットクできないはずがないのだ。
「そう? だといいけどな。じゃあ、勇気出して描いてみようかな」
ひらひらと手をふって、向こうへ行くナホを見つめているうちに、思わずため息がこぼれた。
ママの大好きな花だったのに、私は椿が好きになれそうにない。
ましてや、椿という名前から逃れることは、一生できそうにないのだ。
次の図工の時間、私は画用紙に一輪の赤い椿を描いた。図鑑どおりにそっくりまねして描いたから、さほど変じゃないと自信はあった。名前を書いて、あゆみ先生のところへ持っていくと、あゆみ先生はそれを手にとってつくづくとながめ、うんうんと、何度も首をたてにふった。
「椿の描いた椿の花。うまいね。なかなかよくできてるじゃん」
ハイ、これでもうおしまい。ホッと胸をなでおろし、席にもどろうとしたそのとき。
「待って、椿」
あゆみ先生の声が追いかけて来た。
「ねえ、もう一度、じっくりと描いてみて」
クラス中の視線が集まってくるのがわかる。ほっぺたが、カーッと火照ってくる。
あゆみ先生は、その絵を私の机にもどすと、じっと私を見つめて言った。
「もっともっと、椿の花と向かい合ってごらん。きっと、椿の声が聞こえてくるよ。あなたの心に、届く声が必ずあるはずだから……」
私はうなずくこともせずに、ただだまっていた。
「わあ、ナホの絵ってきれい」
「オーッ!これってバラか?」
ナホの机をとりまくクラスメイトたちのかん高い声が、いやおうなしに耳にとびこんでくる。
泣き出したくなるのを必死でこらえ、もう一度私は、まっさらな画用紙を広げた。
けれども、心の中はわんわんとこんな言葉であふれかえっていた。
ー無理よ。椿の声なんて届くわけない。聞きたくもない。
ー椿なんてきらい!だいっきらい。
それから一週間たっても、私は椿の絵を描き直すことができないでいた。
椿と向かい合ったところで、いったい何が描けるというんだろう。
あゆみ先生から言われたことばを、心の中で何度もくりかえし、日曜日、私はスケッチ道具一式を抱えて、学校の近くの神社に出かけた。
室町時代に建てられたといわれるこの神社は、安産の神様が祭られていることで有名らしい。
別名「ツバキ神社」と呼ばれるくらいに、毎年、早春のこの時季、境内は赤い藪椿の花が咲きほこり、椿見物とお参りを兼ねて、遠くから訪れている方々も多い。
早春というのは名ばかりで、二月の終わりはまだまだ寒い。
境内の中は、なまり色の空の下、鮮やかな椿の赤と、葉っぱの濃い緑のコントラストが目をひいた。
ひとつきりのベンチには、すでにだれかがすわっていた。
二十代ぐらいの女の人で、ブルーのコートをはおっているものの、おなかのまわりがふっくらとしている。
私はちょっと離れたところに立ったまま、椿の花をスケッチしはじめた。
画用紙の上に、椿が浮かび上がったと思ったとたん、目の前にボトボトッと音をたてて、椿の花が散った。
ああ、まさに首ポト。これだからいや!
この花には、花びらを散らす繊細さのかけらもない。
私には椿なんて描けない。描きたくもない。だって嫌いだもん、大嫌いな花だもん!
泣き出したくなるのを、ぐっとがまんして、画用紙をちりぢりに破り捨てた。
ベンチにいた女の人が、びっくりして立ち上がると、そばに寄って来た。
「ごめんなさいね。ベンチをひとりじめしちゃってて。立ったままじゃ描きにくかったわよね」
肩にかかるウエーブがふんわりゆれて、シャンプーのいい香りがした。
ほっそりと整った顔立ちの、とても優しそうな人だ。どこか写真のママに似てると思った。
おなかが大きいことも気にせずに、その人はちりぢりの画用紙をいっしょに集めてくれた。
「ここって本当に藪椿がきれいに咲くのねえ。椿もいろいろ種類があるみたいだけど、わたしはこの藪椿がいちばん好きだわ」
「椿のこと、くわしいんですか?」
思わず質問してしまった。この人ともっと話してみたい、不思議とそんな気持ちがわいてきたのだ。
「ただ、椿が好きだから」
きっぱりひと言そうこたえて、女の人はぐるりと境内を見まわした。
「まだ寒い時に、この赤い花を見つけると何だかホッとするの。もうすぐ暖かくなるよ、がんばれよって、背中をポンとたたかれてるみたいで……。素朴な花だけど心が明るくなるわ」
「でも………」
私は言った。
「散るときは、まるで首が取れるみたいにポロッと花ごと落っこちちゃうんですよ。気持ち悪くないですか?」
首ポト花。陰気な花……幼いころに突き刺さった言葉の針は、未だにとれないままだ。
椿の木の下に落ちている赤い残がいに、女の人は視線を落とした。
「すごく潔いと思わない? 終わりの時がきたら、すべて未練無く落としてしまうなんて……」
そして、ふわんと微笑んで、自分のおなかを指さした。
「この子ね、女の子なの。だから、椿って名前にしようって決めてるのよ」
その瞬間。
私をとりまくものすべて、空気でさえもが完全に止まった気がした。
私はまばたきもできずに、じっと女の人を見つめていた
ひょっとして今、私は、タイムトラベラーのように時間をさかのぼって、昔のママに会っているんじゃないんだろうか?
「わたしはおなかの娘に願っているの。人にぬくもりをあげられる人になってほしいって。……そのためには、自分の中にたくさん、たくさん、数え切れないほどの椿の花を咲かせてほしいわ」
女の人のことばが、じわりじわりと私の心にしみていく。
まるでお湯に浸した紅茶のティーパックみたいに……。
この人は、もちろん私のママではない。けれど、この人の言葉をとおして、私は今、ママの心と出会っている。そう信じようと素直に思えた。
じっと椿の花を見つめた。
―椿、わたしたちはあなたの花ですよ。
赤い花たちが、いっせいにささやいてくる。
―あなたのおかあさんが願ったように、わたしたちはいつだってあなたの心の中で、きれいに咲く日を待っているのですよ。
だれの声でもない。私は、本当に椿からのメッセージを受け取ったとはっきり感じたのだ。
不意に、
「あなたの心に届くものがあるはず」
あゆみ先生のことばを思い出した。
あゆみ先生、私、聞いたよ。椿の声を。
ママの心にも出会えたんだよ。
今度こそ、私だけの椿が描けそうな気がする。
六年三組最後の、ミニ展覧会は三月十日に決まった。
この日はちょうど学年末の保護者参観日でもあるので、あゆみ先生は、家庭にあててミニ展覧会のお知らせを配った。
『主人公は自分―花と木の絵の展覧会』
あゆみ先生が名付けた、このミニ展覧会のタイトルだ。
みんなで準備をした後で、教室の後ろにずらりとはり出された絵をゆっくりと見てまわる。
野に咲く一面のタンポポ、朝つゆを含んで開いたピンクのアサガオ、堂々とそびえたつプラタナスやポプラの木、生い茂ったユズリハの木、四十枚の画用紙に描かれた花と木は、どれひとつ同じものはなくて、みんなそれぞれ個性的だった。
宮本が描いたユニークなサルスベリの木や、ミカのおおらかなひまわりの花。そしてもちろん、赤い花をたくさんつけた私の椿も画用紙の中で咲きほこっていた。
描き直した絵をあゆみ先生に見せた時、先生は、本当にびっくりした表情になった。
「すっごくいい絵になったね、椿。花のひとつひとつがまるで生きてるようだよ」
そして私の椿の横には、ナホの絵があった。
ナホらしく、ピンクのバラかと思ってよく見たら、それはバラではなさそうだ。花の形こそバラにそっくりだけれど、葉っぱや花のつきぐあいは、見れば見るほど、椿に似ていた。
「ねえ、海野さん」
私は思いきって、ナホにたずねてみた。
「海野さんの描いた花って、何の花?」
ナホの目がいたずらっぽく笑った。
「わかんないでしょ。あれはね、実は北山さんと親戚にあたる花なのでーす」
「えーっ? やっぱり椿なの?」
「そう。オトメツバキっていうの。今年の春、家族で旅行した時に見つけて、あんまりきれいだったから、帰って名前を調べたの。花もかわいいけど名前もすてきでしょ?。私の目指すイメージなのよ」
オトメツバキか………。バラのはなやかさと愛らしさ、ツバキのぬくもりを全部ミックスした花だなあと思った。
きっとナホは心の中に、オトメツバキをたくさん咲かせてるんだ。だから、いつも自分を好きでいられるのかもしれない。人に優しくしてあげられるのにちがいない。
そう考えても、今までみたいに卑屈な気持ちにならない自分が不思議だった。
「椿」
そっと声に出してつぶやいてみると、私の中の赤い椿が、いっせいにこたえてくれそうな気がした。
ーあなたの心の椿は、だれの花とも比べられないのですよ。あなたのおかあさんが願った、あなただけの椿なんですからね」
「さあ、みんな、絵をバックにして記念のクラス写真をとるよ」
あゆみ先生がカメラを持って来た。
「ここ、入っていい?」
ナホがするりと私の横に立つ。
私はうなずいて、笑顔を向けた。
「では、いくよっ! ワン、ツー、スリー!」
シャッターが下りる瞬間、ナホと私は、どちらからともなく手を繋いでいた。