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こうなれば、真正直に正義に生きることなどちゃんちゃら可笑しいと笑い飛ばし、ネットの世界に溢れ出でる出会い系サイトなるものに手を出してみようか。すれば、欲をむき出しにした女性があれよあれよという間に私の元へはせ参じることだろう!そして、私は身ぐるみを剥がされてしまうことだろう!
しかし、わからん。どうして、あんな髪の色明るく、ちゃらちゃと金属音を靡かせる男が女子に囲まれ、真面目な男は寂しくも悲しく、それを遠くから見つめては轟々と悔し涙を流さなければならないというのだ。
この世が不公平であることは言うまでもない。けれど、この点だけは、是非とも是正してほしいと思う。いいや、今すぐに是正するべきである!
それができないというのであれば、こっそりと私にだけ媚薬を渡してくれればそれで良い。
ご都合主義万歳!
そんな阿呆なことを考えていたら、無性にネットの乙女に会いたくなってしまった。桜下の乙女はもう会うことはあるまい。何せ、私が幾ら望もうとも彼女はすでに私を忌み嫌い、私の目の届かないとこへ姿を隠してしまっているのであるからして、やはり、私に残された頚皮一枚の可能性は声も顔も未だ知らぬネットの乙女しか居ないのだ。
だが、はたしてネットの乙女は、ネット上で知り合った人間と、しかも男と現実に相まみえることがあるのだろうか…………
いつでも関係を断ち切れるネットの世界では、私のしようとしていることは、容易な博打であると言えよう。いいや、一か八かの賭博なのだ。もしも、彼女がおつむを曲げてしまえば、『はいそれまでよ』と私は全てを失うことになるだろう…………元々幾ばくかも持ち合わせてはいないのであるが、少なくともまたなんのときめきもない、不毛たる毎日を煩悶と過ごすだけである。
桜下の乙女とは、顔を合わせ声も知っている、そして、毎朝顔を合わせる。このポイントを吟味してこそ、今後の発展性を、いや違う。少しで良いから楽しく話などがしたかっただけだ。確かに恋仲となることが叶えばこの上ないが、それでは、ただ鼻の下を伸ばしているだけではあるまいか…………それではあまりにも品がなさ過ぎる。
それでは、私には本当に一生涯において女性と言う女性が寄りつかなくなってしまう。
「よし」
私は講義がはじまる、3分前に講堂を駆け出ると、一目散に下宿へ帰った。そして、コピー用紙を机の上に並べて、メッセージの文章を書き始めたのであった。
〇
買いに買ったと思う。多分、こんなに買い物を一度にしたのははじめてだろうと思う。両手に紙袋をさげて歩いているのだもの。
テナントを巡り歩いて、少しでも良いな。と思った服や靴は全て試着してみたし、ブランド物もそうでない物も、関係なく、私の感性にだけ従って商品を選んだ。
ノルデック柄のニットチュニックにイレギュラーチェック柄のワンピース、モノトーン柄のドレスワンピースはちょっぴり大人な雰囲気。
紺色のツインニットとカーディガンのセットはとても可愛らしかった。
普段はスカートなんて履かないけれど、それじゃ駄目だって思って、バルーンスカート、ツイード調のキュロットスカートを購入した。
他に、次の季節を先取りして、ウールのロングコートも買ったから、洋服はこれ以上買えなくなってしまった。
何せ、まだブーツも買わなければいけないし、欲を出せば新しいバッグも欲しかったから。
ブーツはカジュアルブーツを一足と、他にブーティ、リボン付きのウエッジパンプス、ストラップシューズ、を一足ずつ買った。
持ちきれない分は配送してもらうことにして、明後日に着ようと思っている物と後少しだけを持って帰ることにした。
支払いは現金でも良かったのだけれど、銀行に行く時間を省いて、カードで買い物をしたから、利用明細が届く日が怖い。場合によってはボーナス払いに変更しないと……そんな風にカフェで休憩している時にふっと考えたりもしたけれど、買い物が予想以上に楽しかったし、これまでにあまりにも衣類にお金を掛けすぎなかったのだから、この出費も仕方がないと思い直した。
そうそう、下着も上下のセットでレースをあしらったものや、少し恥ずかしい柄物も買った。バストがサイズアップしているのには自分で驚いたよ。
ブラウスは胸元からプリーツのあしらわれているお洒落趣向なものを選んだ。さすがにスーツまでは新調できないから、しばらくは今のスーツのままだけど、ブラウスでなんとか誤魔化したいと思うのは乙女心と言いたい。
私服を褒めてくれた彼は、再び私服姿の私を見てなんと言うだろうか、その前にどんな顔をするだろう。
明後日からは電車の中で彼と少しは話をするのだろうか。
明後日は晴れるだろうか。
明後日は鏡の前に立つ自分はどんな顔をしているだろうか。
明後日は……明後日は……
私は、自分の顔が写り込むはずのない。カフェラテの入ったカップをのぞき込んでは、「明後日は明後日は」とまるで、遠足を待ち遠しく思っている幼稚園児のように、何度も何度も、《明後日は》を繰り返した。
〇
次の日はもっと緊張していた。まずは、予約してある美容院へ行くと、ヘアーカタログを見ずに担当の美容師さんである、下島さんに相談することにする。
「今日はどうされますか?」
「だいぶ髪の毛が傷んでいるので、長めに切ろうと思ってるんですけど…………」
と言ってみたけれど、物心ついた頃から、ずっと同じ長さに切り揃えてきた長い髪の毛。正直に短くなった時の自分の姿が想像できなかったし、もしも、髪型が似合っていなければ、折角、買いそろえた品々の意味が薄らいでしまう。
不安が顔に出ていたのか下島さんは「それじゃあ、思い切って五センチくらい短くしてみますか」と無難な長さを提案してくれた。
けれど、五センチはいつも切る長さと同じで、それなら、髪の毛を切り揃えた後の自分の姿を見知りおいている。
でもそれじゃ駄目なの。
「もっと短くと思ってるんですけど」
「だったら、本当に思い切って、私みたいにしてみます?これボブって言って、きっともうすぐ流
行ると思うんですよ」
「今私の一押しです」と下島さんは続けた。
確かに、彼女の髪は短く首筋くらいまでに切り揃えられてある、マッシュルームのかさが開きかけたような、そんな髪型であった。もみあげが周りよりも長くなければ、本当にマッシュルームだと私は思ったもの。
「皐月さんは、目元がはっきりしてるし、口の形も良いから、絶対似合うと思いますよ!」
目つきが悪いと言われたことはあるけれど、下島さんが言うようにな表現はされたことがない。けれど、下島さんの髪型は可愛いかもしれない。少なくとも私からしても印象は悪くなかった。
でも、もしかしたら、髪型を変えることによって、印象も変わるかもしれない。下島さんの髪型は可愛いかもしれない。私からしても印象は悪くなかったし……
私は悩んだ。こんなに髪型で悩んだのも初めてのことで…………いつもなら、「前髪は目にかからないくらいで、後は五センチくらい切ってください」とそれを繰り返し告げて来ただけなんだもの。
五センチくらいであれば、試着室の鏡に映った自分とそう代わり映えはしないと思う。けど、短くした自分は…………長い髪を短くするのには、時間はかからない。でも、それを伸ばすのには途方もない時間がかかってしまう。
明後日は私が納得した私で家を出たい。後悔を抱いて自分に自信を持てないままでホームに立ちたくはない。
鏡に映る自分を見つめて私は声に出さずに向かい側にいる自分に問いかけ続けた。
「(私はどうしたい?どうしたいの?)」と…………
優柔不断と下島さんを私が困らせていると、
「イメチェンしたいので、ばっさり切っちゃてください」隣の席に腰掛けた大学生くらいだろう、女の子が笑顔で担当さんに告げた声が聞こえて来た。
「本当に良いの?こんな綺麗な髪の毛なのに、もったいない」
「髪型を変えると、なんだか自分が変わった気がするじゃないですか、だからばっさりいっちゃってください。髪型はお任せしまーす」
無謀なのか勇気があるのか。女の子は軽快にそう言うと担当さんを苦笑させていた。
でも、彼女の言う通りかもしれない。
新しい服も靴も下着も購入した。後は全て私次第。私が一歩踏み出せさえすれば、きっと毎日見飽きた風景ももう一度、色鮮やかに輝き出すかもしれない。
上司の文句や評価を怖がって申請できなかった有給休暇も申請できた、買い物なんて、気合いを入れてしたことがなかったのに、昨日は精一杯買い物をした。そして午後からは、また買い物に行こうとしている私。一昨日からの私は明らかに今までの私ではない。なら!下島さんが短い髪型を進めてくれたのも、何かの分岐点なのかもしれない。
もしも似合わなかったら……違う。もしもはやめよう。もしもを恐れて、何もできないで、さらに変化を恐れて動けなくなる方がよほどマイナス。
だから《もしも》はやめよう。
「ボブでしたっけ、下島さんと同じでお願いします」
私は一歩踏み出すことにした。いいえ、もう一歩は踏み出しているから、二歩か三歩だと思いたい。
ここまで来たら、前進するしかないもんね。
〇
今頃、サツキさんは何をしているだろうか。もしや、私以外の男ユーザーと面白おかしくお話に話を咲かせ、そう言えば、しつこくメッセージを送って来た変な奴がいたんですよ。と私のことを話題として笑い転げているのだろうか。
ならば良い。彼女の笑いの種に、彼女が話題として取り上げたのであれば、それで良い。そして、ネットの乙女はそんなに会話を交わすことも、「へい彼女」と声をかけられて、相手をするほど淫乱ではないのだ!
彼女と会うことになった暁には、どこに行こうか、まずは、私に下心がないように誠実のみを全面に打ち出し、どこかのカフェでお茶をしながらの雑談がよろしかろう。何せ、メッセージを交換しただけの仲であるからして、まずはお互いのことを色々と知る必要がるだろう。
その日の最後に二度目に会う約束をして、次は、映画や買い物に出かけるとしよう。経験こそ少ない。いいや、まったくないと言っても過言ではないが、大学を休んででも、ネットを駆使して、デートコースを作成してみせようとも!
まったくもって便利な世の中になったものである。
「おいおい」
二度目でいきなりデートと言うのも鼻の下を伸ばしているのが路程してしまうのではなかろうか。しっかりと外堀を埋めずして、本丸に攻め入ろうと功を焦っては、石垣にとりつく前に石ころにけつまずいて派手に転んでしまうことだろう。それでは笑えないし、泣くに泣けない。
であるならば、やはりここは二度目も、デートもどきで彼女の心をほぐすのがよろしかろう。
『サツキさんとお会いしたく思います』
最後の一文をのみ確定をして、私は推敲を数時間繰り広げていた。時折、彼女が『はい』とうなずいてくれた後の妄想や想像に口元をほころばせては、とても幸せな気持ちになっていた
のだが…………私の部屋の時計と言う時計が狂っていなければ、現在は日付が変わってすでに数時間の時を数えている。
それでも完成しないのは、いいや、させないのはせめてもの私の誠意だと言いたい。
女性を、しかも顔も声も知らない男が女性に『現実に会いたい』と伝えるのだから、そこには紛うことのない誠実と愛情だけでなければ、相手に警戒されてしまう。文章とは本来、温度を宿さない。けれど、そこに温度を柔軟性を持たせるためには、何度も何度も練りなおさなければならない。
まして、即席にして安易な文章を彼女に送信することなど、決して許されないのである。だから、私は推敲の度に誠実を混ぜ愛情を練り込んだ。
使用する言葉には限りがある。そして、良くも悪くもそれには数時間もかかることはない。けれど、私が今まさにかけることのできる、誠意とはこの文章制作かける時間くらいしかないではないか!
ゆえに、私は二十行ほどの文章を作成するにあたり、すでに半日を有しているのである。
久方ぶりに知恵熱を出し、ぼーっと、小一時間の後には日の出を迎えるだろう、頃合いにでは、私の知恵は出尽くしたあげくにオーバーヒートをしてただ呆然とぼーっとするしかできなくなっていた。大学のゼミ担当教員に「後3回見直せばもっと良くなる」と言われたことがある。論文とてこれだけの情熱を注ぎ込みさえすれば、私は大臣にでも博士にでもなれてしまったかもしれない。
逆に「お前はこれだけ愛情と誠実のつまった文章を送られたのだから幸せ者と思うが良い!」とさげすみたい気持ちす生まれる始末であった…………
「ばかめ」
私はそんな高慢な男に誰が寄りつくものかと、今更、純粋無垢な文章を汚すようなことを想うな!
自分自身を罵倒してはり倒した。
文章作成ページには、約四百字程の選ばれし日本語の精鋭どもが並び、今まさに出陣の太鼓が打ち鳴らされようとしていた。
どうかどうか、勝ちどきをあげられますように。
それだけ、ただそれだけの一途な想いを乗せ、私はカーソルを《送信》の上に重ね、一度だけクリックをしたのだった。
〇
「折角、短くしたのだから髪の色を明るくしたみたらどうですか?」
下島さんはすっかり短くなった自分の髪の毛に、いいえ、鏡に映るはじめて目の前にする新しい自分の姿に大きな目をさらに大きくして見つめている私に、そう提案してくれた。
「へっ、へっと、いいえ。黒髪が気に入っているので」
私は本当に「へっ」と言ったし、生まれてはじめて「へっと」とも言ってしまった。
「確かに、皐月さんの髪の毛って黒が濃くって、大和撫子みたい。着物なんて絶対似合うと想うもの」
下島さんは、一人顔を赤くする私を尻目に、しっかりトリートメントして艶と潤いの戻って私の髪の毛をスラー記号のように弄んで、微笑みながらそう言った。
当の私と言えば、「大和撫子みたい」と言うフレーズしか聞こえていなかったりしたのだけれどね。
私は本当に黒髪が好きなの。母親譲りの濃い黒色の髪の毛がとても好き。だから、周りがどんなに髪の毛の色を変えようとも、茶色の髪の毛が流行っても、私は自分の黒髪を大切にしてきた。それに、この髪型に黒色はとても良く似合っていると思った。なんて言い表せば良いだろう…………少し、唇に赤色をのせれば、とても色っぽく……違う……魅力的な雰囲気になると思う。そんな感じ……曖昧だけれど、とにかく私はこの髪型が気に入ってしまったわけで…………美容院から出て、その直後に首筋がやけに寒いことに気がついて、「そっか短くしたんだ」と再確認して、ウィンドウに写る自分の姿を見て「これ誰?」と一人微笑んでみたりもした。
【「なんだか自分が変わった気がするじゃないですか」】
本当にその通り、あの子の言った通りになった。全てに写る私は昨日の私でも、美容院へ出かける前の私でもない。
今更ながら、あの女の子に感謝の気持ちがふつふつと沸き上がってきてしまった。
私は足取り軽く、でも気持ちは少し緊張した面持ちで百貨店へ向かう。最後の仕上げはまさに、仕上げと言うにふさわしく、ずばり化粧品。そして、今日行くのは化粧品の専門スタッフさんの入る専門店。
実を言うと、私は生まれつき肌が弱い。とりわけ、目の周りや鼻の下あたりは、下手な化粧品をつかうと、むずむずとして我慢できない。それは化粧水も乳液も同じことで、お風呂上がりに塗ると、ひりひりとして顔中がいたかったり、その後、一時間くらいは、ぼうっと熱をもって、まるで微熱があるみたいになってしまう。
普段からあまり化粧品を使わない生活も相まってか、いつもは家の近所の大型スーパーで色々と買ってみては試してみたけれど、どれも肌に合わなくて……それで、化粧は冠婚葬祭の時くらいにしかしなくなった。ちゃんと化粧品の専門スタッフさんのいる所に行けば、なんとかなるかもしれない。
長年の悩みも手伝って、不安と期待が入り交じっていたわけだ。
「いらっしゃいませ」
そう言って私を迎えてくれた、女性は、全身をシックな黒で統一した、大人の女性だった。
体的に黒を基調とした店内に案内され、カウンター席に腰掛けた私は、色々と化粧品を並べにかかる店員さんを見つめながら、毎日これだけばっちりとお化粧をしなければいけないのなら、私にはこの職業は無理だ。とか、この人の素顔を見てみたい。なんて、またぼーっとなって、店員さんの顔を凝視してしまっていた。もしかしたら、間抜けに口も開いていたかもしれない…………だったら恥ずかしい限りだけど……
「今日はどのような物をご所望でしょうか」
すでに私の前には、基礎化粧品から一通りが並べおかれてあった。でも、ここに並べられた化粧品の全ては、私の肌には合わないのだろう。
そう思うと、折角、並べてくれたのだけれど……心苦しかった。
「肌が弱くて、なかなか合う物がないんです」私はそれだけをそっと伝えた。
「痒くなったり、熱をもったりですか?」
店員さんは間を置かずに、そう言う。
「はい。ヒリヒリもします」私も必要ないと思ったけれど補足しておいた。
「これからの季節は、おつらい季節ですね。来店されるお客様の中にもお肌が敏感な方が結構いらっしゃって、皆様、肌が乾燥すると、痒みや痛みが増すとおっしゃいますから」
そう言いながらも、しっかりと、並べた化粧品と新たな化粧品を並び替えする手つきは慣れていたし、さすがだな。とも思った。
私だったら、黙々と黙り込むだろうし……あ、普段からそうだったっけ…………
「肌は弱いですが、冬になってもあまり乾燥はしません」
これは本当の事で、年中無休で肌は弱い。でも不思議と乾燥はしない。母も同じ体質だったから、私は母親譲りの体質なんだな。と思ったことは鮮明に覚えているしね。
「そうですか。でも、空気が乾燥していると、必ずお肌からは水分が出て行きますから。目に見える乾燥はしていなくても保湿は絶対ですよ」
そう話しながら、最後にカウンターの上に置いたの、化粧水と乳液だった。
なんて絶妙なタイミングだろう。
「それじゃあ、その二本いただくわ」とつい口が滑ってしまいそうだもん。
「肌に合えば、買いたいと思います」でも、こんな時にも可愛げのないことを言うのが私だ。
「はい。それはもちろん。我慢をしてお化粧をする必要はありませんよ。お化粧もファッションも楽しまないと」
とても良い笑顔でその店員さんは笑った。それが、セールス笑顔なのか、本当の笑顔なのかはわからなかったけれど、年の頃なら私と同じくらいなのに、意図的であっても私はこんな笑顔ができるのだろうか…………
少なくとも、悪い気はしなかったし、『我慢をしてお化粧をする必要はありませんよ』と言う言葉は、我慢をして化粧をし続けてきた私にとってはとても心強く、思えたから、大丈夫だとも思えた。
「こちらは敏感肌のお客様にお出ししてますお品ですから、どうぞお試しになってください。まだ、種類も幾つかございますので、きっとお肌に合う物もあるかとおもいます」
そう言えば、私は、化粧品をテストしてから購入したことがなかった。そりゃ、スーパーの売り場で、箱から勝手に商品を引っ張り出して、試すなんてことはできないもんね。パッケージの《お肌に優しい》とか《敏感肌用》と言う言葉を信じて選んでいたっけ。
その店員さんは他のお客さんが来ても、まったく動じないでずっと私につきっきりで化粧品選びに尽力してくれた。他の店員さんが走り回っていて、明らかに忙しくなっていても、それは変わらず、席に座っている私が申し訳ない気持ちになるくらいだった。
でもそのおかげもあって、基礎化粧品からお肌のケア用の品まで、私の肌に合う物が見つかった。
忙しいから、このままお会計をして帰りたい気持ちもあったのだけれど、私は少しだけわがままを言おうと思った。
それは化粧の仕方。
普段お化粧あまりしない私は、化粧品が肌に合わないこともあったけれど、正直に言うと化粧の仕方がいまいちわかっていなかった。我流も我流で友達に聞いてみたり、ネットで調べてみたりもしたけれど、しっくりとこない。
半ばわけがわからないまま手探り状態と言うわけで……良い機会だから、店員さんに、
「あの、この商品の使い方を教えてもらえませんか」と周りに聞こえない声の小ささで言った。とっさに《化粧の仕方を》と言わなかったのは、乙女心だろうと思う。
「わかりました。まずは下地の作り方からご説明しますね」
店員さんは嫌な顔をしないで、快く承諾してくれた。私の肌に合う物と同じ化粧品のテスト用の品を取り出しすと、慣れた手つきで左手の甲に下地を作り始める。
私はその技を盗もうと、再び目を見開いて、店員さんの説明も一言一句頭の中に焼き付けたし、もっと言えば家に帰ってから確かめるためにもメモを取ろうかとも思った。けれど、さすがに、それはできなかったから、しっかりと耳のタコにした。
化粧品選びに足して小一時間ほどかけて、店員さんは懇切丁寧にお化粧のイロハを私に教えてくれた。
この年になって、お化粧のイロハも知らない事は、恥かもしれない。でも、知らないのだから、この際見栄は張らない。私はそう開き直って、疑問に思ったことやわからないことは子細慎重に聞いた。
「この度お客様にお買い求めいただいた、お品は、使用期限がございまして、言葉は悪くなってしまいますが、大体三ヶ月ほどおかれますと、食べ物のように腐ってしまいます。そんな状態になってしまったお化粧品をお使いになられますと、お肌荒れの原因や皮膚病などの原因になってしまいます。コンシーラーでしたら、ぱさぱさとなったり、変色が見られましたら、お使用をお控えになってください」
お会計を済ませて、{BOURJOIS ‐PARIS‐}と黒生地に銀色でそうお店の名前が描かれた紙袋を、店頭まで持ってきてくれた店員さんが、最後にそう忠告をくれて、「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」と続けて私を見送ってくれた。
私は「また来ます」と軽く会釈をして、想像以上に高くついてしまった化粧品をのぞき込みながら「(次、来れるかな)」とお財布と相談した私だった。
意気揚々と若干の疲労感を伴って家路を急いでいた私は、最寄り近くで、見知った横顔を見つけ、慌てて、普段は通らない商店街を抜ける道を選んだ。
それは職場の同僚で私よりも一つ上の、村上さんだった。そう言えば、引っ越したと言ってたっけ…………大丈夫、向こうは私に気がついていないはず。もしも、気がついていたら、すぐに携帯にメールを送って来るだろうし。
多少の懸案を抱いて、家に帰り着いた私は、郵便受けに入っていた、不在者票を手に、ここ数日間の初めてづくしの日々を回想しながら、リビングの絨毯の上に寝転がった。
このままだと、つかの間微睡んでしまうかもしれない。家についた安堵からか、堰を切ったように眠気が襲ってくる。重い瞼…………さっそく教わった化粧を自分でも試してみなければ……洋服だってタグを取り除いて、明日の用意をしなければ……薄れ行く意識と、柔らかい絨毯の肌触り、いつしかふわふわとまるで空中に浮いているかのような心地よい感覚…………
瞼を完全に閉じる前、ふっと思った。そう言えば、私は実家に帰ってることになっているから、明日職場に持って行くお土産がない………………って……