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別にお土産が無くったって、何とでも言いつくろえる。それに、良い年をして、私のお土産を心待ちにする同僚はいないと思うし。
一時間ほど微睡んだ私は、起き出すとまず、鏡台の前に立って、一人でファッションショーを開催した。全てが昨日と違う私を見て彼はどんな顔をするだろうか…………
そればかりを考えながら、買ったばかりの洋服に着替えてみる。本当はもっと買ったのだけれど、今日は一日家に居なかったから、配送をお願いした分の荷物を受け取ることができなかった。
でもいいの。
明日来て行く服はすでに決めてあったのだから。折角、新しい洋服を買ったから、一通り着せ替えをしたいと思うのは、誰でも同じでしょ?
私は、明日来ていこうと購入時から決めていたモノトーン調のドレスワンピースに着替えると、鏡に写る自分を見て何度かうなずいた。胸元のリボンがとても可愛らしくも品があって気に入ったから。
自分で自分の姿を見つめるのは少し恥ずかしかったけれど、自分で自分のことを、おめかしをした人形のみたい。と一層恥ずかしくなってしまった。
そのまま、次は、化粧品の箱を片っ端から開けて、店員さんに教えてもらった順番に蓋を開けて、久方ぶりの真剣お化粧をはじめる。以前は「こんなものだろう」と半ば適当に、見栄えが整えばそれで良しとしていた。だけど、今回は違う、しっかりと教えてもらった分。妥協はしたくないと思う私がいて、これからどこに出かけるわけでもないのに、明日の朝さながらの本気メイクで自分の顔を仕上げた。
そうは言っても、べたべたと塗り重ねたわけではない。まして、化粧品店の店員さんのように濃い化粧をしたのではない。
肌の色を少し明るく、控えめなルージュとほんのりチークをのせただけ。
それでも、随分と表情が明るくなったと思ったし、いつも不機嫌に見られがちな目元も優しく丸みを帯びている。
化粧は《化ける》と書くけれど、本当にその通りね。久方ぶりにフェミニンな気持ちで胸が一杯になった。
お風呂に入って、化粧を落として、湯船に使っていると、洋服や靴を揃えたのだから、次は鞄を買おう。それとも、アクセサリーでも買ってみようかな。まるで夢見る乙女のように、私らしくない私が、私らしくない想いを巡らしていた。
本当に、私はどうしてしまったの?って思う……思うけれど…………
どうしょうもなく楽しいんだもん!
いつもは、テレビをつけたままベッドに入って、つけっぱなしで眠ることもある。
今夜は、明日に備えて早めに消灯することにして、布団に潜り込んだ私は携帯のアラームをいつもより二十分早めくにセットし直して、枕に顔を埋めた。
明日の朝は、私にとってとても新しい朝になる。いいえ、新しい朝にして見せる!
〇
翌朝、携帯のアラームよりも早く目覚めた私は、布団の上でただ呆然とまだ薄暗い部屋の中に視線を落としていた。
昨夜のふわふわした気持ちは、あまりの夢見の悪さに、すっかり腐食されてしまったからだ。
よりにもよって、村上さんが夢に出てくるなんて……胸のあたりが気持ちが悪い。
私は村上さんが嫌いだ。
太り気味なお腹周りにだるまの様な丸顔。やたらとブランド物を身につけているのも嫌いだし、いちいち先輩面をしてくるのも嫌い。
でも、そんなことは、普通なら許せてしまう範疇だろうと思う。私が村上さんを嫌うようになったのは、彼が《生まれ持っての女好き》だから。
私が今の職場に新入社員として、配属になった時、最初に行き過ぎた親切と笑顔で、迷惑なほど近寄って来たのが村上さんで、出社一日目にしっかりメールアドレスを交換する羽目になってしまったし、その日の内に、同性の先輩から「あの人には気をつけるのよ」と言われ、彼がこれまで、女性社員に対して何をしてきたかを全て教えてもらった。
独身貴族を気取っているから、羽振りは良い。でも小心者の彼は、決して強引な手段は使わない。強引ではないけれど、その代わり、とてもしつこい。
助言を聞いた私は、すぐにメールアドレスを変更した。すると、次の日、私に割り当てられたパソコンに彼から「メールアドレス変えた?」とメールが入っていた。結局アドレスは教えることにした。本当は「アドレスを教えたくありません」とはっきり言いたかったし、私は気にもとめないでそう言うことを言えてしまう性格だった。
だけど、これから長い間、同じ職場で仕事をする関係上、人間関係がこじれるのは嫌だったから…………仕方がなかったと言いたい。
メールを無視し続けていたら、やがて私に声を掛けることはしなくなったけど、次の年、また何も知らない新入社員に彼は、押しつけがましい親切と迷惑な笑顔で、まったく同じことを繰り返していた。
たまに可愛そうにはなる。女子社員からどんな風に思われているのかも当の本人は知らないのだからね。こうい言うのを知らぬが仏って言うんだなって思ったもの。
朝一番から、大嫌いな男が私の夢に現れた。夢の中で私はいつも通りの電車に乗って、いつもの反対側にはいつも通り音楽を聴いている彼ががいるはずだったのに、よりにもよって、そこには村上さんがこっちを向いて立っていたのだから、私は泣きそうになってしまった。
夢の中だと言うのに「あなたに見せたかったわけじゃない!」と叫んだもん。
目を閉じて肩を落として大きくため息ついた。何度も何度も……するとそのうち、携帯のアラームが鳴り、起床時間を私に教えてくれた。
〇
彼女は、私のメッセージを読んだだろうか…………
正午近くになって目を覚ました私は、今更大学に行く気すら起こらず、背中に痛みを覚えつつもただ、ぼおっと天井を見つめて、さらにぼおっとしていた。
私の頭の中は「はい。私も是非一度会ってみたいと思っていました」と言う天国の返信と「あなたと会うことはできません。そんな人だとは思いませんでした」と言う地獄の返信がぐるぐるとメビウスの輪を描き、時々、《返信無し》と言う煉獄結果がよぎっては、返信するもしないも気の向くままの、彼女であれば返信無しと言うのが一番現実的結果ではなかろうか。いずれにしても天国でも地獄でもない結果を濃厚と想定していた。
我ながら冷静な分析あると思う。頚皮一枚の可能性でも期待に希望に願いを込めて、天国的返信のみを心待ちにしたいところである。だが、ここ最近まったく音信不通であったのだ、なのに、何の前触れもなく「会いたい」とメッセージを送りつけて。期待通りの返事がもらえるなどと、それはどう考えても私による私のためのご都合主義であるこは明白なのだ。
ならば、勝算もないと言うのに、どうしてお前はそんなメッセージを送ったのか。と言う疑問を誰しものが抱くことだろう。
そんな疑問を呈した者に私は強く言いたい。
恋とは!理由はいつも曖昧であり、その瞬間に気がついた時にはもう動き出して止まることを知らぬ、何人もさからえない素敵な仕組みであると!
声も顔も知らぬ相手に、恋などと、崇高たる恋の定義に泥を塗るようで、申し訳なく思う次第であるが、だが、私は彼女が気になる。気になって仕方がないのだ。だからこそ、常に素っ気のない彼女に懲りもせずメッセージを送り続け、冷めた返信を見ては、憤慨もすれば虚しさに「二度とメッセージを送るものか」と唇を噛んだ。
だがしかし、翌日になれば彼女が私に話した「私は不器用だから」、「会話が苦手」「いつもメールで嫌われます」そんな文言が私の脳裏をよぎり、私が持ち合わせる最大の愛情をかみ砕いた上に最上の優しさを煎じて、再びメッセージを送りたいと思ってしまうのだ。
こんな感情を意図して思わせたとするならば、彼女は生粋の魔性の持ち主であろう。手のひらの上で寂しい男の純情を弄んでは楽しんでいるのだから。
自信はない。もしかすと、そうなのかもしれない。果たして、私は一人で舞い上がり、彼女に弄ばれているのかもしれない。だが、それでも私は彼女が気になってしまったのだ。こればかりはなんとすれば良いと言うのだ!
〇
憂鬱な朝。もう今日はいい…………気持ちが萎えてしまいそうになった。けれど、洗面所に行くと、短くなった髪の私が居て「そうだ私は変わったんだ」って、洗顔をした後、早速鏡台の前に座って化粧を始めた。
昨日はすぐにできたのに、随分と化粧に手こずってしまって、朝食を食べることができなかった。
それに、化粧は着替えた後にするべきだと言うことも、気がついた……それも化粧が終わった後に……
よそ行きの顔になっているのに、その下には林檎柄のパジャマって…………慣れないことはやっぱり急にするべきではない。しみじみとそう思ったし、こんな慌ただしい支度で、本当にこれから続けられるのか不安になったし……同性の同僚はみんな毎朝こんなに慌ただしい朝を乗り越えているのだろうか……そう考えると、少し自信を見失ってしまった。
でも、そんなことを言ってたって、時計の針は止まってくれないし、彼が乗る電車も待ってはくれない。
だから私は、急いで支度を整え、今一度鏡台の前に立って深く一度うなずいてから家を駆け出した。
昇り始めた太陽を背中に、まるでドミノ倒しのように明暗が分かれて行く。今日も清々しい一日の幕開け。
寝起きこそ最悪だったけれど、冬の香りのする透き通った空気と真っ青な空を見上げれば、今日は良いことがある!そんな根拠のない気持ちがぷくぷくと湧いてくる。
私は変わったつもり。でも世の中は変わって見えやしなかった。それを残念だと思うのは、きっと私が高望みをしすぎたから。
でもね、首筋が少し寒かったり、いつもより、ごわごわとしている感覚が嬉しかった。何度も何度も自分はいつもと違うんだなあって実感できたし、なんだか、自分じゃない気がして。
いつもとほぼ同じ時刻に最寄り駅の改札を通って、いつも通り階段を下る。ホームに降りてから約4分ほど待つ。時間はいつもと同じだったし、いつも私の隣に立っている、初老の女性もいる。
なのに、なのに…………肝心な彼は居なかった…………
寝坊でもしたのかな。それとも、今日は休みだったのだろうか…………いつもと同じ場所に立ってずっと考えた。反対側の窓が見通しが良かった。いつもは、彼が立っているから、幾ばくか見通しが悪いのに…………どうして今日に限って彼はいないの…………どうして…………
そもそもいつも彼がそこに立っている、この時刻の電車に乗るから……そこに彼が必ず居る。そう思いこんだ私がいけないのだろう。
もしかしたら、桜の下で偶然に出会った時、私はずっと俯いていたし、会話もそこそに帰ってしまった。私はただ純粋に恥ずかしかっただけなのだけれど、彼からすれば、とても素っ気なく印象悪く写ったかもしれない。そんな印象の悪い人間と顔を合わせるのは嫌だろうから、もしかしたら…………彼は乗り込む車両をかええたか、時間帯をずらしたのかもしれない…………
乗り換える駅に到着するまで、ずっとそんな事ばかりを考えていた。
そうだ。いつだって、私はそうやって嫌われてきたんだ。今更、服装や髪型を変えたからって、外見を変えたからって……根本的な私は何ら変わっていない。変えるなら変わるなら、外見じゃなくって、私の内面を変えなければ……これから出会うほとんどの人は私から去って行くことになる。
私は自分で落ち込んだ。そして、窓に映った洒落をした自分の姿に、虚しさを通り越して憤りを覚えた。
「(そうだ)」
今すぐに、この場を離れて、いつも通りの地味で陰気な姿に戻りたい。嫌われることが怖くない、それを当然だと思っていた私に戻りたい。そう思った時、私はふっと、SNSで知り合ったKAORUさんの事を思い出した。
彼はぶっきらぼうな私を受け入れてくれた。どんなに意地悪いメッセージを送っても、自分勝手に返信をしなかったりしても、ずっとずっと我慢をしてメッセージを送り続けてくれた。
ここ数日間は、すっかり舞い上がってしまっていて、彼のことも頭になかったし、SNSへログインさえもしていなかったけれど…………
やっぱり私は最低だ…………気になる彼がいなくなった途端にメッセージしたくなるなんて……最低だ……
でも、でもどうしても、この寂しい気持ちを誰かに埋めて欲しいと思った。この締め付けられる気持ちを、こんな私を受け入れてくれる誰かに埋めて欲しいと思った……
私は、自分自身を最低だと思いつつも、三日ぶりにSNSへログインをした。胸の奥が罪悪感でずんと重い。まるで鉛を思い切り飲み込んだみたいに…………
それでも、止むに止まれぬ私の気持ちが携帯を操作させた。すると、彼からすでにメッセージが入っていたから、私は少し安堵した。
私からメッセージを送らないから、彼とのメッセージはすっかり途絶えていた。だから、メッセージを再びもらえたのがとてもうれしかったの。私はすぐにそのメッセージを開いてみた。
すると、それはまるで告白をするかのような、真剣と誠実がこもった文章で…………最後には「サツキさんとお会いしたく思います」と括られてあった。
メッセージを読み終えた後、すぐさま困惑している自分に気がついた。メッセージが途絶えていたのに。急に……いきなり……こんなメッセージを送られても……困る。
それが私の正直な気持ちだった。
私は携帯を閉じてじっと考えた、思えば、彼が私にメッセージを送り続けてくれたのは、このメッセージを送るためだったのかもしれない。結論を急いでしまえば、そこに行き着く。
けれど、それはあまりにも軽率で彼を侮辱するようでなんだか嫌。
まさか、彼がそんなことを言うなんて思いもしなかった。きっと、ネットはネット、現実は現実。そうきっちりと分けて考えているものだとばかり思っていたから。私はそのどちらでもなくって、興味本位と言うか寂しい気持ちを少しでも紛らせられるかな……程度ではじめて……だから、現実に顔を合わせるなんて、全然考えてもいなかったし、そんなことを言われるとも思いもしなかった。
どうしても顔を上げられないでいた。どんな返事を返せばいいのだろう。
私は会いたいの?会いたくないの?……素直に言えば、会いたくない気持ちもありつつ、会いたい気持ちもある…………それと、会ってしまうのが怖い。そんな気持ちもある。
気持ちは矛盾を繰り返してぐちゃぐちゃになった。
「夏目さん?」
職場の入り口同性の先輩と一緒になって、すっかり様変わりをした私を見て、上から下までしっかりと褒めてくれた。
褒められたのだから、嬉しいに決まっている。その先輩は私の憧れの先輩であり、この先輩がいたから、私はこの職場を辞めないで今までこられた。だから増して嬉しかったし「ありがとうございます」とも言った。
だけど……きっとそれは笑顔で言えていなかったと思う…………
全く仕事が手に着かない。そんな純情な私であったなら、可愛らしいと思うけれどれ、実際は、しっかりと仕事をしていたし、やけに絡んでくる村上さんをあしらうのにも必死だった。
むしろ、忙しく仕事に没頭している時ほど、あのメッセージを忘れていられたから、昼休みも、一人で仕事を続けた。
すると、
「イメチェン?失恋でもした?」缶コーヒーを私のデスクの上に置きながら、村上さんが話し掛けて来た。
私はもちろん答えなかった。どうして髪型を変えたら、化粧をしたら失恋したことになるの?そう思っただけ。
「相談だったら、何でも聞くから。そうだ、今晩ご飯どう?」
村上さんが新入社員に声を掛ける時の常套句。
私は新入社員じゃありませんよ。そう言いそうになってしまたけれど私は「けっこうです」と呟くように断るにとどまった。その後も何かした話続けていたけれど、私は、相手にする気がさらさらなかったから、適当に返事をし続けた。気がついたら背後に村上さんの姿は無くなっていて、缶コーヒーを返しに行こうと立ち上がったところで、同性の同僚に捕まってしまって、返しに行くことができなかった。
普段は彼女達の輪の中に私の姿はないけれど、今日だけは、なぜだか私が輪の中にいる。とても不思議な感覚。
でも慣れないせいか、とても疲れた。
珍しく定時帰れることになった瞬間、津波の様にどっと疲れれが襲ってきて、ますます私は、メッセージの返事をどうするかを考えられなくなってしまった。
それでも帰り道、いつも通り繁華街を避けて静かな住宅街を歩いていると、なんだかほっとして、燃えるような夕日を見て、一度だけため息をつくと肩の力が滑り台のように抜けていった。
彼はきっと良い人に違いはない。これまでのやりとりから十二分にわかる。要するに、後は私が会いたいのか会いたくないのか。そこに尽きるのだろう。
しかし、問題は単純化してみたところで、私の迷いは晴れない。どこまでも単純化したところで、《会って見たいけれど、会うのが怖い》そう思う私が確実にいる。
なら、『会いたくありません』と返事をすれば良い。いいえ。『もう少しメッセージのやりとりをしてから……』とか、先延ばしでも良いと思う。
良いと思うのだけれど、どちらにして結局は《会わない》と言うことになる。極端なところのある彼だから、ひょっとしたらその返事を拒否と思い込んで、二度とメッセージのやりとりはしないかもしれない。
それは私の望むことじゃない…………かと言って、どうしても『わかりました』と返事を書く気持ちもない。
どうすれば良いの……どうして、こんなメッセージを送ってしまったの…………
「そう言えば夏目さんも、こっち方向だったよね」
改札で村上さんと出くわしてしまった。なんてタイミングの悪いことだろう……
電車の中で、じっくりと考えたいと思っていたのに。
「村上さんが引っ越ししたんですよね」
嫌みのつもりだったのだけれど…………
「そうそう、ほら、会社にそこそこ近いし、静かなところがいいと思ってさあ」
村上さんはとても嬉しそうにそう言いながら携帯を取り出して「実は犬を飼ったんだ」とチワワを抱いた村上さんが写った写真を私の目の前に突きだした。
私が迂闊だった。どうしてそれらしい返答をしてしまったのだろう…………ため息を吐く私の横では「こいつ人なっこくてさ、夏目さんなら絶対なつくと思うんだけどなあ」としゃべり続けている。
私は視線をホームに落とした。真新しい靴の先に鳩の羽が引っかかっているのが見える。指で摘めばすぐに取ることができるけれど、そんな気力すらも湧いてこない。
だって、隣で喋り続ける巨漢は絶対に、最寄り駅までひっついてくるだろうから…………その間の苦痛を考えると……考えるだけで、憂鬱で仕方ががなかった……
○
かくして、私の予想したネットの乙女の反応は第三にして、もっとも最悪な《無視》をもって帰結を迎えた。
この上は、私はネットの乙女を自らにして断ち切らねばなるまい。
現実には数時間にして書き上げた付け焼き刃と言われても仕方のない文であったが、私なりに私の気持ちを全て込めたメッセージなれば、これを無碍にされた憤りは計り知れない。
けれど、この場合《無視》と言うのも明確なる返事あろうと思えばこそ、未だにSNSを退会していないわけだ。
それに……返事がなければ、一分一秒を希望を持って生きることができる。その点では、彼女の最大にして最上の配慮であると慮ることを私はしたいと思う。
さて、私の恋は終わった。
何度も言うようだが、そもそも、顔も声も知らぬネット上の女性に恋を求める事自体が愚行であったわけで、その愚行が今まさに夢のごとく散ったからと言って、それはある種の正しき順路であったのではなかろうかと思うわけだ。
冷静になればなるほどに、こんな勝ち目のない賭けをよくもまあ真剣に行ったものだと、自分自身にあきれかえるばかりである。しかしながら、一方ではあのような自分勝手な女に弄ばれることなく、目が冷めてよかった!と負け惜しみを良いながら、彼女から送られたメッセージを一つ一つ読み返しながら削除している私がいるわけで…………こればかりは、なんとも情けないとしか言いようが見つからない。
こうして、今一度メッセージを読み返していると、自分が返事を書いていた情景をいちいち思い出す。彼女とお話がしたいがために、深夜まで起きていたことや、どうしてこんなメッセージに返事を返したのだろう、だとか…………一通一通に想い出が込められてある。そう言えば随分と聞こえは良いが…………
もはや、そんな弁とてただの未練でしかないのだ。さっさときっぱり忘れる方がよろしかろう。
私は彼女との記憶を消すように差出人に《サツキ》と書かれたメッセージを削除し続け、それはやがて疲労を覚える頃に終了した。
「あー終わった」
私はしばらく畳の上に大の字になって、天井を見上げて一人絶望のためにぼーっとしていた。今日までは彼女を希望に生きていた。彼女がいたから、明日への楽しみがあり、無意味やたらと毎日を輝かせることができた。
だが、それも今日この時をもって終わりを告げ、私は全てを失ったのだ。
こんな時は、こんな時こそは部屋にじっとしていてはいけない。このままでは、湿気に満ちた心中にて、黴の温床になりはて、気がついた時には私の体は黴を介して畳と一体化してしまっていることだろう。
「腹が減った」
私はため息混じりにそう呟くと、またまた生気を匂わさずにそろそろと部屋を出ると、行きつけの惣菜屋へ向かうことにした。
もう少し厚着をしてくればよかった。少し反省をしつつも惣菜屋との往復程度のことだ、と私は寒さを気にせずに幟が立っていることを確認しながら、財布の中身を確認したりしていた。
「こんばんわ」
時刻で言えばもはや夕暮れ、燃えるような夕日とてすでにその英気を失いつつある。
そんな時間帯。この総菜店でも、本日最後の繁盛時刻を迎えていた。
「いらっしゃい、今日は何にするね?寒いから南京の煮付けサービスするから」
私を見るなり、おばちゃんがそう言うと、まるでサツマイモのような黄金色の煮付けを容器に入れてくれる。
「それじゃあ、今日は肉じゃがコロッケ4つで」
この店一押しの人気商品である肉じゃがコロッケ。いつもは牛肉コロッケしか残っていない。ゆえに私は、この人気商品を根こそぎ所望した。
少し濃いめに味付けされた肉じゃががそのまま衣の中に入っていると言う、シンプルな作りでありながら、その肉じゃがの美味いことと言ったら!昔では肉じゃがで男の胃袋をつかんだと聞いたが、このおばさんはきっとこの肉じゃがで旦那さんの胃袋を鷲掴みにしたことは間違いあるまい。
「はい、牛肉コロッケも1つおまけね」
「いつもありがとうございます」
私は、肉じゃがコロッケ四つ分のお金で、南京の煮付けと牛肉コロッケ一つを手に下げ、店を後にした。
このまま帰ってもよかったのだが、気分転換にしてもこれでは少々時間が短すぎる。気分の転換もしようがあるまい。
だから私は、駅前まで足を伸ばし、わざわざ遠回りをして千年桜へ、猫に会いに行くことにした。
帰宅ラッシュのまっただ中、主婦の主戦場を化した商店街をぼやぼやと抜け、駅前に到着すると、サラリーマン戦士達を避けるように川沿いへと続く道へ入った。 薄暗い道に入った所にある電柱のすぐ側で商いをしている自動販売機に硬貨を乱暴に入れて、とりあえず、暖かい缶紅茶を買った。
「なんだと」
私は久方ぶりに眉間に皺を寄せた。商いをしているくせ、客に釣り銭を渡さないとはなんたる所行か!
この自動販売機めは、釣り銭レバーを回しても釣り銭を出さず、さも「もう一本買えよ」と言わんばかりに、赤文字で投入金額を表示し続けてる。
ただでさえ、ささくれ立った私に、癒しを求め放ろうする私であると言うのに、その私にこの仕打ちは許し難い。
私は思いきり、自動販売機を蹴った。それはもう「どうして返事をよこさないのだ!」と心の中で叫びながら、半ば八つ当たりも含めて自動販売機を蹴ったのである。