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 案の定だった。


 村上さんは最寄り駅までずっと私の傍らにいて、最初は犬で次は美味しい日本酒、その次は、面白い映画のDVDで、何が何でも私を自分の部屋へ連れて帰りたい様子だった。


 もちろん、私自身が魅力的だとか、そう言うことを言っているのではなくって、全てが全て迷惑だと言いたいわけだ。それに、村上さんに限っては女性であれば誰でも良いのだろうから、当然、私でもいいわけで…………こんな時はどうやって、切り抜ければいいのだろう。



「それじゃあ、夏目さんの家で見ようか?プレーヤーある?」と。


 最寄り駅に到着して、ようやく解放される、とくったくたに疲れていた私に、村上さんがとどめの一言を口にした。


 どうして「それじゃあ」になるわけ?そんな話してなかったじゃない!

 

 絶対に嫌だ!今すぐにどこかに行って!


 叫んだのは私のお腹の中。


「実は今日、待ち合わせをしているので」


 やむおえず出た一言。けれど、その一言には「もういい加減に解放して」と言う私の心情が込められたいた。


「友達?なら3人でご飯行こうよ、奢るからさ」


 無理だとは思っていたけれど…………


「とにかく、約束をしているので、おつかれさまでした」


 頭にきた私は、そう強く言うと「どうしたの、ちょうと」と追いかけてくる村上さんを尻目に、川沿いの道へと足を早く進めた。


 川沿いの道は薄暗い。このまま村上さんが追いかけて来たなら、どうしよう。待ち合わせの約束なんてしていないから、千年桜の所までついて来られたなら、その後は、どうしようもない…………もっとましな嘘をつけばよかった。しいては、「ついてこないでください」といつもの私らしく言えばよかった…………


 川沿いの道に入ったすぐの所、電柱の側にある自動販売機の前に人影があった。

私はその人が知り合いならばどれだけ良いだろう。心からそう思った。けれど、私には友人が少ないし、自分から友人を作らないから……知り合いが居るはずがない。


 今更自分の性格が憎らしく思えてならなかった…………


でも、奇跡は起きたの!。偶然は起きたの‼ 


「あ」


 私は自動販売機から缶を取り出し終えたばかりのその人の顔を見て、思わずそう言ってしまった。


「あ、こんばんわ。その、えっと、紅茶とコーンスープとどっちが良いですか」


 私にそう言いながら、彼は視線を私の後ろに何度か動かしていた。

まるで「後ろに居るのは誰だろう?」と聞きたいみたいに。


 もしかして《彼氏》だなんて勘違いされて気でも遣われてしまったら……私は、言葉にできないながらも、必死に、彼の顔を見つめて更に一歩歩み寄った。どうか彼が気がついてくれますように、そう祈りながら。





 クリスマスなどに、希に天使が降り立つことがあるらしい。私に天使が目の前に現れたのは、特別な日でも何でもない平日の夕暮れであった。


 何度か渾身の蹴りを繰り出しているうちに、自動販売機が根を上げたのか、釣り銭と謝罪の意であろう、コーンスープを一缶落とした。


 何かしらの罪悪感は残ったものの、じんじんと靴の下でうめいている私の御足のことを考えると、やはりこれは謝意の他に何ものでもなかろう。私は何度かうなずきながら釣り銭をポケットに押し込んでから、さっさと暖かいコーンスープを自動販売機から取り出した。


 するとその時である。


「あ」と私に聞こえるように確かに「あ」と聞こえたのである。よもや、自動販売機への暴行が露見してしまったのではあるまいか、小心者の私の背中には冷たい汗が一筋伝った。


 伝ったのだが、恐る恐る声のする方を見てみると、そこには、黒髪短く品を醸す程度にお洒落をした女性が立っていたのである。


 私は目元だけで、それが電車の乙女であると瞬く間に見抜いた。化粧にて、若干目元が優しくなっている印象はあったが、我が眼力の前に化粧など無意味なのである!


 それは結果を踏まえての咆吼であり、内心自信のなかった私は、

 

「あ、こんばんわ。その、えっと、紅茶とコーンスープとどっちが良いですか」と紅茶とコーンスープの缶を両手に差し出したのであった。


 一つだけ言わせてもらえるならば、とっさにして私にしては、至極利いた文言であったと思う。いいや!思いたい!


 だが、憎々しきは電車の乙女の後ろにつかず離れずの絶妙たる距離感にて立ち止まっている男の存在であった。


 よもや、電車の乙女の恋人ではあるまいか…………一時はそう思い込みそうになったのだが、視線を交互させるうち、乙女の方が危機迫ったような、懇願するような視線を私に注ぎ、おまけにもう一歩私に歩み寄ったのである。


 私は熟慮する暇もなく。


「千年桜ですよね」と無難な言葉を口にしてみた。

 

「はい」


彼女はそう言うと、私の横をする抜けるように早歩きで道を進みだした。私は無言でその後に続き、数歩の頃合いで彼女の横に並んで歩いた。


 するといつの間にか響くのは二人分の砂利音だけとなり、千年桜が見えて来た頃になって、彼女はそっと後ろを振り返って、安堵のため息を吐いたのであった。


「勘違いしなくてよかったです。後ろに居た人はてっきり恋人かと思いました」


 私はため息を何度も吐いて疲労困憊と撫で肩になった彼女にそっとそう言った。


「やめて。あんなの恋人になんかするくらいなら死んだ方がまし」


 彼女は些か毒を織り交ぜ、薄暗い道に向かってそう言った。


「それにしても奇遇ですね」


「私はとても助かりました」


 何かを思い出すような単文で終わる会話…………そして少しの間、私と彼女の間には砂利音しか聞こえてきやしなかった。


「そうだ、紅茶とコーンスープどっちが良いですか」


 思い出したように私がそう言うと、彼女は私の顔を見上げて「じゃあコーンスープをもらいます」と私の予想に反してコーンスープを手に取ったのであった。


「今日は電車どうしたんですか」コーンスープを両手に包んで手を温めながら彼女はそう言い「いなかったですよね」と続けた。


 私は「寝坊したんです」と頭を掻きながらそう答えた。


 実は、昨晩から朝方にまで好きな人に似非恋文を書いていて、今日は昼頃まで寝ていたんですよ。などと、口が裂けても言えまい。

 

「そうなんだ」


 彼女は私の返答を聞いて、何度かうなずくと、少し微笑んだように見えた。


「そう言えば、ここ数日、姿を見かけなかったのですが…………」今度は私がそう聞いた。思えば三日も姿を見かけなかった。


「休みを取ってたんです」


「そうなんですか」


 私は微笑ましい気持ちになった、いいや、確実に微笑んでいたことだろう。それはもう満面の笑顔を浮かべていたかもしれない。


何せ電車の乙女は私を避けていたのではなかったのだから!


 今からすれば、ただの杞憂でしかなかったわけだか、《彼女の姿がない》と言う現実に絶望した日々は、本当に苦しかった。ゆえに、今のこの時の幸福たるや、私の歴史に置いて上位十番に入賞するであろう幸福であったのだ。


「髪の毛もそのお休みの間に、ですよね。髪の毛は染めなかったんですね」


 薄暗い情景に栄える彼女の黒髪は、とても色濃くそして艶めかしかった。明るめにの色に染めたとしても、はたして、可愛らしい印象と共にきっと彼女を彩ったことだろう。


 だがしかし、やはり、彼女には黒がよく似合う。私は長髪であった頃の憂鬱とした彼女の姿を思い出しながらそっとそう言った。


「えっ」彼女は驚いたようにそう言ったから、「私は黒髪が好きだから」と少し照れながらそう続けた。


 その後、なぜか彼女は俯いていた。


 私は彼女の表情をうかがい知ることはできなかったが、きっと、千年桜に負けないほど柔らかい表情であったのだろうと思う。

 

「私は夏目と言います。あなたは?」


 照れを隠すためか、彼女は話題を変えたがったようで、バネ仕掛けのように突然顔を上げると、私に向かってそう言った。私は限りなく油断した口元で彼女のつむじを見ていたので、とても驚いたことは言うまでもない。


「私は、祝前です。祝前 香と言います。香だなんて女の子の名前みたいでしょ」


 私は頭を掻きながらそう答えた。何せ中学生2年生頃まではずっと《香子》と忌むべき呼称で幾度も嫌な思いをしてきた名である。さすがにこの年となって、呼称でもって嫌がらせをしてくる人間は古平ただ一人であるが、こんな風に自分の名について話せる日が来るとは思いもしなかった。


「香さんですか……私は下の名前は皐月なんですけど、五月そのままだから、なんだか気にいらなくって」 


「皐月さん……」私はつい、そう呟いてしまった。そう言えば彼女も同じ名前であったな…………ふっとそう思ったからであった。


「はい?」


「いいえ。私の知り合いに同じサツキさんと言う人がいたので、つい、同じ名前だなあ。なんて思ってしまって」


 私はしくじったとまた頭を掻いた。


「私の知り合いにも香さんって人がいますよ」彼女は、微笑んでそう答えてはくれなかった。「しかも男性です」と続けて言うと、なぜか物思いに耽るように、再び玉響と俯いてしまったのだ。


 それから、しばらくの沈黙が続いた。私が作り出したと言うよりは、彼女に起因する沈黙であると私は言いたい。まるで「今は話し掛けないで」と言いたげな横顔が私のはき出したい言葉を全て押しとどめ、時には飲み込ませたのである。


 ひょっとしたら、彼女にとって《香》と言う存在は大きな存在だったのか、それとも、とても気になる存在であったのだろう。


 そう想ってみれば、今更ながら私にとっても《サツキ》と言う存在は、多少なりとも大きい存在であったと改めて思い直してしまった。まるで陽炎のような彼女の存在であったが、やはり私にとっては掛け替えのない存在であったのだろう。失ってしまった今となっては、もはや後悔の念の他に浮かぶ感情もないが…………

 


「桜の葉も散ってすっかり寂しい季節になりましたね」


 千年桜にさしかかったところで、私がついに話し掛けた。このもどかしい沈黙に耐えきれなくなった。だから私から話し掛けた。


「でも……だから、春になるとあんなに桜の花が綺麗に感じられるのかも」


 彼女は、街頭に照らされた寂しい枝を見上げてそう言う。


 その横顔はとても美しかった。これ以外に筆舌できないのが悔しい限りであるが、凛としつつもどこか物寂しそうな目元に、少し開いた口元、微風に揺れる黒髪と、時折覗かせる肌と同じ色の耳が、背景の黒と出会い、街灯の頼りない明かりに照らされて、それら全てが艶容で儚い雰囲気を醸しているのだ。


 それはもうとても文学の世界であった。


「そう思いませんか」


 私はぼおっと彼女の横顔に見とれていた。それはもう食い入るように見つめてしまっていた。


 だから、彼女がそう言って私のほうを向いた時の驚嘆と言ったら思わず「ほへっ」と裏返った声を出してしまいそうになってしまった。


「そうですね」やっと言えたのはただそれだけであった。


 それだけであったのだが、「あの、コロッケどうですか。近くに美味しい惣菜店があって、その店の一押しコロッケなんですよ」再び、沈黙の暗幕が降りてしまいそうな雰囲気であった。私は、危険を察知した兎のように、とっさに手に提げていたビニール袋から、コロッケの入った容器を取り出して、輪ゴムを取り去ると、彼女に有無を言わせずに勧めた。


 強引であったと我ながら思う。 


「じゃあ、お言葉に甘えて……」


 このタイミングでコロッケはなかったと思う。けれど、包みを開いて差し出したなら。断れる猛者はそうそういないであろう。確信犯でなかったにせよ、私らしくない強引な手法であったことは確かであったことだろう。


 揚げたてであったためか、未だコロッケが温かかったのがせめてもの救いであったと言いたい。


 彼女は決して、コロッケを食べようとはしなかった。バッグから取り出したテッシュにくるんだまま、決して口に運ぼうとはしなかった。


 やはりコロッケは駄目だった、コーンスープだけにしておけばよかった……後悔先に立たずと、心中うなだれてしまいそうになったのだが、これも私的新たな一歩である。と前向きにのみ思考することにして、その後は、その惣菜店の話題やら、そうそう、猫の桜側の脇腹あたりにかすかに読み取れる字で詩が書いてあることを彼女から教えてもらった。


 ネットの乙女ともこんなたわいない会話をもっとしたかった……


そう思う一方で。


 別れ際「明日は、いつも通りの電車に乗りますか」と聞いた私に「はい、そのつもりです」と答えてから去り行く彼女の背中を見ていると、遠のいて行く靴の音を聞いていると…………やはり、声も顔も知り置く人の方が良いと思ったし、面と向かって感情を交えた会話の方が良い。深淵からそう思えたのであった。

 


 ○ 



「千年桜ですよね」


彼はそれだけを言った。


 私は内心、「それじゃだめなの」と叫んでいた。この状況で全てを理解してもらおうと思う方が傲慢だってことはわかっていたけれど……それでもわかってほしい。そう思ったのはよほど私がせっぱ詰まっていたからだと思う。


「はい」私は短く言うと、さっさと彼の横をすり抜けるようにして砂利道へさしかかった。気持ちは「もっと早くもっと早く!」と自分の足を急き立てているのだけれど、いつものパンプスよりも比較的かかとの高い今日の靴だと砂利道を早く歩くことができなかった。


 少しの間があって、後ろに居た彼が私の隣に追いついた。まだ、後ろに気配があったと言うのに、こんな風に男の人と並んで歩いたのはいつ以来だろう……そんなことを考えてしまった私はバカだ。


 無我夢中になりきれないで、砂利道を歩き続けて、そっと振り返ってみると、そこに人影は無くなっていた。幾ら村上さんでも男性と並んで歩いている私の後をつけるようなことはできなかったのだろうと思う。

  

「勘違いしなくてよかったです。後ろに居た人はてっきり恋人かと思いました」 


 私が安堵のため息を両肩を使って吐きだした時に、丁度、彼がそう言った。


「やめて。あんなの恋人になんかするくらいなら死んだ方がまし」


 私は、本心をつい口に出してしまった。うんざりしていたから仕方がないの。と言いたかったけれど…………つい嫌いな自分が出てしまった…………


「それにしても奇遇ですね」


「私はとても助かりました」


 まただ。どうして私は会話を続けられないのだろう。本当に彼が私の前に現れてくれて助かったと思った。だけど、もっと他に言いようがあったはず。メッセージのやりとりを経て、痛感していたのに……私は全然成長できていない……自己嫌悪に私はつい俯いてしまった。


「そうだ、紅茶とコーンスープどっちが良いですか」


そんな私を見てか、彼はまた缶ジュースを両手に一缶ずつ乗せて差し出してくれた。そう言えば、さっきは、無視してしまったものね。


 大体は「いいです」と遠慮する私だけれど、今回は彼の好意を素直に受け取ることにして「じゃあ、コーンスープをもらいます」と言って、右手の平のコーンスープ缶をもらった。


 買いたての缶はまだ暖かく、手袋をしてこなくて冷えはじめていた手に丁度気持ちが良かった。私は缶を両手で包み込みながら、


「今日は電車どうしたんですか」と呟くように言ってから「居なかったですよね」とこれまた呟くように続けた。


 彼は「寝坊したんです」とおもむろに頭を掻きながら、悪戯な笑顔を浮かべた。


「そうなんだ」


 私は素っ気なくそれだけ言うと、俯き加減で微笑んだ。そうか、彼は私を避けたんじゃないんだ。私は嫌われていないんだ。それだけがわかっただけで、とても嬉しい気持ちになってしまった。


「そう言えば、ここ数日、姿を見かけなかったのですが…………」


 私はほっこりした面持ちでいると、今度は彼がそう聞いて来たので、「休みを取ってたんです」と短く答えた。


「そうなんですか」


 彼もそう短く答えただけだったけれど、なぜかとても嬉しそうだったし、楽しそうだった。わかりやすく笑っていた訳でも、笑顔を見せたわけでもなかったけれど、彼の横顔にはまるで《幸福》と書かれているかのような……そんな雰囲気が漂っていた。


「髪の毛もそのお休みの間に、ですよね。髪の毛は染めなかったんですね」


 やっぱり、これだけ短く切れば誰にだって気がついてもらえるよね。私は胸の中でそう自分に言い聞かせた。でもなんでだろう、彼に自分の変化を見つけてもらえて、それを口に出してもらえて、温かい気持ちで一杯になってきて……それを押さえるのに必死だった。


「えっ」私は、すっかり返事のタイミングを逸してしまっていた。だから、わざとそう言って、誤魔化してから「私は黒髪が好きだから」と本心を述べた。


 褒めてもらったわけじゃないけれど、気がついてもらえただけで……それだけで十分だよ。私はどうしても緩んでくる表情を隠しきれなくなって、また俯いた。笑顔のスイッチがあったなら、誰でもいいから今すぐオフにして!ってお願いしたかったくらいだもの。


「私は夏目と言います。あなたは?」


 私は照れを隠すために、一生懸命そう言った。もちろん、彼の名前が知りたかったのもある。

相手の名前が知りたければまずは自分から……そんな常識くらい知っているもの。

 けれど、彼は急に私が顔を上げたものだから、驚いたように顔をのけぞらしていた。


 名前を聞いてはいけなかった?そう思ったもん。


「私は、祝前です。祝前 香と言います。香だなんて女の子の名前みたいでしょ」


 彼は頭を掻きながら答えてくれた。


 香……私はその響きを聞いて、必ず思い出してしまった。顔も声も知らない彼のことを……そしてメッセージのことを…………


 けれど、今は目の前にいる彼だから、


「香さんですか……私は下の名前は皐月なんですけど、五月そのままだから、なんだか気にいらなくって」ってちゃんと返事できたよ。


 彼も私の名前に聞き覚えがあったようで「皐月さん…………」と何かを思い出すようにぽつりと私の名を呼んだ。


 でもそれは私のことではなくって、「はい?」と私が頚をかしげると、「いいえ。私の知り合いに同じサツキさんと言う人がいたので、つい、同じ名前だなあ。なんて思ってしまって」とまた頭を掻いていた。


「私の知り合いにも香さんって人がいますよ」


 私の知らないサツキさんは、彼にとってはどんな存在だったのだろう。ひょっとしたら、元恋人の名前なのかもしれないし、今まさに気になる人なのかもしれない。少なくともサツキは皐月とは違う…………その人は私ではない。


 彼にとって私がそのサツキさんのような存在になれるのかな…………私は自分の足下を見つめてみる。すると、嫌な自分しか見あたらない。私の良いところはどこにあるのだろう……やっぱり見あたらない…… 


「桜の葉も散ってすっかり寂しい季節になりましたね」


 私が作り出した沈黙がしばらく続いたあとに、彼が不意にそう言った。顔を上げてみると、知らない間に千年桜の前だった。


 少し前まで、紅葉した葉がかさかさと音を立てていたのに、その姿は見る影もない。秋桜も終わってしまって、本当に寂しい季節の到来…………でも私はそんな素直なところが好き。


 だって一年中花を咲かせていたら、いつしか絶対に誰もその花を見上げて感動なんてしなくなると思う。


 春に、命が萌え出るその季節に、「私は生きているの!さあ、これからはじまるのよ!」って厳しい冬を乗り越えた全ての生命に命の息吹を、祝福をを与えるように一斉に咲き誇る桜がやっぱり綺麗だし、ただ綺麗だと思うだけでなくって《がんばろう!》って気持ちにさせてくれるんだと思う。


 それでも私は「でも……だから、春になるとあんなに桜の花が綺麗に感じられるのかも」静かに冷静になってそう言った。


 もしも、もしも、来年の春、二人でこの桜を見上げることができたなら、その時はこの気持ちを話してみたいと思う。


「そう思いませんか」


 私がそう言いながら無言の彼の方を見やると、彼はまた顔をのけぞらせて、驚いた風に、取り繕うように「そうですね」と言うにとどまった。

 

 私は、そんな彼の仕草が不思議だったし、少し面白いと思った。


 その後、彼は急に私にコロッケを勧めてくれた。何でも、この近所にある惣菜店の一押しのコロッケなんだって。遠慮するのが当たり前なのだけれど、彼ったら、容器の包みを取って私に勧めてくれるのだもの。そこまでしてもらったら、断れないよ。


 だから、またまた好意は素直に受け取ることにして、コロッケを一つもらうことにした。コロッケを手づかみするのは何年ぶりだろう。懐かしい気持ちにもなったけれど、口紅がついたら嫌だったから、バッグからテッシュを取り出して、コロッケをくるんで手の平に乗せておいた。


 わかってるよ。彼からすれば、すぐに食べて欲しいって思ってることは。私だって、立場が違ったらきっと同じようにすぐ食べてほしいって思うもの。


 彼との会話は楽しかった。それは、顔も声も知らない彼とメッセージを毎日のように交換していた頃を彷彿とさせた。だからこそ、私もがんばって話題を広げたし話を途切れさせないように努力した。


 違う。私がそう望んだんだ。話がしたい。そう望んだから、私はがんばれたんだ。


 もう同じ失敗は……同じ思いはしたくなかったから。


 別れ際、桜の側にある階段を降りきった所で彼が「明日は、いつも通りの電車に乗りますか」と訪ねたので、私は「はい、そのつもりです」と答えて、何となく彼とわかれた。



 〇



 朝一番が最悪なら、一日最悪。もう!誰がそんなことを言ったの!?


 家に帰った私は、彼と過ごした小一時間だけを今日一日の記憶にして、胸の中を嬉しい気持ちで一杯にしていた。彼からもらったコロッケは冷めてしまっていたけれど、しっかりと肉じゃがの味がして美味しかったし、冷めているのになぜか温かい感じがしたから不思議だった。


 湯船につかりながら、今日も荷物を受け取れなかったなあ。と明日来て行く服をどうしようかと考えて、考えて…………明日こそは彼がいるのに!彼がいると言うのに、どうして購入した洋服のほとんどが届いていないのよっ!と口までつかって、ぶくぶくとあぶくを出してみたりした。


 お風呂をあがって、お気に入りの林檎柄のパジャマに着替えて、リビングの絨毯の上に腰を下ろした私は、クッションを抱きしめながら、目の前の机の上に置いた、コーンスープと書かれた缶をずっと見つめていた。


 飲んでしまったら、捨てなければいけなくなるから、私は飲まないでずっと見つめていた。すると、私の目が映写機になったように、缶のパッケージに彼との一時間が上映されるから面白かった。

 

「はあ」

 

 私は満ち足りたため息を吐きながら、和室へと寝転がった。足は絨毯の上で、頭は畳。同じ私の体なのに感触が違って、それだけで面白おかしくって仕方がない。


 腕を目の上に重ねて、もう一度深くため息を吐く。思い返せば思い返すほどに、心地がよい。けれど、興奮が収まったと言うかなんて言うか……しばらくすると、もっと笑えば良かった。もっと話をすればよかった……そんな反省ばかりが見えて来て、極めつけは、彼に何一つお礼をいえていない事に気がついた時には、本気でため息をついてしまった。


 彼に助けてもらったし、コーンスープももらった、コロッケもそう。明日は一番にお礼を言おう。私は後悔することをやめて、前向きに考えることにした。


 私は起きあがると、バッグに入れっぱなしになっていた携帯電話を取り出して、すぐにSNSへログインした。


 日記も更新していなければ、誰にメッセージを送ったわけでもない私のページは何一つ変化はない。私は、メッセージ作成ページへ移動して、これで最後になるだろう彼へのメッセージを書き始めた。


 彼には感謝したいと思う。今、少しでも前向きになれた私はがいるのは、自分と向き合うことができた私は、きっと彼がいたから、彼と知り合ってメッセージの交換をしたから、あるのだと思う。


 これまでの私なら、ネット上なのだからと無視をして済ませていたと思うの。でも、今回だけは、彼とだけははっきりとしておきたい。


『とても気持ちのこもったメッセージをありがとう。気持ちは嬉しいですが、今私には気になる人がいます。だから、あなたと会うことはできません。最後まで不器用でごめんなさい。今までありがとう。』


 私は短いメッセージを打ち終えた後、目を閉じて今一度ゆっくりと考えて自分に問いかけてみた。本当にこれが私の素直な気持ちなの?って。


 そしたら、胸の奥にいる私は「うん間違いないよ」って。


 私は何度も問い返さない内にメッセージを送信した。きっと考えれば考えるほどに、また迷って、メッセージを送れなくなってしまうと思ったから、それが一番最悪だと思ったから。

 




 彼女からのメッセージを確認したのは、今夜の出来事を日記として書こう。そう思いログインを果たした直後であった。


 回りくどいことを言うつもりはない。私は、短い彼女の文章を読み終えると、流星の如く、瞬く間にそのメッセージを削除したのであった。


 そんな私の行為だけで、読者諸賢におかれては全てを理解していただきたいと思う。


 わかっていても、予想できていたとしても…………やはり、その衝撃は幾ばくか私の涙腺を緩め、日記を書くどころか、今すぐにSNSさえも退会したい衝動にかられてしまう有様であった。


 かくして、私はめでたく全てを失ったのである…………


 だが、私の心中はささくれ立つばかりではなかった。浮ついた面持ちではなきにしも、今夜偶然に出くわし、そしてまた、明日顔を会わせるであろう、電車の乙女こと夏目さんが私には残っていてくれているのだから。


 そして次の瞬間に、私は大笑いをしていた。


 そうだ、もしも、電車の乙女と毎朝と面白おかしく語らい、その傍らではネットの乙女と現実に顔を合わせてこれまた面白おかしく談笑をする。そんな夢のような華を不器用の固まりである私が両手に持ってるはずがあるまい。従って、ネットの乙女には拒否してもらわなければならなかったのである!


 私は鼻をすすりながら涙を飲んでそう断言した。断じて強がりではない!至極前向きのつもりだ!


 だが、ただの強がりであることもわかっているとも!


 

 翌朝から、私と夏目さんは休日を省いて毎日にように、二十分程会話をするようになった。時々話が盛り上がりの途中で、夏目さんが乗り換えの駅で車両を降りてしまうのがとても残念だった。


 だが、途切れた話題はその翌日に持ち越され、おかげで私達の会話が途切れることがなかったのである。


 これを私は《二十分間の会話法》として後生に語り継ぎたいと思っている。


 私は精一杯、夏目さんのことを想い。日々を過ごし、クリスマスには大作戦を演じてみせた。これに関して言えば、成功したとは言い難かったが…………


 前にも記した通り、私は至極不器用な男であり、女性を前にして気の利いた冗談も言えなければ、食事へ誘うことも遊びに誘うこともできない。男子たるは一本だけ誠実と優しさのみを貫けば良い!そう思うも何も、それだけしかできない男なのである。


 除夜の鐘鳴り響く新年の夜。私は、夏目さんと一緒に初詣をし、その折り、「何をお願いしたの?」と聞いてきた彼女に、


 紛う事なき真心で「今年は千年桜を夏目さんと見上げられますようにと、お願いしました」と私は答えた。事実であるからして仕方があるまい。


 夏目さんは、寒さの為か赤く色づいていた頬をさらに色濃く増して、「うん、一緒に見に行こ」と呟いてくれた。





 睦月。


 やっと携帯の番号とアドレスを交換して、毎夜一時間だけ電話をするようになった。


 如月


 私が風邪をこじらせた時、わざわざ会社を休んでお粥を拵え、あるいは摺り下ろした林檎を携えて、看病に着てくれた。


 弥生


 寒さに震えながら、見上げたシリウスはとても綺麗だった。私の上着を彼女に着せてあげると、縮んだ頚もとのまま「また風邪ひいたら、お粥作りに行くね」といたずらに微笑んだ彼女を忘れない 



 そして卯月。


 冬将軍が随分と長いしてくれたおかげで、いつまで経っても桜の蕾は固いままであった。このまま桜は咲かないのでは無かろうか。と心配していたのだが、彼女は「楽しみが先延ばしになってるだけ」と楽しそうに桜を見上げていた。


 そうそう、私は彼女とのお花見のために、大学からベンチを一つ拝借しておいた。

違和感も無きように《○○自治会寄贈》とペンキで書き加える周到さである。そのベンチは長く桜の前に鎮座しつつも、誰一人暖める者とておらず、随分寂しい思いをしていたことだろうと思う。


 だが、明けぬ夜ないように、万事、はじまればいつかは終わるのだ。そうだ、終わってしまうのである。四月も中旬を迎えると、極端に温かく、気候が過ごしやすくなり、桜の蕾だけでなく、草木一同が一様に新緑深く、山も里も野もアスファルトの端っこも、どこもかしこも生命で溢れかえっていた。


 卯月とはこれまさに、そんな趣であろうと思う。


 そして、本日、麗らかな天気晴朗の朝、私は早起きをして身だしなみを何度なく整え、彼女との約束の時間よりも三十分以上早く家を出た。


 私が千年桜の下に到着し、空いているベンチに腰掛けると、頭上に広がる薄桃色の世界が鮮やかにも私の心を吸い込んでしまうような、それで居て、どこまでも優しくはらはらと一時を静寂に包んでくれるような…………待ちに待った、夢にまでみた瞬間へのカウントダウンに胸ときめかせながら、されども静謐と落ち着きはらった相対する気持ちは、私が彼女に対して信頼を寄せている証なのかもしれない。



 彼女は今頃、何をしているだろうか。



 腕時計を見やる。後十五分ほどはぼーっと満開に咲く桜を見上げていることができるだろう。


 この後に及ぶ私の幸福たるは、我が人生に悔い無し!と胸を張って河川敷へ雄叫びを上げることだろう!


 長々と私の独り言におつきあい頂いた読者諸賢については、無類の感謝を述べると共に、「この馬鹿野郎めっ!」と私を羨む罵声をどうぞ窓の外へ向けて欲しいと思う。


 ここからは、私と彼女の世界にして、私はこれ以上を語るを忍こととしたい。

 


さらば読者諸賢! 

 


男子たるは!不器用たるも恥じることなく、ただ前にのみ進め!

 




 あの日の夜のことがあってから、私と彼の距離はずっと縮まったように思えた。実際には、そんなに話をしたわけでもないし、意識をして会うのだって二度目だったから、そんな風に思うのは何か間違えているのかもしれないけれど、自然とそう思えたのだから仕方がない。


 次の日から彼と毎朝二十分くらい話をするようになった。時々、話の盛り上がりの途中で私が降りなければならなくなって、後二駅くらいあれば良いのに!と思ったこともあった。 


 知り合って一ヶ月後のクリスマス。彼は私の家にポインセチアの鉢植えを両手一杯に持って来てくれて、丁度、その日は職場の先輩が家にクリスマスケーキを持って遊びに来ていたから、彼も交えて一緒に食べた。


 イブを過ぎてから、ポインセチアの鉢植えの一つに素敵なクリスマスプレゼントが隠してあることに気がついて…………もっとわかりやすく渡してくれた方が嬉しかったのに。と唇をとがらせながらも、なんだか、今年ほどクリスマスらしいクリスマスはなかったなあ。って胸が熱くなったよ。


 彼と一緒に居る時間が少しずつ長くなって、そしたら、私も驚くほど素直のなれて……彼の前だから素直になれたのかもしれない。相変わらず嫌なことも言ってしまう私なのだけれど、それ以上に笑顔も増えたと思うよ。


 だって、口の周りの筋肉が痛くなるくらいに笑ったのなんて、生まれてはじめてだったものね。

 

 彼が、初詣に行こうと誘ってくれたから、はじめて、夜中に初詣に出かけた。除夜の鐘を聞きながら、それなりに、賑わう神社へ参拝して、彼があんまり長く願い事をするものだから、「何をお願いしたの?」って聞いてみたら、「今年は千年桜を夏目さんと見上げられますようにと、お願いしました」そう頭を掻きながら答えてくれた。


 たまに、恥ずかしいけれど、嬉しいことを言ってくれるところが私は好き。思っていても、口に出してくれないとわからないし……それが彼の純粋な気持ちだと思えたから。


 帰りにおみくじをひいたら、彼は大吉で私はなんと凶だった。新年早々、落ち込みそうになったのだけれど、「もう一度ひきなおす」って聞かない私に、「じゃあ、半分ずつにしよう」と彼が言って、私のおみくじと彼のおみくじをそれぞれ半分にちぎってから、重ねて縄に結んで…………私は驚きを通り越して面白くってつい笑ってしまった。


 大吉と凶で割って吉にするんだって。


 たわいないけれど、彼のそんな素朴な優しさが、荒れそうになる私の心を何度癒してくれたことだろう。思い返せば思い返すほどに、彼に対する感謝の念が尽きることがない。


 一月の満月の夜。私が落とした携帯電話を一緒になって探し回ってくれた。結局バッグの中に入っていて、とても悪いことをしたと反省した。でも、この勘違いで、やっと彼と携帯の電話番号とアドレスを交換することができた。



 二月の初旬、彼は風邪をこじらせてしまって、あんまり酷そうだったから、私は意を決して彼の家にお粥を作りに行った。彼は風邪がうつるといけないから。と最後まで私の体を案じてくれたけれど…………正直に三十九度の熱にうなされる彼を一人にしておくことなんてできなくって、私は急遽会社を休んで看病することに決めた。


 お粥は食べられなかったけれど。持って行った、すり下ろした林檎を「おいしい」って食べていたっけ。


 三月なのにその日はとても寒かった。時折粉雪がちらちらしていたから、「三月の雪って素敵」と私が呟きながら頚を縮ませていたら、彼がぎこちない手つきで自分の上着をかけてくれた。


 彼のぬくもりが残る上着で私はすぐに温かくなったけれど、その分彼がとても寒く見えてしまって、好意は嬉しかったけれど、心配そうに私が彼を見上げると、彼は「俺はまた風邪をひいても、休めばいいから」と手をポケットに入れて見せた。


 だから、私は何も言わなかった。ただ、「また風邪ひいたら、お粥作りに行くね」それだけを言って笑いかけた。



 今年の寒波はその余韻を深く残して、四月に入っても北風が吹けば一月を彷彿とさせる気候だった。


 だから、いつになれば桜は咲くかなあ。なんて、まだまだ固い蕾を見上げたけれど、その分こうして蕾を見に彼と来ることができるから、もう少し寒くてもいいかな、なんて思ってた。桜の花を楽しみにしていた彼にはごめんなさいだけどね。


 五月を目前に、ようやく春めいた日々が眠っていた草木を起こし、河川敷も黄緑の中に黄色や白が目立つようになって、もちろん、見上げる先には薄桃色のパノラマが広がっている。


 今日は、彼の願い事は叶う日。


 私は朝早くから起き出して、お花見で食べるお弁当を作った。普段お弁当なんてつくらない

から、ちゃんと《お弁当の彩り》と言うお料理本を買ったよ。お弁当を作り終え、私はお風呂に入って、髪の毛をしっかり解きほぐして、昨日から用意しておいた、洋服に着替えて、お化粧だって随分と手慣れたもの。


 今日の服は、彼とはじめて歩いた夜に着ていた、モノトーン柄のドレスワンピースを選んだ。春なのだから、もっと明るい服にしたい気持ちはあったのだけれど、どうしてもこの服で行きたかったの。


 あの日の夜。この洋服を着て全てがはじまった気がする。だから、今日も何かはじまりそうな、そんな予感がするの…………だから、今日はこの服で行くって決めた。


 約束の時間まで後十分を数えて、私は千年桜の隣にある階段を上って行く。別に緊張もしていないし、この階段を上りきれば、彼が待っていてくれるのは、いつものこと。


 でも少しもどきどきしていないと言えば嘘になる。


 今日もきっと、彼との新しくて素敵な想い出が増えると思うと、やっぱりどきどきしてしまうよ。


 まだ彼とは恋人ではない。


 だけど、この桜の下でそうなると思うの。理由なんてないよ。なんだか、そんなる予感がするだけ。  



                                

                         

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